頑張っても報われない
「頑張っても報われない」
「これだけやったのに、努力が徒労に終わった」
時間を使った。
体力も、お金も、使えるものは何でも使った。
遊びに行く人を横目で見ながら、こちらは机に向かっていた。
それで、結果は出なかった……。
そういう時、一番先に浮かぶのは悔しさではありません。
あの時間は、何だったのだろう、という一言です。
悔しさなら、時間が経てば薄くなります。
ところがこの気持ちは、思い出すたびに戻ってきます。
虚しい努力は、繰り返されるのです。
頑張っても報われないのは、なぜなのでしょうか?
同じ1年が無駄にも宝にもなる
受験で第一志望に受かった人は、あとからこう言います。
「あの1年があったから、今がある」
同じ年に落ちた人は、同じ1年をこう言います。
「あの1年は何だったのか」
その1年の中身を並べてみると、そんなに違いません。
同じ時間に起きて、同じ参考書を開いて、同じ夜食を食べています。
辛さに至っては、落ちた人のほうが重かったかもしれません。
違うのは、その1年が終わってから出た結果だけです。
つまり、私たちが積み上げている努力は、
積み上げている最中には、まだ値打ちがついていません。
値打ちは、あとから来た結果が決めています。
これは、頑張る側からすると、かなり都合の悪い話です。
自分が今使っている時間が、宝になるのか、無駄になるのか、
それを決める権利を、自分が持っていないということだからです。
結果は、自分の頑張りだけでは決まりません。
同じテストを他に誰が受けに来たか。
当日、熱が出ないか。
出た問題が、得意なものかどうか。
どれも、こちらの手の届かないところにあります。
仕事でも同じです。
同じ企画書を出しても、上の人が代われば通り方が変わります。
同じ技術でも、景気がいい年と悪い年では、返ってくるものが違います。
自分で動かせるのは、机に向かう時間の長さくらいのものです。
動かせないところで結果が決まり、
その結果が、動かした分の値打ちを決めています。
頑張っても報われないという言葉は、大げさではありません。
私たちは報われるかどうか分からないまま、頑張っています。
頑張ることそのものがいいか悪いかについては、以下の記事で解説しています。
➾一生懸命頑張るのはいいこと?頑張る以上に大切なこと
では、みんな頑張っているのは同じだとして、
その結果、報われなかった場合、
他の人から何と言われるでしょうか。
世間でいわれる3つの答え
頑張っても報われないと打ち明けた時、返ってくる答えは、
大きく分けると3つあります。
まだ努力が足りないだけ
まずよくあるのが、これです。
報われないのは、まだ努力が足りていないからだ、
というものです。
確かに間違いないですし、
そう考えれば努力が徒労だったということにはならないのが良いところです。
ですが、努力が足りたかどうかは、いつ分かるのでしょうか。
「報われない」というのは、言い換えれば、
「結果が出ない」ということです。
だから報われたら、ということは、結果が出たら、努力が足りたことになります。
結果が出なければ、努力は足りていません。
これでは結果が出たのと努力が足りたのはイコールなので、
特に何も言っていないのと同じです。
言われたほうは、あとどのくらい努力すればいいのか分からないまま、
とりあえず今までより頑張ることになります。
それで報われなければ、また努力が足りなかったことになります。
努力が足りないと言っておけば、間違いではないですが、
言われたほうは、出口の分からない所を、
もう一周させられるだけです。
結果より過程に意味がある
次によくあるのが、
結果が出なくても、そこへ向かった時間に意味がある、
というものです。
慰めとしては大変有り難い言葉です。
ですが、もし本当にそう思えるなら、
結果が出た時と出なかった時で、同じ顔をしていられるはずです。
合格発表の日を思い出してみてください。
番号を見つけられた時と、見つけられなかった時では、
心がまるで違います。
過程は同じで、結果が違うだけなのに、です。
過程に意味があるという言葉は、間違ってはいません。
ただ、過程が意味を持つのは、結果が出た時、
結果が出なかった場合は、過程自体が楽しかった時です。
