「現代人の仏教教養講座」

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生きる意味を、知ろう。

老後に生きる意味はあるのか

「この年になって、何のために生きているのだろう」
「もう誰の役にも立たないのに、生きていていいのだろうか」

仕事を退いて、しばらく経った頃、
体が思うように動かなくなってきた頃、
ふとそう思われたのではないでしょうか。

若い頃は、そんなことを考える暇もありませんでした。
家族のため、会社のため、目の前のことに追われていました。
老後のために」と、働いてきた方も多いと思います。

ところが、その老後にたどり着いてみると、
今度は何のために生きているのかが分からない

口に出せば、まず笑って流されます。
まだまだお元気じゃないですか
趣味でも見つけたらどうですか?

ではなぜ、老後にたどり着くと、生きる意味が分からなくなるのでしょうか?
そして仏教では、この年代の人に何が説かれているのでしょうか。

なぜ老後に分からなくなるのか

まず、なぜこの年代でこの問いが出てくるのでしょうか。

支えていたものが1つずつ外れていく

肩書きがなくなります。
毎朝行く場所がなくなります。
子供は独立し、連れ合いに先立たれることもあります。
友人の訃報が、年賀状より多くなります。

そして体です。
階段が息切れするようになり、
名前が出てこなくなり、
できていたことが、1つずつできなくなっていきます。

若い頃は、失っても次がありました。
仕事を辞めても、また探せました。
ところが今は、失ったら、そのままです。

老いの苦しみそのものについては、以下の記事で詳しく解説しています。
老苦の意味と老いの苦しみを解決する唯一の方法

「役に立つかどうか」で測ってきた

ここに、もう1つの理由があります。

私たちは長い間、自分の値打ちを「役に立つかどうか」で測ってきました。

会社で必要とされている、
家族を養っている、
人に頼りにされている。
だから自分には値打ちがある、と。

この物差しは、働いている間はうまくいきます。
ところが年を取ると、この物差しが自分に牙をむきます。

もう稼いでいない、
もう頼りにされていない。
それどころか、世話をかけている。

寝たきりになられた方が、
早くお迎えが来ればいい」と口にされることがあります。
気弱になったからではありません。
ずっと使ってきた物差しで、自分を測っておられるだけです。

役に立つから値打ちがある、という物差しを持っている限り、
役に立たなくなった時に、行き場がなくなります。

しかも、この物差しは家族にも向きます。

介護をしてもらうたびに、申し訳ないと思う。
呼ぶのをためらって、我慢してしまう。
自分がいなければ、この子はもっと楽なのに、と考える。

そうやって、世話になるほど自分の値打ちが減っていくように感じられます。
ですがそれは、あなたの値打ちが減ったのではありません。
物差しのほうが、そういう目盛りしか持っていないだけです。

「老後を充実させなさい」という答え

では、世間はこの問いに何と答えているでしょうか。

趣味を持ちましょう。
地域とつながりましょう。
運動して健康寿命を延ばしましょう。
孫の世話に生きがいを見つけましょう。

どれも悪いことではありません。
実際、それで毎日が楽しくなる方もあります。

ですが、これらの答えには共通した限界があります。
できる人にしか当てはまらないということです。

足腰が立たなくなったら、地域には出られません。
目が見えにくくなれば、趣味も続けられません。
孫が来てくれるかどうかは、こちらでは決められません。
そして健康寿命は、いつか必ず尽きます。

つまりこれらは、条件がそろっている間だけの答えです。
条件を失った人には、届きません。

ところが、この問いを本当に切実に抱えているのは、
条件を失った人のほうではないでしょうか。
一番答えが要る人に、答えが用意されていないわけです。

「将来」をどこまで考えているか

ここで、少し角度を変えてみます。

あなたの将来はどうですか?
そう聞かれたら、何を思い浮かべるでしょうか。

20代の人に聞けば、就職や結婚を答えます。
40代の人に聞けば、子供の学費や住宅ローンを答えます。
そして50代、60代の人に聞けば、たいてい老後を答えます。

年金は足りるだろうか、
介護はどうなるだろうか。
みなさん、そこまでは真剣に考えます。

ところが、その先はどうでしょうか。

老後の先には、何が待っているでしょうか。

誰にでも分かることです。
それなのに、そこだけが計画から抜け落ちています。

よく考えてみてください。
老後を迎えずに亡くなる方はあります。
ですが、死を迎えない人は1人もありません。

老後よりも確実な将来が、その先にあります。
一番確実な将来だけが、誰の人生設計にも入っていない。

お釈迦さまは、こう説かれています。

人命じんみょうとどまらず 山水よりも過ぎたり
今日存すといえども 明もまた保ちがたし

(漢文:人命不停過於山水今日雖存明亦難保)

人の命はとどまることなく、山を流れ下る水よりも速く過ぎていく。
今日は生きていても、明日が保証されているわけではない。
人生はあの時に戻りたいと思っても決して戻れず、あっという間に過ぎていきます。

