求めているものが満たされない
「求めているものが、いつまでも満たされない」
「一生このままなのだろうか」
手に入らないものが1つ2つあるだけなら、
また頑張ればいい、で済みます。
ところが、ある時ふと、そうではないことに気がつきます。
これは1つ2つの話ではない。
子供の頃からずっと、同じことをしている。
そして、このまま一生続くのではないか。
そう思った時の重さは、目の前の1つが手に入らない重さとは、まるで違います。
人に言えば、まだ手に入っていないだけだよ、と言われます。
それは、いつか手に入る日が来るという意味です。
ところが、その「いつか」を、もう何回聞いたでしょうか?
なぜ、いつまでも満たされないのでしょうか?
「もう少し」で来た道
満たされないというと、手に入らなかったものを思い浮かべます。
ですが、ここでたどってみたいのは、手に入ったほうです。
子供の頃、これさえあれば、と思っていたものがあったと思います。
誕生日までの日数を指折り数えて、
買ってもらった日は、枕元に置いて寝ました。
今、それがどこにあるか、すぐに思い出せるでしょうか。
あれほど欲しかったものが、いつの間にか、どうでもよくなっています。
学生の頃は、これさえ決まれば、と思っていたことがあったはずです。
発表の日まで、他のことが手につきませんでした。
そして決まりました。
その日の夜、何を考えていたでしょうか。
喜んだのは2時間ほどで、
布団に入る頃には、もう次のことを心配していました。
数年前に欲しかったものは、たいてい今、手元にあります。
当時の自分に見せてあげれば、うらやましがるはずのものです。
それでも、今の自分は満たされていません。
ここで、おかしなことに気がつきます。
どれも、失敗していません。
叶わなかったのではなく、叶っています。
それなのに、一度も心から満たされたことはありませんでした。
努力が足りなかったのなら、もっと頑張ればいい。
運が悪かったのなら、次を待てばいい。
ところが、叶っても叶っても満たされないのであれば、
次に何を叶えても、同じところへ出るのです。
しかも、年を追うごとに、叶えたものは増えています。
20代でできなかったことが、30代ではできるようになっています。
40代ではもっと色々できるようになっています。
持ち物も、収入も、できることの数も、当時よりずっと多い。
増えた分だけ満たされるのなら、
今頃、ずいぶん満たされていていいはずです。
それなのに、何となく満たされないのは、なぜでしょうか。
一度も終わったことがない「まだ」
私たちは、自分の状態をこう言い表しています。
「まだ満たされていない」
この「まだ」に秘密があります。
「まだ」ということは、いつか来ることを前提にしています。
電車がまだ来ない、というのは、来ると決まっているからです。
来ない電車を待っている人は、「まだ」とは言いません。
私たちは、いつか満たされる日が来ると思って、
それまでの間を「まだ」と呼んでいるのです。
では、その「まだ」は、いつから続いているでしょうか。
10年前も「まだ」でした。
20年前も「まだ」でした。
その間に、進学も、就職も、いくつもの願いも叶いました。
それでも、一度も「まだ」が終わっていません。
一度も終わったことのないものについて、
今度こそ終わると思う理由が、どこにあるでしょうか?
「一生満たされないのではないか」と思うのは、
弱気になっているからでも、疲れているからでもありません。
自分の履歴を、正しく読んだからです。
求めても得られない苦しみを、仏教では「求不得苦」と説かれています。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾求不得苦の意味とは?求めても得られない苦しみを克服するたった1つの方法
鎌倉時代に『徒然草』を書いた兼好法師(1283?‐1353?)も、
同じことを感じていました。
名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
(出典:『徒然草』第三十八段)
「名利」とは、名誉欲と利益欲のことです。
「使はれて」とは、使われている、ということです。
自分が何かを追いかけているのは、
結局、名誉欲や利益欲に使われて走らされているだけだと
自分の心を見つめています。
そのために静かな時間が1日もなく、
一生を苦しんで終わる。
なんと愚かなのかと嘆いているのです。
現代社会のように豊かでもなければ、
科学の便利さもない、まったく違う暮らしをしていても、
同じことを言っています。
ということは、これは今の時代のせいでも、
自分の性格のせいでもありません。
では、なぜ「まだ」は終わらないのでしょうか。
なぜ「まだ」が終わらないのか
ここまでに手に入れてきたものを、もう一度並べてみます。
そうすると、共通していることが1つ見つかります。
どれも、誰かと比べて喜ぶものだったということです。
テストの点は、平均点があって初めて意味を持ちます。
1人で受けて80点でも、全員が80点なら、何も起きません。
平均点が70点なら80点とれたことが嬉しくなりますし、
平均点が90点だと、みんなより劣っていて不愉快になります。
成績も、給料も、周りの人がいるから高い低いが決まります。