苦しい中、頑張ったのに何もならなかったら、
過程に意味があると言われても、虚しさは変わりません。
泣きたくなります。
結果が出ないのに苦しい努力のプロセスこそが、徒労なのです。
向いていなかった。場所を変えなさい
3つ目によくあるのは、「そこがあなたの場所ではなかった」というアドバイスです。
別の道なら報われる、というわけです。
これも、場所によって結果が変わるというのは、その通りです。
ですが1つ見落としていることがないでしょうか。
例えばある夜、1匹のネズミが、深い桶の中に落ちたとします。
跳んでも跳んでも、縁には届きません。
そこでネズミは、桶の側をかじって、外へ出ようとしました。
ところが板は厚く、かじってもかじっても、向こう側が見えてきません。
慌てたネズミは、場所を変えて、また同じようにかじり始めます。
そこも抜けないので、また場所を変えます。
こっちをかじり、あっちをかじり、桶の中をぐるぐる回って、
明け方近くに力が尽きて、息絶えました。
桶の側には、かじった跡がいくつも残っていました。
どれも、途中までは進んでいます。
ところが、外まで抜けた穴は、1つもありませんでした。
もし、最初にかじり始めた所を、そのままかじり続けていたら、
穴は開いていたかもしれません。
場所を変えなさいというアドバイスの通り、
手ごたえがないから変える。
変えた先でも手ごたえがないから、また変える。
その結果、報われなくなります。
場所を変えること自体が、報われない理由になっていくのです。
誰もこのネズミを笑うことはできません。
ネズミがかじっている途中では、
その先に外があるのか、板が厚くて無理なのか、分からないように、
私たちも、苦しくても努力を続けたら突破できるのか、
それとも場所を変えたほうが突き抜けられるのか、分からないからです。
では、努力が徒労に終わるかどうかの違いは、どこで分かれるのでしょうか。
一生分の値打ちが決まる日
ここまでで、1つ浮き彫りになってきたことがあります。
「報われた」と言えるのは、いつも終わってからだということです。
受験は、合格発表で終わります。
そこで結果が出るので、それまでのプロセスの意味が決まります。
一つ一つの仕事も、任期や契約で区切りが来て、
そこで意味が決まります。
ところが、人生には、その区切りがありません。
受かった大学を出て、就いた仕事が合わなかった人があります。
その人にとって、その大学に入って勉強した意味が、
もう一度ひっくり返っています。
あんな大学に入ったために、こんなひどい仕事に就くことになった、
と後悔することもあるかもしれません。
昇進した人も、その部署が数年でなくなれば、またやり直しです。
一度「報われた」と決まっても、次の結果が出るたびに、
それまでの努力の意味が書き換わっていきます。
ですから、一生分の苦労の値打ちが本当に決まるのは、
それ以上あとがなくなった時、つまり人生が終わる日です。
その日に「生まれてきてよかった」と言えるのなら、
それまでの苦労は、全部報われます。
言えないのなら、どれだけ結果を出してきても、
最後に
「自分は一体何のために頑張って生きてきたのか」
と後悔することになります。
これは不治の病にかかった場合、かなり高い確率で感じる後悔で、
人生の意味が分からない苦しみ、スピリチュアルペインといわれています。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
➾スピリチュアルペインとは?アセスメント・ケア・治療法をわかりやすく解説
失われた人生はもう返ってきません。
受験なら来年がありますが、もう明日はないのです。
一度きりの人生、最後に報われなかったでは済まされません。
それまでどんなに恵まれたとしても、大どんでん返しの悲劇です。
ましてや、それまでも努力が報われていなければ、目も当てられません。
人生はまさに徒労です。
では、最後まで報われず、徒労に終わる努力とは、どんな努力なのでしょうか。
報われる努力と報われない努力
お釈迦さまは、最後まで報われない努力について、こう説かれています。
譬えば、狗子を柱に繋ぐが如し。
彼の繋がり、断えざれば、長夜に柱を繞り、輪迴して転ず。
