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生きる意味を、知ろう。

映画・生きる

映画・生きるポスター

映画「生きる」は1952年に公開された黒澤明監督の映画です。
2022年にはイギリスでもリメイク映画が制作されるなど、
日本だけでなく、世界的に評価された有名な作品です。

この映画では、どこにでもいるような、まじめな公務員の渡辺課長が、
末期ガンの余命宣告を受け、死の恐怖や絶望を感じながら、自分の人生と向き合います。
そしてそれは、余命わずかという人だけでなく、
まだ余命が宣告されていない人でも、
すべての人が生きていく上で重要なことを考えさせられます。
一体どんな内容で、何をテーマにしているのでしょうか?
また、映画を10倍面白く有益に見られる3つの視点も提供していきます。
(ネタバレがありますので、ご注意ください)

映画・生きるのあらすじ

主人公は、市役所に勤める定年を控えた男性、渡辺勘治。
自分の命があとわずかだと知った主人公が絶望を味わいながらも、
自分の生きる意味を考え、最後は懸命に自分自身の命を燃やす物語です。

参考に、黒澤明直筆の台本が、龍谷大学古典籍デジタルアーカイブ研究センターから公開されています。
映画「生きる」台本
ですが2時間23分の大作ですので、まずは、あらすじをみてみましょう。

1. 無気力な日々

市役所の市民課長をしている渡辺勘治は、30年間無欠勤で真面目な性格。
まじめに努めた甲斐あってか、課長という役職なので、
毎日職場の一室で部下から上がってくる大量の決裁文書にハンコを押すことが仕事でした。
今ではもう仕事への情熱もどこへやら。
市役所の窓口である市民課には、頻繁に市民の要望が上がってきますが、
何かといっては他の課へ丸投げし、
市役内でたらい回しという状態が続いています。
今日も地域のご婦人がたが、公園建設の要望を持ってきたのですが、
他の課に丸投げすると、市役所内の十数課をたらい回しにされ、
最終的にまた市民課に戻ってきたので、
2週目の丸投げをするのでした。
ご婦人方は腹を立てます。

2. 余命を知る

ある日、体調不良で病院を受診すると、軽い胃潰瘍とのこと。
ところがたまたま同じ診療科を受診していた人が、
胃ガンなのに胃潰瘍とだまされて死んでいく人の自覚症状を詳しく教えてくれ、
それが全部に自分にあてはまっていることに驚愕します。
自分自身が胃がんで、余命わずかだということを知ることになります。

暗い気持ちで帰宅し、電気もつけずに真っ暗闇の中で、
たった一人の家族である息子に病気のことを話そうとします。
後から帰宅した一人息子は、お父さんが帰っていることに気づかず、
奥さんと2人だけの新しい家を建てる話を楽しそうにしています。
その上、マイホームの建築資金として、父親の退職金を当てにしているのでした。
とても自分の病気を打ち明ける空気ではありません。
隣の部屋の電気をつけるとお父さんがいて、今の話を全部聞かれたことに気づいた息子は、
気まずい雰囲気になります。

3. 絶望と孤独

妻が早くに亡くなり、男手一つで、何よりも最優先で育ててきた息子。
そんなあてにし、頼りにしていた息子に話すこともできず、
期待を裏切られたことで失意の元に苦悩します。

残りわずかの人生、何をすればいいのでしょうか?
人間に生まれてよかったと思えるのでしょうか?

それはあのだくだくとルーティンワークをし続ける仕事ではない、
と思った渡辺課長は、今まで貯めてきた貯金を引き出して、居酒屋へ向かいます。
そこで偶然出会った遊びに詳しい男と仲良くなり、
今まで行ったこともないような夜の繁華街のお店を次々と巡り、散財しました。
ですが、どんなにお金を使って、どんな娯楽を経験しても、心から楽しむことはできません。

家では、市役所から出勤していないと連絡を受けた息子たちが大騒ぎ。
貯金が引き出してあることも突き止め、父親の行動を怪しみます。

4. 職場の部下の女性に会う

無断欠勤を続けていたある日、同じ市民課の新人の女性・小田切さんと
街でばったり出会いました。
彼女は「市役所での仕事にウンザリしているので、転職するため書類に課長のハンコを押してほしい」と言います。
渡辺課長のハンコがないと、市役所を辞められないのです。
彼女と一緒に自分の自宅へ行き、希望通りに書類を準備するのですが、
この様子に、若い女性を自宅に連れ込んで何をしているのかと、
息子とちがコソコソ探りを入れてくるのでした。

そんなことには全く気づかず、小田切さんと喫茶店で話をしたり、
映画を観たりして一緒の時間を過ごします。
彼女の生き生きとした様子に元気をもらっていました。
彼女がおもちゃの製作工場に転職してからも、何度か二人で会うようになります。

