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死んだら無になる?死んだら意識はどうなるのか

「死ぬのが怖い」
「死んだら無になる?死んだら意識はどうなるのか」

ふとした時に、考えてしまうことがある。
自分が死んだら、今こうして感じている意識は、
どうなるのだろう。
何も見えない。
何も聞こえない。
「真っ暗だ」と感じる自分さえいない「無」が、
この先ずっと続いていく……。

そう思うと、胸の奥がすっと冷たくなって、
しばらく何も手につかなくなります。

そんな時に調べてみると、
こんな答えが出てきます。
「死んだら無になるのだから、
夢も見ずに眠っているのと同じ。怖がることはない
」
「生まれる前に戻るだけ」
「いや、体が死んでも魂は残るから大丈夫」

どれも、怖がっている人を安心させようとする、優しい答えです。
ところが、無になるのが怖い時に、
「無になるのだから大丈夫」と言われても、
かえって怖さが増すのではないでしょうか。

実は仏教では、死んだら無になるという考えも、
死んでも変わらない魂が残るという考えも、
どちらも誤りだと教えられています。
では、死んだら意識はどうなるのでしょうか?

「死ぬこと」より「無になること」が怖い

死ぬのが怖いと初めて感じたのは、いつだったでしょうか。

例えば、子どもの頃、身近な人のお葬式で、
もう動かなくなったその人を見た時。
あるいは理科の時間に、果てしなく広がる宇宙の話を聞いた時。
「自分もいつか死ぬ。
そうしたら、今の自分は、どこへ行ってしまうのだろう
」
と、急に足元がなくなるような気持ちになったことがあると思います。

大人になると、普段は忙しさに紛れて、
そんなことを考える暇もなくなります。
それでも、健康診断で再検査の通知が届いた時。
同じ年の友人が、急に亡くなったと聞いた時。
親を見送った後、一人で遺品を片付けている時。
子どもの頃と同じ怖さが、そのまま戻ってきます。

その時に怖いのは、死ぬ時の痛みや苦しみだけではありません。
家族と別れる寂しさだけでもありません。
今こうして見たり、聞いたり、考えたりしている「私」が、
死んだら何もかも消えて、無になってしまうのではないかという怖さ
です。
「意識が永遠になくなるのが怖い」
と言ってもいいかもしれません。

死ぬ時の痛みや、家族との別れなら、
まだ想像することができます。
しかし、無になるということだけは、
どれだけ想像しようとしても、できません。
思い浮かべている自分さえ、そこにはいないからです。
「死ぬこと」そのものより、
「無になること」のほうが怖いのは、そのためです。

では、この「無になるのが怖い」という気持ちに、
世間ではどんな答えが出されているのでしょうか?

世間でいわれる「死んだら無」と「魂は残る」

世間の答えは、大きく分けると、正反対の2つに分かれます。
1つは「死んだら無になる」、
もう1つは「体が死んでも魂は残る」というものです。

まずよくあるのが、「死んだら無になる」という答えです。
心は脳の働きなのだから、脳が止まれば意識も消える。
その先には何もない、というものです。

これをはっきりと言い切った人に、
イギリスの物理学者スティーブン・ホーキング(1942−2018)がいます。
新聞のインタビューで、こう言っています。


私は、脳を、部品が壊れれば動かなくなるコンピュータだと考えている。
壊れたコンピュータに、天国も死後の世界もない。
それは、暗闇を怖がる人のためのおとぎ話だ。

(出典:英ガーディアン紙のインタビュー、2011年5月15日)

スティーブン・ホーキング
スティーブン・ホーキング
(1942−2018)

ホーキングは、21歳の時に、
体の筋肉が少しずつ動かなくなる難病と診断され、
それから50年以上、いつ死ぬか分からない体で
研究を続けた人です。

死を身近に見つめ続けてきた物理学者が、
死んだら何もない、と言い切っています。

そして、この答えには、よく慰めの言葉が添えられます。
「死んだら何も感じないのだから、
夢も見ずにぐっすり眠っているのと同じ。怖がることはない
」
「生まれる前、何十億年も自分がいなかったことを、
辛かったと思う人はいない。死ぬとは、そこへ戻るだけだ
」
というものです。

