「現代人の仏教教養講座」

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生きる意味を、知ろう。

人生どん底・人生詰んだと思った時の本当の救い

「人生どん底。ここから這い上がれるの?」
「もう人生詰んだ。何をしても無駄なの?」

仕事を失った。
借金が返せない。
家族とも、うまくいかなくなった。
悪いことが重なって、気がつけば、人生のどん底にいる。
もう人生詰んだと、思わずにはいられない時があります。

世間では、「明けない夜はない」
「どん底まで落ちたら、あとは上がるだけ」といわれます。
ですが、そう言われても、這い上がる力が出てこないのが、どん底です。

ところが仏教には、自分の力で這い上がった人ではなく、
逃げ場を失った、どん底の人のところへ、
お釈迦さまの方から救いに来られたことが説かれています。

では、人生どん底の時、どうすれば本当に救われるのでしょうか?

人生どん底・人生詰んだと感じる時

人生のどん底は、ある日突然やってくることもあれば、
悪いことが少しずつ重なって、気づいた時にはそこにいることもあります。

例えば、会社が倒産したり、仕事をクビになった時。
事業に失敗して、大きな借金を抱えた時。
離婚して、家族がバラバラになった時。
病気で、今までのように働けなくなった時。
受験や就職に、何度も失敗した時。

20代なら、まだ何も始まっていないのに、
「もう出遅れた」と感じます。
30代・40代なら、仕事も家庭も、今さら取り返しがつかないと感じます。
50代になると、もうやり直す時間が残っていないと感じます。
年齢によって形は違っても、心に浮かぶのは同じ思いです。
「もう、どうにもならない」

「人生詰んだ」とはどういう意味か

「人生詰んだ」の「詰む」は、もともと将棋から来ています。
将棋で「詰み」とは、王将がどこへ逃げても取られてしまい、
もう逃げ場がなくなった状態のことをいいます。
詰んでしまえば、その勝負は負けです。

そこから「人生詰んだ」は、
どちらへ進んでも行き止まりで、何をしても挽回できない、
もう打つ手がない、という意味で使われています。

では、そんな詰んだどん底から抜け出すには、
どうすればいいのでしょうか。

世間でいわれるどん底からの這い上がり方

どん底から抜け出すには、
こんなことが大切だといわれています。

どん底から抜け出すためにいわれること
  1. まず休んで、心と体を回復させる
  2. 人と比べるのをやめる
  3. できることから、小さな一歩を踏み出す
  4. 明けない夜はないと信じる

どれも、もっともなことです。
特に、眠れない、食べられないほど疲れている時は、
何よりもまず、休むことが大切です。
休むことも、人に助けを求めることも、
少しも恥ずかしいことではありません。

「明けない夜はない」のもとになった台詞

シェイクスピア
シェイクスピア
(1564-1616)

「明けない夜はない」という言い回しは、
イギリスの劇作家シェイクスピア(1564-1616)の
『マクベス』の台詞が、もとになったといわれます。


受けられる慰めは、受けるがいい。
夜明けに出会えない夜は、長い夜だ。

これは、妻と子どもを殺されて悲しみの底にいる
スコットランドの貴族マクダフを、王子マルコムが励まして、
ともに敵を討とうと立ち上がらせる場面の台詞です。
朝の来ない夜はない。
どんなに長い夜も、必ず明ける。
だから、悲しみに沈んでいないで立ち上がれ、ということです。

世間でいわれる、どん底からの抜け出し方は
どれも、自分の力で這い上がって、
もう一度、幸せを取り戻すことを勧めています。
立ち上がれる時は、それでいいでしょう。

ですが、どん底にいる時は、
その立ち上がる力そのものが出てきません。
這い上がらなければと思うほど、
這い上がれない自分を責めてしまいます。

では、どん底にいる時、私たちを一番苦しめているものは何なのでしょうか。

どん底で一番辛いこと

どん底で一番辛いのは、失ったものの大きさだけではありません。
「こんな自分には、もう値打ちがない」
「誰からも相手にされない」
と思えてくることです。

仕事を失えば、肩書がなくなります。
お金がなくなれば、離れていく人もあります。
知り合いに会いたくなくて、
道を変えて遠回りすることもあります。

失意のどん底にいる時、何よりこたえるのは、
人と比べられることです。
「あの人は、あんなに上手くいっているのに」
誰かに言われなくても、自分で比べてしまいます。

世の中では、人の値打ちを、仕事やお金、学歴や肩書で量ります。
だから、それを失うと、自分の値打ちまでなくなったように感じます。
這い上がって取り戻さない限り、誰からも認めてもらえない。
人生詰んだと思うのは、そう感じた時です。

