執着を手放す方法
「執着を手放したい」
「執着を捨てる方法が知りたい」
手放したいと思うほど、手から離れないものがあります。
あの人のこと、あの時の判断、今の立場。
朝、目が覚めた次の瞬間には、もうそこにあります。
手放そうとしたのも、一度ではないはずです。
思い切って捨ててみた。
距離を置いてみた。
そのたびに少しは軽くなって、しばらくすると元に戻っていました。
執着は、手放せるものなのでしょうか?
同じものを失っても傷の深さが違う
執着を手放したいと思うのは、執着が苦しみを生み出すからです。
その証拠に、執着していないものをなくしても、何も感じませんよね。
去年もらった粗品のタオルが1枚なくなっても、探しません。
ところが、同じ1枚のタオルでも、
大切な人からもらった記念の品や尊敬する人の形見なら、
引き出しを全部開けて必死で探します。
なくなったものの値段は同じです。
違うのは、こちらがそれをどう握っていたか、です。
同じ会社を辞めても、
次の日から普通に眠れる人と、
何年経っても当時の名刺を捨てられない人があります。
辞めた会社は同じです。
失って受ける傷の深さは、失ったものの側では決まりません。
自分の手が握りしめていた力の強さの分だけ、深くなります。
逆から見ると、もっとハッキリします。
強く握っているものほど、手に入れた時に嬉しかったものです。
その嬉しさと、失う時の苦しさは、別々に出てくるのではありません。
同じ手の、握る強さから出ています。
ですから、嬉しさだけを残して、
苦しさだけをなくすことはできないのです。
裏を返せば、握る力が緩めば、苦しみは軽くなります。
執着を手放せば苦しまなくなる、というのは、その通りです。
世間の人生論も、ここまでは仏教と同じことを言っています。
ところがこの先で、人生論と仏教は分かれます。
その手は、本当に緩むのでしょうか。
執着そのものについては、以下の記事で解説しています。
➾執着の仏教の意味と執着を手放す・断ち切る方法を考察
では、世間では、どうすれば執着を手放せるといわれているのでしょうか。
世間でいわれる3つの手放し方
執着を手放す方法として、よく挙げられるものは、
大きく分けると3つあります。
距離を置きなさい
まず挙がるのが、これです。
目の前からなくしてしまえば、思い出す回数が減っていく、というわけです。
これには効き目があります。
連絡先を消せば、指が勝手に動くことはなくなります。
写真を消せば、開いてしまう夜がなくなります。
では、距離を置いて、何が変わったのでしょうか。
変わるのは、そのものが目の前にあるかどうかです。
10年乗った車を、思い切って手放した人がいます。
手放した日は、身軽になった気がしました。
ところが半年後には、次の車の話をしています。
グレードを調べ、納車の日を数え、小さな傷を気にしています。
手放せたのは、その車でした。
握る手のほうは、そのまま次のものを握っています。
執着する対象が変わっただけで、執着自体は同じなのです。
自分のものではないと考えなさい
すべては借りものだと思えばいい、とも言われます。
自分のものだと思うから苦しいのだから、
預かっているだけだと思えば手放せる、という考え方です。
ところが、私たちは、自分のものでなくても執着します。
借りた傘を電車に置いてきたことに気づいた時、
値段よりも先に、貸してくれた人の顔が浮かびます。
会社の備品を落として割った時は、
自分の物を割った時より、かえって血の気が引きます。
自分のものかどうかで、握り方は決まっていません。
ちゃんとした人ほど、自分のものより預かったものを大切にするように、
自分のものかどうかという所有の話ではないので、
所有をやめても手は緩まないのです。
自分のものではないものに執着している人はたくさんいます。
他に打ち込めるものを見つけなさい
3つ目は、別のものに心を向けなさい、というものです。
夢中になれるものがあれば、それ以外のことについては意識が薄くなっていきます。
これも、実際にそうなります。
そこで、思い切って新しく何かを始めたとします。
初めの何日かは、以前のことを思い出す時間がありません。
やがて道具が欲しくなり、うまくなりたくなります。
そのうち、思うようにいかない日は、家族に当たっています。