言われてみれば、その通りかもしれません。
ぐっすり眠っている間のことを、苦しかったと言う人はいません。
痛みも苦しみも感じないのなら、
死ぬこと自体を怖がる理由は、確かになくなります。

ですが、無になるのが怖いと思っている時には、
これは慰めになりません。
怖いのは、痛みや苦しみではなく、
無になることそのものだからです。
「無になるから怖くない」と言って慰めになるのは、
無になることが怖くない人だけ
です。

そこで、正反対の答えもあります。
「体は死んでも、魂は残る」
「同じ魂が、また別の体に生まれ変わる」
というものです。
これなら、「私」は消えずに済みます。
大切な人を亡くした人の悲しみを、
どれだけ和らげてきたか分からない、温かい答えです。

ソクラテスの死
「ソクラテスの死」

この2つの答えは、今に始まったものではありません。
今から2400年ほど前、古代ギリシアの哲学者
ソクラテス(前470?−前399)は、
死刑の判決を受けた後、法廷でこう語っています。


死ぬということは、2つのうちのどちらかである。
死んだ者は、無のようなものになって、何1つ感じなくなるか。
あるいは、言い伝えの通り、
魂が、この世から別の場所へと移り住むか。

そしてソクラテスは、どちらであっても、
死を恐れることはない、と続けています。
無になるか、魂が残るか。
人は2000年以上前から、この2つの答えのどちらかで、
死への怖さを収めようとしてきました。

この2つの答えは、正反対に見えます。
ところが、よく見ると、同じ1つのことを前提にしています。
「死んだら無になる」というのは、
死ねば意識がなくなるから、私もなくなる、ということです。
「魂は残る」というのは、
死んでも意識が消えずに残るから、私も残る、ということです。
どちらも、今こうして考えている「意識」を、
「私」そのものだと思っています。

それも無理はありません。
目で見たもの、耳で聞いたことをまとめて、
考えたり、判断したり、覚えたりしているのは、意識です。
それほど働きが幅広いので、
誰でも、意識が私だと思っています。

そして、意識が脳から生み出されていると思えば、
脳が機能しなくなれば私もなくなる、ということになります。

では、意識がなくなることは、
本当に、私が無になることなのでしょうか?

死んだら意識はどうなるのか

それを確かめるのに、死ぬ時まで待つ必要はありません。
意識がなくなるということなら、
私たちは毎晩のように経験しているからです。

思い出してみてください。
夢も見ないほど、ぐっすりと眠った夜のことです。
布団に入ってから、朝、目が覚めるまでの間、
何も見ず、何も聞かず、何も考えていなかったはずです。
その間の記憶は、まったくありません。

手術で全身麻酔を受けた時は、
「眠くなるお薬を入れますね」と言われて、
次に気がついた時には、もう手術が終わっていたと思います。
貧血で倒れて、気を失った時も同じです。
気がつくと、周りの人に顔をのぞき込まれています。

その間、意識はありませんでした。
もし意識が「私」そのものなら、
その間、私は無になっていたことになります。
これは仏教では「極睡眠(ごくすいみん)」とか「極悶絶」といって、意識のない状態です。

ところが、あなたは無にはなっていません。
朝になれば目を覚まし、麻酔が切れれば、
いつものあなたとして話し始めます。
意識がない間も、心臓は動き、体は温かく、
あなたは、ずっとあなたのままでした。

「それは脳が生きているからで、死ぬ時とは違う」
と思われるかもしれません。
ところが仏教では、脳を初めとする肉体が滅びて死ぬ時も、
これと同じだと教えられています。

それは、物質から心が生み出されているわけではないからです。
コンピューターをどんなに複雑にしても、
自らの感覚や意志を持った心は生み出せないようなものです。
心には物質ではなく、別の原因があります。
それが一瞬前の心です。

