さとりとは?

さとり」というと、何かに気づいたとき、「さとった」と言います。
また、人生を達観している人や、年配の立派な人を
「あの人はさとりを開いているから……」
ということがあります。
本当にそれが悟りなのでしょうか?

この記事では、
・悟りと気づきの違い
・悟りの種類と名前
・崩れない悟り
・悟りを登って行くと知らされること
・これまで悟りを開いた人の段階
・悟りの内容
・誰が悟りの段階を決めたのか
について分かりやすく解説します。

さとりとは諦めやひらめきのこと?

さとり」という言葉はよく、苦しいことが起きたとき、「人生さとった」という人があります。
これは諦めたというような意味です。

他にも、何か気づきをえたとか、何かがひらめいたことを、「さとった」という人がありますが、さとりは、諦めとかひらめき、気づきとはまったく違います。

気づきやひらめきは相対的な理解の深まりですが、悟りというのは、絶対の智慧なのです。

理解が深まったり納得するのは、相対的なものです。
例えば、昔、義経よしつね と弁慶が追っ手から逃げている時、農家に泊まると、その家には子供がたくさんいました。
義経が奧さんに
「子供さんがたくさんおられるんですね、何人おられるんですか?」
と尋ねると、
「はい。夫の子供が6人、私の子供が6人、合わせて9人です」
と答えました。

義経は「そうですか」と頷きましたが、 弁慶は、
「それじゃ12人のはずじゃないか」
と理解できません。
翌朝、家を出て、お昼に差しかかった頃に弁慶は、
「わかったー!」叫びました。そして義経に
「6人と6人で9人になる訳が、やっと分りました」
と、頭をかいて笑ったそうです。

この「わかったー」というのを悟りのように思う人がありますが、
これは同じことでも、頭の回転の違いで、理解するのに相対的な速い遅いがあります。
こういうのは、理解や納得の問題です。

ところが、悟りというのは、絶対的な智慧で、理解を延長してたどりつくものではありません。

さとりは、1段違えば、人間と虫けらほど境涯が違うといわれます。

虫けらに、テレビやパソコンのことを教えようとしても、とても分かるものではありません。

気づきやひらめきの内容は、人間でも説明して行けば、充分理解可能ですからさとりではありません。
さとりというのは、そんな程度ではなく、比較になりません。
境涯がまったく変わってしまうのです。

さとりの種類と名前

仏教では、さとりといっても1つや2つではありません。
1段違えば人間と虫けらほど違うさとりが、低いものから高いものまで、全部で52あります。
これを「さとりの52位」と言います。

それぞれのさとりはどんな名前かといいますと、
 1段目から10段目を「十信じっしん」、
(1段目を初信、2段目を二信、3段目を三信……10段目を十信)
11段目から20段目を「十住じゅうじゅう」、
(11段目を初住、12段目を二住、13段目を三住……20段目を十住)
21段目から30段目を「十行じゅうぎょう」、
(21段目を初行、22段目を二行、23段目を三行……30段目を十行)
31段目から40段目を「十回向じゅうえこう
(31段目を初回向、32段目を二回向、33段目を三回向……40段目を十回向)
41段目から50段目を「十地じゅうじ」、
(41段目を初地、42段目を二地、43段目を三地……50段目を十地)
といいます。

51段目は、ほとんど仏のさとりと等しいということで、「等覚」と言われます。

そして一番上の、下から数えて52段目のさとりが「仏覚ぶっかく」と言われ、仏のさとりです。
これ以上、上が無い、「無上覚むじょうかく」といわれたり、妙なるさとり、「妙覚みょうかく」とか、「阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい」ともいわれ、仏のさとりには色々な名前があります。

崩れないさとり

このさとりの52位の中で、40段目までを「退転位たいてんい」といい、41段目以上を「不退転位ふたいてんい」といいます。

退転たいてん」とは、油断するとさとりが崩れることをいいます。

鎌倉時代の華厳宗の僧侶、明恵みょうえは雑炊が大好物でした。
ある時、弟子が明恵に喜んでもらおうと腕によりをかけて雑炊を作ってきました。
明恵は喜んで、一口雑炊を口にすると、ピタッと箸が止まります。

近くに対機していた弟子は、緊張して様子を窺います。
明恵はすっと立ち上がると、障子のさんを指でなぞってその埃を雑炊にふりかけます。
それを見た弟子は青ざめて、
「しまったーっ、掃除ができていないというお叱りだろうか!」
と心配そうに見ていると、明恵はまずそうな顔をして食べ終わります。
弟子が
「申し訳ございません。これからはしっかりと掃除します」
と平身低頭謝ります。
すると明恵は
「いやいや、そうではない。
そなたの作ってくれた雑炊があまりに美味しかったので、思わずうまい、と思ってしまった。
執着の心を起こしそうになったので、あえて味を悪くして頂いたのだ。
そなたの親切心は十分味わった」
としみじみ言ったといいます。
普通の人は、できるだけ美味しいものを探していますが、
悟りを目指す人はいかに気を張っていなければならないかが分かります。

その明恵が、廊下を歩いていた時のこと。
うっかりお師匠様からもらった数珠を落としそうになります。
華厳宗では、お師匠様からの数珠を床に落とすなどもってのほかです。
明恵は気をはっていたので、
「まずい!」
と思い、床に着く直前でキャッチしました。
「危なかったー」
と思った瞬間、心に隙ができて、悟りが崩れてしまったといいます。
これが40段までの退転位の悟りです。

ですから、2段目、3段目と少しさとったとしても、それは退転位ですから、気を抜くと、がらっと崩れて元の木阿弥になってしまいます。

41段目以上の「不退転位」まで行くと、どんなことがあっても崩れないさとりの位となります。

さとりを開くことを山登りにたとえると?