持ち物も、同じものを誰も持っていないか、誰もが持っているかで、
嬉しさがまるで変わります。
仏教では、こうして比べて喜ぶ幸せを「相対の幸福」といわれます。
比べて喜ぶものには、必ず上があります。
市内で一番になれば県があり、県で一番になれば全国があります。
そして、比べる相手は一生入れ替わり続けます。
学校ではクラスの中で比べ、
会社では同期の中で比べ、
子供が生まれれば、よその家の子と比べ、
年を取れば、同窓会で比べます。
相手が入れ替わるということは、
一度勝っても、すぐにゼロからやり直しで、
また次も勝たなければならない、ということです。
去年の順位は、今年の役に立ちません。
20年ぶりの同窓会に行く日のことを思い浮かべてみてください。
出かける前に、どの服を着ていくか、少し考えます。
会場では、懐かしい顔が並んで、よく笑います。
ところが帰り道、思い返しているのは、話の中身ではありません。
誰がどこに勤めていて、誰の子供がどの学校へ進んだか、のほうです。
比べようと思って行ったわけではないのに、
頭のほうが勝手に並べ替えているのです。
その夜、自分の給料が上がったわけでも下がったわけでもありません。
何一つ変わっていないのに、
出かける前より落ち着かなくなっています。
比べる相手が新しく増えた、というだけのことです。
ここに、「まだ」が終わらない理由があります。
相対の幸福には、ここまで来れば終わり、という所がありません。
終わりがないものを目指して走っているのですから、
どれだけ走っても、走り終わることができません。
叶っても、叶っても、「まだ」が残るのはそのためです。
これは、求め方が下手だからではなく、
終わりのないものを求めていれば、誰がやっても、こうなります。
それは一体どうしてなのでしょうか。
いつまでも満たされない原因
そのことをお釈迦さまは、『法句経』にこう説かれています。
天より七宝を雨らすも、欲はなお厭くことなし。
楽少なく苦多しと、覚る者を賢と為す。
(漢文:天雨七宝,欲猶無厭。楽少苦多,覚者為賢)(出典:『法句経』)
「七宝」とは、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・硨磲・瑪瑙などの7つの宝のことです。
それが天から雨のように降ってきて、お金が洪水のように入ってきます。
ところが、欲は満足することはない、と教えられています。
これで充分とか、これで満ち足りたということがないのが欲の心なのです。
お金をどんなに持っていても、自分のものになると
それが当然になってしまい、もっと欲しくなります。
そのためにお金が手に入ったのに、それほど嬉しいわけでもなく、
欲の心に馳せ使われて、さらに求めて苦しみ続けるのです。
欲の心に限りがないから、求めても求めても求まったという終わりがなく、
追いかけても追いかけても届かないのです。
では、比べなくてもよい、終わりのない喜びとは何でしょうか。
「まだ」が「これで」に変わる
仏教に説かれている幸せは、
比べて喜ぶ幸せではなく、
一人居て喜べる、絶対変わらない幸福です。
それは色あせることも壊れることもないから、「絶対の幸福」です。
死が来ても崩れません。
それは比べて喜ぶ相対の幸福ではありませんから、
これまでどれだけ求めるものを手に入れてきたかは、関係がありません。
どんな人でも、生きている時に、絶対の幸福になれます。
そうなった時、求める心はどうなるのでしょうか。
求めなくなるわけではありません。
欲しいものは、これからも出てきます。
腹の立つこともありますし、思い通りにならないこともあります。
変わるのは、そこではありません。
欲や怒りの心はそのまま、
「人間に生まれてよかった」と大満足できます。
人生これ一つ果たせば満足、といえることが果たされるので、
幸せになるために、まだ足りないと求める苦しみはなくなります。
これまでは、今日という1日を、
いつか満たされる日のために使ってきました。
今日は、そのための準備の日でした。
ところが、準備の日というのは、いつまでたっても準備の日です。
本番の来ないまま、準備の日ばかりが積み上がっていきます。
一生満たされないというのは、
準備で一生を終えるということでもあります。
その「まだ」が「これで」と転じます。
朝起きて、同じ仕事に行って、同じ時間に眠ります。
することが何一つ変わらなくても、
大安心大満足の毎日になるのです。
そして、その時に初めて
「今まで本当に求めていたものはこれだった」
と知らされて、
「一生満たされない」と思っていた苦しみの人生が、
人間に生まれてよかったという幸せの人生に
ガラリと変わります。
そしてこれまで求めてきた一つ一つも、
何一つ無駄になるものも、後悔するものもありません。
求めるものが手に入らない苦しみがあったなればこそ、
それとは比較にならないこの幸せになることができた
と大満足の人生に変わります。
では、どうすればその変わらない幸せになれるのかというと、
それには満足を知らない欲の心より、もっと深いところにある、
苦しみ悩みの根本原因を知らなければなりません。
それはどんな心で、どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