ですが突然、小田切さんから、
「二人で度々会うのはおかしい」
と言われてしまいます。
渡辺課長は、自分の余命があとわずかなことを伝え、
「どうしたらそんな風に輝いて生きられるのか」
と真剣な面持ちで尋ねます。

おもちゃ作り工場に転職した小田切さんから
「課長さんも、何か作ってみたら?」
と言われ、自分にもまだできることがあると気づいたのでした。

5. 遺されたもの

やがて時が経ち、渡辺課長は胃ガンで亡くなりました。
そのお通夜の席で、市役所からの参列者たちが
口々に公園建設事業での渡辺課長の様子を話します。

欠勤の後、職場に復帰した渡辺課長は、
以前、地域のご婦人方から要望が上がって、たらい回しにしていた公園建設の件に取り掛かったのです。
雨の中、課員を引き連れて現場へと赴き、自分の目で現状を確認するのでした。

汚水を処理した上で公園を作るには、複数の部署と調整が必要で、
一つ一つの部署を回り、協力を求めますが、
なかなか思うようには進みません。
他の課の課長に「書類を置いておいてくれ」と言われれば、
ハンコを押してもらうまでその場で何時間でも待つほどです。

あまりにも熱心に調整して回ったため、
その筋の者に、公園建設から手を引くようにと
脅されることもありました。
それでも渡辺課長は、体調の悪化していく中、
決して屈することなく、不屈の精神で貫き通します。
そして、大変な苦労の末、ついに小さな公園が完成したのです。

6.命を燃やす

お通夜には、公園建設の要望を上げていた
公園の周辺に住む女性たちも訪れ、
渡辺課長の死を心から悲しんでいました。
これによって、渡辺課長の功績がどれほどのものかがよく分かります。

映画・生きる一場面

回想が一通り終わった頃、お通夜の席に一人の巡査が訪ねてきます。
その人は、渡辺課長が亡くなった雪の夜、完成した公園のブランコに乗りながら
ゴンドラの唄」を歌っているのを見かけた人でした。
翌朝その公園で亡くなっていたことを知り、やって来たのです。
その人が言うには、
声をかけようと思ったけれど、あまりに楽しそうだったので
 声をかけずにその場を去った
」とのこと。

誰かの役に立つこと、人の喜ぶことをすることは
それだけ、やりがいもあり、大きな達成感が得られるものなのですね。

翌日の市役所では、お通夜に参列していた部下の一人が渡辺のポストに就き、
いったんは前課長のように、精力的に仕事をしていこうと決意しますが、
翌日にはいつも通りの責任逃れの日常に逆戻り。
淡々とルーティンワークの業務を無表情でこなすようになります。
一方、新しい公園では子どもたちが元気よく走り回り、
そこにいる皆が笑顔で過ごしているのでした。

この映画のテーマは?

この映画は
人間が死の予告を受けたとしたら、
 その人は残された時間をどのように生きていくだろう?

というナレーションから始まります。
映画の中で主人公が歌っている「ゴンドラの唄」は、
いのち短し、恋せよ少女おとめ……
という歌い出しの曲で、主人公がもの凄い低音で歌うため、
一度聞いたら忘れられないほどのインパクトがあります。

わが子を立派に育てるために、遊びもせず、再婚もせずに、
一生懸命生きてきた。
それなのに、人生の終わりを迎えようとしている時、一番寄り添ってほしい時に
当の息子は、父親の自分のことなど、全く考えてもいなかった。
人生の最後に、自分が人生とひきかえに育て、
最も大切にしていた人から裏切られてしまったのです。

言いようのない孤独の中で、
自分に残された時間を何に使えば満足できるのか、と考えた時に、
主人公が思いついたのが、市民から要望のあった公園建設事業でした。
そうやって人の役に立つことで、人生の最後に命を燃やしたんですね。

主人公がこの結論に至るまで、色々と紆余曲折がありました。
もうすぐ死んでいかなければならない、
でも、このままでは死ねない、という主人公の思いが伝わってきます。

死を前にして、それだけ冷静に判断し、
調整が難しい公共事業を成し遂げたというのは素晴らしいことです。
この映画の結論は、単に生きるために周りから言われた仕事をこなすのでもなく、
子供を育てるのでもなく、
自ら主体的に、人に喜ばれることをするのが「生きる意味」だ、というものでしょう。
それは、すばらしい生き方の一つです。

そして、この話の流れからは、ゲーテの『ファウスト』が思い出されます。
主人公のファウストが、悪魔メフィストフェレスの力で
この世の快楽の限りを尽くしますが満足できず、
最後は公共事業をして死ぬという内容です。
ですが、実はファウストは公共事業でも救われないのでした。