(漢文:譬,如狗子繋柱。彼繋,不断,長夜繞柱,輪迴而転)(出典:『雑阿含経』)
「狗子」とは、子犬のことです。
例えば子犬が柱に紐でつながれているようなものです。
紐で柱につながれていると、どんなに走っても、
柱の周りをぐるぐる回るだけです。
それは動いていないのではありません。
常に走り続けています。
子犬も前に進んでいる気になっています。
ですが、「輪廻」というのは、輪を回るということです。
長くて真っ暗な夜の間、丸い道をぐるぐる回り続けるばかりです。
これは果てしのない道です。
進んでいるようで、少しも進んでいないのです。
仏様の目からご覧になると、
私たちもこの子犬のようなものです。
私たちが一生をかけて求めているものは何でしょうか。
去年より収入が増えた。
去年より役職が上がった。
去年より家が広くなった。
努力した分だけ、確かに何らかの結果は出ています。
ところが、それを手に入れて、
これで人間に生まれた甲斐があったと思えたでしょうか。
思えていないのなら、また次のものを手に入れる努力が始まります。
そして頑張って頑張って、次の目標を手に入れようと努力します。
そして努力の甲斐あってか、また手に入ったとします。
それで「人生これ一つのために生きてきた」と思えたでしょうか?
思えなければ、また次の何かを求めて頑張り始めます。
このことを哲学者のショーペンハウアーは
主著の『意志と表象としての世界』に、こう言っています。
ショーペンハウアー
人生は振り子のように、苦痛と退屈との間を行きつ戻りつ揺れ動く。
(出典:ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)
苦労して目標と思っていた所にたどり着けば
「自分は達成した」という一時的満足はあります。
ですが、それも時間とともに薄れてしまい、またスタート地点に逆戻りです。
以前より何かしら手に入ったはずなのに、
手ごたえのなさは以前と同じなのです。
どうもあの子犬のように、同じところをぐるぐる回っているだけです。
そんな感覚を、私たちは「虚しい」と言っています。
虚しいというのは、心が弱っている合図ではありません。
この方向にゴールはないのではないか、と心が知らせている合図です。
頑張れば頑張るほど虚しくなるのは、
今まで色々と手に入れてきた人ほど、
この方向には何もなかったという手ごたえのなさを
はっきり知らされるからです。
努力が徒労に終わるのは、努力の量が足りないからではありません。
まして、才能や運のせいでもありません。
同じところをぐるぐる回っていたから、
報われたという満足が出てこなかったのです。
この子犬の例えなら、柱につながれている紐が切れた時、
同じ円周を回り続ける努力から解放されて、自由の身になれます。
努力が報われる、ということです。
掘ってきた穴は1つも無駄にならない
もし、何をやっても、何を手に入れても、
同じ円周を回り続けているとすれば、
どんなに頑張っても、努力は報われないまま終わることになります。
その現実を見抜かれたお釈迦さまは、
どんな人でも生きている時に到達できるゴールを説かれています。
それが仏教です。
そのゴールを知り、到達すれば、生きている今、
「人間に生まれてよかった」と大満足できます。
それには、才能も、運も、これまでの実績も要りません。
結果を出してきた人が近いのでも、
出せていない人が遠いのでもないのです。
そして、達成した時に初めて、
これまでの努力が、1つも無駄ではなかったと知らされます。
あの苦労があったなればこそ、
ここまで来ることができたのだと知らされます。
人生はそもそも苦しいものですが、
人生のゴールを知らされた人の苦しみは、必ず報われる苦しみです。
それを知らない人の努力は、果しなく悲惨なものとなります。
では、その報われるゴールとはどんなものなのか、
どうすればゴールに到達できるのか。
それには、あの子犬のたとえでいえば、
柱にしばりつけているものを知り、
それを断ち切らなければなりません。
それが努力を報われなくする苦しみ悩みの根本原因です。
その苦悩の根元については仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

