人生の意義とは?これ一つ果たせば大満足といえるもの
「人生の意義とは、何なのだろうか」
「自分の一生に、意義といえるものがあるのだろうか」
そう思って調べ始めると、たくさんの答えが出てきます。
人の役に立つこと、
好きなことに打ち込むこと、
今日一日を大切に生きること。
どれも立派なことです。
ですが、読んでも読んでも、どこか腑に落ちない。
それで、「結局どれが本当なのか」が分からないまま終わってしまう。
そんな経験をされたのではないでしょうか。
実は、それには理由があります。
そもそも「人生の意義」とは、どういうものを指すのか。
その物差しが決まっていないまま、答えだけを見比べているからです。
物差しがなければ、どれが正解かを判定できません。
そこでこの記事では、まず「人生の意義」と呼べるものの条件をハッキリさせ、
そのうえで、世間でいわれているものを一つずつ当てはめて検証していきます。
「人生の意義」とはどういうものか
まず、言葉の中身をハッキリさせておきましょう。
この記事で「人生の意義」というのは、次のことです。
私たちは、何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
なぜ生きなければならないのか、
生まれてから死ぬまでに、何を果たせば
「人間に生まれてよかった」と大満足できるのか。
これは「生きる目的」ともいえます。
少し抽象的に聞こえるかもしれませんので、
身近な例えでいえば、どうなるでしょうか?
レストランに入った目的は何か
レストランに入るのは、食事をするためです。
もちろん、店の中では、ほかにも色々なことができます。
本を読むこともできますし、スマートフォンを見ることも、
友人としゃべることも、仕事をすることもできます。
ですが、レストランですから、食事をせずに帰ったら、入った意味がありません。
逆にいえば、食事さえ済んでいれば、いつ出ても大丈夫なのです。
食事を終えたあとにパソコンを開いていて、
「混んでまいりましたので、申し訳ございませんが……」と言われれば、
「あ、すみません」と席を立つことができます。
ところが、まだ料理が来ていないのに同じことを言われたらどうでしょう。
「え、まだ何も食べていないのですが」
とても、すんなり出ていく気にはなれません。
つまり「目的」とは、入ってから出るまでに、必ず果たさなければならないことです。
それ以外のことは、してもしなくてもかまいません。
ですが、それだけは欠かせない。
それが目的というものです。
人生に当てはめると
人生では、レストランよりもはるかに多くのことができます。
勉強し、働き、恋をし、結婚し、子供を育て、
旅行をし、趣味を持ち、友人と交わり、年をとっていきます。
その数えきれないことの中で、
人生に入ってから出るまでに、つまり生まれてから死ぬまでに、
これだけは果たさなければならない、というものは何なのか。
それが、人生の意義です。
これがハッキリしなければ、料理を待たされたまま席を立たされるのと
同じことになります。
なぜ「意味」ではなく「意義」と問うのか
ここで、少し立ち止まってみたいことがあります。
私たちは「人生の意味」とも言いますが、
「人生の意義」と言う時には、少し違う響きがあります。
「意味」は、それが何を表しているかということ。
「意義」は、それにどれだけの値打ちがあるかということです。
ですから「人生の意義とは何か」と問う時、
私たちが本当に知りたいのは、こういうことではないでしょうか。
これだけの苦労をして生きるだけの値打ちが、この一生にあるのか。
意味づけをするだけなら、いくらでもできます。
「あの経験にも意味があった」と後から言うことは、誰にでもできるのです。
ですが、それでは足りないと感じているはずです。
後から意味づけをするのではなく、
はじめから、苦労に見合うだけの値打ちがあるものでなければ、意義とはいえません。
ですから「人生の意義」を問うということは、
とても厳しい条件を求めているということなのです。
その条件は、3つに整理できます。
「一瞬一瞬を精一杯生きる」では答えにならない
最もよくいわれる答えはどんなものでしょうか。
「今の一瞬一瞬を精一杯生きれば、それが人生の意義だ」
といわれることがあります。
前向きで、気持ちのよい言葉です。
ですが、先ほどのレストランに当てはめてみてください。
入ってから出るまで、精一杯過ごすことが目的でしょうか。
違います。
食事が目的ですから、どんなに一生懸命に本を読んでも、
料理を食べずに出てくれば、そのレストランに入った意味はありません。
「読書だけなら、ご自宅でどうぞ」
ということになってしまいます。
これと同じで、何かに熱中し、生きる力にあふれているからといって、
それがそのまま「人生の意義がある」ということにはならないのです。
