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生きる意味を、知ろう。

悟りを開く方法

悟りを開くには、どうすればいいのでしょうか。
それはつまり、煩悩をなくすにはどうすればいいか、
ということです。

よく禅宗がより所としている『首楞厳経しゅりょうごんきょう』などを通して
お釈迦様に聞いてみましょう。

かいじょうの三学という修行についても解説します。

「悟りを開く」とは

まず仏教で「悟りを開く」とは、転迷開悟てんめいかいごなどとも言われ、
一切の迷いの世界から転じて、涅槃寂静ねはんじゃくじょうの世界に出ることです。

分かりやすく言えば、大宇宙の真理を体得することをいいます。

仏教でいう悟りは、詳しく教えられていますので、下記をご覧ください。
悟りを開くとは?52段階の悟りの境地と意味を分かりやすく解説

そして、悟りを開くには、煩悩を抑え、断ち切っていかなければなりません。
煩悩とは惑や怒りや愚痴などの、自らを苦しめ、悟りを妨げる心です。
煩悩については以下の記事で詳しく解説していますのでご覧ください。
煩悩とは?意味や種類、消す方法を分かりやすく網羅的に解説

悟りを開いたという誤解

よく自分は悟りを開いたと誤解している人があります。
それは特に初心者の人によくありますが、僧侶でもそういう人があります。
例えば、明の時代の『竹窓随筆』にこんな話が出ています。

昔、一老宿言う、
「世を挙げて名を好まざる者有ること無し」と。
よりて長嘆を発す。
坐中の一人作ちて曰く、
「誠に尊諭のごとし。名を好まざる者は、唯だ公一人のみ」と。
老宿欣然として大いに悦びて頤を解く。
己の売る所と為るをを知らざるなり。
名関の破り難きことかくのごときかな。
(出典:袾宏『竹窓随筆』)

これはこんな意味です。
昔、一人の老僧が「世の中みんな、名誉を好まない人はいないなあ」とため息をつきました。
その場にいた一人が立ち上がって、
「本当にそうですね。名誉を好まないのは、先生くらいのものです」
と言うと、この老僧は、とても喜んで「わっはっは」と大笑いした。
この老僧は、自分がだまされていることに気づかなかったのである。
名誉欲というのはこのように打ち破りがたいものなのだ。

名誉欲というのは、欲の一種で、煩悩です。
自分は名誉欲がないつもりになっている人でも、ほめられると喜びます。
それは、人からほめられたいという名誉欲があるからです。
しかも、自分で気づかないところが怖いところです。
煩悩をなくすどころか、土台、煩悩が何かということさえも分かっていないのです。

悟りを開くには、この根深い煩悩をなくさなければなりません。
そのためには、大変厳しい修行が必要になるのです。

戒定慧の三学:悟りを開くのに必要な修行

悟りを開くには「三学」の修行を積まなければなりません。
三学」とは「戒学かいがく」、「定学じょうがく」、「慧学えがく」の3つです。
戒学かいがく」のことを「増戒学」とも「増上戒学」ともいいます。
定学じょうがく」のことを「増定学」とも「増上定学」ともいいます。
慧学えがく」のことを「増慧学」とも「増上慧学」ともいいます。
これを戒・定・慧の三学といいます。

戒定慧の三学についてのお経の根拠

雑阿含経ぞうあごんきょう』にはこう説かれています。

三学あり。何らをか三となす。
いわく増上戒学、増上意学、増上慧学なり。

(漢文:有三学 何等為三 謂増上戒学 増上意学 増上慧学)

また、『四分律しぶんりつ』にはこう説かれています。

三学あり。
増戒学、増心学、増慧学なり。
この三学を学して須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢果を得。

(漢文:有三学 増戒学 増心学 増慧学 学此三学 得須陀洹 斯陀含 阿那含 阿羅漢果)

三学を修して「須陀洹」「斯陀含」「阿那含」「阿羅漢果」という悟りを開くと説かれています。
須陀洹」「斯陀含」「阿那含」「阿羅漢果」というのは悟りの名前です。
阿羅漢については、以下の記事をご覧ください。
阿羅漢あらかんとは

