「現代人の仏教教養講座」

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生きる意味を、知ろう。

虚しさの正体

「虚しさの正体が知りたい」
「なぜ虚しいのか、そこが分からない」

対処法なら、もう一通り試したと思います。
好きなことをやってみる。
体を動かしてみる。
人に会ってみる。
旅行に行ってみる。
その間は、確かに紛れます。

ところが、帰ってきて、荷ほどきをして、
いつもの部屋に、いつものように座ると、
出かける前とまったく同じ場所に立っています。
何一つ進んでいません。

そうやって何度か繰り返すと、
知りたいことが変わってきます。
消し方ではなく、
これは一体、何なのか
正体さえ分かれば、まだ手の打ちようがあると思うからです。

虚しさとは、一体何なのでしょうか?

虚しさはいつ出てくるか

正体を知りたいのなら、
虚しさがどういう時に出てくるかを、
並べてみたら気づくことがあるのではないでしょうか。

世間では、虚しさは「足りないから起きる」と思われています。
何かが欠けているから、心に穴が空く。
だから、足せば充足する。
仕事を足し、趣味を足し、予定を足し、人を足す。
世の中の対処法は、ほとんどこのタイプです。

ところが、虚しさが出てくる場面を並べてみると、どうも合いません。

何か月も迷って、やっと買ったものが届いた日。
箱を開けて、包みを外して、設定まで済ませて、
部屋に置いて、2、3歩下がって眺めた、その夜です。
嬉しくないわけではありません。
それなのに、思っていた満足感に届いていません。

引っ越しの片づけが全部終わって、
段ボールをたたんで、玄関を掃いた日の夕方も同じです。
散らかっている間は、片づけばすっきりすると思っていました。
片づいてみると、すっきりした部屋の真ん中で、手持ちがなくなります。

人に囲まれて、よく笑って、
また会おうと言って別れた帰り道の、
駅から家までの10分間もそうです。
さっきまで楽しかったのは、嘘ではありません。
それでも、鍵を開ける頃には、虚しさが訪れてきます。

並べてみると、はっきり気づくことがあります。
どれも、足りていない時ではありません。
むしろ、足りている時に出てきています。

どれも自分で選んで、自分で手に入れたものです。
人にだまされたのでも、ハズレを引いたのでもありません。
欲しかったものが、欲しかった通りに手に入って、
虚しさが起きてきています。
選び方が悪かった、というわけではありません。

足りないから虚しいのなら、足せば消えるはずです。
ところが実際には、足し終わった直後に、一番濃く出てきます。
ということは、足すという対処は、はじめから的を外していたということです。
これまで効かなかったのは、やり方が足りなかったからではありません。

では、虚しさとは、何なのでしょうか。

虚しさは感情ではありません

虚しさは、悲しみや怒りや寂しさと同じ仲間だと思われています。
心の中に起きるものですから、無理もありません。
ところが、かなり違う所があります。
それは、大きく分けると3つあります。

きっかけがない

悲しみには、必ずきっかけとなる出来事があります。
大切な誰かを亡くした。
別れた。
落とされた。
指を折って数えられます。

怒りもそうです。
割り込まれた。
約束を破られた。
意地悪された。
必ず相手と場面があります。

ところが虚しさは、何も起きていない日に来ます。
それどころか、いいことがあった日に来ます。
どうしてこんな気持ちになるのか」と探しても、
指を折って数えられるものが出てきません。
虚しさには、これというきっかけがないのです。

時間が経っても薄まらない

悲しみは、時間が薄めてくれます。
大切な人を亡くした直後は、悲しみがこみ上げてきて、
涙なしで写真を見ることもできません。
ところが1年経つと、涙なしでも見られるようになります。
3年経つと、思い出話ができるようになります。
出来事は変わっていないのに、心のほうが変わります。

一方、虚しさは、薄まりません。
10年前に感じた虚しさと、先週感じた虚しさは、同じ濃さです。
むしろ、年を取るほど濃くなったという人のほうが多いのではないでしょうか?

悲しみが薄まるのは、きっかけとなった出来事が
だんだん遠い過去になっていくからです。
虚しさは、過去になりません。
いつ出てきても、現在形です。
時間が解決してくれないということは、
虚しさは時間によって変わるものではない、ということです。

人に話しても軽くならない

悲しいことは、人に話すと軽くなります。
聞いてもらうだけで、心が軽くなって、
半分になったような気がします。

虚しさは、そうはなりません。
話しているうちに、言葉が空回りしていくのが自分で分かります。
相手も困った顔をします。
そして話し終わった後のほうが、話す前より虚しくなっていることさえあります。

悲しみを話すことで軽くなるのは、
中身を少しでも共感してもらえるからです。
虚しさは、共感されにくいから、軽くならないのです。

この3つから分かることが、1つあります。

虚しさは、感情ではありません。
心が下している判定であり、意味づけです。

感情は、出来事への反応です。
起きたことに対して、心が動きます。
判定は違います。
目の前のものの中身を見て、
これでは足りない
と値踏みしている働きです。

判定なのであれば、対処が効かなかった理由も分かります。
気分を変えても、意味づけは変わりません。
楽しいことをしても虚しいのは、楽しさが足りないからではなく、
楽しんでいる間も意味づけはそのままだからです。

では、どのような意味づけが判定されているのでしょうか。

「本物ではない」と判定している

虚しいという字を見ると、その中身が書いてあります。
」は、中が空っぽ、という意味です。
中身を見て、中身がない、と言っているわけです。

言い換えると、心はこう判定しています。
これは、意味がない。
本物ではない。

ですが、本物を見たことがないのに、
なぜ「本物ではない」と分かるのでしょうか?

