どうせ死ぬのに生きる意味はあるのか
「どうせ死ぬのに、なぜ生きるのだろう」
「最後に全部なくなるなら、頑張る意味がないのではないか」
ふとした時に、そう思われたのではないでしょうか。
周りの人に言えば、たいてい怪訝な顔をされます。
「どうしたの、疲れているんじゃない?」
「そんなこと考えても仕方ないよ」
そう言われて、話すのをやめてしまわれたかもしれません。
ですが、あなたの「どうせ死ぬのに」というのは全く正しいことです。
間違っているのは、そこではありません。
そして仏教は、この前提をやわらげたり、ごまかしたりはしません。
むしろ、あなたと全く同じことを、はじめに説かれているのです。
ではなぜ「どうせ死ぬ」のが正しいのでしょうか?
そして仏教では、その先に何が説かれているのでしょうか。
「どうせ死ぬ」という前提は正しい
まず、なぜあなたが気づかれた「どうせ死ぬ」というのは正しいのでしょうか。
人生は、人それぞれ違います。
まったく同じ人生を歩む人は、誰一人ありません。
時代によっても、国によっても違います。
ところが、いろいろな人生を見比べていくと、
誰にも共通するパターンが浮かび上がってきます。
一休が詠んだ、人生の共通パターン
一休世の中の 娘が嫁と 花咲いて
嬶としぼんで 婆と散りゆく
(一休)
女性の一生で一番よい時期は、娘時代です。
だから「娘」という字は、女偏に「良い」と書きます。
娘が結婚すると、お嫁さんになります。
お嫁さんは、子供が生まれるとお母さんになります。
お母さんは、孫ができるとおばあさんになります。
いつまでも娘のままではいられません。
おばあさんから娘に逆戻りすることもできません。
一方通行に、どんどん進んでいきます。
しかも、時間の流れる速さは、年を取るほど速く感じられます。
若い頃の1年と、今の1年とでは、体感がまるで違うのではないでしょうか。
そして一休が「婆と散りゆく」と詠んだのは、
最後は散っていく、つまり死んでいくということです。
門松は冥土の旅の一里塚
一休は、この人生のもう一つの特徴を、こうも詠んでいます。
一休門松は 冥土の旅の 一里塚
(一休)
「一里塚」とは、昔、街道沿いに一里(約4キロ)ごとに置かれた目印です。
今でいえば、道路脇にある距離の標識にあたります。
1日生きたということは、1日、死に近づいたということです。
ですから生きるということは、そのまま死へ向かう旅路なのです。
お正月に門松が立ち、1つ年を取ったということは、
1年、死に近づいたということになります。
毎年の元日は、残りが10年、9年、8年……と減っていく、
カウントダウンの表示が1つ進んだようなものです。
それを人は「おめでとう」と言い合っています。
一休が皮肉を込めて詠んだのは、そこなのでしょう。
いかがでしょうか。
「どうせ死ぬ」という、あなたの見解は間違っていません。
むしろ、何百年も前から言われ続けてきた、確かな事実なのです。
世間は「どうせ死ぬ」を見ないようにしている
では、なぜこの話をすると、変な顔をされるのでしょうか。
「考えても仕方ない」と言われる理由
「そんなこと考えても仕方ないよ」
そう言われた時、相手はあなたを否定しているようで、
実は自分がその問いから逃げているのです。
考えても仕方がない、のではありません。
考えると困るから、考えないことにしているだけです。
子供の学費がかかる。
仕事も忙しい。
たまには旅行にも行きたい。
そうやって理由をつけて、この問いを先へ先へと押しやります。
そして、押しやったまま死んでいく。
それが、多くの人の一生の姿ではないでしょうか。
病気は心配するのに、死は考えない
ところが、そこにおかしなことがあります。
私たちは、健康にはとても気を遣います。
何を食べれば病気にならないか、
どんな運動をすればよいか。
健康診断の数値に一喜一憂します。
ところが、風邪だと言われても驚かないのに、
悪性の腫瘍があると言われると大騒ぎになります。
なぜでしょうか。
その先に死があるからです。
災害が怖い、事故が怖い、老後が不安。
これらもみな、根底に死があるから怖いのです。
ドイツの哲学者ティリッヒは、
「人間は死そのものと真正面から向き合い続けることには耐えられない」
と言っています。
つまり私たちは、死が怖いからこそ、死のかわりに病気や災害と闘っているわけです。
本丸を避けて、外堀ばかりを気にしている。
ですから「どうせ死ぬのに」と口にできる人は、
みんなが目を逸らしていることを、まっすぐ見ているのです。
死ぬ時に総崩れになるもの
では、死をまっすぐ見ると、何が見えてくるでしょうか。
お金や実績が意味を失う
私たちは、いつまでも生きていられる自分を前提にして、
あれをしたい、これを手に入れたいと考えています。
ですが、明日の命は誰にも保証されていません。
土台が崩れれば、その上に建てたものは総崩れになります。
お金を貯めた、
こんな実績を積み上げた、
これだけのものを作った。
目に見えるものも、目に見えないものも、
死んでいく時には、1つも持っていくことができない。
枕元にお金を積まれても、意味がありません。
人のために尽くしたことさえ
そう言われると、
「お金は分かるが、人のために尽くしたことは残るのではないか」
と思われるかもしれません。
世のため人のために生きる。
とても高尚なことです。
ですが、それも死んでいく自分にとっては、意味がなくなってしまいます。
なぜでしょうか。
考えてみてください。
たった一人きりの無人島で、あなたは努力を続けられるでしょうか。
誰も見ていない、
誰も褒めてくれない、
誰にも伝わらない。
そこで何かを頑張ることに、意味を見出せますか?
