執着とは?

執着」とはとらわれることであり、こだわることです。
人間には、好きな人にや大切なものに執着する性質があります。
例えば、元カレや元カノなどの恋人に執着して苦しみます。
執着に苦しめられ、不幸になっている人がたくさんありますが、執着とはそもそもどんなもので、どうすれば手放せるのでしょうか?

あなたにもこんな執着はありませんか?

まず「執着」の読み方は「しゅうじゃく」です。または「しゅうちゃく」とも読みます。
意味は、とらわれるとか、こだわる、ということです。

人間、何かにとらわれたり、こだわったりすると、やめることができなくなります。
長く付き合っていた人に執着すると、別れられなくなります。その結果、この人とは結婚しないほうがいいと思っても結婚してしまい、不幸な結婚生活を送る人もあります。
また、ふられた相手が忘れられず、何とか復縁できないものかと悩み続けたり、無駄な努力に苦しめられることもあります。

他にも、小さい頃の思い出の品に執着して捨てられず、本やぬいぐるみがどんどんたまって、場所がなくなっていくこともあります。
ストレスを感じると、食べ物に執着してどんなに食べてもやめられないという人もあります。
食べ物の怨みは恐ろしい」といいますが、食べ物への執着が強い人は、少し誰かに食べるのが妨げられると、怒り狂うこともあります。

職場では、地位に執着したり、実績に執着したりします。
そして、立場が下がったり、首になったりすると、苦しみます。
また、執着している物を人に奪われないだろうかという不安が起きてきます。

執着のおかしなところ

ところが考えてみればおかしなことです。
私たちは、それらにどんなに執着しても、最後死んで行くときには、置いていかなければならないからです。

生きて行くことを電車に乗ることにたとえるとよくわかります。
私たちが生まれたときを、電車に乗った時だとすると、車内で座席が空くと、先を争うように座ります。
途中の駅で、色々な人が乗ってきたり、降りていったりします。
生まれて来る人もあれば、死んで行く人もあるということです。
私たちの人生でも、色々な出会いや別れがあり、数少ないポストや立場を奪いあって苦しんでいます。
そして、「これは自分のとった椅子だ」と執着しています。
ところが、いつまでも電車に乗っているわけではありません。
終着駅というものがあります。
終着駅に着いたら、争って座った座席を自らはなれて、降りて行かなければなりません。
人生から降りていくときには、あれだけ執着して手に入れたお金も財産も、地位も名誉も何一つ持って行けるものはないのです。

それにもかかわらず、私たちは、
これは私のものだ
これは私の家だ
これは私の功績だ
これは私のやってきたことだ
あの人は私のものだ
あの子は私の子だ
と、人それぞれ、色々な人や物事に執着して苦しんでいます。

それで、世間の人生論では、執着とは、人や物にとらわれることだとして、それが苦しみの原因だから、執着を捨てなさい、手放しなさい、と教えています。

執着を手放す」ということは、表現はだんだん変わって行きますが、「知足(ちそく)」とか、「断捨離(だんしゃり)」、「ミニマリスト」など、形を変えてリバイバルしながら、人生論で繰り返しいわれることです。
確かに、ある特定の人や物に対してなら、執着している物を捨てたり、執着している人と別れたりすれば、その物や人への執着はなくなります。
しかし、新しい何かに執着するのが人間です。
執着自体をなくすことはできません。

一体、どうすればいいのでしょうか?
この執着について、仏教には詳しく教えられています。

仏教で執着とは?

仏教では「執着」を「執著」と書かれることもありますし、単に「」といわれることもあります。
仏教では、執着に2つあります。
こういうと世間では「」にこだわることと「」にこだわることだと思うかもしれませんが、仏教ではそうではありません。「我執」と「法執」の2つです。
我執」は人は人でも自分にとらわれる心で、「法執」は物も入りますが、自分以外の存在にとらわれる心です。

1.我執とは

まず1つ目の「我執」とは何かというと、自分に実体があると思う心です。
では、本当に自分に実体はあるのでしょうか?

それは、仏教に明らかにされた、因果の道理によって分かります。
因果の道理とは、すべてのものは、因と縁がそろって生じたものである、ということです。

では、私というのは何でしょうか?
普通、手足は自分だと思います。
しかしそれは私の手足です。
手足がなくても生きられますので、手足は自分ではなく、自分の手足です。

肉体が私だとすれば、臓器移植をしたらどうなるのでしょうか。
肝臓が悪くなったら肝臓を交換します。
心臓が悪くなれば、心臓を交換します。
どこからどこまでが私でしょうか。
医学が進歩して、やがてどんな臓器も交換できるようになるかもしれません。
もし体全体を別の臓器に入れ替えてしまったら、私は一体どこにいるのでしょうか?
肉体は私ではないことがわかります。

では、自分というのは顔でしょうか?
顔となると1歳の頃の顔と30歳の顔、50歳の顔、とどんどん変わっていきます。
1歳のときの写真を見せてもらうと、「こんなかわいかったの?」と驚くことがあります。
とても同一人物とは思えません。
顔はどんどん変わって行きますから、顔もやはり自分の顔であって自分ではありません。

では、脳が私でしょうか。
ところが脳が事故や色々な理由で一部損傷しても生きている人はあります。
また老化で脳の考える働きが大分変わっても、記憶喪失で記憶が失われても、自分は続いています。
やはり私の脳であって、私ではありません。

こうして考えて行くと、これが私だというものはどこにもありません。
私というのは、色々な因縁がそろって今、一時的に現れている働きであって、実体はないのです。
これを「無我」といいます。
変わらない私というものはない、ということです。
ところが私たちは、変わらない私というものがあると思っています。
たとえば西洋哲学の父・デカルトから「我思う、故に我あり」といわれると「確かにそうだ」と思うのではないでしょうか。
これが「我執」です。
それは錯覚なのです。

