喪失感とは?時間では埋まらない心の穴の正体と本当の立ち直り方
「この喪失感は、いつになったら消えるの?」
「心にぽっかり空いた穴は、どうしたら埋まるの?」
大切な人を亡くした。
長く続いた関係が終わった。
打ち込んできた仕事や役目から離れた。
その日から心にぽっかり穴が空いたように感じる。
周りの人は「時間が解決してくれるよ」と言ってくれます。
喪失感は誰にでも起きる自然な心の反応で、
時間をかければ立ち直れるといわれます。
確かに涙は少しずつ減っていきます。
それなのに心の穴だけは、
何年経っても、あの日のまま空いています。
時間では埋まらないその穴の正体と、
本当に立ち直る道が、仏教には説かれています。
では喪失感とは、どんな心なのでしょうか?
喪失感とは?意味と喪失感に襲われる時
喪失感とは、辞書にはこう出ています。
そうしつ‐かん【喪失感】
魂や気力が抜けてしまったような感じ。(出典:『日本国語大辞典』第二版)
ですので喪失感を感じるのは、
大切な人を亡くした時だけではありません。
主に次のような時に、喪失感に襲われます。
- 家族や友人、ペットとの死別
- 失恋や離婚などの別れ
- 退職や引退、子どもの巣立ち
- 病気やけがで健康を損なった時
- 卒業や旅行、好きな作品の最終回など、楽しい時間が終わった時
どれもそれまで当たり前にあったものが、
ある日を境に、手の届かない所へ行ってしまった時です。
喪失感に苛まれている時は、
食事がのどを通らなくなったり、夜眠れなくなったり、
何も手につかなくなったりします。

C・S・ルイス
(1898-1963)
『ナルニア国物語』で知られるイギリスの作家
C・S・ルイス(1898-1963)は、
妻を病気で亡くした後の日々をつづった手記
『悲しみをみつめて』の冒頭に、こう書いています。
悲しみがこれほど恐れに似ているとは、
誰も教えてくれなかった。(出典:C・S・ルイス『悲しみをみつめて』)
ルイスが恐れに似ていると書いたように、
喪失感はただ悲しいというだけではありません。
これから先、何を頼りに生きていけばいいのか分からない。
そんな心細さが、悲しみと一緒に押し寄せてきます。
では、この喪失感から立ち直るには、
どうすればいいといわれているのでしょうか。
喪失感から立ち直るには?世間でいわれる方法
喪失感から立ち直る方法として、
普通は主に次の4つがいわれます。
- 悲しみを無理に抑えず、そのまま感じる
- 信頼できる人に気持ちを聞いてもらう
- 食事や睡眠など、生活のリズムを保つ
- 急いで穴を埋めようとせず、時間をかける
「日にち薬」という言い方があるように、
時間が何よりの薬だと考えられています。
この「悲しみと向き合う作業」という考え方は、
もとをたどると、精神分析の創始者として知られる
オーストリアの医師フロイト(1856-1939)に行き着きます。

フロイト
(1856-1939)
フロイトは1917年に発表した論文『喪とメランコリー』で、
大切な人を失った心が、時間をかけて少しずつ
その人に向けていた思いを引き離していく働きを、
「喪の仕事」と名づけています。
そして喪の仕事を終えた心は、再び自由になって、
失ったものの代わりに、
新しいものを愛せるようになると考えています。
実際に多くの人が、こうして日常を取り戻しています。
激しい悲しみは、時間とともに和らいでいきます。
楽しい時間が終わった後の喪失感なら、
次の楽しみが見つかると、いつの間にか消えています。
時間をかけて悲しみが薄らいでいき、
新しい生きがいや出会いに心を向けていく。
これが世間でいわれる喪失感からの立ち直り方です。
では何年も経った後、喪失感はどうなっているのでしょうか。
時間が経っても喪失感が消えない理由
何年経っても、喪失感は不意にやってきます。
仕事中は気が紛れていても、家に帰って玄関を開けた時。
命日が近づいた時。
母に電話をかけようとして、もういないと気づいた時。
人混みの中で、よく似た後ろ姿を見かけた時。
つい2人分の茶碗を出しかけた時。
「もう大丈夫だと思っていたのに」と、
急に胸の奥が空っぽになったような気持ちになります。
涙の量は減っても、穴の大きさはあの日と変わっていません。
「喪の仕事」を説いたフロイト自身も、
1920年に26歳だった次女のゾフィーを、
スペイン風邪がもとで亡くしています。

