「現代人の仏教教養講座」

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生きる意味を、知ろう。

買っても買っても満たされないのはなぜか

「お金があっても満たされない」
「買った時は嬉しいのに、すぐに冷めてしまう」

服を買っても、しばらくすると次の服が欲しくなります。
お金を稼いでも、稼いだ分だけ出ていって、どこか足りない気がします。

何を買っても、3日も経てば元の気持ちに戻っています。
それなのに、また買ってしまう。
そんな自分が、少しおかしいのではないかと思うこともあります。

物では満たされない」とよくいわれます。
確かにそうだと思います。
ところが、そう聞いても、
では何なら満たされるのかは分かりません。
それで、また買うことになります。

なぜ物では満たされないのでしょうか。
そして仏教では、私たちが本当に求めているものを、
どう説かれているのでしょうか。

一番嬉しいのはレジを通る瞬間

最近した買い物の中で、
気持ちが一番高まっていたのは、いつだったでしょうか。

店で品物を見つけた時か、
レジで支払った時か、
それとも家に着いてから箱を開けた時か。

多くの場合、袋を下げてお店を出るあたりで、
すでに山を越えています。
家に着いて、置き場所を決めて、一通り使ってしまう頃には、
もう次のものが目に入っています。

では、買ったものが悪かったのでしょうか。
そうではありません。
品物は、買う前に思っていた通りのものです。
値段の分の働きは、ちゃんとしています。

消えたのは、物ではありません。
「これが欲しい」という気持ちのほうです。

その気持ちは、
品物についていたのではなく、
こちらの心についていました。
だから手に入れた途端に、心のほうがその物から離れて、
まだ手に入っていないものへ移っていくのです。

服なら、もっとはっきりします。
クローゼットを開けると、ほとんど着ていない服が何枚もあります。
買った時は、どれも必ず着るつもりでした。
似合うと思って、値段と何日もにらみ合って、
やっと決めた服です。

その服は、今も同じ服です。
変わったのは、自分の気持ちだけです。

もう1つ、見落としていることがあります。

買うまでは、「まだ手に入っていない」という状態です。
手に入れると、その状態が終わります。
私たちが味わっていたのは、物そのものではなく、
手に入りそうだという期待でした。

セールで安く買えた時の嬉しさも、同じです。
嬉しいのは品物ではなく、
安く買えたという結果です。
同じ品物を定価で買っても、あの嬉しさはありません。

ですから、買うものを替えても、同じことが起きます。
服でも、車でも、家でも同じです。
値段が上がるだけで、起きることは何も変わりません。

手に入れるたびに心配が1つ増える

それだけではありません。
物が増えるのは、嬉しさだけではないのです。

家を買った人は、火災保険に入ります。
車を買った人は、自動車保険に入ります。
なぜ保険に入るのかというと、失うのが怖いからです。

手に入れたその日から、
失う心配が1つ増えているということです。

お釈迦さまは、『大無量寿経』にこう言われています。

たまたま一有れば、また一をかく。
(漢文:適有一,復少一)

欲しいものは全部手に入りませんが、努力の結果、手に入ることがあります。
たまたま何か欲しいものが手に入ると、何か一つなくなっている、と教えられています。

持っていなければ、なくす心配もありません。
つかんだものの数だけ、失うものがあるわけです。

大学生の頃、2万円で中古の車を買った人の話があります。
嬉しくてワックスをかけ、大事に乗っていたのですが、
古い車ですから、あちこち壊れていきます。
修理に2万円、3万円とかさんで、
車の値段よりも修理代のほうが高くつきました。
しかも、友達から「乗せてくれ」と頼まれるようになります。
最初はよかったのですが、だんだん煩わしくなってきます。

欲しかった楽器をやっと買ったら、
音程が半音低くて使いものにならなかった、という人もあります。

これが手に入れば幸せになれるはずだと思って手に入れたのに、
ちっとも喜べなかった。
そういうことが、誰にでもあるのではないでしょうか。

物が増えれば、置き場所も要ります。
置き場所が足りなくなると、もっと広い家が欲しくなります。
広い家を手に入れれば、掃除する所も増えます。
手入れの手間も、修理代も、税金も増えていきます。

持っているつもりで、実際には
持ち物に手間を取られているということです。

持っていると問題が起きてくる割に、手に入れたものを失いたくはありません。
仏教では「諸行無常しょぎょうむじょう」と説かれています。
この世は無常の世界。
一切は続かず、移り変わっていきます。
ですから、手に入れたものも必ず壊れたり、崩れたり、失うことがあります。

このことをお釈迦さまは、こう説かれています。

かれ、ただよい、劫奪ごうだつさる
(漢文:焚漂劫奪)

火事で焼かれたり、洪水で流されたり、泥棒に奪われたり、
お金を返せなくて持って行かれてしまうことがある、ということです。
そうなると、満たされないどころか、悲嘆したり、怨んだり、
余計に苦しみ悩むことになります。

