死ぬ時どうなる?死ぬ瞬間に人は何を思うのか
「死ぬ時、人はどうなるのだろう」
「死ぬ瞬間、人は何を思うのだろう」
身近な人を見送った後や、自分が何か大きな病気だと告げられた時、
あるいは、夜、眠りにつく前のふとした時に、
自分が死ぬ時のことを思い浮かべることがあります。
その時、自分の体と心には、何が起きているのでしょうか。
調べてみると、少し安心できる話が出てきます。
「最期は、眠るように静かに息を引き取ることが多い」
「死が近づくと脳内麻薬が出て、苦しみが和らぐらしい」
「耳は最後まで聞こえているから、声をかけてあげるといい」
そう聞くと、死ぬ時というのは、
思っていたほど怖いものではないのかもしれない、と思えてきます。
ところが、これを語っているのは、みんな見送った側の人です。
死んでいった本人から、その時の話を聞いた人は、1人もいません。
では、死ぬ時どうなるのか。
その時、本人の心の中では、本当は何が起きているのでしょうか?
死ぬ時どうなるかについて医学でいわれていること
念のため1つだけ前置きしておきますと、
もし今、死にたいと思うほど苦しい時は、
こころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)などの
窓口に相談するという手もあります。
ですが普通は、死にたいわけではないと思いますので、話を続けます。
死が近づいた時に体に起きることは、医学でかなり詳しく分かってきています。
食事が取れなくなり、眠っている時間が長くなり、
呼びかけへの反応が少なくなって、手足の先が冷たくなってきます。
やがて、あごを上下させるような呼吸に変わり、
その間隔が少しずつ長くなって、最後に止まります。
その呼吸は、側で見ている家族には苦しそうに見えますが、
亡くなる前のほとんどの人に見られる、自然な呼吸だと説明されます。
死が近づくと、脳内麻薬と呼ばれる物質が出て、
苦しみを和らげているのではないか、という説もあります。
耳については、呼びかけに何も答えなくなった人でも、
脳が音には反応していたという研究があり、
最後まで声をかけてあげてください、とよく言われます。
心臓が止まる前後の脳で、意識と関わるとされる脳波が一時的に強まったという報告もあり、
死ぬ瞬間に一生を思い出すという「走馬灯」と結びつけて語られることもあります。
そして医師は、心臓と呼吸が止まり、
目に光を当てても瞳孔が反応しなくなったという
3つのことを確かめて、
「ご臨終です」と告げます。
その時刻が、死亡時刻として記録されます。
体の側から見た死の説明としては、どれもその通りでしょう。
多くの人を看取ってきた医師や看護師が積み重ねてきた知識であり、
家族が落ち着いて最期に付き添えるのも、こうした知識があるからです。
ですが、1つ見落としていることがないでしょうか。
ここに挙げたことは、どれも、外から見て、外から測ったことです。
呼吸の様子も、脳波も、瞳孔も、人の目や機械で確かめられることばかりです。
その時、本人が心の中で何を感じ、何を思っていたのかは、
どんな機械でも測ることができません。
外から分かるのは、死んでいく体のことだけです。
では、人は死ぬときに、心の中で何を思うのでしょうか。
人は死ぬときに何を思うのか
「人は死ぬときに何を思うのか」と聞かれると、
多くの人が、看取った人から聞いた話を思い浮かべます。
最後に家族の名前を呼んだ。
「ありがとう」と言った。
若い頃の話を、何度も繰り返していた……。
どれも、本当にあった話だと思います。
ただ、これには共通していることがあります。
どれも、まだ話ができた間の言葉だということです。
死が近づくと、やがて話ができなくなります。
話ができなくなってから、息を引き取るまでの間に、
その人が何を思っていたのかは、側にいた家族にも分かりません。
「人が死ぬときに何を思うのか」という問いに対する答えは、
一番肝心なところが、はじめから抜け落ちています。
例えば、危篤の知らせを受けて、病室に駆けつけた時のことを
思い浮かべてみてください。
母親は、もう目を閉じて横になっています。
思わず耳元で、「お母さん、僕だよ、分かる?」と大きな声で呼びかけます。
返事がないので、顔を覗き込んで、自分の顔を近づけます。
今度は、逆の立場に立ってみます。
いつか、布団に横になって呼びかけられているのは、自分のほうです。
その時、呼ばれている側からは、この場面はどう見えているのでしょうか。
仏教に説かれる「三位の臨終」
仏教では、死んでいくときの私たちの心について