ビンスワンガー
(1881-1966)
それから9年後、子どもを亡くした友人で、
スイスの精神科医ビンスワンガー(1881-1966)に
宛てた手紙に、フロイトはこう書いています。
このような喪失の後の激しい悲しみが、
やがて過ぎ去ることを私たちは知っています。
けれども私たちは慰められないまま、
決して代わりを見つけることはないでしょう。(出典:フロイト、ビンスワンガー宛の手紙・1929年)
失った子どものいた場所に、何が入ってきても、
たとえそこをすっかり満たしたとしても、
それはやはり別のものなのだ、とも書いています。
失ったものは新しいもので置き換えられると考えたフロイトが、
我が子については、
代わりは決して見つからないと書いているのです。
そしてフロイトは、本当はそれでいいのだ、
それが手放したくない愛を続けていく
ただ1つの方法なのだから、と続けています。
心の穴を抱えたまま、愛し続けていく。
これが精神分析の生みの親のたどり着いた答えです。
時間が癒やしてくれるのは悲しみであって、
心に空いた穴ではありません。
辞書にも喪失感は、「悲しい気持ち」とは書かれず、
「魂や気力が抜けてしまったような感じ」と書かれています。
それは空虚な感じです。
喪失感の中には、時間とともに薄れていく悲しみと、
時間では埋まらない空虚の2つが重なっています。
だから悲しみが和らいだ後にも、空虚だけが残ります。
喪失感と虚無感の違い
喪失感とよく比べられるのが、虚無感です。
一般に喪失感は失ったものがはっきりしていて、
時間とともに和らいでいくもの、
虚無感はこれという理由もなく、
何もかもが虚しく感じられるものと区別されます。
ですが、喪失感の中に残る空虚は、
虚無感と別のものではありません。
配偶者を亡くした人が、
「これから何を楽しみに生きればいいのか」とつぶやきます。
仕事一筋だった人が定年を迎えて、
肩書のなくなった自分に何が残るのかと途方に暮れます。
子育てを終えた後の心の支えが、
ペットだったという人もあります。
そのペットが亡くなると、また心に同じ穴が空きます。
重さは比べられませんが、
推しのライブが終わった帰り道や、部活を引退した後にも、
同じ空虚が顔を出します。
打ち込むものがある間は、覆われていた空虚です。
どの人も失ったものを、
生きがいを生きる意味と思っていたということです。
だからそれを失った時、悲しみと一緒に
「何のために生きているのか」という底の知れない空虚が見えてきます。
喪失感とは、
それまで生きる意味だと思っていたものが失われて、
本当は生きる意味が分からない空虚が見えてきた心です。
虚無感はその空虚を、いつも感じている心です。
喪失感はそれを覆っていた心の支えがなくなって、
空虚が目の前に現れてきた、ということです。
では、仏教では喪失感の正体を、何と教えられているのでしょうか。
お釈迦さまが説かれた喪失感の正体
お釈迦さまは『大無量寿経』に、
大切な人を亡くした後の喪失感を、
心が縛られて離れない姿として説かれています。
親が子を見送って泣くこともあれば、
子が親を見送って泣くこともあり、
別れは年齢順に来るとは限りません。
そうして親子や兄弟、夫婦のうち
一人が亡くなり一人が残された時の心を、
このように説かれています。
恩愛思慕して憂念結縛す。
心意痛著して迭相に顧恋す。
日を窮め歳を卒えて、解け已むこと有ること無し。
(漢文:恩愛思慕憂念結縛。心意痛著迭相顧恋。窮日卒歳,無有解已)(出典:『大無量寿経』)
「恩愛思慕して」とは、
家族として慈しみ合ってきた愛情と、
亡くなった人を恋しく思う心です。
「憂念結縛す」とは、
その悲しい思いに、心が縛られてしまうことです。
「心意痛著して迭相に顧恋す」とは、
心は痛むのに思いはそこから離れず、
互いに恋い慕いあう、ということです。
「日を窮め歳を卒えて、解け已むこと有ること無し」とは、
何日経っても何年経っても、
その縛りが解けることはない、ということです。
喪失感は時間が解決するといわれます。
ところがお釈迦さまは、どれだけ時間が経っても、
心の痛みはなくなることがないと説かれています。
そして思いに心を塞がれたまま、
教えを聞いても心が開かれず、
そのまま一生を終えていく人のことを嘆かれています。
心は亡くなった人に縛られたまま、
その先には、もうその人はいません。
