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生きる意味を、知ろう。

刹那的とは?意味と刹那主義の生き方が満たされない本当の理由

「刹那的って、どういう意味?」
「刹那的に生きるのは、そんなに悪いこと?」

先のことを考えても、明るい未来が見えない。
それなら今を楽しんだほうがいい。
そう思って過ごしていると、
「刹那的だね」と言われることがあります。

刹那的とは、後先を考えず、
今の楽しみだけを求めて生きる様のことで、
大抵は良くない意味で使われます。
その一方で、「今この瞬間を大切に生きよう」と、
刹那的な生き方を勧める人もあります。

「刹那」とは、もとは仏教の言葉です。
仏典に説かれる刹那の本当の意味を知ると、
刹那的な生き方の問題は、
世間でいわれるのとは、まるで違う所にあると分かります。

では「刹那的」とは、どんな意味なのでしょうか?

刹那的とは?意味を分かりやすく解説

「刹那的」には、辞書によると2つの意味があります。

「刹那的」の2つの意味
  • (1)時間がきわめて短いさま。
  • (2)考え方に刹那主義の傾向があるさま。

(出典:『日本国語大辞典』第二版)

1つ目は「刹那的な美しさ」のように、
ほんの一瞬で消えてしまうものに使われます。

普段よく使われるのは2つ目の意味です。
先のことを考えず、今この瞬間だけを充実させようとしたり、
一時的な享楽にふけったり、
その時の気分や楽しみを優先する生き方をいいます。
「刹那的な快楽」
「刹那的な恋」
「刹那的に生きる」
のように使われます。

ですから多くの場合、無計画やその場しのぎ、
後先を考えないといった悪い意味で使われます。
ですが中には、過去や未来に振り回されず
今に全力を注ぐという良い意味で使う人もあります。

刹那の語源と仏教での意味

「刹那」は、インドの昔の言葉でサンスクリット語の「クシャナ(kṣaṇa)」を
漢字で音写した仏教の言葉で、
時間の最も短い単位です。

仏教の論書『倶舎論(くしゃろん)』には、
時間の単位がこのように説かれています。

倶舎論に説かれる時間の単位
  1. 120刹那で1怛刹那(たんせつな)
  2. 60怛刹那で1臘縛(ろうばく)
  3. 30臘縛で1牟呼栗多(むこりった)
  4. 30牟呼栗多で一昼夜

これを計算すると、一昼夜は648万刹那になります。
24時間を648万で割ると、
一刹那は約75分の1秒(0.01333...秒)です。

また『倶舎論』には、
力の強い人が素早く指を1回弾く間に、
65の刹那が過ぎていくとも教えられています。
刹那とは、それほど短い時間です。

では、この刹那に「主義」がついた「刹那主義」とは、
どんな考え方なのでしょうか。

刹那主義とは?意味と広まった背景

「刹那主義」とは、過去や将来を考えず、
ただ現在の瞬間の感情・生活を充実させて生きようとする考え方。
一般的には、一時的な享楽にふけることに価値を置く立場をさしていうことが多い。
(出典:『日本国語大辞典』第二版)

刹那的が生き方の様子を表すのに対して、
刹那主義はその生き方を、
それでいいのだとする考え方です。

刹那主義は、明治の終わり頃に
文学の世界で使われるようになった語です。
岩野泡鳴(1873-1920)の小説『断橋』(1911年)には、
すでに刹那主義という言葉が出てきます。
(『日本国語大辞典』第二版)

文学では古い道徳や価値観に縛られず、
人間の欲望や感情のままに、
その瞬間に全力を尽くす生き方を指しています。
それが今では、その日その日の楽しみだけを追う暮らし方を
いうようになっています。
(『スーパーニッポニカ 日本大百科全書』第二版)

また、生きることに意味はないと考えるニヒリズムから、
どうせ意味がないなら今を楽しもうと、
刹那主義に向かう人もあります。

刹那主義と快楽主義の違い

刹那主義は、快楽主義の一種といわれることがあります。
楽しみにふけることを求める享楽主義は、
刹那主義とほとんど同じ意味で使われます。

ですが、快楽主義の祖とされる古代ギリシアの哲学者・エピクロス(前341-前270)は、
刹那の快楽を求めることを勧めたのではありません。
『メノイケウス宛の手紙』に、こう書いています。

快楽が目的であるという時、私たちが意味しているのは、
放蕩する者の快楽や、享楽のうちにある快楽ではない。
そうではなく、体に苦痛がなく、魂に乱れがないことだ。

飲んで騒ぐような楽しみは、かえって後に苦しみを残します。
そこでエピクロスは、心が乱れず落ち着いていることを、
本当の快楽と考えています。
快楽を説いた哲学者でさえ、刹那の楽しみでは
人は幸せになれないと見ていたのです。

それでも刹那的に生きる人は、少なくありません。
では刹那的な人には、どんな特徴があるのでしょうか。

刹那的な人の特徴

刹那的な人には、次のような特徴があります。

刹那的な人の6つの特徴
  1. その日の気分で物事を決める
  2. お金が入ると、すぐに使ってしまう
  3. 将来の計画をほとんど立てない
  4. 楽しいことを次々に追いかける
  5. 面倒なことは後回しにする
  6. 先のことを聞かれると「その時に考える」と答える