「いつかこの島を見つけた人が評価してくれるかもしれない」
と思えば頑張れるかもしれません。
ですがそれも、生きている誰かに届くことを前提にしています。
私たちのしていることは、すべて
「自分が生きている」
「明日も生きている」という前提の上に成り立っています。
生きていればこそ、感謝されたり、手応えを感じたりできます。
ところが死ぬ時には、その前提そのものがなくなります。
そして、ひとりぼっちで、そこへ突き進んでいかなければなりません。
これでは、死ぬために生きていることになってしまいます。
死ぬ時に総崩れなら、苦しむために生きる人生です。
「生きる意味は自分で見つけよ」が効かない理由
こうした話をすると、よくこう言われます。
「生きる意味なんて、自分で見つけるものだよ」
ですがこの言葉は、真剣に考えている人にはまったく効きません。
確かに、スポーツでも仕事でも、熱中できるものがあれば、
「これが自分の生きる意味だ」という充実感は味わえます。
ただしそれは、死の影を忘れていられる間だけのことです。
「あなたは、やがて死ぬんだよ」
そのささやきが聞こえてくると、
どれだけ望んだものを手に入れていても、根深い悩みが頭をもたげます。
「夢を実現したのに、なぜか虚しい」
「幸せなはずなのに、どこかに悲しみが混じる」
「心から満足できるものは、ないのだろうか」
こういう疑問を抱いている人が「生きる意味は自分で見つけなさい」と言われても、
突き放されるだけです。
「生きる意味は人それぞれ」という主張は、
死の問題を初めから計算に入れていません。
ですから、人生の悩みを根本から解決する力を持たないのです。
「どうせ死ぬ」から「意味がない」は導けるか
では、どうせ死ぬなら、生きる意味はないのでしょうか。
あなたの考えを、2つに分けてみましょう。
1つ、どうせ死ぬ。
2つ、だから生きる意味などない。
1つ目は、これまで見てきたとおり正しい事実です。
誰もがどうせ死にます。
ですが、1つ目が正しいからといって、2つ目まで正しいとは限りません。
なぜなら、1つ目から2つ目へ進むためには、
言葉になっていない、もう1つの前提がいるからです。
それは、こういうものです。
「死ねば、すべて終わりだ」
これがあってはじめて、「どうせ死ぬ」は「だから意味がない」になります。
ところが、この前提のほうは、どこで確かめられたでしょうか。
「どうせ死ぬ」のほうは、確かめられます。
一休の歌の通りですし、周りを見渡せば分かります。
何千年も前から言われ続けてきた、確かな事実です。
ですが「死ねば終わり」のほうは、そうではありません。
科学的なようでいて、科学では証明できないことです。
ここに、おかしなことがあります。
あなたは「どうせ死ぬ」までは、誰よりも正直に見つめられました。
みんなが目を逸らしていることを、直視した。
ところがそのすぐ先で、
死んだら無になるというような、
科学的に証明できないことを前提としてしまってはいないでしょうか。
もう一度、自分の心をのぞいてみてください。
あなたを本当に苦しめているのは、
死ぬことそのものでしょうか。
それとも、死んだらどうなるのかが分からない、ということでしょうか。
行き先の分からない道を、引き返せないまま走らされている。
そのほうが、よほど不安ではないでしょうか。
ですから本当の問いは、こうなります。
この、死の先が分からない暗さを、ハッキリさせる道はあるのか。
実は、仏教が問題にしているのは、まさにそこなのです。
仏教は「どうせ死ぬ」を否定しない
驚かれるかもしれませんが、
仏教は「どうせ死ぬ」というあなたの見方を、一切やわらげません。
例えばこのように説かれています。
年少まさに老うべし。
また長寿なりといえども、かならずまさに死に帰すべし。
(漢文:年少当老。雖復長寿,会当帰死)(出典:『生経』)
「年少」とは若い人のことです。
今は若くても、当然年をとっていきます。
仮に長生きできたとしても、必ず死んでいかなければなりません。
どうせ死ぬということです。
ところが、お釈迦さまが説かれた仏教の中で、最も有名な言葉の一つが、これです。
諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽(出典:『涅槃経』)
前半の8文字、「諸行無常 是生滅法」の意味はこうです。
「諸行」とは、この世のすべてのもの。
それらはみな「無常」、つまり常が無い。
生じたものは、必ず滅する。
形あるものは必ず壊れ、生まれたものは必ず死ぬ、ということです。
あなたが「どうせ死ぬ」と思われたことと、全く同じです。
仏教では、それを否定するどころか、真っ先に説かれています。
では、お釈迦さまは「すべては滅びる」とだけ説かれたのでしょうか。
そうではありません。
後半の「生滅滅已 寂滅為楽」は、
生じては滅びる、その世界を超えたところに、
崩れることのない安らぎがある、ということです。
滅びるものばかりのこの世に、死が来ても崩れないものがある。
仏教が説いているのは、そこから先です。
死が来ても、さわりとならない世界
仏教では死が来ても崩れない世界を、「無碍の一道」と説かれています。
「無碍」とはどういう意味か
「無碍の一道」とはどういう意味でしょうか?