その跡から、何のために生きるのか分からない、
本当の生きる意味が分からない空虚がのぞきます。
これが心にぽっかり空いた穴です。
涙は時間の経過で少なくなっても、
縛られた心は時間ではほどけず、穴も空いたままです。
しかも私たちの心が縛られているのは、
家族だけではありません。
仕事にも健康にも、楽しみにも縛られています。
そしてそのどれもが、移り変わっていきます。
仏教ではこの移り変わりを「諸行無常」と教えられています。
諸行無常とは、すべてのものは常が無い、続かない、
一切は移り変わっていく、ということです。
形あるものは壊れ、出会った人とは別れていかなければなりません。
その愛する人や物と離れなければならない苦しみは、
「愛別離苦」と説かれています。
代わりのものに心を結び直しても、
諸行無常ですので、それもまた、やがて離れていきます。
時間に任せても、代わりで埋めても、
穴そのものは空いたままです。
では喪失感の空虚を、本当に満たすものは何なのでしょうか。
喪失感の穴を満たすものは何か
喪失感の空虚を満たすのは、
失ったものの代わりではなく、
人間に生まれてきた本当の目的です。
空虚の底にあるのは、
何のために生きるのか分からない心だからです。
私たちが生きる意味だと思っていた家族や仕事、
打ち込んできた趣味は、生きがいといわれます。
生きがいは大切ですが、
どれほど大切なものでも、いつかは離れていきます。
私たちはそんな不安に苦しむために
生きているわけではありません。
仏教に教えられる本当の人生の目的は、生きがいとは違います。
私たちが本当に求めているのは、
何を失っても崩れない本当の幸せです。
ではその幸せについて、
仏教ではどのように説かれているのでしょうか。
何を失っても決して崩れない幸せ
仏教では、このために人間に生まれてきたのだというその幸せを、
「摂取不捨の利益」と教えられています。
利益とは幸福のことです。
ご利益ではなく、幸せのことです。
すべての人はこの幸福を求めて生きている、
人生の目的は幸福だと言って、
誰も異論がないと思います。
不幸を求めて生きているという人はいるはずがありません。
政治も経済も科学も医学も、人間を幸福にするためにあるので
不幸にするためにあるのではありませんから、
だから人生の目的は幸福、
仏教の言葉で言うと利益と言えます。
なんのために生きるかというと、幸福になるためです。
ところが続かない、儚い幸福では
本当の生きる目的になりませんので、
ここでいう幸福は「摂取不捨」の幸福です。
「摂取不捨」は、『観無量寿経』に説かれているお言葉です。
「摂取」とはおさめとるということです。
ガチーッとおさめとって、
「不捨」というのは捨てないということです。
絶対に捨てられるということがない、変わらない幸せです。
たとえこの身が、どんな苦難にあっても、
決して崩れることも壊れることもない幸せです。
人も物もいつかは私たちから離れていきます。
どれほど大切にしても、つなぎとめておくことはできません。
無常の世の中で、この摂取不捨の利益だけが、
色あせることも薄れることもない幸せなのです。
そしてその身になるのは、死んでからではありません。
生きている今、摂取不捨の利益にあずかって、
その瞬間、人間に生まれてよかった、
これ1つ果たすために生きてきたんだという生命の大歓喜が起きます。
悲しい時には涙を流しても、
心の底はもう空っぽではありません。
世間でいう立ち直り法は、次に何かを失えば、
また崩れてしまうようなものです。
仏教に説かれているのは、何を失っても、
二度と崩れることのない幸せです。
これが本当の意味で、喪失感から立ち直るということです。
人間に生まれてよかったと喜べる幸せ
この幸せは、生きている今、誰でもなれる幸せです。
年を重ねた人にも、若い人にも、同じようになれます。
その身になれば、一日一日が心から満ち足りたものになり、
苦しかったことも、悲しかったことも、
大切な人と過ごした日々も、
この幸せに導いてくださるためのものであった、
この身になるための人生であったと知らされます。
では、そのおさめとって決して捨てられない
摂取不捨の利益とは、どんな幸せなのか。
どうすればその身になれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


