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慈悲の意味とは?

慈悲じひ」とは、仏の心であり、仏の教えである仏教の目的です。
ところが私たち人間の心は、慈悲とは正反対です。
慈悲の心とは、一体どんな心なのでしょうか?

この記事では、
・慈悲の具体例
・仏教における慈悲の位置づけ
・慈悲とはどんな心か
・私たちの心はどんな心か
小慈悲しょうじひ大慈悲だいじひの違い
・本当の慈悲とは
についてお経に基づいて分かりやすく解説します。

慈悲の意味

まず参考までに、辞書にある意味を見てみます。

慈悲
じひ
仏がすべての衆生しゅじょうに対し、生死しょうじ輪廻りんねから解脱げだつさせようとする憐愍れんみんの心。
智慧ちえと並んで仏教が基本とする徳目。

【慈と悲】
慈悲の<慈>(maitrī)は、mitra(友)から派生した「友愛」の意味をもつ語で、他者に利益や安楽を与えること(与楽)と説明される。
一方、<悲>(karuṇā)は他者の苦に同情し、これを抜済しようとする(抜苦)思いやりを表す。
ただし、漢訳仏典では後者を<慈悲>と訳す例も多い。
両語の意義の差については、上掲の<与楽>と<抜苦>が一般的で、南伝仏教の注釈も、<慈>とは利益と安楽をもたらそうと望むこと、<悲>とは不利益と苦を除こうと欲することと説明する。
あるいは衆生が苦を身に受けていると観ずるとき<悲>がおこり、自分が彼らを解脱させようと思うとき<慈>がおこるともいわれる。
また、<慈>を父の愛に、<悲>を母の愛にたとえることもある。
初期の仏教では<慈>が多用された(例えば『スッタニパータ』)が、後に<悲>と併称されるようになり、さらに2語のほかに<>(他者の幸福を喜ぶ)と<しゃ>(心の平静、平等心)の二つが加わって、<四無量心しむりょうしん>あるいは<四梵住>の名で、修行者のもつべき基本的徳目の一種とされた(この利他心によって、衆生は無量の福徳を得、修行者は梵天の世界に生まれるという)。
一方、仏徳をあらわすには<大慈大悲>と<大>の字を付すが、とくに大悲が仏徳の象徴として語られるようになる。

仏は慈悲と智慧の覚体と言われ、慈悲と智慧を兼ね備えた方をいいます。
そのうち慈悲は仏さまの深い心ですので、以下ではより詳しく解説します。

慈悲の具体例

雑宝蔵経ぞうほうぞうきょう 』には、お釈迦様の過去世の話を通して、慈悲とはどういうものか、このように教えられています。

お釈迦さまが過去世にオウムだった時のことです。
ヒマラヤ山の山肌の広大な森に、たくさんの鳥や動物が住んでいました。
ある風が強い日、山の一カ所から火が出て、どんどん燃え広がります。
鳥や動物たちは、逃げ場を失って恐れおののいていました。

その時、オウムは友達の鳥や動物がかわいそうだと思い、
深い慈悲の心を起こします。
オウムは水辺に行って羽をぬらすと、山火事の上に飛んで行って、
ぬれた羽をバタバタと羽ばたいて、水滴を落とし始めました。
そのオウムの心からの熱い思いが、やがて帝釈天たいしゃくてんに届きます。
帝釈天というのは、仏法者を守るです。

帝釈天が見ると、一羽のオウムが心に慈悲を懐き、何とか山火事を消そうと、繰り返し繰り返し羽をぬらして火の上に水滴をたらしています。
衝撃を受けた帝釈天は、すぐにオウムのもとへ行くとこう言います。
これは数千万里の広大な山火事である。
そなたの羽で落とす水は一回に数滴に過ぎない。
どうしてこの大火を消すことができようか

するとオウムは、
私の心は精進にしてなまけることはありません。
必ずこの火を消します。
この身、力尽きれば、生まれ変わってでも。
命を捨てても誓って必ずこの火を消します

その慈悲の心にいたく感動した帝釈天は、雨を降らせ、山火事を消してくれたといいます。 (出典:『雑宝蔵経ぞうほうぞうきょう』)

このように、慈悲の心というのは、友達が苦しんでいるのを見て、じっとしていることはできないのです。
できるかできないかよりも、助けずにはいられないのが慈悲の心です。

仏教では、生きとし生けるものすべてに慈悲の心を起こしなさいと教えられています。

母のような慈悲

例えばこのように説かれています。

母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、また、このように、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意[こころ]を習い修めるように。

これは、あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし、ということです。
仏教では、母親がたった一人の大切な子供を守るように、すべての生きとし生けるものを差別なく慈しみなさい、と教えられているのです。