2.法執とは

次に「法執」の「」とは、色々な存在要素です。
この世のすべては、因縁がそろって生じているのですが、因と縁が離れればなくなります。固定的な存在要素というものはありません。実体はないということです。

これをたとえで教えられているのが、
引き寄せて 結べば柴の庵にて
 とくればもとの野原なりけり

という歌です。

」というのは、質素な小屋のことです。草葺きで作ってあるいおりを草庵ともいいます。
野原で周りの草木を集めて上を結ぶと庵ができます。これが「柴の庵」です。
ところが、この柴の庵に実体はありません。結んでいたところをほどくと、柴の庵はなくなって、また元の野原になってしまいます。このように、因縁がそろっている間は一時的に柴の庵ですが、因と縁が離れれば、それはなくなるのです。柴の庵には、実体がないのです。

自動車なら、私たちはそこに自動車があると思います。ところが、何万個もの部品が集まっているときは一時的に自動車ですが、部品をばらばらにすると、自動車はなくなってしまいます。

その部品一つ一つも、さらに分解していくと、なくなっていきます。
このようにどんどん小さく分解していくと、分子になり、原子になり、最後は素粒子に行き着きます。

現代物理学では、そのような物質を構成している素粒子に大きさはなく、ただ関係だけがあります。実体はありません。

こうして、それによって構成されているこの世のすべてには実体はないのです。
ところが私たちは、色々な物が外界に実在すると思っています。
これが法執です。
法執も我執と同じく錯覚です。

このような「我執」と「法執」によって、欲望怒り愚痴煩悩を生じ、本当の幸せになれず、永遠に苦しみ迷い続けなければならないのです。

執着によって苦しめられるしくみ

たとえば、欲望を例にとると、「我執」と「法執」によって私たちは
私の金
私の地位
私の子
と色々なものに執着を起こします。

たとえば、財布を落とすと、大騒ぎします。
それは、財布を私のものと執着していたからです。
もし執着していなければ、何とも思いません。

また、定年退職を迎えたとき、寂しく感じてしんみりするのは、地位に執着していたからです。

それまで子育てに一生懸命だったのに、やがて成長して巣立って行くと、心にぽっかり穴が空いたような気がするのは、子供に執着していたからです。

この世は諸行無常の世界ですから、一切は移り変わって行きます。
やがて執着していた物が失われるときがやってきます。
特に、無常の中でも最大のものは、自分が死ぬことです。
死ぬときには今まで執着していたものすべてを失います。
そのとき、執着が大きければ大きいほど、私たちは苦しむのです。

それでブッダは、私たちの苦しみの原因は煩悩であり、執着であると教えられているのです。「煩悩」というのは、私たちを煩わせ、悩ませるもので、執着は煩悩であり、煩悩を別の側面から教えられたものです。

私たちを苦しめている原因が執着であれば、どうすればいいのでしょうか?

どうすれば執着を離れられるのか

ブッダは、この執着を離れなさいということで、因果の道理を説かれ、一切は無我であり空であることを説かれています。

ちなみに小乗仏教や、現代のテーラワーダ仏教も、仏教である以上、無我は教えますが、法執は離れていません。
外界の存在には心を離れて実体があると思っています。
これを「我空法有(がくうほうう)」といいます。

それに対して日本に伝えられている仏教である大乗仏教では、我執も法執も離れています。
これを「我法二空(がほうにくう)」といわれます。
大乗仏教を基礎づけた龍樹菩薩(ナーガー・ルジュナ)の『大智度論』には、
(執着)を破するをもっての故に、涅槃の空を説く
と教えられています。
執着を離れさせるために、因果の道理を説かれ、空を教えられた、ということです。

では執着を離れることはできるのでしょうか?

執着は手放したり捨てたりできる?

私たちは執着で苦しんでいるので、執着を手放しなさい、捨てなさいというのは大変わかりやすいので、そういわれると、ほとんどの人は、「大体そうかな」と思って喜びます。
そして「何事にもとらわれてはいけない」と執着を離れようとします。
その結果、執着を離れることに執着している人もあります。
何事にもとらわれてはいけないということにとらわれている、ということです。
この執着はいけないという執着も煩悩です。

本当に執着を離れるには、執着を離れることにも執着しないようにしなければなりません。
そんなものは頭の中だけのことで、実際に執着を離れるのは大変です。
どんなに淡々と生きようとしても、大切な人が死んだりすれば、心が動くのではないでしょうか。
例えば『刈萱童心』の物語では、真言宗の高野山で修行していた刈萱童心に、子供の石童丸が訪ねてきます。その子から、母親も妻も娘もすでに死んだと聞いて、涙を流します。
それによって、修行の功徳が無に帰してしまうのです。
しかし、これでもまったく心が動かないほうが、人間性に欠ける冷たい人になってしまうのではないでしょうか。
私たちは人間である以上、執着を離れることはできないのです。執着を捨てることも、手放すこともできません。

現代では、お経の研究と実践が進み、ブッダが執着を離れなさいと教えられたのは、方便だったことがわかっています。
執着や煩悩は、確かに苦しみの「原因」ですが、さらに、苦しみの「根本原因」があって、その苦しみの根本原因をなくせば、執着も煩悩もあるままで、絶対の幸福になれると教えられているのです。

その苦しみの根元は何かということは、仏教の真髄ですので、小冊子とメール講座にまとめてあります。
一度見ておいてください。

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