須菩提(しゅぼだい)とは

須菩提」といえば、ここでは釈迦十大弟子の一人の「須菩提」のことです。
仏教に出会う前は、怒りっぽい人だったといわれますが、お釈迦さまのお弟子になってどんなことがあっても腹を立てず、人と争うことがなくなったといわれます。
やがて釈迦十大弟子の一人となり、「無諍(むそう)第一」とか、「解空(げくう)第一」といわれるようになります。
ちなみに『西遊記』の孫悟空の師匠も「須菩提」です。
須菩提は解空第一ですので、弟子の石猿も、空を悟る「悟空」という名前になっています。
須菩提はどんな人だったのでしょうか?

怒りっぽい性格

須菩提は、コーサラ(拘薩羅)国の首都・舎衛城出身です。
撰集百縁経』によれば、バラモンの子として生まれました。
非常に端正な顔立ちだったために、「須菩提」と名づけられたといいます。

成長すると頭の良さでは並ぶ者は誰もいなかったのですが、瞬間湯沸かし器のような怒りっぽい性格でした。
人や動物を見ると腹を立てて、のべつ幕なしに悪口を言います。
親にも親戚にも嫌われて、誰も会いたがりませんでした。

須菩提はついに家出をして山に入ります。
すると、鳥や動物を見たり、草木が風で動くのを見て腹が立ってきました。
須菩提には喜びの心がありません。

やがてどこからともなく声が聞こえてきました。
そなたはなぜ家を捨てて、山に入って来た。
善いことをしなければ、幸せにはなれずに苦しむだけだ。
今、祇園精舎におられるお釈迦さまは、そなたの怒りの毒を除いてくれるだろう

それを聞いた須菩提は、喜びの心が起きたのでした。

さっそく言われた通りに祇園精舎に行くと、お釈迦さまの輝くようなお姿を拝して、嬉しくなりました。
お釈迦さまは須菩提のために、怒りの生み出す結果を説かれます。
怒りや愚痴煩悩は、幸せを生む良い種まきを焼き尽くして、色々なを生む。
死ねば地獄へ堕ちて、その苦しみは計り知れない。
もし地獄を出ることができても、蛇やに生まれて心は常に毒を含む

それを聞いた須菩提は、驚きの余り全身の毛が逆立ちます。
深く後悔して、お釈迦さまの前で懺悔しました。
すると突然、一段階の悟りが開けました。
その場で出家して、仏道を求めるようになります。

やがて、須菩提は、『阿含経』に無諍道をもって法を知る、といわれ、ナーガールジュナの『大智度論』にも「無諍三昧第一」とわれています。
無諍」というのは、争わないということです。
あれほど怒りっぽい性格だった須菩提は、仏教の教えによって打って変わってどんなことがあっても腹を立てなくなったのです。
やがて釈迦十大弟子の一人に数えられるようになりました。

小屋に屋根がなくても怒らない

ある時、須菩提がマガダ国の首都、王舎城に来た時のことです。
ビンバシャラ王が、須菩提の説法を聞いて余りの尊さに、
尊者のために小屋を作りますから、そこにお住み下さい
と約束しました。

ところがビンバシャラ王は、小屋が完成する直前に、屋根をつくるのを忘れてしまいました。
須菩提は少しも腹を立てることなく尊いお布施を受け取り、その屋根のない小屋に住むことにしました。
屋根がなくては雨露がしのげませんが、須菩提は徳が高かったので、雨が降ることなく過ごすことができます。

ところが何ヶ月かが過ぎると、まったく雨が降らないたるめに、マガダ国の農民が日照りに苦しみ始めます。
やがて
「雨が降らないのは須菩提の小屋の屋根がないためではないか」
と農民たちの間でが広まり、ビンバシャラ王に訴え出ます。
ビンバシャラ王が急いで屋根を作り、小屋を完成させると、果たして雨が降ってきたので農民達は手を取り合って喜びました。

このように、あれほど怒りっぽかった須菩提は、ビンバシャラ王に腹を立てることも恨むこともなく、催促することもなかったのです。

解空第一

お釈迦さまは須菩提に対して空についてよく教えられ、それはたくさんの『般若経』に残されています。
天台宗を開いた智顗の口述した『法華経文句』によれば、須菩提が生まれた時、後に解空第一になることを暗示するかのような、家中の倉庫の食器などが空になる奇瑞があったと記されています。