どん底を本当に耐え難いものにしているのは、
境遇そのものよりも、境遇で人の値打ちが決まるという、
世間の物差しです。

ところが、お釈迦さまは、人を、仕事やお金や身分で区別されません。
そのことを示しているのが、『賢愚経(けんぐきょう)』に説かれている尼提(にだい)という人の話です。

では、尼提とは、どのような人なのでしょうか。

お釈迦さまから逃げ続けた尼提

お釈迦さまの時代、インドの舎衛城(しゃえいじょう)に、尼提(にだい)という男がいました。
とても貧しく、身分も低く、
人の汚物を運んで捨てる仕事で、その日その日をしのいでいます。
まさに、どん底の暮らしです。

ある日、お釈迦さまは、尼提を救おうと、
弟子の阿難(あなん)だけを連れて、町の中へ入っていかれます。

汚物の入った瓶を抱えて歩いていた尼提は、
遠くにお釈迦さまの姿を見つけます。
こんな汚れた姿を、見られたくない。
尼提は恥ずかしさのあまり、別の道へ逃げます。

路地を抜けようとすると、
その先に、またお釈迦さまがおられます。
尼提は、ますます恥ずかしくなって、もう一度、別の道へ回ります。
慌てたはずみに、瓶が壁に当たって割れ、
尼提は、汚物を全身にかぶってしまいます。

もう、どこにも逃げ場がありません。
将棋でいえば、まさに「詰み」です。
尼提は、身の置き所もないほど恥じ入って、
お釈迦さまを見ることさえできません。

その尼提のところへ、お釈迦さまの方から歩み寄られて、
こう言われます。
「出家して、私の弟子にならないか」

尼提は答えます。
「お釈迦さまは尊いお方で、お弟子の方々も、身分の高い人ばかりです。
私のような、この上なく卑しい者が、どうしてその中に入れましょう
」

するとお釈迦さまは、このように説かれています。

我が法は清妙(しょうみょう)にして、猶(なお)浄水(じょうすい)の如し。
悉(ことごと)く能(よ)く一切の垢穢(くえ)を洗除(せんじょ)す。
亦(また)、大火の能く諸物を焼くが如し。
大小好悪、皆能く之(これ)を焚(た)く。
我が法も亦爾(しか)なり。
弘(ひろ)く広くして、辺(ほとり)無し。

(漢文:我法清妙,猶如浄水。悉能洗除一切垢穢。亦如大火能焼諸物。大小好悪,皆能焚之。我法亦爾。弘広,無辺)

「我が法は清妙(しょうみょう)にして、猶浄水の如し」とは、
私の教えは清らかで尊く、ちょうど澄んだ水のようなものだ、ということです。
「悉(ことごと)く能(よ)く一切の垢穢(くえ)を洗除(せんじょ)す」とは、
どんな汚れも、残らず洗い流すことができる、ということです。

「亦、大火の能く諸物を焼くが如し。大小好悪、皆能く之を焚く」とは、
また、大きな火が、大きな物も小さな物も、
きれいな物も汚い物も、分け隔てなく焼き尽くすようなものだ、ということです。

「我が法も亦爾(しか)なり。弘く広くして、辺(ほとり)無し」とは、
私の教えもそれと同じで、どこまでも広く大きく、果てしがない、ということです。

そしてお釈迦さまは、貧しい者も富める者も、
身分の高い者も低い者も、男も女も、
この教えには分け隔てがない、と続けられています。

汚物にまみれた尼提を見ても、お釈迦さまは少しも嫌がられません。
澄んだ水が、どんな汚れも洗い流すように、
仏の教えは、どんな人も分け隔てなく救う、ということです。

尼提は、これを聞いて、信じる心が起こります。
阿難に連れられて川で体を洗い清め、
祇園精舎で教えを聞いて出家し、
お釈迦さまの弟子となります。

やがて、その国の王までが、
かつて誰も相手にしなかった尼提の足元にひざまずいて、
礼拝するようになります。

芥川龍之介
芥川龍之介
(1892-1927)