その人間の心は、仏教では1つではありません。
「八識(はっしき)」といって、8つに分けられます。
目・耳・鼻・舌・体の5つの心の次、
6番目にあるのが、意識です。
私たちが普段「意識」と呼んでいるのは、この6番目の心のことです。

そして、その意識のさらに奥に、自分では気づくことのない心が、
2つあります。
7番目の「末那識(まなしき)」と、8番目の「阿頼耶識(あらやしき)」です。
この2つの心は、寝ても覚めても、
一瞬も途切れることなく続いている心です。

阿頼耶識にどんなものが収まり、
どんな働きをしているのかについては、
以下の記事で詳しく解説しています。
➾阿頼耶識とは?意味と八識の仕組みを簡単に分かりやすく解説

その心の仕組みについて説かれた
『成唯識論(じょうゆいしきろん)』には、
意識が途切れる時のことが、こう説かれています。

謂(いわ)く、極重(ごくじゅう)の睡眠と悶絶(もんぜつ)と有りて、
前の六識をして皆現行(げんぎょう)せざらしむ。
(中略)
正(まさ)に死し生ずる時にも、亦(また)意識無し。
(中略)
死生は悶絶に摂(しょう)すと説くべし。
彼(かれ)は是(こ)れ最極(さいごく)の悶絶の位なるが故に。
(中略)
此れ、六識断じ已(おわ)りて、後の時に、
本識(ほんじき)の中の自らの種(しゅ)に依りて還(かえ)って起こることを顕(あらわ)す。

(漢文:謂有極重睡眠悶絶,令前六識皆不現行。(中略)正死生時,亦無意識。(中略)応説死生即悶絶摂。彼是最極悶絶位故。(中略)此顕六識断已後時依本識中自種還起)

「極重(ごくじゅう)の睡眠」とは、ひどく疲れた時などの、
ぐっすりと深い眠りのことです。
「悶絶(もんぜつ)」とは、気を失うことです。
「前の六識」とは、目・耳・鼻・舌・体の5つの心と、
6番目の意識のことで、
「皆現行(げんぎょう)せざらしむ」とは、
その6つの心が、どれも働かなくなる、ということです。

「正(まさ)に死し生ずる時にも、亦(また)意識無し」とは、
死ぬその時と、次に生まれるその時にも、
意識はない、ということです。
そして「死生は悶絶に摂(しょう)すと説くべし。
彼(かれ)は是(こ)れ最極(さいごく)の悶絶の位なるが故に
」とは、
死ぬ時と生まれる時は、気絶の中に入る。
それは、一番深い気絶だからだ、ということです。

「本識(ほんじき)」とは、心の本になる心のことで、阿頼耶識のことです。
「自らの種」とは、阿頼耶識の中にある、
それぞれの心が起きてくる元のことです。
それを植物の種子に例えられています。
「此れ、六識断じ已(おわ)りて、後の時に、
本識(ほんじき)の中の自らの種(しゅ)に依りて還(かえ)って起こることを顕(あらわ)す
」とは、
深い眠りや気絶、そして死ぬ時や生まれる時には、
意識などの6つの心は途切れてしまうけれども、
後になると、阿頼耶識の中の元から、また起きてくる、
ということです。

ぐっすり眠っている時も、気を失っている時も、
意識は途切れています。
それでも、心の一番深いところの阿頼耶識は途切れずに続いていて、
目が覚めれば、そこからまた意識が起きてきます。

死ぬ時というのは、その中でも一番深い気絶です。
意識は途切れても、阿頼耶識は途切れません。

死んだら意識はどこへ行くのかといえば、
どこかへ行くのではありません。
一度途切れて、後に、阿頼耶識の中の元から、また起きてきます。

ホーキングの言うことも、
死ねば意識がなくなる、というところまでは、仏教と同じです。
ただ、ホーキングは、意識がなくなることを、
そのまま、私がなくなることだと考えました。

仏教では、意識の奥に、
意識が途切れても途切れない心があると教えられています。
死んだら、意識はなくなります。
ですが、それで私が無くなるのではありません。

では、意識が途切れても続いていく阿頼耶識は、
どのように続いているのでしょうか?