慈悲と愛の違い

慈悲は慈しみと理解すると、似たようなものとして、「愛」があります。

キリスト教などでは、愛を強調され、愛を勧められます。
しかし仏教は愛ではなく慈悲の教えです。
慈悲と愛の違いについて見ていきましょう。

愛について、わかりやすいのが、有島武郎の以下の表現です。

愛の表現は惜しみなく与えるだろう。
しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。

誰かを愛した時、たしかにその人のために時間もお金も体力も使いたくなったり、実際に使っている人も多いでしょう。
一方で愛しているがゆえに、見返りがない時、相手の心が離れた時、相手への恨みや攻撃に転じたり、ひどいときにはストーカーや犯罪にまで手に染めることもあります。

仏教ではこれを「愛憎一如」と教えられます。
愛と憎しみは切っても切り離せない(一つの如し)ものだという意味です。
つまり愛は、見返りがなければ憎むということは、相手のためといいながら、結局は自分のためになされている心なのです。
ですので仏教では、愛を愛欲と言われ、煩悩の一つと教えられます。

一方で慈悲は、利他の心です。
相手の幸福を願うこころです。

四無量心

ですので、四無量心として教えられます。
四無量心とは、4つのはかり知れない利他の心で、「慈無量心」「悲無量心」「喜無量心」「捨無量心」の4つです。
「喜無量心」は他者の楽をねたまず、他者の幸福が自分の幸せである心です。
「捨無量心」は好き嫌いによって相手を差別せず、平等に接する心です。
「慈無量心」「悲無量心」は慈悲のことですので、以下で詳しく説明します。

慈悲は仏道の根本

慈悲の心は、仏教では非常に重要です。
何といっても慈悲というのは、仏様の心です。
慈悲が仏の心であることを、『観無量寿経』にはこのように説かれています。

仏心とは大慈悲これなり。
(漢文:仏心者大慈悲是)

仏心」とは、仏様の心のことですから、
仏様の心は、大慈悲の心です。

また、八宗の祖師といわれる龍樹菩薩は、『大智度論』にこう教えられています。

慈悲はこれ仏道の根本なり。
(漢文:慈悲是佛道之根本)

慈悲の心は、仏の道の根本でもあるのです。
慈悲は仏教で非常に重要な心なのです。

では、仏の心であり、仏道の根本である「慈悲」とはどんな心でしょうか?

慈悲とは抜苦与楽

慈悲とはどんな心かというと、「抜苦与楽」の心です。
」を抜苦、「」を与楽といわれることもあれば、
」を与楽、「」を抜苦といわれることもあります。

涅槃経に説かれる慈悲

例えば『涅槃経』にはこう説かれています。

諸の衆生のために無利益を除く、これを大慈と名づけ、
衆生に無量の利益を与えんと欲する、これを大悲と名く。

(漢文:爲諸衆生除無利益 是名大慈 欲與衆生無量利樂 是名大悲)

不幸をなくすのが慈で、幸福を与えるのが悲、ということです。

浄土論註で教えられる慈悲

これを分かりやすく、曇鸞大師はこう教えられています。

苦を抜くを「慈」という、楽を与うるを「悲」という。
(漢文:抜苦曰慈 与楽曰悲)

慈悲の慈が抜苦、悲が与楽と教えられています。

大智度論で教えられる慈悲

逆に龍樹菩薩は、こう教えられています。

大慈は一切の衆生に楽を与え、大悲は一切の衆生の苦を抜く。
(漢文:大慈與一切衆生樂 大悲拔一切衆生苦)

ここでは慈悲の慈が与楽、悲が抜苦です。

このように「」を抜苦「」を与楽とされることもあれば、
反対に「」を与楽、「」を抜苦と教えられることもあり、どちらもあります。
いずれにせよ、慈悲とは抜苦与楽の心です。

では、抜苦与楽とはどんな心でしょうか?

抜苦与楽とは

抜苦与楽」とは、まず「抜苦」とは苦しみを抜いてやりたいという心です。

苦しんでる人を見るとじっとしておれなくなります。
その人の苦しみをとても見過ごすことができない、何とかその苦しみを抜いてやりたいというのが抜苦の心です。

たとえば、子供が夜中に熱を出して苦しんでいると、親はとても見ていられません。氷で頭を冷やしたり、薬を飲ませたり、苦しみがひどければ夜でも病院に連れて行きます。
苦しみを見ていられず、何とか抜いてやりたいというのが、抜苦の心です。