現実の世界では、公共のため、周りの人のために頑張っている人でも、
人間に生まれてよかったと思えないことがあります。
例えば、貧しい人のためにたくさんの施設を運営して、
ノーベル平和賞まで受賞したマザー・テレサでも、こう言っています。

私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。
内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です。

マザー・テレサは21の時にはインドに渡り、
渡辺課長よりもずっと早い40才の時には、慈善活動を始めています。
30年、40年と慈善活動に頑張りましたが、
本人としては幸せを感じられませんでした。

公園よりもずっと長い間、世の中に残る科学的成果や芸術作品を作り上げた人たちでも、
幸せは感じられなかったと言い残している人たちはたくさんいます。
生きる意味は自己実現?偉業を成し遂げた人々が見た世界

この映画のテーマは「生きる」ということの意味であり、
それは1952年の日本でも、2022年のイギリスでも大切なことです。
いつの時代、どこの国でも重要な、人類にとって普遍的なテーマなのです。

映画・生きるから学べる3つの視点

映画「生きる」はヒット映画ながらシリアスな内容で、
時代を超えて人生について考えさせられることが多々あります。
それらは同時並行で進んでいきますが、注目すると映画が10倍面白く、
有益な視点を提供する重要ポイントが3つあります。

人生の寂しさ・孤独

映画「生きる」から学べる1つ目は、人生の寂しさと孤独です。

渡辺課長が自分の胃ガンを知り、余命いくばくもないと知りますが、
たった一人の家族である、子供に言うこともできませんでした。
普通、病気にかかれば、まず頼りにするのは、愛する家族です。
心配して、看病してくれるのではないだろうかとあてにします。

ところが、一人で懸命に育ててきた息子は、親を捨てて出ていく相談をしているのです。
しかも父親の退職金で新居を建てて。
がっかりして、病気のことを言い出せなくなりました。

今まで苦労して育てた思い出が走馬灯のように脳裏に浮かびます。
妻が死んだ後、再婚の話もありましたが、
子供のためにと断って、一心に働いてきました。
死んだ妻の亡骸を運ぶ霊柩車を息子と見守ったこともありました。
息子が野球で活躍する姿を見守ったこともありました。
息子が病気になり、手術室へ運ばれていく時に励ましたこともありました。
駅のプラットフォームで、たくさんの人に旗を振られながら出征していく姿を、
何も言えずに見送ったこともありました。

ですが、せっかく無事に帰ってきたのに、
嫁をもらうと息子の心は親から離れてしまいました。
一体何のために頑張って育ててきたのでしょうか。
胸の内の苦しみを誰にも言えず、渡辺課長は布団の中でうめくように泣きました。
回想中、苦しそうに子供の名前を
みつお……みつお……」と連呼するシーンはド迫力です。

このように、人生は寂しいものだと仏教では教えられています。
どんなに科学が新進歩しても、医学が発達しても、人生が寂しいことは変わりません。
なぜかというと、お釈迦様はその理由を
大無量寿経』にこう教えられています。

独生独死どくしょうどくし 独去独来どっこどくらい

独りで生まれ、独りで死んで行く。
独りで来て、独りで去って行く。
初めから終わりまで独りぼっちで孤独なんだ、ということです。
だから寂しいのです。

たとえ家族や友人がいても、それは肉体の連れであって、魂の連れではありません。
独り来て独り去る、独り生まれ独り死んでゆくといわれているのは、魂のことです。
どんなに親しい間柄でも、どうしても言えない心があります。
誰にも言えない秘密の蔵を持っています。
その扉を開くことは誰にもできません。
死んでも言えない心を持っています。
それで人生は孤独なのです。

臨終に誰もが問われること

映画「生きる」から学べることの2つ目は、臨終に誰もが直面する問いです。

人間は、元気な時は、やがて自分が死んでいくことなどすっかり忘れて生きていますが、
いよいよ自分が死んでいくことを自覚した時、自分の人生を問いなおさずにはいられなくなるのです。
これを終末期医療では、スピリチュアルペインともいいます。

今まで自分が生きがいにしてきたことが光を失うからです。
仕事を第一に生きてきた人も、これ以上仕事をしてどうするのかと思います。
残りわずかな命を仕事と引き換えにするのでしょうか。
また渡辺課長の場合は、家族にも裏切られました。
もはや必死でかき集めたお金があっても意味がありません。
今まで貯めてきたお金を使って快楽を追求してみましたが、
虚しいだけでした。
自分の人生、何だったのだろうと思います。