無になるのでも魂が残るのでもない

阿頼耶識は、一瞬一瞬、生まれては滅し、
生まれては滅しながら、途切れることなく続いています。
途切れずに続くと聞くと、
それなら、死んでも残る魂と同じではないか、
と思われるかもしれません。

そのことについて、『成唯識論』には、こう説かれています。

阿頼耶識は、断(だん)と為(な)すや、常(じょう)と為すや。
断に非(あら)ず、常に非ず。
恒(つね)に転(てん)ずるを以ての故に。
(中略)
恒(ごう)の言(ごん)は断を遮(しゃ)し、転は常に非ざることを表す。
猶(なお)し瀑流(ぼうる)の如し。
因果法爾(ほうに)なり。
(中略)
此の識も亦爾(しか)なり。
無始(むし)より来(このかた)、生滅(しょうめつ)相続(そうぞく)して、常に非ず断に非ず。
有情(うじょう)を漂溺(ひょうでき)して出離(しゅつり)せざらしむ。

(漢文:阿頼耶識為断為常。非断,非常。以恒転故。(中略)恒言遮断,転表非常。猶如瀑流。因果法爾。(中略)此識亦爾。従無始来,生滅相続,非常非断。漂溺有情令不出離)

「断」とは、途切れてなくなってしまうことで、
「常」とは、いつまでも変わらずに続くことです。
「阿頼耶識は、断(だん)と為(な)すや、常(じょう)と為すや」とは、
阿頼耶識は、途切れてなくなるものなのか、
それとも、いつまでも変わらないものなのか、という問いです。

その答えが「断に非ず、常に非ず」で、
途切れてなくなるものでもなければ、
変わらないものでもない、ということです。

その理由が、「恒(つね)に転(てん)ずるを以ての故に」です。
「恒」とは、始まりのない昔から、
一時も途切れずに続いていることで、
「転」とは、一瞬一瞬、生まれては滅して、
前と後とで変わっていくことです。

「恒(ごう)の言(ごん)は断を遮(しゃ)し、転は常に非ざることを表す」とは、
ずっと続いているから、途切れてなくなるのではなく、
一瞬一瞬変わっているから、変わらないものでもない、ということです。

「猶(なお)し瀑流(ぼうる)の如し」とは、
激しい勢いで流れ落ちる滝のようだ、ということです。
「因果法爾(ほうに)なり」の「法爾(ほうに)」とは、
自然にそうなっているということで、
原因と結果が、自然にそのように続いていく、ということです。

「此の識も亦爾(しか)なり」とは、
阿頼耶識も、その激しい川と同じだ、ということです。
「無始(むし)より来(このかた)、生滅(しょうめつ)相続(そうぞく)して、常に非ず断に非ず」とは、
始まりのない昔から、生まれては滅し、
滅しては生まれながら続いてきて、
変わらないものでもなければ、途切れるものでもない、ということです。

そして「有情(うじょう)を漂溺(ひょうでき)して出離(しゅつり)せざらしむ」の「有情(うじょう)」とは、
心を持った生き物のことで、
「漂溺(ひょうでき)」とは、押し流して溺れさせること、
「出離(しゅつり)」とは、出て離れることです。
阿頼耶識の流れは、私たちを押し流し、溺れさせて、
そこから出て離れられないようにしている、ということです。

阿頼耶識のこの流れ方は、ちょうど、鎌倉時代の初めに
鴨長明(かものちょうめい)(1155?−1216)が『方丈記』の書き出しに書いた、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
という川のようなものです。
流れが途切れないのが「恒」で、
同じ水ではないのが「転」です。

『成唯識論』には、続けて、
川に風が吹きつけて波が立っても、流れは途切れないように、
阿頼耶識も、様々な縁にあって、
目で見る心や意識などが起きても、
その流れは途切れずに続いている、とも説かれています。