次に「与楽」とは、楽しみを与えてやりたいという心です。
親がでかけた時に、子供の好物の美味しいお菓子が出されます。
そんな時、家に持って帰って子供にやれば喜ぶだろうなと思います。
親も好きなので自分も食べたいのですが、それよりも我が子が喜ぶ姿が見たいと思って、持ち帰ります。
このような楽しみや喜びを与えてやりたいという心が与楽の心です。

ですから、慈悲とは苦しみを抜き取って楽しみを与えてやりたい心です。
ところが、この心は私たちにはない心ですから、「慈悲」という字は、「茲心非心」と書いてあるのです。
これは「この心、心に非ず」と読みます。
他人の苦しみを抜いて、楽しみを与えてやりたいという慈悲の心は、私たちの心にはないのです。
仏教を聞かなければ、私たちは慈悲の心があるように自惚れていますが、真実の自分の心が知らされれば、慈悲のかけらもなかったと知らされます。

では私たちの心はどんな心なのでしょうか?

私たちは慈悲深い心をもっている?

とても優しい人に対して、あの人は「慈悲深い人」と使うことがあると思います。
慈悲深いとは、いつくしみ憐れみ深く、情け深い人のことをいいます。
殺傷処分されそうになった野良犬を引き取って、保護犬として育てた人とか、ひどい失敗をしたり迷惑をかけられても許す人を見て、慈悲深い人と思うでしょう。
たしかに、称賛されるべき人たちはたくさんいます。
しかし私たちが日常、心の底で思っていることは、慈悲の心があると言えるのでしょうか。

慈悲と反対の心

私たちの心は、慈悲の正反対です。
同じ志望校を受験して、友人だけ合格したとか、友人の子供だけ合格したらどうでしょう。
友人は苦しい受験勉強の苦労が実って合格したのですから、一緒に喜べばいいのですが、なかなか素直には喜べません。
どうしてあいつだけ。カンニングしたか裏金を使っているのではないか?
という心が起きてきます。

同じ会社でも、同僚や、後輩が自分より出世したらどう思うでしょうか。
口では「おめでとう」と言いますが心では他人の幸せが面白くありません。

逆に、仕事に失敗して役職を解任され、苦しんでいる同僚がいたらどうでしょう。
そんなこともあるよ」と言いながら、痛くもかゆくありません。
ほくそえむ心が出てきます。

これを愚痴の心といいます。
愚痴とは、因果の道理が分からない心です。
私たちは、自分以上に幸せな人をみると、因果の道理からすればその人のたねまきによる結果ですから、喜ばないといけないのですが、自分はたねまきもせずに嫉妬したり、ねたんだりします。
逆に自分以上だったのに失敗した人をみると、因果の道理からすれば、本来は自分が努力して、向上しないといけないのですが、他人の失敗を喜んだり、面白がる汚い心が出てきます。

私たちの心は、そんな愚痴の塊ですから、慈悲の心とは正反対です。
他人に幸せを与えるどころか、幸せから足をひっぱり、苦しみを抜くどころか、苦しんでいるのを見て喜ぶのです。
では仏の慈悲とはどんな心なのでしょうか?

小慈悲と大慈悲の違い

人間の慈悲は、「小慈悲」といい、近くの縁のある人にしかかからない小さな慈悲ですが、仏の慈悲は、「大慈悲」といわれます。
『大智度論』にはこのように教えられています。

諸仏心中の慈悲を名づけて大となし、余人心中のものを名づけて小となす。
(漢文:諸佛心中慈悲名爲大 餘人心中名爲小)

諸仏の心の中にあるのが大慈悲で、人間の心にあるのが小慈悲なのです。

曇鸞大師はさらに詳しく、小慈悲、中慈悲、大慈悲の3通りに分けられています。
そして人間にあるのは小慈悲、声聞や縁覚、菩薩の慈悲は小慈悲と中慈悲、仏の慈悲は大慈悲だと教えられています。

この仏の大慈悲を『観無量寿経』や『涅槃経』には「無縁の慈悲」と説かれています。

仏心とは大慈悲これなり。
無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す。

(漢文:仏心者大慈悲是 以無縁慈攝諸衆生)

仏の慈悲が無縁の慈悲であるということは、近くに苦しんでいる人がいなくても、たとえ何の縁もなくても、すべての人の苦しみを抜いて、幸せを与えてやりたいという慈悲の心を起こされるのです。

人間の器の大きさは、どれだけ多くの人の幸せを考えられるかによると言われます。
自分の幸せだけしか考えないという人は器の小さな人です。
少し広くなって自分の他にも、家族や近くの人の幸せを考えるようになると、器が大きくなります。
もっと広がって、友人や、会社など自分が所属しているグループの幸せを考えるともっと器の大きな人です。
さらには、日本国民全員の幸せや、世界人類の幸せを考えている人は最大級に器の大きな人です。