熱中できるものがあるのは、幸せなことです。
ですがそれは「どう過ごすか」の話であって、
「何を果たすか」の答えにはなっていません。
もし人生の意義がなかったら
「そんなに難しく考えなくてもいいのでは」
そう思われるかもしれません。
実際、友人に「私って何のために生きているのかな」と言えば、
「どうしたの?悩みでもあるの?」
「そんなこと考えても仕方ないよ」
「もっと生きていることに感謝したほうがいいよ」
と、まるでおかしなことを言っているかのように返されます。
ですが、それは本当でしょうか。
あなたが今、高速道路を走っているとします。
その道の終着点には、壁があります。
必ず、そこに激突して終わります。
そこで「なぜ壁まで頑張って走らなければならないのか」と聞いた時に、
「悩みでもあるの?」
「そんなこと考えても仕方ないよ」
「もっと走れていることに感謝したほうがいいよ」
と返されたら、どうでしょう。
答えになっていません。
そうこうしているうちに、壁に激突するだけです。
私たちの人生も、最後は必ず死にます。
もし人生に意義がないのであれば、
生まれてきて、さんざん苦労して、最後は死ぬ。
それだけの一生になってしまいます。
それでは、とても「人間に生まれてよかった」とはいえないのではないでしょうか。
人生の意義といえる三つの条件
ここまでで、「人生の意義」と呼べるものの条件が見えてきました。
まとめれば3つになります。
1.生まれてから死ぬまでに果たせること
レストランを出るまでに食事を済ませなければならないように、
人生の意義は、死ぬまでに果たせるものでなければなりません。
「死んでみなければ分からない」
「後の世代が判断してくれる」
それでは、当の本人は果たせないまま終わってしまいます。
自分が生きているうちに達成できるものでなければ、意義とはいえません。
2.果たせば「これ一つだった」と満足できること
2つ目は、果たした時に、
「人間に生まれてよかった。人生、これ一つだった」
と心の底から満足できるものであることです。
果たしてみたけれど、まだ何か足りない。
次は何を目指せばいいのだろう。
そう思うようなものであれば、それは通過点であって、意義ではありません。
3.死によって崩れないこと
3つ目は、死ぬ時に崩れないものであることです。
どれだけ大きなものを築いても、死ぬ時には一つも持っていけません。
財産も、地位も、名誉も、家族も、健康な体さえも、
すべて置いていかなければならないのです。
死んだ瞬間に消えてしまうものであれば、
それは一時的に人生を彩ってくれたにすぎません。
壁に激突した時に消えるものは、走る理由にはならないのです。
世間でいわれるものを当てはめてみると
では、世間でよく「人生の意義」といわれるものを、
この3つの条件に当てはめてみましょう。
仕事で成果を出すこと。
生きているうちに果たせます(条件1は満たします)。
ですが、成果を出した後には、また次の目標が待っています。
そして退職すれば手元に残りません。
条件2の心の底から満足できることと
条件3の死によって崩れないことが満たせません。
さらに詳しくはこちらをご覧ください。
➾働いてまで生きる意味はあるのか|仏教が教える仕事と人生の目的
家族を大切にすること。
これはかけがえのないことです。
ですが、家族はいつか亡くなります。
自分も先に死ぬかもしれません。
相手があってのことですから、相手が変われば崩れます。
条件3の死によって崩れないことが満たせません。
趣味や生きがいに打ち込むこと。
打ち込んでいる間は、確かに充実します。
ですが、体力が衰えればできなくなります。
そして「これ一つだった」とまでは、なかなか言えません。条件二と三で落ちます。
社会の役に立つこと。
尊いことです。
ですが、役に立てなくなった時にどうなるのかという問題が残ります。
➾存在意義とは?自分の存在意義が分からない人へ|レゾンデートルの意味と見出す方法
こうして見ていくと、
どれも大切なことばかりですが、3つの条件をすべて満たすものが見当たりません。
共通しているのは、いずれも相手や状況や体力に頼っているという点です。
頼っているものが崩れれば、一緒に崩れてしまうのです。
人生は、苦しみばかりなのか
ここで、多くの方が思われることがあります。
「そこまで求めるのは、欲張りではないか」と。
ですが昔から、立場や時代を問わず、
人生の苦しさは同じように語られてきました。
テレビでおなじみの水戸黄門、水戸光圀はこう詠んでいます。
「ただ見れば なんの苦もなき 水鳥の
足にひまなき わが思いかな」
すいすいと楽しそうに泳いでいる水鳥も、
水面下では足を必死に動かし続けています。
天下の副将軍であっても、人には見せられない苦労があったのでしょう。
印籠さえ出せば済むという話ではありません。