給料が入ると欲しかった物を買い、
月末には何も残っていない。
貯金や老後の計画は、まだずっと先のことだと考えない。

飲み会に旅行、ゲームに恋愛と、
楽しいことには惜しまずにお金も時間も使います。
反対に、締め切りや健康診断のような面倒なことは、
その時になってから考えます。

その一方で、刹那的な人には、決断が早く行動力があり、
嫌なことをいつまでも引きずらないという良い面もあります。

どの特徴にも共通しているのは、
今の気持ちを何より優先しているところです。

人が刹那的になる心理

人が刹那的になるのは、だらしないからだけではありません。

行動経済学では、遠い将来の大きな得よりも、
目の前の小さな得を選んでしまう心の傾きを、
「現在バイアス」といいます。
ダイエット中なのに、目の前のケーキに手が伸びるのも、
この傾きによるものです。
人は誰でも、多かれ少なかれ刹那的な心を持っています。

フィリップ・ジンバルドー
フィリップ・ジンバルドー
(1933-2024)
(写真:Celina Strzelecka,
Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0
(加工あり))

また、心理学者のフィリップ・ジンバルドー(1933-2024)は、
人が時間をどう捉えているかを、5つの型に分けています。
その中には、今の楽しみを何より大切にする「現在快楽型」と、
どうせ未来は変えられないと考える「現在宿命型」があります。

この「どうせ」が、刹那的に生きる人の心の底にあることがあります。
大きな志を立てても、頑張った先に待っているものは、
せいぜいこの程度だと見えてしまう。
それなら今日一日を楽しく過ごしたほうがいいと、
今の楽しみを選んでいます。

刹那的になるのは、未来に向かって
全力を尽くせるほどの目的が見えないからです。

では、刹那的に生きることは、
世間ではどのように考えられているのでしょうか。

刹那的に生きるのは悪いこと?世間の2つの考え

刹那的な生き方については、
世間では大きく分けて2つの考えがあります。

1つ目は刹那的に生きるのはよくないという考えです。
子どもの頃に誰もが聞かされる、
イソップの童話「アリとキリギリス」がそれです。

夏の間キリギリスは「今しか遊べない」と歌って過ごし、
汗を流して働くアリを笑っています。
やがて冬が来ると、蓄えのあるアリは冬を越せますが、
キリギリスは食べる物もなく、寒さに震えることになります。

だから将来に備えて、
コツコツ計画的に生きなさい、というわけです。
お金を貯め、資格を取り、健康に気を配る。
多くの人が、こうした生き方を正しいと考えています。

2つ目は刹那的な生き方を認める考えです。
変化の激しい今の時代、何年も先の計画は役に立たない。
いつ何が起きるか分からないのだから、
やりたいことは今やっておかないと損だ、というものです。

つらいことが続く時に、先のことを考えすぎず、
今日一日を何とか乗り切るという意味で、
刹那的な生き方が心を守ってくれることもあります。

中には、お釈迦さまも過去や未来を思い煩わず、
この刹那を大切に生きよと説かれたのだから、
刹那的に生きるのは仏教の教えにかなっている、
という人もあります。

「人生は一度きりだから楽しまなきゃ損」という考えが、
本当に正しいのかについては、以下の記事で解説しています。
➾人生は一度きりの本当の意味|楽しまなきゃ損は正しいのか

ですが、そうして楽しんでいても、
心から満足しているかというと、そうではありません。
欲を満たす楽しみは、満たした時から色あせていきます。
何かに全力で打ち込む人の姿を見ると胸を打たれるのは、
私たちも本当は、命をかけて打ち込めるものを
求めているからではないでしょうか。

では、刹那的に生きる人と計画的に生きる人には、
どんな共通点があるのでしょうか。

仏教で説かれる刹那の本当の意味

その共通点は、経典に説かれる刹那の意味を知ると見えてきます。

「過去や未来を思い煩わず、今を大切に生きよ」といわれるのは、
お釈迦さまがお弟子たちに説かれた、
このような偈がもとになっています。

慎(つつし)んで過去を念(おも)うこと莫(な)かれ、亦(また)未来を願うこと勿(な)かれ。
過去の事は已(すで)に滅し、未来は復(ま)た未だ至らず。

(漢文:慎莫念過去,亦勿願未来。過去事已滅,未来復未至)

「慎んで過去を念(おも)うこと莫(な)かれ、亦(また)未来を願うこと勿(な)かれ」とは、
過ぎ去ったことを思い悩まないようにしなさい、
また、まだ来ない未来を当てにして願ってはならない、ということです。

「過去の事は已(すで)に滅し、未来は復(ま)未だ至らず」とは、
過去の出来事はすでに消え去り、未来もまた、まだ来ていないのだ、ということです。

ここだけを見ると、「今を楽しめ」という意味にも見えます。
ところが、この偈の後半では、
死を前にして憂えることのないように、
昼も夜も怠ることなく精進せよ、と結ばれています。
「今死ぬ覚悟で何事も行うようにしよう」
ということです。