意識は、この流れの上に立つ波のようなものです。
波は立ったり静まったりしますが、
波が静まっても、川の流れはなくなりません。

このことをお釈迦さまは、こう説かれています。

諸法は壊るる故に常ならず、続くが故に断ならず。不常不断なり。
(漢文:諸法壊故不常,続故不断,不常不断)

仏教では、死ねばそこで途切れて、何も残らないという考えを
「断見(だんけん)」といいます。
「断」とは、先ほどの通り、途切れてなくなることで、
「見」とは、ものの見方、考え方のことです。
ホーキングのように、人間を、壊れたら止まる機械のように見るのも、断見です。

反対に、死んでも変わらない魂が、
体を離れて、そのままどこかに続いていくという考えを
「常見(じょうけん)」といいます。
不変の霊魂があるという考え方です。
キリスト教でも神道でも、ほとんどの宗教は、
変わらない霊魂があるとしています。

ところが仏教では、この断見と常見の2つは、
どちらも間違いだと教えられています。
なぜかというと、
「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理は大宇宙の真理なので、
まいた種が突然消えてしまうということはなく、
すべてのものは無我なので固定不変の霊魂というものはないからです。

分かりやすくいえば「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」
ということです。

断見や常見のような教えは、真理に反しているので、
「外道(げどう)」だと教えられています。
「外道」とは、仏教の外の教え、ということで、
仏教はお釈迦さまが悟られた真理を説かれているので、
真理から外れた考えのことです。

阿頼耶識は「恒」ですから、途切れて無になることはありません。
また「転」ですから、変わらない魂として残るのでもありません。

ソクラテスが挙げた2つの答えは、
仏教でいえば、そのまま断見と常見です。
私たちは、死んで無になるのでもなければ、
変わらない魂として残るのでもありません。

死んだ後はあるといっても、
今の私が、今のままの姿でどこかへ行くのではなく、
阿頼耶識が、一瞬一瞬変わりながら、
途切れることなく続いていくと教えられています。

図に書くと、
       死
常見─────┼─────→
断見─────┤
仏教----------------------→
となります。

では、この阿頼耶識は、
死んだ後、どのようになるのでしょうか?

死んだ後に生まれる世界は行いで決まる

死んだ後、阿頼耶識は次の世界を生み出します。
それがどんな世界になるのかは、
私たちの死ぬまでの行いによって決まります。

私たちが心で思ったこと、口で言ったこと、体でやったことは、
その場で消えてしまうのではありません。
目には見えない業力(ごうりき)となって、阿頼耶識に収まります。
そして、縁が来るまで、そのまま蓄えられていて、
縁が来ると、目に見える結果となって現れます。

善い行いからは善い結果が、
悪い行いからは悪い結果が生まれ、
自分の行いの結果は、自分が受けることになります。
これを、因果の道理といいます。
因果の道理は仏教の根幹です。

業にはどんな種類があり、
どのように私たちの運命を生み出していくのかについては、
以下の記事で詳しく解説しています。
➾カルマ(業)とは?カルマの法則の仏教的意味を分かりやすく解説

この因果の道理は、死によって終わるのではありません。
お釈迦さまは『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』に、
目も、耳も、鼻も、舌も、体も、心も、
生まれる時に、どこからか来るのではなく、
滅する時に、どこかへ去っていくのでもないと説かれた後、
こう教えられています。

業報(ごうほう)有りて作者(さしゃ)無し。
此の陰(おん)滅し已(おわ)りて、異陰(いおん)相続す。

(漢文:有業報而無作者。此陰滅已,異陰相続)

「業」とは行いのことで、
「報」とは、その行いの報い、結果のことです。
「作者」とは、行いをする人のことで、ここでは、
行いをして、その報いを受けていく、変わらない私のことです。
ですから「業報有りて作者無し」とは、
行いとその報いはあるけれども、
それを受けていく変わらない私があるのではない、ということです。