「碍」とは、さわりのことで、
さまたげ、障害のことです。
ですから「無碍」とは、さわりがない、さまたげがない、
ということになります。
幸せを妨げたり、幸せを壊すものが一切ないということです。
ここで注意しないといけないのは、
障害物がなくなる、という意味ではありません。
病気にもなりますし、思い通りにならないことも起きます。
つらいことも、悲しいことも、そのままあります。
ところが、それらがあっても、さわりにならないのです。
そして「一道」の「一」は、たった一つの、ということです。
たった一つということは、比べるものがありません。
絶対です。
絶対ですから、崩れようがありません。
私たちの人生で、幸せを壊す最大のさわりは何でしょうか。
それは死です。
その死が来ても、さわりとならない。
一切のさわりが、さわりとならない世界。
これが無碍の一道です。
ここで、よくある誤解を一つ解いておきます。
無碍の一道に出るというのは、死ぬのが怖くなくなる、ということではありません。
立派な最期を迎えられるとか、平然と死ねるようになる、という話でもありません。
死に方の善し悪しは、まったく問題にされないのです。
そうではなく、
死が来ても、それで幸せが崩れない、微動だにもしない世界に出る、ということです。
世間の幸せとの4つの違い
では、私たちが普段「幸せ」と呼んでいるものと、どう違うのでしょうか。
4つあります。
1つには、完成がある。
世間の幸せには、完成がありません。
どこまで手に入れても、次が欲しくなります。
ところが無碍の一道は、そこで完成します。
「人生、これ一つだった」と言いきれる終着点があるのです。
2つには、崩れない。
世間の幸せは、いつ崩れるか分かりません。
手に入れた瞬間から、失う不安が始まります。
ところが無碍の一道は、何が起きても崩れません。
3つには、死もさわりとならない。
先ほど見たとおり、私たちの幸せは死によって総崩れになります。
ところが無碍の一道は、その死が来ても、さわりになりません。
「我が人生に悔いなし」とハッキリ言えるのです。
最後に、一人いて喜べる。
これが、大事なところです。
私たちの喜びは、たいてい誰かと比べて成り立っています。
あの人より収入が多い、
あの人より恵まれている。
ですが、比べて得た喜びは、比べる相手が変われば消えてしまいます。
無碍の一道は、そうではありません。
誰と比べる必要もなく、たった一人いて喜べる。
どんな人を見ても、私ほど幸せな者はいない、
世界一の幸せ者になりました、と喜べます。
無人島でひとりぼっちになっても、崩れない。
そういう幸せです。
無碍の一道に出ることが人間に生まれた目的
死が来ても崩れず、一切のさわりがさわりとならない。
その無碍の一道に出ることこそが、人間に生まれてきた目的であると、
仏教では教えられています。
「どうせ死ぬのに」と問われたあなたが、本当に探しておられたのは、
これではないでしょうか。
死を正面から見つめることは、暗く沈むことではありません。
むしろ、生きている1日1日が明るくなる、その第一歩なのです。
死んでも崩れないものがあるなら、
「どうせ死ぬ」は、もう「だから意味がない」にはなりません。
そして、これは死んでからの話ではありません。
生きている今、出ることのできる世界です。
では、どうすればその世界へ出られるのでしょうか。
仏教では、私たちの苦しみを生み出している大もとがある、と教えられています。
それは「苦悩の根元」です。
この苦悩の根元がなくなった時、無碍の一道に出ることができます。
その時にこそ、「人間に生まれてよかった」という大きな喜びを味わえるのです。
では、その苦悩の根元とは何なのか、
それが、どうすればなくなるのか。
それについては、仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