お釈迦さまが説かれたのは、「今を楽しめ」ではありません。
いつ死が来るか分からないのだから、
無常を見つめ、今この時に、なすべきことを急げということです。
「お釈迦さまは刹那を大切に生きよと説かれた」というのは、
この偈の前半だけが広まったものです。

急がなければならないほど、刹那は速く過ぎ去っていきます。
『仁王般若波羅蜜経』には、このように説かれています。

一刹那に、九百の生滅(しょうめつ)を経(ふ)。
(漢文:一刹那,経九百生滅)

「一刹那に、九百の生滅(しょうめつ)を経(ふ)」とは、
一刹那の間にさえ、900回も生じ滅することが繰り返されている、
ということです。

どんなものも、一瞬たりとも同じままではいられません。
すべてが刹那ごとに生まれては滅びていくことを、
仏教では「刹那生滅」といい、
この世のすべてが移り変わっていくことを
「諸行無常」と教えられています。
無常は迅速ですから、私たちの命も刹那刹那に移り変わり、
次の一刹那に終わるかもしれないものです。

刹那とは、楽しむための一瞬ではありません。
すべてのものが過ぎ去っていく速さを表しています。

ここで、世間の2つの考えを振り返ると、気づくことがあります。
刹那的な人は、今日楽しめば
また明日も楽しめると思っています。
計画的な人は、自分の命の終わりまでには
まだ何十年もあると思っています。
どちらも自分にはまだ時間があると思っているのです。

先ほどのイソップ童話のアリの蓄えは、
この世の冬を越すための蓄えです。
ですが命には、どれだけ蓄えがあっても越せない冬があります。
命が終わる時です。
その冬は、アリにもキリギリスにも、
いつやってくるか分かりません。

将棋でいえば、アリは二手三手先までは読んでいても、
その先に近づいている一番の大問題のことまでは読めていません。
キリギリスを笑うアリも、
本当の冬への備えはできていないということです。

刹那を本当に見つめた人は、
刹那的には生きられません。

今この刹那に命が終わるかもしれないと知らされたら、
楽しみを追いかけているだけでは、いられなくなるからです。

では、刹那を本当に見つめた時、
どのように生きればいいのでしょうか。

刹那を大切にする本当の生き方

刹那を本当に見つめた時に分かるのは、
命が終わった後、自分はどうなるのかが問題になるということです。

もし死んだら無になるとハッキリしているなら、
今の楽しみだけを追う生き方でもいいかもしれません。
ですが、死んで無になるというのは科学的ではありません。
心が物質からできているとすれば、という前提があるからです。
これは証明されていないので、唯物論(ゆいぶつろん)といいます。

従って、死んだらどうなるのかは、
ハッキリ分からないはずです。
それなのに、それはまだまだ先だと思って、
考えないようにしているだけです。

仏教では死んだ後の行き先を「後生(ごしょう)」といいます。
刹那の命の先には、必ず後生が待っています。

お釈迦さまは『大無量寿経』に、
楽しみを追って日々を過ごす人々に向かって、
このように問いかけられています。

如何(いかん)ぞ道を求めざらん。
安(いずく)んぞ待つ須(べ)き所ある。
何の楽を欲(おも)わんや。

(漢文:如何不求道。安所須待。欲何楽乎)

「如何(いかん)ぞ道を求めざらん」とは、
どうして道を求めないのか、ということです。

「安(いずく)んぞ待つ須(べ)き所ある」とは、
この世の未来に、待つほどの良いことがあるだろうか、ということです。

「何の楽を欲(おも)わんや」とは、
どんな楽しみがあると思っているのか、ということです。

ここでいわれている「道」とは、
苦しみ迷いを離れた、本当の幸せです。
これが、すべての人の人間に生まれてきた目的であり、
人生の目的です。

楽しみを持つことが、悪いのではありません。
仕事の後の一杯も旅行も、毎日に彩りを添えてくれます。
ですが、その続かない楽しみだけで一生を終えてしまったら、
何も残らない儚い人生で終わってしまいます。

お釈迦さまは、刹那の楽しみを追いかけて
一生を過ごしてしまう私たちに、
生きている今、本当の幸せになる道を求めよと勧められています。

刹那的に生きるのも刹那主義も、
今を大切にしているようで、刹那を見ていません。
本当に刹那を大切にする生き方とは、
今だけを楽しむことではなく、
一刹那でも早く人生の目的を果たすことです。

一瞬一瞬幸せに活かされる本当の幸せ

この本当の人生の目的を達成すれば、
刹那刹那に本当の幸せに活かされ続ける
変わり続けながら決して変わらない
本当の幸せになります。

楽しい時だけではありません。
どんな時も、「人間に生まれてよかった」と心から喜べます。
次の楽しみを探し回らなくても、
今この一瞬に、大満足の喜びがあります。

それは、特別な人だけのものではなく、
生きている今、誰もがなれる幸せです。

では、刹那刹那に救われ続ける変わらない幸せとは、どんなものなのか。
どうすれば、その幸せになれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、今すぐ見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。