これは高齢の方だけの話ではありません。
若い人が先に亡くなることもあります。
順番は決まっていないのです。

ですから「もう年だから」と引け目を感じられる必要はありません。
この問題の前では、若い人も高齢の方も同じ位置に立っています。

老後は「余り」なのか

世間では、老後のことを「余生」といいます。

余った生、という字を書きます。
本編は終わって、あとはおまけ、という響きです。

この言葉を、何気なく受け入れておられないでしょうか。
そして、おまけの時間に意味を求めても仕方がない、と。

ですが、少し考えてみてください。
60歳で退職して、90歳まで生きるとすれば、30年あります。
生まれてから成人するまでより、長い年月です。
その30年を「余り」と呼び、人生の3分の1ほどを、はじめからおまけ扱いにしている。

もし人生の値打ちが、稼いだ額や果たした役割で決まるのなら、
確かに老後は余りです。

ところが、そのどれもが死ぬ時には持っていけません。
稼いだお金も、築いた地位も、育てた組織も、
1つも手に持って出ていくことはできません。

そうであれば、本編だと思っていたほうが、実は前置きだったということになります。

そして今、あなたは人生の総決算に一番近い場所に立っておられます。
若い人には見えないものが、見えているはずです。

体が弱ってはじめて、当たり前が当たり前でないと分かります。
人を見送ってはじめて、命がどういうものかが分かります。

何のために生きているのだろう
この問いが出てきたのは、衰えたからではありません。
ごまかしがきかない場所まで来られたからです。

体が動かなくても果たせる

では、仏教には何が説かれているのでしょうか。

仏教では、私たちには果たすべき目的があると教えられています。
生まれてから死ぬまでに、これ1つ果たせば、
人間に生まれてよかった」とハッキリする目的です。

この目的は、体力で果たすものでも、能力で果たすものでも、
役割で果たすものでもありません。

若いから果たせる、年寄りだから果たせない、ということはありません。
健康だから有利、病気だから不利、ということもありません。
学問があるかどうかも、財産があるかどうかも、関係がありません。
寝たきりの方でも、まったく同じです。

これは、他のことでは考えられないことだと思います。
スポーツも、仕事も、学問も、若さや体力が要ります。
年を取れば不利になり、動けなくなれば手が届かなくなります。
ところがこの1つだけは、最後まで平等なのです。

「今さら遅い」ということがない

そう言われても、こう思われるかもしれません。
若い頃から求めてきた人ならともかく、この年から始めても遅いだろう

ところが、遅いということがありません。

もしこれが、何年も積み上げて達成するものであれば、
残り時間の少ない人ほど不利になります。
若い人が有利で、高齢の方は間に合わない、ということになります。

ですが、そうではないのです。
積み上げた年数で決まるものではありません。

暗い部屋を明るくするのに、何年もかかるでしょうか。
10年暗かった部屋も、100年暗かった部屋も、
明かりがつけば、同じ一瞬で明るくなります。
100年暗かったから明るくなるのに時間がかかる、ということはありません。
これを仏教ではこう教えられています。

たとえば千歳せんざい闇室あんしつに光もし しばらく至ればすなわち明朗みょうろうなるが如し。
闇、あに室に在ること千歳にして去らずと言うことを得んや。

この仏教に説かれる人間に生まれた目的を果たす速さをたとえると、
千年もの間、真っ暗な部屋でも、光が来ると一瞬で明るくなるようなものだ、
ということです。
千年も暗かったのだから、闇をなくすには10年くらいかかる、
ということはありません。
人生の目的を果たすのに時間はかからない。
闇が破れた瞬間、晴れ渡るのである、ということです。

ですから、何歳であっても、どんな状態であっても間に合います。
80でも、90でも、床に就いておられても、変わりません。

むしろ、若い頃には見えなかったものが見えている分、
今のほうが真剣に聞けるという方が少なくありません。

老いも病も、さわりとならない世界

その目的を果たすと、どういう世界に出るのでしょうか。

仏教では「無碍むげ一道いちどう」と説かれています。

」とは、さわり、さまたげのことです。
幸せをさまたげるものです。
無碍」とは、そのさわりがない、ということです。

ただし、老いや病がなくなるわけではありません。

足腰は弱ったままです。
持病もそのままです。
物忘れも治りません。

ところが、それらが幸せを壊さなくなるのです。

今は、体が弱るたびに心も削られていかれると思います。
また1つできなくなった、また迷惑をかけた、と。
老いが、そのまま不幸に直結しています。

その直結が切れる、ということです。
老いはそのままで、老いが不幸の理由でなくなる。

この目的を果たしてはじめて
よくぞ人間に生まれたものぞ
という生命の大歓喜が起きます。

そしてこれは、死んでからの話ではありません。
生きている今、出ることのできる世界です。

では、どうすればそこへ出られるのでしょうか。

私たちの苦しみを生み出している根本原因が1つあると、仏教では説かれています。
「苦悩の根元」です。
それがなくなった時に、この世界へ出ることができます。

では、その苦悩の根元とは何なのか、
それが、どうすればなくなるのか。
それについては、仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

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著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。