では買うのが悪いのか

そう聞くと、買い物が悪いことのように思われるかもしれません。
そうではありません。

着るものは要ります。
食べるものも、住む所も要ります。
お金がなければ、家族を養うこともできません。
仏教でも、物やお金が悪いとは説かれていません。

問題は、物そのものではなく、
物で満たされようとしているところです。

物は、使うためのものです。
満たされるためのものではありません。
ドライバーで釘は打てませんが、それはドライバーが悪いのではなく、
使い道が違うだけです。

それにしても、物で満たされると、誰が言ったのでしょうか。

朝から晩まで、画面の中で、
これを買えば変わる、これを買えば満たされる」と言われ続けています。
1日に何十回、何百回と言われれば、
そう思うようになるのも無理はありません。

ところが、そう言っているのは、
その物を売りたい人です。
満たされてしまえば、次が売れなくなります。
満たされないほうが都合がいいわけです。

なお、お金があれば幸せになれるのかについては、以下の記事で解説しています。
お金があれば幸せ?あっても虚しい?有無同然と説かれたブッダ

では、私たちはどうすれば満たされるのでしょうか。

デパートの閉店時間

こんなたとえ話があります。

明日が入学式で、スーツを買いにデパートへ行きました。
ところが、入ってすぐ本屋の前を通ります。
つい立ち読みを始めて、しばらく時間が過ぎます。
やっと上の階へ上がると、新しいゲームに行列ができています。
少し覗くだけ、と思って並んでみます。

そのうちに、音楽が流れてきました。
閉店の時間です。
申し訳ございません。また明日お越しください

ところが、明日はありません。
明日は入学式です。

その時に、
今日はいろいろ楽しめたからよかった
と言って、お店を出られるでしょうか。

出られません。
何をしていたんだろう
という後悔しかありません。

逆に、スーツさえ買っていれば、
立ち読みができなくても、新しいゲームを見られなくても、
満足して出られます。

ここへ来た目的が、スーツを買うことだったからです。
目的でないものを、どれだけ手に入れても、
満足して出ることはできません。

この話が怖いのは、
お店の中にいる間は、後悔のかけらもないところです。

立ち読みをしている時は、楽しんでいます。
行列に並んでいる時も、楽しんでいます。
何かを間違えている気は、少しもしません。
間違いに気がつくのは、閉店の音楽が鳴ってからです。

人生にも閉店の時間がある

気がついたら、私たちは人生というお店の中にいました。
そして、色々なものを買ってきました。
家も、車も、服も、安い買い物もたくさんしました。

ところが、このお店にも閉店の時間があります。
しかも、いつ音楽が鳴るのかは知らされていません。

デパートなら、閉店は7時なり8時なりと決まっています。
それなら、後回しにしておいて、
最後にスーツ売り場へ回ることもできます。

人生は、そうなっていません。
80歳まで開いているとは、誰も約束されていません。
今日の夕方に鳴ることもあります。
だから、後回しにできないわけです。

その時に、「これを買ったから満足だ」と
言えるものがあるでしょうか。

お釈迦さまは、パーリ仏典の「相応部そうおうぶ」にこう説かれています。

穀物も富も金銀も はた如何なる所有も
奴隷、下男、傭人 及びその他の従属者も
すべて従いて行くべからず。
すべてを捨てて行くなり。

死んでいく時には、食べ物もお金も金銀財宝も、
手に入れたどんな物も、持っていけない。
お手伝いさんも、従業員も、とりまきも、家族も、
誰一人ついては来てくれない。
死ぬ時は、すべてを捨てて、たった一人で旅立つのだ、ということです。

買って自分のものにしたつもりの物も、
死ぬ時には、何一つ持っていけません。
それどころか、自分の体さえ置いていきます。
自分の体でさえ自分のものでないのですから、
ましてや買った物が自分のものであるはずがありません。

物では満たされないというのは、
物の価値が低いからでも、
買い方が下手だからでもありません。
持って出られないものでは、満たされないということです。

私たちは、それを心の底で知っています。
知っているから、どれだけ買っても落ち着かないのです。
満たされないのは、感覚が鈍いからではなく、
むしろ鋭いからです。

では、何か心から満足できるものがあるのでしょうか。

仏教では、たった1つあると説かれています。
それこそが、「人間に生まれてよかった」と本当に満足できるものです。
それは焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
いつも満ちている無上の幸せです。
死が来ても崩れません。
そういう本当に自分を幸せにしてくれる宝です。

それはお金で買うものではありませんから、
お金のある人が有利なのでも、ない人が不利なのでもありません。
若い人が有利なのでも、年を取った人が不利なのでもありません。
買い物の上手下手も関係ありません。
どんな人でも手に入れることができます。

死んだら何も持っていけないと聞くと、
虚しい話に聞こえるかもしれません。
ところが、お釈迦さまは、人生は虚しいで終わられません。
死が来ても崩れない本当の幸せを教えるために、
一生涯、仏教を説き続けられたのです。

そして、それが手に入ると、
それまでの買い物の意味まで変わります。

服を買ったことも、家を買ったことも、
働いてきたことも、無駄ではなくなります。
スーツを買った人が、
立ち読みも行列待ちも笑って話せるのと同じです。

本命が買えていないから、
他の買い物が虚しく見えていただけです。

そして、それを手に入れた時に初めて、
自分はこれを手に入れるのが目的だった、とハッキリします。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

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著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。