3つの段階に分けて教えられています。
これを「三位の臨終」といいます。
「三位」とは三段階のことです。
「臨終」というと、死ぬ直前のことだと思われるかもしれません。
ですが、ここでいう臨終とは、死そのもののことです。
また、「死ぬ瞬間」というと、心臓が止まった時の、
ある1点のことのように思われます。
医学でいう死亡時刻も、外から確かめられる1つの時点です。
ところが仏教では、死は1つの瞬間ではなく、
心が段階を踏んで死を迎えていくプロセスとして教えられています。
その段階を知るには、仏教で心がどう教えられているかを、
多少知っておく必要があります。
仏教では、私たちの心は1つではなく、8つに分けて教えられています。
目・耳・鼻・舌・体の5つの心を「前五識」といい、
それらを取りまとめて、考えたり判断したりする心を「意識」といいます。
さらにその奥に、「末那識」と「阿頼耶識」という心があります。
阿頼耶識は、生まれる前から死んだ後まで続いていく永遠の生命であり、
私たちの本心です。
8つの心それぞれの働きについては、以下の記事をご覧ください。
➾阿頼耶識とは?意味と八識の仕組みを簡単に分かりやすく解説
三位の臨終とは、これらの心が、次の3つの段階を経て死を迎えることをいいます。
- 心明了位の臨終 —— 前五識の臨終
- 身体愛法位の臨終 —— 意識の臨終
- 心不明了位の臨終 —— 阿頼耶識が次の世界を生み出す
心明了位の臨終・前五識が先に死ぬ
最初は、「心明了位の臨終」です。
「心」とは意識のことで、「明了」とは、はっきりしているということです。
意識はまだはっきりしているのに、
目・耳・鼻・舌・体の5つの心が死ぬ段階です。
目が見えなくなり、耳も聞こえなくなります。
匂いも味も分からなくなり、
体に触れられても分からなくなります。
先ほどの枕元での場面は、本人の側からは、こう見えています。
耳元で大きな声で呼ばれても、聞こえないか、
どこか遠いところで、誰かが何かを言っているようにしか聞こえません。
確か息子の声ではないかと思っても、はっきりしません。
顔を近づけられても、どこかで見た顔だとしか分かりません。
それでも、目を大きく開いて目玉がギョロッと動くことがあり、
側にいる人が驚くこともあります。
そして、目も見えなくなり、耳も聞こえなくなり、
匂いも味も、肌触りも感じなくなります。
真っ暗な中で何も聞こえず何も感じず、ひとりぼっちです。
ところが、この間も、意識ははっきりしています。
外の世界とのつながりが、1つずつ閉ざされていく中、
動かなくなった体の中で、自分が一人、死と向き合っています。
これが「心明了位の臨終」です。
それでもここはまだ、死の入り口にすぎません。
身体愛法位の臨終・3つの執着が一度に起きる
次が「身体愛法位の臨終」です。
これは、意識が死ぬ段階です。
「愛」とは、仏教では執着のことで、
「法」とは、ありとあらゆるもののことです。
体が動かなくなっていく中で、
この世のあらゆるものに対する、激しい執着が起きてきます。
その時のことが、『瑜伽師地論』には、このように説かれています。
また諸の衆生、命終わらんとする時、
乃至未だ惛昧の想位に到らざるに、
長時に習う所の我愛現行す。
この力に由るが故に、我まさに無かるべしと謂いて、すなわち自身を愛す。
(漢文:又諸衆生,将命終時,乃至未到惛昧想位,長時所習我愛現行。由此力故,謂我当無,便愛自身)(出典:弥勒菩薩説、玄奘訳『瑜伽師地論』)
「諸の衆生」とは、すべての人のことです。
「命終わらんとする時」とは、命が終わろうとする時、ということです。
自分の命がいよいよ終わる時、
「惛昧の想位」とは、意識がぼんやりとして、はっきりしなくなる段階、
「乃至未だ惛昧の想位に到らざるに」とは、
その段階に入るまでの、意識がまだはっきりしている間、ということです。
「長時に習う所の」とは、長い間なじんできた、ということで、
「我愛」とは、自分に対する執着のことです。
「現行す」とは、それが表に現れる、という意味です。
「この力に由るが故に」とは、その執着の力によって、ということで、
「我まさに無かるべしと謂いて」とは、
自分はもうなくなってしまうのだろうと思って、
「自身を愛す」とは、自分の身に、しがみつくように執着する、ということです。
意識が、まだはっきりしている間に、
長い間なじんできた自分への執着が、一気に現れてくると説かれています。
仏教では、この時に起きる執着を3つに分けて、「三愛」と教えられています。
1つ目は「境界愛」で、家族や財産など、自分の周りにあるものへの執着です。