それでも、苦しみを乗り越えた先に幸せがあるのではないか。
そう思いたくなりますが、18世紀フランスの哲学者ヴォルテールはこう言います。
ヴォルテール幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である。
(ヴォルテール)
19世紀ドイツの哲学者ニーチェも、こう述べています。
ニーチェ人間は、人生に見入ること深きほど、苦悩にも深く見入る。
(ニーチェ)
人生が楽しいと心から言っていられるのは、
まだ人生をのぞき込む深さが浅いうちだけなのかもしれません。
深く見つめた人ほど、苦しみもまた深く見えてくる、ということです。
ですから「人生の意義がほしい」というのは、欲張りではありません。
これだけ苦しいのだから、その苦労に見合うものがなければ割に合わない、
というまっとうな要求なのです。
それでも「人間に生まれたことを喜べ」と教えられる
ところが仏教では、驚くようなことが教えられています。
お釈迦さまは、「人間に生まれたことを喜びなさい」と説かれています。
その1つが、このお言葉です。
人身受け難し、今已に受く。
(お釈迦さま)
「人身」とは、人間のことです。
「受ける」とは、生まれるということ。
ですから「人身受け難し」とは、人間に生まれることは難しいという意味です。
その生まれ難い人間に、今すでに生まれることができた。
よくぞ人間に生まれたものぞ、という生命の歓喜を表されたお言葉です。
どれほど難しいことなのかを、お釈迦さまは
お弟子の阿難に、盲亀浮木のたとえで教えられています。
100年に一度だけ海面に浮かぶ目の見えない亀が、
広い海に漂う丸太の穴に、たまたま頭を入れるほどに難しい、と説かれたたとえです。
この盲亀浮木のたとえの詳細は、以下の記事をご覧ください。
➾ありがとうの語源と人間に生まれる確率・生まれた目的とは?(盲亀浮木)
「有り難う」という言葉は、
この「有ることが難しい」から来たといわれています。
ですが、ここで一つ、大きな疑問が出てきます。
人間に生まれることがどれだけ難しくても、
生まれた後が苦しみばかりで、最後は死ぬだけなら、
難しかったというだけでは、喜ぶ理由になりません。
めったに当たらないくじに当たったのに、中身が空だったようなものです。
ではなぜ、お釈迦さまは喜びなさいと教えられたのでしょうか。
それは、人間に生まれた時にしか果たせない、尊い目的があるからです。
3つの条件を満たす、ただ1つの答え
仏教では、私たちのすべての苦しみを生み出している大もとがある、と教えられています。
これを「苦悩の根元」といいます。
一つ一つの苦しみのことではありません。
それらを次から次へと生み出している、大もとのことです。
この苦悩の根元がなくなった時、
何が起きても崩れない、本当の安心と満足の世界に出ることができます。
その世界に出ることこそが、人間に生まれた尊い目的であり、人生の意義であると、
仏教には教えられているのです。
先ほどの3つの条件も満たします。
1つ目、生きているうちに果たせること。
――果たせます。
2つ目、果たせば「これ一つだった」と満足できること。
――苦しみの根元がなくなり、
人間に生まれてよかったと大満足できます。
3つ目、死によって崩れないこと。
――何が起きても崩れない、死によっても崩れない世界です。
3つとも満たせるのは、世界にこれだけです。
そしてこの目的は、人間に生まれた時にしか果たすことができません。
だからこそお釈迦さまは、人間に生まれたことを喜びなさいと教えられたのです。
生まれ難い人間に生まれ、この目的を果たした時にこそ、
「人身受け難し 今すでに受く」
――生まれ難い人間に生まれてよかった、
人間に生まれたのは、これ一つだった、
というこの上なく大きな喜びを味わうことができます。
それは、生きているうちに果たせる
ここで、こう思われるかもしれません。
「そんな大きなことが、自分に果たせるのか」
「それは死んでからの話ではないのか」
そうではありません。
本当の仏教を漢字四字で表せば、平生業成と教えられています。
「平生」とは、死んだ後ではなく、生きている平生ただ今ということ。
「業成」とは、人生の一大事業が完成するということです。
生きているうちに、人生の意義はハッキリする。
これが仏教の立場です。
特別な才能も、恵まれた境遇も要りません。
今の生活のまま、今の場所で果たせることです。
人生の意義について、ほかの角度からも解説しています。
➾生きる意味とは?分からない人へ哲学者と仏教の言葉を通して答えます。
では、その苦悩の根元とは、具体的に何なのか。
どうすればなくすことができるのか。
それについては、メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

