僧侶とは
僧侶
「僧侶(お坊さん)」とはどんな人なのでしょうか?
葬式や法事、法話にそれほど原価もかからず、収入がお布施なら非課税になるので、「坊主丸儲け」といわれています。
しかし、本当にそんなに儲かるのでしょうか?
また、定年退職したら僧侶になりたいという人も少なからずあります。
この記事では、僧侶には、どんな役割があり、どんなリスクがあるのか、
また、どうすれば僧侶になれるのでしょうか、
分かりやすく解説して行きます。
僧侶の年収は?
NHKで2017年に放送された、日本の最大宗派浄土真宗本願寺派のお寺の収入の調査結果では、
1000万円以上 18.8%
600〜1000万円 17.6%
300〜600万円 18.8%
100〜300万円 23.1%
100万円未満 21.7%
となっています。
これをみると、2割が100万円未満、4割が300万円以下ですので、お寺一軒当たりでは、そんなに収入が多いわけではありません。
寺の現状は、以下の記事でも書かれています。
➾SankeiBiz「4割が年収300万円以下」お寺経営の厳しい現実
葬式や法事など、お寺だけでやっていくには、檀家や門徒が約300軒必要とされていますので、地方の僧侶は幾つもの寺院を一人で受け持ったり、他の職業との兼業化が進んでいます。
一番多いのは、保育園や幼稚園、次が教員や公務員です。
ところが、幼稚園や保育園を経営したり、教員や公務員をしているとなると、僧侶の役割は一体何なのかという疑問が起きてきます。
僧侶の大変さ
昔、門徒を2000軒持ったある僧侶が、香樹院という有名な僧侶に、
「門徒は何軒お持ちですか?」と聞きました。
すると香樹院は
「7軒です」
と答えます。
「7軒!?それは大変ですねー」
とたくさん門徒のある僧侶が言うので、香樹院は、
「あなたは何軒なんですか?」
と聞き返します。
「うちは2000軒です」
と答えると、香樹院も、
「それは大変ですねー」
と言ったそうです。
この話で、どちらも
「大変ですねー」
と言っていますが、2人の「大変」はまったく違う意味です。
たくさん門徒を持った僧侶の「大変」は、
「300軒の門徒がないと生活するのは大変なのに、7軒の門徒では大変ですね」
ということで、生活が大変という意味です。
それに対して香樹院の「大変」は、
「7人の人に仏法を伝えて本当の幸せまで導くのでも大変なことなのに、2000人もの門徒があると、本当に大変ですね」
ということで、仏教を伝えるのが大変という意味です。
このように、門徒を財産のように思い、自分の生活のことを考えているような人は、本当の意味の僧侶ではありません。
俗人です。
香樹院のように思うのが本当の僧侶なのです。
では、僧侶のつとめは何なのでしょうか?
僧侶の資格(役割)とは
僧侶といって浮かぶイメージは、寺に住んでいて、袈裟をかけて、手に数珠を持っているお坊さんです。
しかし、袈裟や作務衣など、僧侶らしき服を着ているとか、手に数珠を持っている人が僧侶なのでしょうか?
それとも、葬式や法事で読経している人でしょうか?
「僧」とは、インドの言葉で「サンガ」と言い、もともとは仏弟子の集まりのことでしたが、今はその集まりの一人一人を「僧」とか「僧侶」といわれています。
その意味では、「僧侶」は仏弟子のことですから、仏教の教えにしたがい、自らもさとりを求め、人にも仏教の教えを伝える人のことです。
ですから、袈裟をかけて数珠を持ち、葬式をしていても、葬式を教えられたのは、お釈迦さまではありませんから、僧侶というわけではありません。
僧侶とは、一言でいえば、仏教を正しく人に伝える人のことです。
そのことは以下のビデオでも詳しくお話ししています。
僧侶とは何か教えられたお釈迦さまのお言葉
お釈迦さまは、お亡くなりになる直前、ご遺言に「破邪顕正しない者は仏弟子ではない」と教えられています。
「破邪顕正」というのは、邪を破り、正しきをあきらかにする、ということです。
邪は真理に反するものですから、それを打ち破り、仏の説かれた真理を明らかにすることです。
これは、お釈迦さまのご遺言のようなものですから仏法者にとって大変重いお言葉です。
もとの『涅槃経』ではこのように説かれています。
僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。
もし、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。(出典:『涅槃経』)
「法を壊つ」とは、仏教に反したことを教えることです。
仏教に反したことを教えて仏教を破壊する人があるのを見ながら、「これを黙視し」とは、見て見ぬふりをしている、傍観しているということです。
「呵責駆遣(かしゃくくけん)」とは、それは間違っていますよ、と教えてあげることです。
それは仏教に明かされた真理に反しているということですから、仏教を教えることになります。
このように、仏教に反している人に、仏教を教えてあげない人は、「仏法中の怨」であるとまで言われています。
「怨(あだ)」とは、憎くて顔を見るのも嫌、最も嫌いな者だ、ということです。
そして、「よく駆遣呵責(くけんかしゃく)せば、これ我が真仏弟子なり」と言われていますから、仏教を教える人が、本当の私の弟子である、本当の僧侶なのだということです。
だから、僧侶は、仏教を伝えないより伝えたほうがいい、ということではなく、仏教を伝える人が僧侶なのです。
仏教を伝えるとどうなる?