2つ目は「自体愛」で、自分の体への執着です。
3つ目は「当生愛」で、死んだ後、これから生まれていく所に対して起きる執着です。
家族とも、一生かけて手に入れたものとも別れ、
一番大事にしてきた自分の体とも離れて、
死んだらどうなるのかも分からないまま、
これらの苦しみが起きてきます。
三位の臨終の中で、一番苦しいのが、この段階です。
三愛それぞれの中身については、以下の記事で解説しています。
➾死苦の意味とは?生老病死の四苦の中でも最も重要な苦しみの克服法
心不明了位の臨終・阿頼耶識が転生する
最後が、「心不明了位の臨終」です。
意識も死んで、心がはっきりしなくなった段階です。
この時のことが、『成唯識論』には、こう説かれています。
謂わく、生死の時は身心惛昧なり。
睡りて夢なく、極めて悶絶せる時のごとし。
明了なる転識は、必ず現起せず。
(中略)
真の異熟識は極めて微細なるが故に、行相・所縁ともに了すべからず。
(漢文:謂生死時身心惛昧。如睡無夢,極悶絶時。明了転識,必不現起。(中略)真異熟識極微細故,行相、所縁倶不可了)(出典:護法造、玄奘訳『成唯識論』)
「生死の時」とは、生まれる時と、死ぬ時のことです。
「身心惛昧なり」とは、体も心もぼんやりとしている、ということです。
「睡りて夢なく、極めて悶絶せる時のごとし」とは、
夢も見ないほど深く眠っている時や、
すっかり気を失っている時のようだ、ということです。
この時、意識はありません。
「明了なる転識」とは、はっきりと働く前五識や意識のことで、
「必ず現起せず」とは、それが決して現れてこない、ということです。
「真の異熟識」とは、私たちの永遠の生命である阿頼耶識のことです。
「極めて微細なるが故に」とは、その働きがあまりにも細やかなので、ということで、
「行相・所縁ともに了すべからず」とは、
どのように働いているのかも、何を受け止めているのかも、
知ることができない、ということです。
この時にはもう、前五識も意識も働いていません。
前五識と意識は、肉体と共に、ここで終わります。
ところが、阿頼耶識はなくなりません。
阿頼耶識は、一生の間の行いをすべておさめたまま、
末那識と共に残り、次の世界を生み出します。
これを、「阿頼耶識が転生する」といいます。
本当の死の瞬間といえるのは、この時です。
この『成唯識論』に、
この時、阿頼耶識がどう働いているかは、知ることができないとあるように、
本当の死の瞬間がいつなのかは、
どれだけ医学が進んでも確かめることはできません。
そして、この3つの段階を通り過ぎる時間は、人によって違います。
長い時間をかけて、1つずつ通っていくこともあれば、
事故などで、一瞬のうちに通り過ぎてしまうこともあります。
そう聞くと、1つ疑問が出てきます。
一番苦しいのが2番目の段階だとすれば、
なぜ多くの人の最期は、外から見ると、眠るように安らかなのでしょうか。
外から見ると安らかに見える理由
三位の臨終は、普通、1番目から2番目、2番目から3番目という順番で進みます。
まず前五識が死に、それから意識が死にます。
そうすると、2番目の段階で三愛が起きて、大変な苦しみを受けている時には、
もう、その苦しみを外に表す手立てがなくなっています。
目も口も体も、もう思うようには動きません。
声を上げることも、手を動かすこともできません。
ですから、本人の中では七転八倒の苦しみを受けていても、
それが外には1つも出てきません。
外から見れば、静かに眠っているように見えます。
顔が、微笑んでいるように見えることさえあります。
お悔やみの席で、
「眠るように息を引き取りました」
「穏やかな顔でした」
と語られるのは、この、外から見た姿です。
世間で「最期は案外安らかなものだ」といわれるのも、
見送った側の人たちが、この姿を数多く見てきたからです。
ところが、中には、大変苦しんで亡くなっていく人もあります。
それは、1番目と2番目の臨終が同時に起きる時です。
まだ前五識が元気な時に意識の臨終がやってきて、三愛が生じると、
その苦しみを、そのまま外に表すことになります。
フランスの哲学者ヴォルテール(1694-1778)は、
臨終に、悪魔が見えると叫びながら亡くなったと伝えられています。
そういう死に方になるのは、まだ感覚が生きていて、
苦しみを外に表すことができたからです。
有名人たちが死を前にして残した言葉については、以下の記事で紹介しています。
➾なぜ死ぬのが怖いのか?本当の理由と対処法|有名人たちの不安の声
安らかに見える最期と、苦しみを表す最期。