意識が薄くなったのは、以前のものに対してです。
握る手は、新しく始めたほうを、同じ強さで握っています。
これもやはり、新しいものに執着しているだけです。
3つとも、効き目があるのに、終わりが来ません。
そのたびに、握っているものが入れ替わっているだけだからです。
このことを『法句経』には、こう説かれています。
猿猴、樹を離るるを得るも、
脱るるを得て復た樹に趣く。
衆人も亦かくの如し。
獄を出でて復た獄に入る。
(漢文:猿猴得離樹,得脱復趣樹。衆人亦如是。出獄復入獄)(出典:『法句経』)
「猿猴」とは猿です。
猿は木を離れることができます。
離れておいて、また木へ登っていきます。
人間も同じで、牢屋を出て、また牢屋に入る、と説かれています。
車を手放して、次の車を握った。
新しいことを始めて、そこで同じ顔をしている。
私たちが繰り返してきたことが、そのまま説かれているのです。
ここには、もう1つ大事なことがあります。
猿が木へ戻るのは、誰かに追われているからではありません。
木のほうが居心地がいいからです。
私たちが握り直すのも、仕方なくではありません。
握っていると安心できるからです。
執着は、私たちが嫌がっているものではなく、
私たちが頼りにしているものです。
では、そもそも仏教で「執着を断つ」といわれているのは、
何をすることなのでしょうか。
仏教で「執着を断つ」とは何をすることか
執着は、仏教では煩悩の1つです。
「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませる心です。
煩悩については、以下の記事で解説しています。
➾煩悩とは?108ある煩悩の意味と、欲が満たされても苦しくなる理由
世間でいう「手放す」は、
今つかんでいる1つから手を離し、対象を変えることです。
仏教でいわれる「執着を断つ」は、そうではありません。
つかむ手そのものをなくすことです。
ですから、そのための修行がしやすいように、
まず大前提として、執着するものが手元にない暮らしに、身体ごと移ります。
それが出家です。
出家は、文字通り家を出ます。
家出ではありません。
仕事も、財産も、家族も置いていきます。
頭を剃り、決められた戒律を守ります。
その数は、男性なら250、
女性なら348あります。
戒律については、以下の記事で解説しています。
➾戒律の意味|五戒・十戒・具足戒の違いと、守れない人はどうなるか
これで執着が断てるのなら、まだ分かりやすいところです。
つらいけれども、道はあることになります。
ところが、そうではありません。
出家して戒律を守ったからといって、
執着がなくなるわけではないのです。
持つものがなくなれば、持たないことのほうに執着が起きます。
自分は守れているという思いが起きれば、
今度はそれを守れていない人を見下します。
体と口は戒律を守れても、心は守り切れないのです。
出家した人の間でも、もめ事は起きます。
持ち物が衣と鉢だけになっても、
その鉢がどちらのものかで、心が動きます。
座る順番が気になります。
自分は何年やってきたという数が気になります。
握るものがなくなったのではなく、
握るものが小さくなっただけなのです。
ここまでは、私たちが見て分かることです。
では仏教では、どう説かれているのでしょうか。
執着をなくす条件は極めて厳しい
執着は、パーリ語では「ウパディ」という言葉で説かれています。
パーリ仏典の1つ、『スッタニパータ』には、こう説かれています。
実に人間の憂いはウパディ(執着)による。
ウパディ(執着)のない人には憂いもない。
このように人間の苦しみの原因は執着だと説かれ、
執着がなくなれば、苦しみがなくなると説かれています。
これは一見、執着をなくせるように聞こえます。
ところが、苦しみの原因だけあって、執着が完全に捨てられるのは、
最高の仏のさとりを開いた時です。
さとりといっても色々ありますので、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
➾悟りを開くとは?意味と52の段階|現代に悟りを開いた人はいるのか
執着は煩悩の一つですが、煩悩が完全になくなるのはいつなのか、
『成唯識論』にはこう説かれています。