そんなスピリチュアルペインを、お釈迦様は、『大無量寿経』に、こう説かれています。

大命だいみょうまさに終らんとして悔懼けくこもごも至る。
(漢文:大命将終悔懼交至)

大命だいみょうまさに終らんとして」とは、自分の命がいよいよ終わろうとする時に、ということで、臨終に、ということです。
悔懼けく」とは
」とは、これまでの人生に対する後悔
」とは、死んだらどうなるか分からない、未来に対する恐れということです。
そんな後悔と恐れが、臨終に代わる代わる起きてくる、ということです。

自分が今まで求めてきたものは、いわば命と引き換えにしたものです。
お金を貯めた人は、命と引き換えにお金を貯めたのです。
それは命と引き換えにするほど価値あるものだったのでしょうか?

万能の天才で、ダビデ像など、あれだけ優れた芸術作品を残したミケランジェロでも、
こう言って後悔しています。

いまやわたしは知った、芸術を偶像とも君主ともみなしたあの迷妄の情熱がいかに誤っていたかを。
人間にとってその欲望がいかに災厄の源泉であるかを。

このスピリチュアルペインについては、小さな公園を作ったくらいでは満たされません。
臨終に、自分の人生の意味が突きつけられてくるのです。
そしてその答えが、本当の生きる意味です。
これはなるべく早くハッキリさせなければなりません。

生きる目的と手段

映画「生きる」から学べる3つ目のことは、生きる目的と手段です。

生きる意味というのは、生きる目的と言っても同じです。
その目的を果たすために、手段があります。
目的がないのに、手段だけあっても、それは意味がありません。
目的地が定まっていないのに、そこまでどうやって行くかという手段を問題にすることがないようなものです。
目的があってこその手段です。

人生で言えば、手段にあたるのは「どう生きるのか」という生き方です。
具体的には、公園というのは、子供たちが遊んだり、
仕事に疲れた人が息抜きに散歩したり、
生きるためにあるので、生きる手段です。
生きる目的ではありません。
慈善活動も、貧しい人を助けたり、病にかかっている人に医療を施し、
助け合うのは生きるためであって、生きる手段です。
生きる目的ではありません。

何のために生きるのか」という本当の生きる目的が分からず、
どう生きるかという生きる手段ばかり考えているから、
何をやっても、何を手に入れても、心からの安心も満足もないのだ、
と仏教では教えられています。
本当の生きる意味が分からないから、心からの幸せを感じられないのです。
それをお釈迦様は、「有無同然」と説かれています。

田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、宅なければ、また憂いて、宅あらんことを欲す。
田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。
牛馬・六畜・奴碑・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。
有無同じく然り。

(漢文:無田亦憂欲有田 無宅亦憂欲有宅 有田憂田有宅憂宅 牛馬六畜奴婢錢財衣食什物復共憂之 有無同然)

土地がなければ、土地があれば幸せになれるのに、と思って土地を欲しがり、
マイホームがなければ、マイホームがあれば幸せになれるのに、と思ってマイホームを欲しがる。
一生懸命苦労して土地を手に入れると、今度は予想外の出費があったり、
隣に不愉快な建物が建てられたり、色々問題が起きてきます。
30年ローンでマイホームを購入すると、すぐに老朽化が始まり、
隣の人とトラブルが起きたり、シロアリが心配になったり、急に転勤が決まったり、
マイホームがない時には起きようがなかった問題が色々と起きてきます。
それ以外にも、ペットや家畜、お手伝いさんやお金、衣食住など、みんな同じである。
あってもなくても心からの安心も満足もないことには変わりがないのだ、
ということです。

このような安心も満足もないものは、本当の生きる目的ではありません。
生きる手段なのです。
本当の生きる目的を知らずに、生きる手段ばかりを求めているから、
どんなに頑張っても、心からの安心も満足もないのです。

逆に、本当の生きる目的がハッキリ分かり、それに向かって生きてこそ、
それを達成するための生き方がハッキリしてくるのです。
そして、それを達成した時に、「人間に生まれてよかった」と
心から大満足できるのです。

生きることの意味は?

では、結局この映画のテーマである「生きる意味」は何なのでしょうか。
そしてこの映画で描かれている、生まれてから死ぬまで一人ぼっちで孤独な人生は、
どうすれば心から分かってもらえるのでしょうか。
また、何をすれば、臨終にも「人間に生まれてよかった」と大満足できるのでしょうか。
生きる手段ではなく、本当の生きる目的とは何なのでしょうか?

お釈迦様は、これらの問題が一挙に解決される、
本当の生きる目的、
生きる意味一つを教えられています。

その本当の生きる目的は何なのか、
どうすれば、その目的を達成できるのかということは、仏教の真髄ですので
電子書籍とメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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