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生きる意味を、知ろう。

人生つまらないと感じるのはなぜ?本当の原因と抜け出す道

「人生つまらない」
「毎日がつまらない」

朝起きて、仕事や学校へ行き、帰ってきて寝る。
休みの日には出かけることもあるし、
楽しいことが何もないわけではありません。
それなりに楽しい。
でも、やっぱりどこかつまらない感じがする。

そんな毎日を繰り返しているうちに、
「人生って、こんなにつまらないものなのだろうか」
と思ったことはないでしょうか。

人生がつまらない時、よくいわれるのは、
毎日がマンネリ化して刺激が足りないということだから、
新しい趣味を始めたり、何かに挑戦したりすればいい、ということです。
また、物事の捉え方を変えれば楽しくなる、とか
人生なんてつまらないのが当たり前だ、ともいわれます。

ところが仏教では、人生がつまらないのは、
刺激が足りないからではないと教えられています。
では、人生がつまらないと感じる本当の原因は何なのか、
どうすればそこから抜け出すことができるのでしょうか?

人生がつまらないと感じる原因

人生がつまらないと感じる原因として、
一般に3つのことがいわれています。

1つは、毎日が同じことの繰り返しで、変化がないことです。
決まった時間に起きて、決まった場所へ行き、
決まった人と顔を合わせる。
慣れてしまうと、何をしても新鮮さがなくなります。

2つ目は、目標や夢がないことです。
何かに向かって頑張っている時は充実していても、
目指すものがなくなると、毎日に張り合いがなくなります。

3つ目は、人と比べてしまうことです。
SNSを開けば、旅行に行った様子や、映える食事、仕事の成功など、
楽しそうな人の姿が次々と目に入ってきます。
それに比べて、自分の毎日は何とつまらないのだろう、
と思えてきます。

年代によっても感じ方は違います。
20代は、思い描いていた理想と現実の違いに。
30代は、仕事や家庭に追われるばかりの毎日に。
40代や50代になると、自分の人生の行き着く先が見えてきて、
「この先も、ずっとこのままなのか」と感じるようになります。
それが続くと、何をする気も起きない、
無気力な状態になってしまうこともあります。

では、人生がつまらない時は、
どうすればいいといわれているでしょうか?

人生がつまらない時よくいわれる3つの対処法

人生がつまらない時の対処法としても、
大きく分けて3つのことがいわれています。

1つ目は、刺激を足すことです。
新しい趣味を始める、旅行に出かける、
習い事や資格の勉強をする、転職や引っ越しで環境を変える。
生きがいを見つけて、毎日に張りを持たせよう、というものです。

2つ目は、物事の捉え方を変えることです。
当たり前の毎日に感謝する。
身近にある小さな幸せに気づく。
「日々是好日(にちにちこれこうにち)」といわれるように、
どんな日も、よい日として受け止めよう、というものです。

高杉晋作
高杉晋作
(1839−1867)

幕末の志士、高杉晋作(1839−1867)の辞世といわれる句に、
歌人の野村望東尼(のむらぼうとうに)(1806−1867)が下の句をつけた歌があります。


おもしろき こともなき世を おもしろく
  すみなすものは 心なりけり

(上の句:高杉晋作/下の句:野村望東尼)

野村望東尼
野村望東尼
(1806−1867)

面白いこともない世の中を、面白く生きていけるかどうかは、
自分の心次第だ、ということです。

3つ目は、人生とはそういうものだと受け入れることです。
人生なんて、つまらないのが当たり前。
初めから期待しなければ、がっかりすることもない。
そう思えば、気持ちが楽になる、というものです。

どれも間違いではありません。
新しいことを始めれば、しばらくは確かに楽しくなります。
捉え方を変えれば、同じ毎日も違って見えてきます。
期待しすぎなければ、がっかりすることも減るでしょう。

ですが、それで本当に
「人生つまらない」という気持ちは、なくなるのでしょうか?

刺激を足しても「詰まらない」理由

心理カウンセラーの諸富祥彦さんの
『〈むなしさ〉の心理学』という本に、
こんな女子学生のことが紹介されています。

その学生は、「毎日がつまらないから」と相談に来ました。
友達には言えません。
「つまらない」と言えば、暗い人だと思われてしまうからです。
友達の前では、テレビの話をしたり、遊びの計画を立てたりして、
楽しそうに振る舞っていました。

その学生が持ってきたのは、
一人の少女が歩いているだけの、8コマの漫画でした。
1コマ目の台詞は「つまんない」、
2コマ目も「つまんない」、3コマ目も「つまんない」……。
最後まで、そればかりです。
そして、「これは私の人生そのものなんです」と言いました。

中学の時は、高校に行けば楽しくなると思っていた。
クラスが変われば、友達が変われば、と思っていた。
それなりに楽しいこともあるけれど、
やっぱり、それなりにつまらない。
どこか虚しく、寂しい。

これは、この学生だけのことではありません。
家がつまらないと家を出ても、
職場がつまらないと転職しても、
しばらくすると、また同じ気持ちが戻ってきます。
刺激を足しても、環境を変えても、
どこまで行っても、つまらないのです。

実は、「つまらない」は、
「詰まる」に「ない」がついてできたといわれます。
「詰まる」とは、中身がいっぱいに満ちること、
行き着くところまで行き着くことです。
ですから「つまらない」とは、もともと、
心が満たされない、行き着くところに行き着かない、
ということです。

人生がつまらないのは、面白いことがないからではありません。
面白いことがあっても、心が満たされない。
楽しいことを重ねても、どこにも行き着かない。
だから、「詰まらない」のです。

