達磨大師(だるま)

だるま」といえば、選挙に勝つと目を書き入れる赤い人形です。また、「だるまさんがころんだ」として子供たちにも親しまれています。大人から子供まで親しむだるまのモデルは、禅宗の祖師、達磨大師です。達磨大師は、「菩提達磨(ぼだいだるま)」とか「達磨多羅(だるまたら)」ともいい、もともとインド人ですが、中国に渡り、禅宗を伝えました。日本でもみんなダルマさんが好きなので、日本にわたってきて聖徳太子に会ったという伝説もあります。どんな人だったのでしょうか?

日本人に親しまれるだるま

選挙に当選すれば、どこの事務所でもだるまの人形に目を入れていますが、他にもだるまと名前のつくものは周り中に数多くあります。
たとえば「雪だるま」は誰でも知っています。
また「火だるま」とか「血だるま」という言葉もあります。

だるまさんは子供にも親しまれ、小さい頃「だるまさんがころんだ」で遊んだ人も多くあると思います。
もっと小さい頃なら、にらめっこのときの
だーるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ、あっぷっぷ
という言葉にも入っています。

これらの色々なだるまの中でも、だるまと言えば一番にイメージするのが、赤いだるまの人形です。
これほど日本人から親しまれているあのだるまはどうしてできたのでしょうか?

だるまの人形の由来

だるまの歴史

だるまさん人形は、もともと約1400年前に中国でできて、室町時代に伝わってきた「起き上がり小法師」でした。

起き上がり小法師というのは、張り子でできていて、下の一カ所におもりが入っています。
そして、つついて転ばせても、またふっと起き上がります。
それが江戸時代になると、達磨大師をデザインした起き上がり小法師が作られました。怖い顔をしただるまが、倒しても倒しても起き上がってくることが、子供達に人気を博しました。
達磨大師の不屈の精神に見立てて、「七転び八起き」という言葉も生まれました。
そして達磨大師の赤い服が、当時、疱瘡よけのおまじないになると信じられ、町人文化が盛んになった文化文政年間に江戸中で爆発的に売れたのです。

目入れだるまの始まり

その頃、だるま市で客から「この目は気に入らない」と難癖をつけられただるま屋が、白目のだるまを店に並べ、客から注文を受けて目を入れたり、自分で目を入れてもらうようにし始めました。
一説によれば、だるまを買って、願をかけて左目を入れ、願いが叶ったら右目を入れる、と教えて販売する新たな商法だったともいわれます。
こうして江戸時代後期の1800年頃には、江戸中のだるまが白目になったといわれます。
これが「目入れだるま」の始まりです。ちなみに、だるまに目を入れることを仏画に目を入れることになぞらえて「開眼(かいげん)」といいます。

さらに、だるまを毎年買い換えたり、小さいだるまから大きいだるまにしていくというだるま屋のアイディアにより、だるまは一年限りのものとして、年間数百万個が売れるようになっていきます。

選挙だるまの歴史

現在では、選挙事務所に大きなだるまが置かれ、当選確実になると目を入れて盛大に祝っている風景がマスコミで放送されます。
しかし江戸時代には選挙はありませんでしたので、選挙だるまもいませんでした。
選挙だるまが始まったのは、大正14年(1925)普通選挙法が成立し、初めての総選挙となった、昭和3年(1928)でした。そのときのだるま屋は、「当選請け合い」という歌い文句で販売したといわれます。昭和5年の2回目の総選挙では、長野県の議員がだるまに両目を入れたという記事が、東京日日新聞に掲載されています。
これが選挙だるまの始まりで、現在では日本全国に広がっています。

では、これほど日本人に親しまれている、達磨大師とはどんな人だったのでしょうか?