もし仏教の教えを正しく人に伝えたならば、仏教には、聖徳太子が「世間虚仮 唯仏是真」といわれるように、すべての人が本当の幸せになれる道が教えられていますから、それは何億円出しても聞くことのできない宝を、自らも求め、他の人にも与えることになります。
だからこそ、僧侶のことを僧宝といわれ、三宝の一つに数えられるのです。
三宝について詳しくは下記をご覧ください。
➾三宝とは
宝といわれる僧侶の役割は、葬式や法事ではなく、仏教を正しく人に伝えることなのです。
仏教を正しく人に伝えるには、自分が仏教を正しく知らなければなりません。
それには自ら仏教を聞き、仏教を求めなければ正しい理解はえられませんので、仏教を正しく人に伝えるということは、仏教の教えによって自ら仏道を求め、人にも伝える自利利他の道となります。
「自利利他」とは、自分が幸せになると同時に他人も幸せになるということです。
他人に仏教の教えを話せば話すほど、自分の理解も深まりますから、自利のままが利他、利他のままが自利という、自利利他の、この上なくすばらしい道となります。
ですから僧侶は最高の道です。
在家の人との関係
このように、僧侶の役割は、在家の人に法を施すことです。
法を施すことは、布施の中でも、「法施(ほうせ)」と言います。
仏教の教えを分かりやすくお話しするということです。
それによって、仏教の教えを聞いた人は、本当の幸せへと導かれます。
そうなると、在家の人は、
「この方は本当の幸せへ導いてくださる方だ」
と感謝して、お礼の志、またはお米や大根などを持って来られて僧侶を大切にします。
これは布施の中でも「財施」といいます。
お布施されたお金は「浄財」です。
これは僧侶ではなく、仏様に出されたものですから、仏教を伝えるため、法施のために使われます。
こうしてまた「法施」がなされます。
するとまた「財施」となります。
「法施」も「財施」も仏縁が深まりますから、このサイクルが回転するたびに、みんなが幸せに近づいて行くのです。
このように、僧侶と在家の人は、お釈迦さまの昔から、法施と財施による、布施の関係で成り立っています。
そしてこの仏縁が深まる善い循環が回ることによって、仏教は発展してきたのです。
このすばらしい関係を続けるために、僧侶にとって重要な心構えがあります。
心構え
このすばらしい関係によって、今まで仏教を最も多くの人に広めたのは、今日、日本最大の宗派といわれる浄土真宗の、中興といわれる蓮如上人です。
蓮如上人は、仏教を伝える人の覚悟をこう教えられています。
まことに一人なりとも信をとるべきならば身を捨てよ、それはすたらぬ。
(出典:蓮如上人『御一代記聞書』)
「まことに一人なりとも信をとるべきならば」とは、本当の仏教の教えを伝えるときは、ということです。
「身を捨てよ」とは、
「生活のことなど考えるな」
ということです。
本当の幸せを伝えるというすばらしい使命がありますから、生活を気にしているひまはありません。
しかし、仏法を伝えるのは自利利他の最高の道ですから、生活ができなくなることは決してないのだ、というのが、「それはすたらぬ」ということです。
仏教を伝えていくと、いつのまにか恵まれてくるのです。
僧侶のリスクとは?
ところが、自ら求め、人にも伝えることは、尊くすばらしい道であると同時に、一歩間違えれば大変なことになる面もあります。
お釈迦さまがお亡くなりになられる3カ月前から説かれた『蓮華面経』に、ある予言をされています。
それは、このようなものです。
「獅子身中の虫」とは、百獣の王ライオンには、外には恐れるものは何一つありませんが、自らの身体の中にわく虫の為に倒されるように、仏法を破滅するものは仏法の中にあるということです。
僧侶であると言いながら、お釈迦さまのなされなかった葬式ばかりして、仏教の教えを伝えなかったり、たまに話した思ったら、間違って伝えていては大変です。
ましてや自分は仏教学者だ、大学教授だといいながら、仏教を信じているわけでもなく、お経の内容を否定して自説を展開したりしているのは論外です。
そんな坊主は、山賊よりも恐ろしいと言われます。
山賊なら、身ぐるみはいだ後は、麓へ下りる帰り道くらいは教えてくれますが、坊主は、とるものをとった上に仏教の教えを曲げ、地獄へ突き落とすからです。
全国に7万7千カ寺あるお寺の1万5千カ寺から2万カ寺が住職のいない空き寺となり、仏教が衰退の一途をたどる現代では、教えを説かなかったり、教えを曲げる坊主の責任は特に重大です。
地獄には、坊主の特別の地獄が用意されているといわれます。
僧侶になった場合は、そういう点に気をつけましょう。
僧侶(お坊さん)になる方法
現代では、僧侶になる際に、各宗派で、お寺を通して「得度」という儀式を行うところがほとんどです。
得度の本来の意味は、彼岸(悟りの世界)へ渡るという意味、つまり悟りを開くことでしたが、今では転じて在家の人が、僧侶になる際の仏教との縁結びという意味合いで使われています。
つまり「得度」をすることで、一応は僧侶になります。
しかし、僧侶になっても各寺の責任者である「住職」になったり、またはその宗派の僧侶として公式に認められるには、各宗派で定められた修行や一定の研修を受けなければなりません。
ただし、ほとんどの場合、生計は立ちませんので、定年退職して僧侶になりたい場合などは、退職金などの資金が必要となります。
僧侶の道は、すばらしい道であるからこそ、一歩間違うと大変な恐ろしいことにもなります。
しかし、現代の日本の仏教の流れを変え、再び、多くの人に仏教の救いを届けられるよう、共に立ち上がりましょう。
仏教を伝えるには、まずは、仏教にどんなことが教えられているのか、よく知ることが重要です。
現代では、仏教の教えが聞けるお寺も大学もほぼ皆無なので、本物の仏教の教えについては、分かりやすく電子書籍とメール講座にまとめておきました。
よくよく学んでおいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)