偽物だと分かるのは、本物を知っている時です。
本物を一度も見たことのない人に、偽物は見分けられません。
毎日、本物を手にしている人だけが、
違うものが混ざった時に、手が止まります。

ところが私たちは、本当の満足というものを、まだ一度も手にしていません。
それなのに、目の前のものに対して、毎回きちんと不合格を出しています。
合格の見本を持っていないのに、採点だけはできている。
ここがおかしいところです。

舌のほうが分かりやすいかもしれません。
出汁をとらずに、粉末だけで作ったお吸い物を飲むと、
料理をしない人でも「何か足りない」と言います。
何が足りないのかは説明できません。
昆布の名前も、かつお節の削り方も知りません。
それでも、足りないことだけは分かります。
舌は、言葉より先に知っているからです。

虚しさも、これと同じです。
何が足りないのかは言えません。
それでも「これじゃない」とだけは言えます。
つまり私たちの心は、
本物でないことだけは分かるということです。

ですから、虚しいと感じるのは、
心が間違った動き方をしているのではありません。
正しく働いているから、満たされないと感じています。

虚しさを感じない人が、幸せなのでもありません。
判定が出ていないのではなく、
判定の出る場所まで、まだ到達していないだけです。

ちなみに、虚しい人生になる理由と対処法については、
以下の記事で解説しています。
「虚しい気持ち」「虚しい人生」になる理由と対処法

ではその判定は、本当に正しいのでしょうか?
考え過ぎなだけ、ということはないのでしょうか。

お釈迦さまはその判定を正しいと説かれた

虚しいと打ち明けると、世間はたいてい否定します。
考え過ぎだ。
ぜいたくな悩みだ。
気にし過ぎだ。
どれも、あなたの心が狂っている、という意味です。

仏教は逆です。

お釈迦さまは、お弟子の須菩提しゅぼだいに向かって、
金剛般若経こんごうはんにゃきょう』にこう説かれています。

凡そる所のそうは、皆これ虚妄こもうなり。
(漢文:凡所有相,皆是虚妄)

」とは、形にあらわれたものです。
目に見え、手に取れて、数えられるもの。
お金も、家も、肩書きも、体も、ここに入ります。

虚妄こもう」とは、中身がなく、あてにならない、という意味です。
形にあらわれているものは、1つ残らずあてにならない
と説かれています。

あなたがいつも感じていたことは、
気のせいでも、考え過ぎでもありません。
2600年前からすでに明らかなことです。

ただ、「どうせ何もかも虚しいのだ」という程度では、
まだゴールには到達していません。
問題点が分かっただけです。
だから仏教は「すべて虚しい」で終わりません。
虚しいものを虚しいと現実を直視した上で、
虚しくないものが1つあると説かれています。
仏教は虚無主義ではないからです。

では、虚しさの正体とは何なのでしょうか。

虚しさとは、やったことに意味がないと思える感覚です。
なぜ意味がないと感じるのかというと、
あなたは、それを手に入れたからといって、
人間に生まれてよかった
といえるものではないことを心の奥底で知っているからです。

言葉をかえれば、「人生これ1つ果たせば満足」というものではない
といっても同じです。
やがて必ず命が終わる時が来ますが、
それまでに何をすれば満足できるのか。

やってもやらなくてもいいことは虚しくなります。
逆に、命と引き換えにしても果たしたいことを成し遂げてこそ、
人間に生まれてよかったと大満足できるのです。

何をやっても、何を手に入れても虚しさがにじみ出てくるのは、
意味がないからです。
虚しさが、足りない時ではなく、
むしろ足りている時にこそ出てくるのは、
そのためだったのです。

では、なぜ私たちは、本物でないものばかり求めているのでしょうか。

それは本物を知らないからです。
そして、なぜ知らないのかというと、
心が暗いからです。

この心の暗さについて、詳しくは以下の記事をご覧ください。
心の闇とは?2つの種類|深い心の闇の診断方法と一瞬で消す方法

では、仏教で説かれる虚しくないものとは、何なのでしょうか。

虚しくないものが1つある

世間の幸せは、どれも形にあらわれています。
給料の額、
住んでいる家、
健康診断の数字、
子供の進学先。
どれも数えられて、並べられて、誰かとの間に順番がつきます。

仏教では、このような比べて喜ぶ幸せを「相対の幸福」といわれます。
比べる相手が変われば、上にも下にもなります。
先ほどの「」ですから、いつか崩れます。
心が毎回、意味がなく虚しいと感じていたものです。

ところが仏教には、
虚妄でないものが、たった1つ説かれています。
比べて喜ぶ幸せではなく、
一人居て喜べる「絶対の幸福」です。
崩れることも、さめることもない、
死が来ても崩れない、
絶対変わらない幸せです。

お金のある人が有利なのでも、ない人が不利なのでもありません。
どんな人でも、生きている時に、この身になれるのです。

ではそうなった時、虚しさはどうなるのでしょうか。

虚しさは、消そうとして消えるものではありませんでした。
変わらない幸せになった時に消えるものだったのです。

これじゃない」と言い続けてきた心が、
初めて「人生これ1つだった」と満足できます。
そして、その時になって知らされます。
虚しさは、あなたの邪魔をしていたのではありません。
本物でないものの前で、毎回、
これではない、これではない、と知らせ続けていたのです。

では、どうすれば心の虚しさが晴れて、絶対の幸福になれるのか。
それには、私たちの心を暗くしている、
苦しみ悩みの根本原因を知らなければなりません。

それはどんな心で、どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。