人間は遠くの知らない人のことなどとても考えられないのですが、仏の大慈悲は、大宇宙のすべての人にかかっています。
ですから、もしあなたが苦しんでいるのなら、あなたの苦しみは私の苦しみ。
とても見てはおれない、という抜苦の心を起こされます。
そしてあなたが安らかで喜んで、幸せになってくれたら、それが私の喜び。
どうにかしてあなたに幸せになってもらいたい、という与楽の心を起こされます。
仏様にとっては、すべての衆生の苦しみが自分の苦しみであり、すべての衆生の幸せが自分の幸せなのです。

私たちは自分の苦しみを抜いて欲しい、自分が幸せになりたいと、自分のことしか考えていないのに、大慈悲の仏様は、すべての人は苦しんでいる、とても見てはおれない、一人残らず苦しみを抜いて、すべての人に幸せになってもらいたいと願っておられるのです。

ですから、仏の教えである、仏教の目的は、抜苦与楽です。
では仏教では、どんな苦しみを抜いて、どんな楽しみを与えるのでしょうか?

私たちの抜いて欲しい苦しみ

苦しみといっても色々な苦しみがあります。
私たちが苦しんでいるのは、まずはお金がないことです。
お金が足りなくて欲しいものが手に入らずに苦しみます。
もっとお金を手に入れて苦しみを抜いて欲しいと思います。

また、病気に苦しんでいる人もあります。
生まれつきの病気にも悩みますが、誰しも生きて行けば、色々と都合の悪いところが出てきます。
そして、治ることのない病気と死ぬまで付き合わないといけなくなって苦しみます。
この病気の苦しみを抜いてくれたらと思います。

また、人間関係にも苦しみます。
周りの人から無視されたり、かげで悪口を言われて苦しみます。
職場の上司と部下の関係でもストレスを感じ、家族の間でも、けんかになって人間関係で苦しみます。
こんな人間関係の苦しみからも解放されたいと思います。

このように私たちは、お金がないとか、
最近体に悪いところがあるとか、
しかも、誰も私のことなんか分かってくれない、
孤独で寂しいから、優しく慰めて欲しい、と言って、
色々なことに気を使ったり、悩んだりして苦しんでいます。

そして、どうしたらもっとお金が手に入るかとか、
人に言えない病気を何とかしてもらいたいとか、
分かってくれる友人や恋人が欲しいという救いを求めています。

私たちの苦しみの根っこ

ところが、仏様が抜こうとしておられるのは、このような苦しみではありません。
なぜなら、このような苦しみは、抜いても抜いても一時的で、また同じような苦しみが起きてくるからです。

例えば、お金のない人に、お金をあげても、その時は何とかしのげますが、またすぐお金が足りなくなります。
病気の人の病気を治しても、それは一時的で、また別の病気になります。
その時の人間関係がよくなっても、人の心は変わりやすいので、またいつどうなるか分かりません。

このような生きて行く上での生活上の苦しみは、永遠になくしきることができない苦しみなのです。

たとえるならば、人生は、苦しみの花咲く木のようなものです。
苦しみの花が咲いている枝を切ると、養分が別の枝へ行ってまた違う苦しみの花が咲きます。
その枝を切ると、また養分が違う枝へ行って苦しみの花を咲かせます。
切っても切っても、次から次へと苦しみの花が咲くのです。

ところが、この苦しみには、それを生み出す本になっている、根っこがあります。
仏の慈悲は、私達の苦しみや悩みの根本を、ばっさりと切り倒すことを目的としているのです。

このことを『大無量寿経』には、こう説かれています。

もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまえ。
(漢文:拔諸生死勤苦之本)

もろもろの生死勤苦(しょうじごんく)の本」とは、私たちを苦しませる根っこのことで、苦悩の根元のことです。
苦しみを根本から抜くことを目的とされているのが仏の慈悲のです。

本当の慈悲とは

ですから仏の慈悲によって、抜くといわれる苦しみは、
いつも私たちが苦しんでいるお金や病気などを治そうという
一時的な生活苦ではなく、私たちの苦しみの根っこである苦しみ悩みの根本原因です。
それを徹底的に調査して抜き去ってみせるということです。

仏の慈悲によって与えてやるという楽しみは、永遠に変わらない幸せです。

このように、本当の慈悲とは、一時的に苦しみを抜いて続かない楽しみを与えるのではなく、苦しみの根元を抜いて、変わらない幸せにする、ということなのです。

そして、このあらゆる苦しみの根本原因である苦悩の根元を断ち切られれば、小慈悲さえもない私たちが、そのまま絶対変わらない絶対の幸福になれるのです。

ではその苦悩の根元とは何か、仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめました。
今すぐ以下から読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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