また『増一阿含経』には、須菩提のこんなエピソードも説かれています。
お釈迦さまが仏のさとりを開かれて8年目の時、天上界に赴かれ、そこにおられるお母さんのマーヤー夫人に3カ月間、仏教の話をされました。
それからお釈迦さまが、梵天や帝釈天などの神々を率いて帰ってこられる時には、舎衛城の波斯匿王や、王舎城のビンバシャラ王をはじめ、たくさんの人々がお出迎えをしました。
お釈迦さまのお弟子も全員お出迎えをしていたので、その時、たまたま霊鷲山で衣を縫っていた須菩提もお出迎えに行こうと思いました。
そこで一切皆空を観察しました。

やがて、出家の女性で最も強力な神通力を持った比丘尼が真っ先にお出迎えすると、お釈迦さまは、
そなたが一番に私を拝したのではない。須菩提が一切皆空を観じて如来を拝している
と言われたといいます。

こうして須菩提尊者は、仏教に説かれる空ということをよく理解していたので、やがて「解空第一」と言われるようになりました。

空とは?

空というのは、『般若心経』の「色即是空」の空のことです。
仏教で空というのは、無ということではありません。
どんなものにも、固定不変な実体はない、ということです。
この空ということを『般若経』には、特に詳しく教えられています。

では、なぜすべてのものは空なのかを理論的に教えられたのがナーガールジュナ(龍樹菩薩)です。
ナーガールジュナは、このように教えられています。
因縁所生の法、我即ちこれ空なりと説く」(中論)
これは、因縁によって生じるものは空なのだということです。

仏教では、
一切法(万物)は因縁生なり」(大乗入楞伽経)
といわれます。

一切法」とは、すべてのもののことです。
因縁生」というのは、因と縁が結びついてできたものだ、ということです。
すべてのものは因と縁がそろって生じるのです。

因縁とは?

仏教では、すべての結果には必ず因と縁がある、と教えられているのですが、
因と縁とは何かというと、例えば、何かの花が咲いたとすると、因は、その花の種です。
その花を咲かせた温度とか湿度とかが縁です。

因だけで現れる結果も、縁だけで現れる結果もありません。 必ず結果には因と縁が必要です。

因と縁によって結果が変わりますので、因が変わっても縁が変わっても結果は変わります。

米なら、同じ田んぼでも、コシヒカリのモミダネを使うか、ひとめぼれのモミダネを使うかで、結果は変わります。
同じコシヒカリでも、田んぼが違えば結果は変わります。
キュウリやスイカのような夏野菜が冬でも食べられるようになったのは、ハウスに暖房を入れて、人工的に夏のような縁を作ったからです。

このように、因と縁で結果が生じるという因果の道理が仏教の根幹です。

すべてはしばらくの間のこと

では、なぜすべてのものが因と縁がそろってできていると空になるのかというと、すべては因縁がそろっている間だけ一時的にその状態なのであって、固定不変的なものではないからです。

それを分かりやすく教えられた歌に、
引き寄せて 結べば柴の 庵にて とくればもとの 野原なりけり
という歌があります。

」というのは小さな小屋です。
この柴で作った庵の因は、柴です。
柴だけあっても庵にはなりません。
引き寄せて結ばれるという縁によって、庵になっています。
ではその庵はずっと庵なのかというと、縁が離れればなくなってしまいます。
では無になったのかというと、そうではありません。
束ねているところをほどくと、庵はなくなりますが、今度は野原としてあります。

このように、すべてのものは、因と縁がそろっている間だけあるのであって、縁が離れれば別のものになってしまい、固定不変な実体はない、というのが空ということです。

サッカーの熱狂的なファンなら、観戦中は、チームのユニフォームを着て、顔に色を塗って、大騒ぎをしていますが、試合が終わると、普通のサラリーマンになったり、普通のお店屋さんになったりします。
固定不変に大騒ぎをし続けるのではなく、サッカーを縁として、熱狂的になって騒ぎ始めるのです。

この世の一切は、しばらくの間、そのような状態にあるだけで、やがてみんな因縁が離れてしまう、ということです。
これは因果の道理といわれて、仏教の根幹ですので、これが分からなければ仏教は分かりません。
この空ということを最もよく理解していたので、須菩提尊者は解空第一といわれるのです。
増一阿含経』には「空の義を分別するはいわゆる須菩提比丘これなれり」と説かれています。

空を理解すると?

空を理解すると、自分の肉体も固定不変な実体はない、と知らされて来ます。
いつ因縁が離れて、命を終わるか分かりません。
私たちは、自分の命だけはこれからもずっと続くと思っていますが、仏教では、命はしばらくの間のことで、やがて必ず死んで行くことを教えられています。

そして、空を明らかにされた因果の道理を根幹として、どんな人でも本当の幸せになれる道を教えられているのです。

では、仏教に説かれる本当の幸せとはどんな幸せなのか、どうすればその幸せの身になれるのかについては、以下のメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。

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