達磨の出家のきっかけ

達磨(378−528)は、南インドの香至国(こうしこく)の国王の三男として生まれました。名前を菩提多羅(ぼだいたら)といいます。
菩提多羅が7歳のある日、行脚の旅をしていた般若多羅(はんにゃたら)という僧侶が香至国を訪れました。
国王が宮中に招いて教えを受けると、尊い仏教の教えを説いたので、お礼に宝珠を贈りました。
そして、3人の王子たちにも挨拶させると、般若多羅はこう言いました。
国王から頂いたこの宝珠は、まことにすばらしいものです。王子様がたは、この世には、この宝珠以上の宝は、果たしてあるものでしょうか?
第一の王子はこう答えました。
「この宝珠は、この国最高の宝物です。この世にこれ以上の宝物はありますまい」
第二の王子もこう答えます。
「兄の言う通り、尊者のような高徳の方のみに許される最高の宝です」
上の2人はこの世にこれ以上の宝はない、という答えだったのですが、第三王子の菩提多羅は違いました。
確かにこの宝珠はすばらしい宝です。しかし、何が最高の宝かといえば、正しい教えこそが、最高の宝でありましょう。この宝珠もすばらしい輝きを放ちますが、智慧の光こそが最もすばらしい輝きを放つものと思います
この立派な答えに感心した般若多羅は、出家を勧め、国王も承諾しました。
やがて国王が病気になり、苦しんで亡くなりました。
その姿を見た菩提多羅は
死んだらどうなるのだろう
と思いました。7日間瞑想して考えましたがわかりません。
菩提多羅はこれをきっかけに出家し、般若多羅に弟子入りしたのでした。
このとき菩提多羅は「菩提達磨」という名前をもらい、般若多羅の弟子として、厳しい修行に打ち込みました。40年以上の厳しい修行の末、ついに一人前と認められたのです。
お師匠さまに、
「どこへ仏教を伝えに行ったらよろしいでしょうか」
とお尋ねすると、驚くべき答えが待っていました。
「お前は一人前になったといっても、有頂天になって自惚れるでない。私の元でこの後も修行を続けるのじゃ。ただし、私が死んだら67年間、インド中をくまなく歩いて仏教を伝えるがよい。その後は中国へ渡って、仏教を伝えるのだ」
こうしてしばらくの間師匠のもとで修行を続け、般若多羅が亡くなってから、旅に出たのです。

インド67年間で6つの宗派を撃破

当時、般若多羅の同門の6人が、6つの宗派に分かれて、互いに争っていました。
ところがどれも真実を教えてはいませんでした。達磨は、
「このままでは人々は本当の幸せになることはできない」
と考えて、敢然と立ち上がったのです。
それぞれ大きな僧侶の集団になっていましたが、達磨は、一宗一宗赴いて、大論争を行い、すべてを破ったのです。
こうして達磨の名は、インド中に轟き渡りました。

当時、達磨の出身国の香至国の国王が、仏教の排斥始めていました。
達磨が出家したときに、国王を継いだのは、兄の第一王子でしたが、その国王も既に亡くなり、子供が後を継いでいました。達磨の甥に当たるその国王が、国家権力によって仏教を弾圧し、外道の教えを広めていたのです。

それを知った達磨は、弟子を派遣して、国王を説得したのでした。
国王はすっかり仏教のすばらしさに打たれ、仏教に帰依しました。
さらに伯父に当たる達磨がまだ生きていると聞き、喜んで王宮に招待します。
そこでまた仏教を説いて聞かせたので、国王はすっかり仏教の外護者となりました。

こうして師匠の言いつけをしっかりと守り、達磨は67年間、インド中で仏教を伝えたのです。すでに100歳を超える高齢に達していました。
しかし、次は中国に仏教を伝えるように言われています。師匠の教えを純粋に守る達磨は、中国へ行くことを決意します。
国王や民衆が別れを惜しみ、
「100歳を越えて中国に渡るのは無理です」
としきりに引き留めたのですが、
達磨の決意は固く、ついに旅立ったのでした。

100歳を越えて中国へ

普通、インドから中国へ仏教を伝えた多くの三蔵法師たちは、テンシャン山脈の南側ルートを通りましたが、それは命を落とす者の多い、大変過酷な道のりでした。
達磨は、一人で商船に乗り込み、海から中国へ向かったのです。
それでもやはり当時の海路は厳しく、中国へ着くまでに3年かかったといわれます。

中国には、禅の教えはすでに達磨到着の300年前から伝わっていましたが、いまだ実践する人はほとんどありませんでした。
そんな520年の9月21日、中国の広州に、120歳の達磨は下り立ったのでした。
港に到着すると入国審査でインドから高僧が到着したとわかり、すぐに皇帝に報告がなされました。その皇帝が、中国の歴史上、最も仏教を奉じていたことで有名な梁の武帝で、喜んで都の金陵(現在の南京)に招き、11月1日に宮殿に招待しました。