さとりを開くことを山登りにたとえると、最初はみんな「凡夫ぼんぶ」といわれ、1段もさとりを開いていませんから、山のふもとにいるようなものです。

それが、山に登り始めて、一合目まで登ると、ふもとにいたときより、遠くまで見えるようになります。

二合目まで登ると、もっと遠くまで見えるようになります。
二合目より三合目、三合目より四合目と、登れば登るほど見える景色が広がっていきます。

51段までいっても、山の片側しか見えませんが、頂上まで登りつめたとき、360度ぐるりと見渡せるようになりす。

そのように、さとりの段階を登って行き、最後、52段の仏のさとりに到達すると、大宇宙の真理のすべてを体得できるのです。

これまでさとりを開けた人は?

今日まで、地球上で仏のさとりを開かれた方は、
釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし
と言われるように、お釈迦さまただお一人です。

人類の歴史上、52段目の最高のさとりまで到達できたのはただ一人ですが、2番目は誰かというと、お釈迦さまの700年後、インドに生まれられた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつです。
41段のさとりを開かれました。
その200年後には、無著菩薩むじゃくぼさつが、同じく41段のさとりを開かれています。

人類で2番目に高いさとりを開いたのは、この龍樹菩薩と無著菩薩で、41段です。

面壁九年めんぺきくねんという手足が腐るほど厳しい修行をして禅宗を開いた達磨でも、30段程度だったといわれます。

天台宗を開いた天台は、臨終に、弟子の智朗ちろうから、
先生はどのあたりまでさとりを開かれたのですか?
と聞かれて、
一人で修行に打ち込んでいれば、多分10段まで行っただろうけど、弟子の指導育成に当たっていたために、そこまで行けなかった
と答えています。

八宗の祖師といわれて、あらゆる宗派から尊敬される
龍樹菩薩でも41段、
禅宗を開いた達磨でも30段、
天台宗を開いた天台大師でも10段程度ですから、さとりを開くのがいかに難しいかわかります。

では、地球上で唯一仏のさとりを開かれたお釈迦さまが体得された大宇宙の真理とは何なのでしょうか?

さとりの内容

大宇宙の真理といっても、数学的真理とか、科学的真理ではありません。
すべての人が本当の幸福になれる真理です。
これを「真如しんにょ」といいます。

真如は、言葉で表せるものではなく、言葉を離れた絶対の世界なのですが、言葉でなければ伝えられません。

その真如を体得され、仏のさとりを開かれた方を、仏とか、仏様、はたまたブッダと言われるのです。

約2600年前、35歳で仏のさとりを開かれて、真如を体得されたのがお釈迦様です。

悟りの段階を決めた人は?

たまに、「悟りの段階は誰が決めたんですか?」とか、
どれ位悟ったかは誰が認定するんですか?
と聞く人があります。
確かに書道や華道などの芸事や、武道などであれば、誰かが段位を決めて、家元や師範が認定するのかもしれません。
それは誰か創始者が作った芸術や武術だからです。

ですが、さとりは誰かが決めたものではなく、もともとそういう心の境地が存在しているものです。

分かりやすくいいますと、お釈迦さまが大宇宙の真理をすべて体得した仏のさとりまで到達されたところ、そこまで52の心の段階があることを発見されたのです。
その1段1段の心の変化について、1段悟るとこんなことが知らされてこんな境地になる、もう1段上るとこんなことが知らされてこんな境涯になるということを、お釈迦さまが説き明かされ、それがお経に書き残されているのです。

ですからさとりは、誰かが作り出したものではありませんし、
仏教は誰かが考え出した教えではありません。
ちょうど、ニュートンが万有引力の法則を作り出したのではないのと同じです。
万有引力の法則は、ニュートンが現れる前からあったのですが、それをニュートンが発見して法則として明らかにしたようなものです。

同じように、ヨーロッパからアメリカ大陸までの距離は、コロンブスが決めたわけではありません。
コロンブスが、アメリカに到達して、
アメリカまで5700キロあります
と言った時、それは誰が決めたということではなく、
実際にアメリカまで行ったところ、
5700キロあったので、そう言っているだけです。

ですから、万有引力の法則が、ニュートンの思想とは言われないように、また、アメリカまでの距離がコロンブスの思想と言われないように、仏教も、釈迦の思想というわけでもありません。
もし仏のさとりを開いた人が複数いれば、それらの仏方の表現は違えど、表そうとする真理は同じになります。
今日までの所、地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまだけですので、地球上で唯一仏のさとりを開かれたお釈迦さまが、すべての人が本当の幸福になれる道を発見され、言葉を尽くして教えられたのが、仏教なのです。

では、そのすべての人が本当の幸せになれる道とは何かということは、仏教の真髄ですが、メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んで見て下さい。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

仏教が好きで、東大教養学部で量子統計力学を学んだものの卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とかみなさんに知って頂こうと失敗ばかり10年。やがてインターネットの技術を導入して日本仏教アソシエーション(株)を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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