このことについて、『中阿含経』には、
お釈迦さまのお弟子の法楽比丘尼が、
楽しいという感覚について、在家の信者に対し、このように説いています。

楽覚(らっかく)は、生ずるも楽、住(じゅう)するも楽、変易(へんにゃく)するは苦なり。
無常なるは即ち是れ災患(さいげん)なり。
欲の使(し)なり。

(漢文:楽覚者,生楽,住楽,変易苦。無常者即是災患。欲使也)

「楽覚」とは、楽しいと感じる心のことです。
「生ずるも楽」とは、楽しいことが始まる時は楽しい、
「住するも楽」とは、それが続いている間も楽しい、
「変易(へんにゃく)するは苦なり」とは、
ところが、それが変わって終わってしまうと、苦しみになる、
ということです。

「無常なるは即ち是れ災患(さいげん)なり」とは、
楽しみは続かず、必ず変わっていく無常のものなので、
それが災いになる、ということです。

「欲の使(し)なり」の「使」とは、
表面には現れていない、潜在的な煩悩のことです。
「随眠(ずいめん)」ともいいます。
楽しい感覚が生じ、しばらく続いて終わっていく奥には欲が潜んでいて、
私たちを次の楽しみへと駆り立てる、ということです。

楽しいと満足するのではなく、
楽しいが故に潜在的な欲が働いて、もっと欲しくなります。
楽しいことが終わると、
その後に残るのは、満たされない心です。
それで、また次の楽しみを探すことになります。

刺激を増やせば増やすほど、
終わった後のつまらなさも大きくなっていきます。
楽しみを増やしていくだけでは、
心が満たされることはありません。

では、捉え方を変えたり、
つまらないのが当たり前だと受け入れたりすれば、
どうなのでしょうか?

捉え方を変えても諦めても解決しない理由

捉え方を変えても、当たり前だと受け入れても、
「つまらない」ことの解決にはなりません。

高杉晋作の句の下の句に「心なりけり」とあるように、
つまらないと感じる原因が、
外ではなく、自分の心にあるからです。
環境を変えてもつまらないのは、そのためです。

ですが、捉え方を変えるのは、
目の前の出来事への見方を変えることです。
小さな幸せに気づけば、その時は心が和みます。

ところが、心の奥でささやいている
「こんな毎日を重ねて、自分はどこへ行くのだろう」
という問いには、何も答えていません。
ですから、ふとした時に、
また同じつまらなさが顔を出します。

つまらないのが当たり前だと受け入れるのも、同じです。
口では「人生なんてこんなもの」と言いながら、
私たちの心は、少しも諦めていません。
「何か面白いことない?」
「最近、何か楽しいことあった?」
と、いつも何かを探しています。
心の底では、満たされることを求め続けています。

人は誰でも、何かに打ち込みたいと思っています。
「このために生まれてきたんだ」と、
心から納得できるものに、人生をかけたいと思っています。

ところが、それが見つからないので、
せめて、その日その日を楽しく過ごそうと、
暇つぶしをしたりして、
毎日を重ねていきます。

では、人生がつまらないと感じる本当の原因は、
一体何なのでしょうか?

人生がつまらない本当の原因

人生がつまらないと感じる本当の原因は、
何のために生きるのか、
人生の行き着く所が分からないことにあります。
その行き着く所を、人生の目的とも、
生きる意味ともいいます。

例えば、完成図のないジグソーパズルを渡されたとしたら、どうでしょうか。
手元には色々なピースがあって、
きれいな色のピースも、珍しい形のピースもあります。
ですが、完成図がないので、
自分が何を作っているのか分かりません。
どのピースを手に取っても、それがどこにはまるのか、
何の役に立つのかが分からないので、
どれだけあっても、心は満たされません。

私たちの人生も同じです。
仕事も、趣味も、旅行も、人との出会いも、
一つ一つは楽しいピースです。
ですが、人生全体が何のためにあるのか、
その完成図である目的が分からないので、
どれだけ楽しいことを重ねても、
心が行き着く所に行き着かないのです。

人生がつまらないのは、楽しいことが足りないからではありません。
行き着くゴールが分からないからです。

趣味や仕事、家族や友人のように、
毎日に張り合いを与えてくれるものを、生きがいといいます。
生きがいは大切なものですが、これで行き着いたという完成はありません。
楽しいのは一時的で、時が経てば色あせたり、
なくしてしまうこともあります。
人生の目的は、これで行き着いたという完成があるものです。

仏教では、人生には、
ただ1つの目的があると説かれています。
それが、人生の目的です。
その目的とは、私たちが果てしない過去からの迷いを離れて、
何があっても変わらない本当の幸せになることです。
それが、私たちが人間に生まれてきた目的なのです。

では、その目的を果たした人生は、
どのようなものなのでしょうか?

心が満たされる「詰まる」人生へ

人間に生まれてきた目的を果たした時、
「このために生まれてきたんだ、生まれてきてよかった」と、
心の底から満足できます。
心いっぱいが喜びに満ちる、
「詰まる」人生になるのです。

その時、毎日の仕事も、家族との時間も、ささやかな楽しみも、
一つ一つが生き生きと輝き出します。
新しい刺激を探し求めなくても、
捉え方を無理に変えなくても、
今日という一日が、かけがえのない一日になります。

それは、何があっても変わらない、未来永遠の幸せです。
しかもそれは、生きている今、
どんな人でもなれる幸せなのです。

では、その毎日が心から満たされる、
人間に生まれてきた目的とは、どのようなものなのか。
どうすれば、その目的を果たせるのか。

それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、今すぐ見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。