梁の武帝の仏教保護は無功徳

この梁の武帝と達磨の有名な禅問答が『伝法正宗記(でんぽうしょうしゅうき)』や『仏祖統記』などに残っています。
「朕が皇帝に即位してから、数え切れないほどの寺を建立し、お経を写して仏教を広め、僧侶の皆さんの生活を支えてきた。まあそんなに大したことではないのじゃが、このくらい仏教を保護すると、どれ位の功徳があるものだろうか」
それを聞いた達磨は、
無功徳
と切って捨てました。
「は?功徳がないとはどういうことだ」
「それは、煩悩でやった善だからです」
「じゃあどうすれば功徳がえられのだ」
「完全なる智慧で、やったことを忘れることです」
「朕に対してお前は一体何様だ?」
「知ったことではない!」

禅宗では、このような問答によって突然さとりが開けたという話がよくありますが、梁の武帝の場合は悟りが開けませんでした。
単に腹を立てて、決裂してしまいました。

達磨はその後19日間、都に滞在しましたが、「機が未だ熟せず」と、一人小舟に乗って、揚子江を北側へ渡って行きました。これを「葦葉達磨」として、世界有数の大河である揚子江を小さな葦の葉に立って去って行く達磨の姿がよく絵に描かれています。

中国最初の弟子が腕を切り落として入門

揚子江の北側は北魏の国でした。北魏の都、洛陽に着くと、南東にあった嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に滞在することになりました。武術で有名な少林寺です。達磨が武術を伝えたという伝説もあります。少林寺は山の北側にあり、洛陽の都を一望することができます。
ここで達磨は、壁に向かって座禅の修行をします。
これを「壁観(へきかん)」といわれます。いつしか人は達磨を「壁観婆羅門(へきかんばらもん)」と呼ぶようになりまとした。

しばらくすると、インドから高僧がやってきたというが広まります。
当時洛陽の都で、仏教の研究に打ち込んでいる一人の僧侶がありました。しかし、知識の理解だけでは仏教の目的である生死の解決はできません。そんなとき、少林寺に高僧がやってきたことを聞き、ぜひ教えを受けたいと訪ねます。ちょうどお釈迦さまが悟りを開かれた12月8日のことでした。雪がしんしんと降っています。達磨に挨拶をしても、壁に向かったまま振り向きもせず、一言も言葉を発しません。言葉が通じないのかなと思いましたが、試されているに違いないと思い、扉の外で待つことにします。一晩立ち尽くして待っていると、明け方には、降り積もる雪は、膝の高さになりました。そのとき達磨が
お前まだいたのか。何しにきた?
と声を発しました。
仏の教えを受けたく参上いたしました
仏教はそんなに軽々しく聞けるものではない、命と引き換えに聞かせて頂くものだ。
出直してこい

それを聞いて感激したその僧侶は、ここで仏教を聞かせて頂くことができなければ、死んで永劫に苦しみの世界を迷い続けていかねばならないと思い、持っていた短刀で左腕を切り落とし、達磨に突き出します。
それを見た達磨は、
「その真剣さならよかろう」
と、初めて弟子にして「慧可(えか)」という名前を与えたのでした。
この話は世間に広まり、達磨の名声は北魏の皇帝の耳にも達します。時の孝明帝は、三度も招待の使者を出しましたが、達磨はもはや皇帝の招待に応じませんでした。

達磨の修行・面壁九年

その後も達磨は壁観を続け、その厳しさは、手足がくさって切り落とさねばならないほどだったと言われます。
達磨の名声をねたむ者からは、殴打されたり、石を投げつけられることもありました。
それでも達磨は微動だにもしません。やがて投石は顔に当たって歯が欠けたといわれます。
さらには毒をもられたりもしますが、それでも修行を続けます。

達磨はたいてい怖い顔で描かれていますが、あれは、他人をにらみつけているのではありません。手足が腐るほどの修行に、くじけそうになる自分の心を見つめて苦しみに耐えているのです。
ですから、達磨の目をよく見ると、怖いような感じがしないのです。
このように、自分の心を見つめ、壁に向かって9年間修行をしたので、これを「面壁九年(めんぺきくねん)」といわれます。
そんな厳しい修行をして、禅宗を開いた達磨でも、30段しか悟れなかったといわれます。