このことを『スッタニパータ』には、こう説かれています。

一切時において戒を成就した者、〔心が〕善く定められた知慧ある者、内に〔正しい〕思弁ある気づきの者は、超え難き激流を超えます。

これはやはり、戒、定、慧によって解脱げだつを得る、つまりさとりを得る、ということです。

この戒、定、慧の三学の関係について、『首楞厳経しゅりょうごんきょう』にはこう説かれています。

心を摂するを戒と為す。
戒によって定を生じ、定によって慧を発す。

(漢文:摂心為戒 因戒生定 因定発慧)

このように戒、定、慧には、戒によって定を生じ、定によって慧を発するという関係があります。
では、戒、定、慧とそれぞれどんなことなのでしょうか?

八正道、六波羅蜜と戒定慧の関係

まず「心を摂する」というのは、心をおさめることです。
煩悩をおさえ、心を統率することを「」といいます。
その戒によって「」を生じます。
」は心を一つにして煩悩をさえぎる修行です。
その定によって慧をおこすことができます。
」は煩悩を断つ修行をいいます。

具体的には、例えば八正道でいえば、
戒は、正語、正業、正命
定は、正念、正定、
慧は、正見、正思惟がおさまり、
正精進は三学に通じるものとなります。

また、六波羅蜜なら、
戒は、持戒忍辱
定は、禅定
慧は、布施智慧
精進は三学に通じます。

この三学の修行によって、
声聞しょうもん縁覚えんがく阿羅漢あらかんの悟りを開き、
菩薩ぼさつ仏のさとりを開くことができます。

ここで仏教に特徴的なのは、定によって、智慧が得られるということです。
お釈迦さまの当時、インドで流行していたバラモン教でも、心を一つにする瞑想はありましたが、それは呪術のためや、超能力をうるためでした。
また、現代では、瞑想とかマインドフルネスといえば、健康や美容のためとか、仕事の効率を上げるため、という目的で行われています。
定によって、智慧を発すというのは、仏教の特徴なのです。

仏のさとりを目指すための方法

特に、菩薩が「慧学」によって大宇宙の真理を悟り、
仏のさとりに至るには、常に心を禅定にとどめ、
何か別のものに心を散らしてはなりません。
これが「定学」です。

この禅定のためには、肉体を養うための職業を持ってはいけませんし、
田畑を耕して多くの生き物を殺してもいけません。
仕事につかず、生計は、お布施によって立てなければなりません。
もしお布施がなければ、死んでも、
悪業を造って生きながらえようという欲の心を起こしてはいけません。

もちろん、肉を食べたり、お酒を飲んだり、結婚したりすることは厳禁です。

首楞厳経しゅりょうごんきょう』には、こう説かれています。

いんを断たずして禅定を修するは、 沙石しゃせきを蒸して飯となさんと欲するがごとし。
百千劫ひゃくせんごう をふるもただ熱沙と名くのみ。
(中略)
肉を食す人は、たとえ心、三摩地さんまじに似たるものを開くことを得るといえども、皆、大羅刹だいらせつとなす。
報いてついに必ず生死の苦海に沈む。仏弟子には非ざるなり。

(漢文:不斷婬修禪定者 如蒸沙石欲其成飯 經百千劫秖名熱沙
食肉人 縱得心開似三摩地 皆大羅刹 報終必沈生死苦海非佛弟子)

いん」とは色欲のことです。
色欲を断たずに瞑想修行をするのは、砂を炊いてご飯にしようとしているようなものだといわれています。
何億年炊いても熱い砂にしかなりません。

また、後半の「三摩地さんまじ」とは、「三昧ざんまい」とか「じょう」ともいわれる仏教の瞑想状態です。
羅刹らせつ」とは、人を騙したりして食べてしまう鬼のことです。
肉を食べる人は、心が三昧のような集中した瞑想状態に入れたとしても、人を食う大きな鬼になってしまう。
その報いとして必ず苦しみの世界に輪廻転生りんねてんしょうしなければならない。
とても仏弟子とはいえない、ということです。

そのため、まず授戒して戒律を守らなければなりません。
このような修行を「戒学」と言います。

悟りを開くまでにかかる期間

では、このような難行をどれ位の期間行わなければならないのかというと、
仏教では凡夫が成仏するまでに
菩薩は三大阿僧祇劫さんだいあそうぎこうの修行が必要と説かれています。