「陰」とは、体と心の集まりのことで、
「此の陰滅し已りて、異陰相続す」とは、
今のこの体と心が滅んだ後、
別の体と心が続いて生まれてくる、ということです。

変わらない魂が、次の体に乗り移っていくのではありません。
死ぬまでの行いの力が、阿頼耶識の流れとなって、
次の体と心を生み出していきます。

先ほどの『成唯識論』に、阿頼耶識は、
どの世界に、どんな生まれ方をするかの本になる心だと説かれているのも、
このことです。
死んだら無になるのではなく、
死ぬまでの行いによって、因果の道理に従って、
次の世界に生まれます。

もし死んだら無になるのなら、
一生の間にしてきた行いの結果は、どうなるのでしょうか。

この世で結果が現れなかった行いは、
死んだ途端に、全部消えてしまうことになります。
それでは、種をまいても芽が出ないことになり、
因果の道理から外れてしまいます。
断見が外道といわれるのは、このためでもあります。

「生まれる前に戻るだけ」という慰めもありました。
ところが、生まれてきたということ自体が、すでに1つの結果です。
結果があるのなら、その原因がなければなりません。
それは過去世の業力です。
阿頼耶識は、始まりのない昔から続いてきた心です。
私たちは、無から急に生まれてきたのではありません。
生まれる前も無ではなかったように、
死んだ後も無にはなりません。

しかも、次に生まれる世界は、この人間界とは限りません。
仏教では、迷いの世界は、
地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の
6つに分けて教えられています。
これを六道(ろくどう)といいます。

死ぬまでの行いによって、この6つの世界のどこかに生まれ、
そこでもまた行いを重ねて、
死んではまた次の世界に生まれていきます。
これを輪廻転生(りんねてんしょう)といいます。

意識も死ぬ時はなくりなりますが、
転生すれば、その世界に応じた意識が改めて生じます。
死んだら煩悩はなくなると思っている人がいますが、
死ぬ時は意識がなくなって意識と共に働いている煩悩はなくなりますが、
末那識と共に働いている微細な煩悩はずっと続いていますので、
死んだだけで煩悩がなくなることはありません。
そして次の世界で意識が生じれば、また強烈な煩悩が働きます。

こう聞くと、無にならないのなら安心だ、
と思われるかもしれません。
ですが、無にならないということは、
それだけで安心できることではありません。
本当に考えなければならないのは、
死んだ後、自分がどんな世界へ生まれていくのか、ということです。

『成唯識論』に「有情を漂溺して出離せざらしむ」と説かれていた通り、
私たちは、始まりのない始まりから、
激しい川に押し流されるように、
生まれては死に、死んではまた生まれて、
6つの迷いの世界を経巡ってきました。
その流れは、これから先も続いていきます。

では、この輪廻から離れるには、
どうすればいいのでしょうか?

輪廻から出離するのが人間に生まれた目的

この六道輪廻から出て離れる道を説かれたのが、仏教です。
『成唯識論』に「出離せざらしむ」と説かれていた、あの出離です。
お釈迦さまが一生涯かけて説かれたのは、
すべての人が、この苦しみ迷いの輪廻から出離し、未来永遠の幸せになれる道です。
これを解脱ともいわれます。

そして、それは仏教にしか説かれていませんので、
そのすべての人が未来永遠の幸せになれる道を聞いて、
その身になれるのは、人間に生まれている間だけです。
地獄や餓鬼や畜生の世界では、苦しみに責め立てられて仏教を聞くことはできないのです。
死ぬまでに、この未来永遠の幸せになることが、
私たちが人間に生まれてきた目的です。

その身になれば、
もう「死んだら無になるのでは」と怯えることも、
「変わらない魂が残ってほしい」とすがることも必要ありません。

心が、それまで思い浮かべることもできなかった世界に出て、
「人間に生まれてよかった」と大満足できます。

これが、仏教に説かれる、死によっても崩れない幸せです。
そしてこれは、特別な才能も、恵まれた環境も必要なく、
どんな人でも、生きている今、その身になることができます。

そのためには、私たちを果てしなく苦しめ、迷わせている根本原因を知り、
それを断ち切らなければなりません。
では、その苦悩の根元とはどういうもので、
どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。