2つは、正反対に見えます。
ですが、違うのは、苦しみがあるか、ないかではありません。
その苦しみを、外に表す手立てが残っているか、いないかの違いです。
ですから、死に顔が安らかだったから良い所へ行った、
苦しそうだったから悪い所へ行った、ということではありません。
死に顔と、死んだ後の行き先とは、関係がないのです。
では、外からは見えない2番目の段階で、
本人を一番苦しめているのは、三愛の中のどれなのでしょうか。
死ぬ時に一番苦しいのは別れでも痛みでもない
「死ぬ時の何が怖いのか」と聞かれたら、多くの人はこう答えます。
「家族と別れるのが辛いから」
「痛いのや、苦しいのが怖いから」
ですから、世間でいわれる「後悔しない最期の迎え方」も、この2つに向けられています。
痛みは、緩和ケアでできるだけ取り除く。
家族には、元気なうちに感謝を伝えておく。
財産は、終活で整理しておく。
長く寝込まずに、ある日ぽっくり逝きたい、という願いも、
痛みと苦しみの時間を、少しでも短くしたいという気持ちから出ています。
確かに、これで和らぐ苦しみはあります。
痛みが取れれば、それだけで本人も家族も、ずいぶん楽になります。
別れの言葉を交わすことができれば、残された家族のその後を支えくれます。
どれも、大切な対応です。
では、もし死ぬ時の苦しみが、別れと痛みだけだとしたら、どうなるでしょうか。
別れが辛いのは、手放したくないものがあるからです。
それなら、財産も家も、すべて手放してしまえばいいことになります。
痛みが辛いのなら、痛み止めを十分に使えばいいことになります。
持っているものを全部手放し、体の痛みを完全に取り除けば、
死ぬ時の苦しみはなくなって、心から安心して死んでいけるはずです。
ところが、そう聞いて、「それはいいことを聞いた」と思えるでしょうか。
財産を全部手放し、痛みを全部取り除いてもらって、
ベッドに横になっている自分を思い浮かべてみてください。
それで、何の心配もなく目を閉じられるでしょうか。
どこか違う、という気持ちが残るのではないでしょうか。
それは、別れと痛みを取り除いても、
「死んだら、自分はどうなるのか」という思いが残るからです。
これが、三愛の3つ目の、当生愛です。
境界愛は、この世のものと別れる苦しみです。
自体愛は、自分の体と別れる苦しみです。
どちらも、別れる相手ははっきりしています。
ところが当生愛は、これから行く先が分からない苦しみです。
行き先の分からない所へ、一人で、しかも二度と戻れない旅に出なければならない。
その不安は、別れの辛さや体の痛みとは、桁違いの苦しみだと教えられています。
そう考えると、世間でいわれる最期の迎え方は、
三愛のうち、境界愛と自体愛には対応していても、
一番重い当生愛には、何もできていないことが分かります。
緩和ケアでも、終活でも、
「死んだらどうなるのか」には、対処することができないからです。
では、この当生愛の苦しみは、どうすればなくなるのでしょうか。
当生愛は生きている今なくすことができる
三位の臨終をもう一度振り返ると、もう1つ分かることがあります。
死ぬ時には、まず耳が聞こえなくなり、やがて意識も働かなくなります。
その時になってから、何かを聞いたり、考えたりすることはできません。
当生愛の苦しみに手を打てるのは、
耳が聞こえ、意識がはっきりしている今しかありません。
仏教では、この当生愛の苦しみは、
生きている今、なくすことができると教えられています。
そうなれば、境界愛と自体愛の辛さも痛みも抱えたままで、
「人間に生まれてよかった」と心から大満足できます。
一切の苦しみが、そのまま苦しみとならない世界です。
死んだらどうなるのかという不安な気持ちに悩まされることのない、
大安心・大満足の変わらない幸せです。
しかもそれは、死んだ後の話ではありません。
生きている今、どんな人でもその身になることができ、
その時から明るく楽しい毎日を送れるようになります。
そしてそうなった人は、死ねば浄土へ生まれることができます。
死んで浄土へ往けるかどうかは、臨終ではなく、
生きている今、決まるのです。
その未来永遠変わらない幸せになるには、
私たちを果てしない過去から苦しめ続けている
苦しみ悩みの根元を、断ち切らなければなりません。
その苦しみ悩みの根元とはどんな心なのか、
どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、今すぐ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