こう」とは、4億3200万年、
阿僧祇あそうぎ」は、10の56乗ですから、
その3倍という気の遠くなるような長期間です。

これについては、アンケートをとったところ、
約70%の方に知られていました。

このことについて、お釈迦様は『優婆塞戒経うばそくかいきょう』に、こう説かれています。

菩薩摩訶薩 ぼさつまかさつ、かくの業を修しおわるを名づけて三阿僧祇劫を満ずと為す。
次第に阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいを獲得す。
善男子、我往昔、宝頂仏の所に於いて第一阿僧祇劫を満足し、然燈仏の所に第二阿僧祇劫を満足し、迦葉仏の所に第三阿僧祇劫を満足す。

(漢文:菩薩摩訶薩 修是業已名爲滿三阿僧祇劫 次第獲得阿耨多羅三藐三菩提 善男子 我於往昔寶頂佛所 滿足第一阿僧祇劫 然燈佛所 滿足第二阿僧祇劫 迦葉佛所 滿足第三阿僧祇劫)

菩菩薩摩訶薩ぼさつまかさつ」とは菩薩のことです。
阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい」とは仏のさとりのことですので、三阿僧祇劫の修行を成就でき次第、仏のさとりを開くことができる、といわれています。
次の「我」というのはお釈迦様のことですので、お釈迦様もまだ仏のさとりを開かれる前、菩薩だった頃には、宝頂仏のもとで一阿僧祇劫、然燈仏のもとで一阿僧祇劫、迦葉仏のもとで一阿僧祇劫、合計三阿僧祇劫の修行の末、仏のさとりを開いたと説かれています。

このことは、部派仏教(小乗仏教)の『大毘婆沙論だいびばしゃろん』や『倶舎論くしゃろん』にも出ていますし、大乗仏教では、龍樹菩薩りゅうじゅぼさつ(ナーガールジュナ)の『大智度論だいちどろん』にも教えられています。

仏のさとりに至るには、三阿僧祇劫かかるのです。

しかも、さとればさとるほど、次の悟りを開くことが難しくなっていきます。
天親菩薩のお兄さんの無著菩薩むじゃくぼさつ の書『 摂大乗論しょうだいじょうろん』によれば、悟りの52位のうち、
41段目までに、第一大阿僧祇劫、
41段から47段までに第二大阿僧祇劫、
そして、52段の仏のさとりに至るまで第三大阿僧祇劫
かかるというスケジュール感です。

お釈迦様は?

では、お釈迦様が、29歳から6年間修行されて、
35歳で仏のさとりを開かれたというのは、どういうことなのでしょうか。
他にも、お釈迦様の弟子たちが短期間に悟りを開いたとか、
お釈迦様にあってすぐに阿羅漢となったとわれますが、
それは、一生にしてできたものではありません。

仏教では、果てしない遠い過去世から私たちは生まれ変わり死に変わり、生死をくり返していると説かれています。

そんな果てしなく遠い過去世から、長期間仏道修行し続けてきたたねまきの結果であったり、 すでに過去に仏のさとりを開かれた、仏さまの化身であったりするのです。

これでは、とても普通の人は助かりません。
修行ができない人でも仏の悟りを開く方法を、私たちは知らなければなりません。

私たち凡夫が仏のさとりを開く方法

今回は、さとりを開く方法について、
戒定慧の三学という修行を中心に説明しました。

戒定慧の三学は、「戒学」、「定学」、「慧学」の3つで、
」は煩悩をおさえ、心を統率することで、
その戒によって「」を生じます。
」は煩悩をさえぎる修行で、定によって「」をおこせます。
」は煩悩を断つ修行です。

しかしこの修行はもの凄く時間がかかり、
一生や二生では全然足りません。

そのため法然上人は、このように言われています。

わがごときはすでに戒・定・慧の三学の器ものにあらず。

私には三学の修行などとてもできない、ということです。

少しも修行のできない私たち凡夫がさとりを開く方法について、
お釈迦様は、どんな人でも仏教を聞く一つで、苦しみの根元をなくして
変わらない幸福になれる道
も説かれています。

それについては、メール講座と電子書籍にまとめてありますので、
見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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