謂く、究竟位に、三大劫阿僧企耶に由りて、無辺の難行・勝行を修集し、金剛喩定の現在前する時、本来の一切の麁重を永断し、頓に仏果の円満なる転依を証す。
(漢文:謂究竟位,由三大劫阿僧企耶,修集無辺難行、勝行,金剛喻定現在前時,永断本来一切麁重,頓証仏果円満転依)(出典:護法造、玄奘訳『成唯識論』)
「究竟位」とは究極の位です。
「三大劫阿僧企耶」とは三大阿僧祇劫のことです。
阿僧祇とは10の56乗、劫とは4億3200万年といわれますので、
気の遠くなるような長期間です。
その間、ほとりのない難行かつ、すぐれた修行を行います。
そして最後、仏のさとりを開く一刹那前を、「金剛喩定」といいますが、
その時に一切の煩悩を永遠に断ち切ると説かれています。
その次の刹那に瞬時に得られるのが
「仏果」である仏のさとりであり、完全なさとりです。
出家して一生涯、難行苦行に打ち込むのも大変なことですが、
三大阿僧祇劫ですので、桁が違います。
では、執着を完全に捨てた人は、いないのでしょうか。
一人だけおられます。
それが地球上唯一のブッダである、お釈迦さまです。
『倶舎論』にも、仏のさとりを開かれるまでに三無数劫修行されたと説かれています。
今、我が大師、昔、菩薩の位にありて、三無数劫において幾ばくの仏を供養せしや。
頌に曰わく、三無数劫において、おのおの七万を供養す。
(漢文:今我大師,昔,菩薩位,於三無数劫供養幾仏耶。頌曰,於三無数劫,各供養七万)(出典:天親菩薩『倶舎論』)
我が太師というのはお釈迦さまのことです。
『倶舎論』で菩薩だったのは、お釈迦さまだけですので明らかです。
昔、菩薩だった時、三無数劫という長い期間、どのくらい多くの仏に供養したかと質問すると、
その答えは、一無数劫あたり7万の仏だと答えられています。
このように仏のさとりに至るまでには、生まれ変わり死に変わり、
三無数劫という長期間、修行を続けているのです。
執着を捨てるには、それくらいの修行が必要です。
それはなぜかというと、煩悩というのは、この世で生じた煩悩もありますが、
断ち切りにくいのは過去世から持っている煩悩だからです。
後天的に生じた煩悩よりも、先天的にある煩悩を断ち切るのが
極めて難しいのです。
そのため、この地球上で仏のさとりを開かれたのは、
今日までお釈迦さまただお一人です。
出家して戒律を守り、厳しい修行をした人は、
お釈迦さまが2600年前に仏教を説かれて以来、
数えきれないほどありました。
その中には、一生を山の中で終えた人も、
生涯、家の門をくぐらなかった人もあります。
それでも、煩悩が完全になくなった人は、他にありません。
お釈迦さまに次いで2番目に高いさとりに達したといわれ、
八宗の祖師と尊敬される龍樹菩薩でも、
52段のさとりの中で41段までしか至っていません。
執着はなくせなかったのです。
あなたはひょっとしたら、
遠い過去世から長い間修行をしてきた菩薩なのかもしれませんが、
今生に出家して戒律を守り、厳しい修行に打ち込んで、
その結果、八宗の祖師の龍樹菩薩を超えて、執着をなくせそうですか?
龍樹菩薩どころか、修行の第一歩である出家もできず、戒律も守れない現代人には、
執着を手放すことは、到底できません。
では、執着を握ったままの私には、道がないのでしょうか。
執着あるがままで変わらない幸せに
もし執着をなくさなければ幸せになれないとすれば、
ほとんどの人は幸せになれないことになります。
お釈迦さまは、そんな教えを説かれたのではありません。
すべての人が本当の幸せになれる道を説かれているのが仏教です。
確かに執着は苦しみの原因ですが、
苦しみの根本原因は他にあるのです。
苦しみの原因は煩悩なのですが、もっと深いところに、
苦しみの根元があるのです。
その苦しみの根元を断ち切れば、
煩悩あるがままで変わらない幸せになれると教えられています。
それが煩悩即菩提です。
煩悩即菩提の身になれば、
煩悩がそのまま喜びのタネになり、
「人間に生まれてよかった」と大満足できます。
そしてそれには、出家もいらなければ戒律もいりません。
どんな人も、生きている時になることができます。
では、苦悩の根元とはどんな心なのか、
どうすれば断ち切れるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