この尼提のエピソードは、
芥川龍之介(1892-1927)の短編小説『尼提』にもなっています。


「詰んだ」ところから始まった救い

尼提は、自分で這い上がってから、お釈迦さまに会ったのではありません。
一番汚れた、一番恥ずかしい姿のまま、
逃げ場もなく詰んでしまったところへ、
お釈迦さまの方から歩み寄られています。

世間で「詰んだ」といえば、終わりということです。
ですが尼提にとっては、詰んだところから、救いが始まっています。

では、お釈迦さまの説かれた救いとは、どのようなものなのでしょうか。

這い上がれなくても救われる道

お釈迦さまの説かれた救いは、
私たちが這い上がってくるのを、待っているようなものではありません。
仏様の方から、どん底にいる私たちのところへ、
近づいて来てくださる救いです。

ただ、尼提は、出家してお釈迦さまの弟子となり、
修行してさとりを開いています。
ですが、誰もが尼提のように、出家して修行できるわけではありません。
そこでお釈迦さまは、出家も在家も関係なく、どんな人でも救われる道を、
『大無量寿経』に説かれています。

そのことを、このように説かれています。

衆の為に法蔵(ほうぞう)を開き、広く功徳の宝を施す。
(漢文:為衆開法蔵,広施功徳宝)

「衆」とはすべての人のことです。
すべての人は、みな苦しんでいます。
それは欲や怒りの煩悩で、自分でまいた種とはいいながら
苦しんでいる。
そんな苦しみ悩んでいる人たちをどうして捨てておけようか、
何とか幸せにしてやりたいというのが仏の慈悲です。

そんな人のために、「法蔵(ほうぞう)を開き、広く功徳の宝を施す」とは、
「法蔵」とは真実の教えの蔵です。
その大宇宙の宝の入っている蔵を仏様のほうから開いて、
その蔵の中の無限の功徳の宝を、
それらの人達に施して、
変わらない幸せにしてみせると誓われているお言葉です。

仏様は、すべての人は煩悩しかない、
幸せとは無縁の者と見て取られていますから、
そんな人に、自分で這い上がってこいとは言われません。
ああして来い、こうして来いと言っていては、できるはずがありません。
手足のないダルマさんに、走って来いと言っても無理があるようなものです。
それで、与えて助けるより他に道はないと、
与えることだけを考えておられます。

ですから、仏教に説かれている本当の救いは、
どん底から這い上がった人だけのものではありません。
仕事やお金、肩書を取り戻してからでなければ
救われないのでもありません。
そして出家も修行も必要ありません。
どん底の今のまま、逃げ場がないと思っている人のところへ、
仏様の方から歩み寄ってくださるものです。

そのように仏様は、何とか幸せを与えようとしておられるのですが、
私たちはその心が分からないために、
その救いから逃げ回っています。

先ほどの尼提もそうでしたが、
逃げて逃げて逃げまくっている私たちを、
仏様は追いかけて追いかけて、
もう逃げ場がなくなるまで追い詰めて、
変わらない幸せに救いとるのです。

ですから、この仏教の救いは、
どん底から這い上がった人だけが対象というわけではないため、
仕事やお金、肩書を取り戻してから救われる、
というものではありません。
仏の慈悲は、苦しむ者にひとえに重くかかるのです。

たとえ這い上がって、仕事やお金を取り戻したとしても、
それらは、やがて手放さなければならない時が必ず来ます。
どん底を通ってきた人ほど、
そのことが身にしみて分かっています。

お金や肩書とは違って、決してなくならない、
変わることのない幸せにするのが仏教の働きです。

そしてその変わることのない幸せになるのに、
出家も修行も必要ありません。
どん底の今のまま、逃げ場がないと思っている人のところへ、
仏様の方から歩み寄ってくださって、
煩悩あるままで、
そのまま「人間に生まれてよかった」という
大満足の幸せにしてくだされるのです。

今この身でなれる本当の幸せ

仏教に説かれる本当の幸せは、
身分も、お金も、これまでの過去も関係ありません。
20代でも、40代でも、50代でも、
今この記事を読んでいるあなたにも、等しく機会が与えられています。
その幸せになれば、今の毎日がそのまま、
喜び溢れる大満足の毎日に変わります。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。