こうして最後に弟子達を集めて試問し、慧可に対して
お前は私の教えの骨髄を得た
とほめたといわれます。 このように達磨の教えを受け継いた慧可が、禅宗の第二祖とされています。

少林寺を引き払うと、洛陽の都へ行き、最後は念仏三昧を行じ、528年10月5日、150歳で亡くなりました。死を惜しんだ時の皇帝から大師号が贈られ、達磨大師となりました。

達磨がなくなった10月5日を、日本の禅宗では、「達磨忌(だるまき)」といって、達磨の命日の法要を行います。
また、奈良で聖徳太子に出会ったと伝えられる達磨大師が亡くなったのは12月1日なので、達磨忌を12月1日にしている場合もあります。

聖徳太子との出会い

奈良で聖徳太子に出会ったというのはどういうことかというと、『日本書紀』によると、613年、聖徳太子が40歳の12月1日、馬で大阪へ視察に行った帰りに奈良県の片岡山を通ると、道端にぼろをまとった老人が倒れていました。衣服はぼろでも上品な雰囲気がただよっていたので聖徳太子が声をかけても返事はありません。
聖徳太子は、食べ物と衣類を与えて
しなてる 方岡山の飯を飢て 臥せる その旅人あわれ 親なし
と歌を詠むと、
いかるがや 富の小川の絶えねばこそ わが大君の御名をわすれめ
と返歌をしました。
翌日、太子が様子を見に行かせるとすでに亡くなっていたので、その場所に埋葬しました。
後になって、「やはりあれは尊い方であったに違いない」とを見に行かせると、墓は動いた様子はないのに遺体はなく、聖徳太子が与えた衣類がたたんで置いてあります。
聖徳太子は、以前のようにそれを身につけたといわれます。
この旅の老人が、達磨大師であったといわれます。

ところが、達磨が亡くなったのは、528年で、聖徳太子が会ったのは、613年です。
そこには85年もの開きがあり、年代が違うので不可能なようですが、さらに日本三景で有名な宮城県の松島には、達磨が来て、聖徳太子が生まれるまで、約30年待ったと伝えられてます。このため「待つ島」となり「松島」といわれるようになったといわれます。
このように、達磨は古くから日本人に親しまれていたのです。

では、達磨はどんなことを教えたのでしょうか?

達磨の教えとは?

達磨に著作はありませんが、説法を弟子が書き残したといわれるものが色々伝えられています。しかし最近では、本当に達磨が説いたのは『二入四行論』だけであろうといわれています。

二入四行」の「二入」とは、2通りの仏教への入り方で、理論にあたる「理入」と実践にあたる「行入」です。

理入」は、すべての人に仏性があるものの、煩悩に覆われているので、壁観によって迷いを離れ、仏性を明らかにするというものです。

行入」は、「二入四行」の「四行」で、「報怨行」「随縁行」「無所求行」「称報行」の4つです。
1つ目の「報怨行」とは、苦しい運命がきたとき、自業自得の自分のたねまきだから、他人を怨まず、忍耐しなさい、ということです。
2つ目の「随縁行」とは、縁にしたがう行で、苦しいことも楽しいことも、自分の過去のたねまきに縁が結びついて生じている結果だから、一喜一憂しないということです。
3つ目の「無所求行」とは、求める所のない行で、求めることによって苦しむのだから求めるな、ということです。
4つ目の「称法行」とは、真理にかなう行いのことで、命やお金を惜しまずに、六波羅蜜(ろくはらみつ)に心がけなさい、ということです。

達磨は、このような理論と実践によって、低いさとりから高いさとりまで52あるさとりの中でも最高の、仏のさとりを目指したのですが、150年間の厳しい修行に打ち込んでも、約30段までしかさとれなかったといわれます。
150歳の臨終間際には念仏三昧を行じていたのは、煩悩をなくそうとすればするほど、煩悩がなくならないことが知らされて、煩悩あるがままで救われる他力の教えを求めるようになったということです。

他力の仏教であれば、どんな人でも、苦悩の根元が断ち切られて、煩悩あるがままで、本当の幸せに救われるからです。
ではその苦悩の根元とは何か、どうすれば苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になれるのかについては、達磨も最後に到達した仏教の真髄ですので、
わかりやすく小冊子とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

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