人間とは何か?哲学者の答えと仏教が説く人間の真実の姿
「人間とは何か」
「人間とはどういう存在なのか」
私たちは毎日、人間として生きています。
それなのに、人間とは何かと聞かれると、
うまく答えられないのではないでしょうか。
世間では、パスカルの「人間は考える葦である」や、
アリストテレスの「人間は社会的動物である」など、
哲学者の答えがよく知られています。
ところが仏教では、
人間の真実の姿が、たった1つのたとえで説かれています。
ロシアの文豪トルストイも、
そのたとえに深く心を動かされた1人です。
では、お釈迦さまが説かれた、
人間の本当の姿とはどんなものなのでしょうか?
人間とは?意味と語源
人間とは、一般に「ひと」「人類」のことです。
ところが辞書をひくと、
最初に出てくるのは、仏教で使われる意味です。
にん‐げん【人間】
①仏語。六道の一つ。人の住む界域。人間界。人界。人間道。
②人界に住むもの。ひと。人類。(出典:『精選版 日本国語大辞典』)
仏教では、私たちが生まれ変わり死に変わりする迷いの世界を、
六道という6つの世界に分けて教えられています。
その1つが、人の住む世界である人間界です。
そこから、人間界に住む者を、
人間と呼ぶようになりました。
では、その人間とは、一体どんな存在なのか。
昔から多くの人がこの問いに挑んできましたが、
哲学者は何と答えているでしょうか?
哲学者が答えた「人間とは何か」
「人間とは何か」という問いには、
これまでに、様々な答えが出されています。
代表的なものは、次の3つです。
パスカル「人間は考える葦である」
最も有名なのは、フランスの哲学者、パスカル(1623−1662)の答えです。
パスカル人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。
しかしそれは、考える葦である。
(パスカル『パンセ』)
パスカルは、人間の体は一雫の水でも死んでしまうほど弱いものだといいます。
確かに水で呼吸ができなくなれば、もうそれで死んでしまうほど、弱いものです。
ですが、人間は考えることができます。
宇宙は人間を押しつぶすことができても、
そのことを知りません。
人間は、自分が死ぬことを知っています。
そこに人間の尊厳がある、ということです。
アリストテレス「人間は社会的動物である」

アリストテレス
(前384−前322)
古代ギリシアの哲学者、アリストテレス(前384−前322)は、
『政治学』で「人間はポリス的動物である」と述べています。
ポリスとは、古代ギリシアの都市国家のことです。
人間は、一人では生きられず、
社会の中で、人と関わり合って生きる動物だ、ということで、
「人間は社会的動物である」とも訳されています。
ホモ・サピエンス(知恵ある人)

リンネ
(1707−1778)
生物学では、人間はヒトと呼ばれます。
スウェーデンの生物学者リンネ(1707−1778)は、
ヒトの学名をホモ・サピエンスと名づけました。
ラテン語で「知恵ある人」という意味です。
人間は、他の動物にはない知恵を持った生き物だと
考えられたからです。
確かに、どの答えも、人間の一面を見事に言い当てています。
ですが、これらは人間の性質や能力を説明していても、
人間がどこから来て、どこへ行くのか、
今、どんな所に立っているのかという真実の姿や、
何のために生まれてきたのかという人生の目的までは、
教えてくれません。
ロシアの文豪トルストイ(1828−1910)もそう言っています。
トルストイは、人気作家になった後、突然10年間執筆活動を断ちました。
それは、人間とは何か、生きる意味は何かに悩んだからです。
そして、
文学の中に答えはないか、
哲学の中に答えはないか、
宗教の中に答えはないかと
10年間仕事をやめて探し続けます。
ところが、一向に見つからず、人生に目的はない、
如何なる哲学をもっても、この1行を書き改めることはできない、
とあきらめかけた時、このお釈迦さまの説法を知り、
「東洋の寓話を読んで、大きな衝撃を受けた」
と言っています。
そしてお釈迦さまが明らかにされた
その人間の真実の姿について、こう言っています。
トルストイこれ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。
単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ。
(トルストイ著、中村白葉・中村融訳『懺悔』)
では、お釈迦さまは、
人間の真実の姿を、どのように説かれているのでしょうか。
お釈迦さまが説かれた旅人のたとえ
お釈迦さまは、人間の真実の姿を、
『仏説譬喩経』というお経に、1人の旅人にたとえて説かれています。
その時、コーサラ国の勝光王(波斯匿王)が参詣していたので、
勝光王に向かって説かれたものです。
「人間の実相」のたとえとして、
このような形で語り継がれてきました。
幾億年という昔、1人の旅人が、
ぼうぼうと草の生い茂った
果てしのない広野を旅していました。
秋の寂しい気配がただよっている夕暮れです。
果てしない無人の広野を、とぼとぼと歩いていると、
やがて、道のあちこちに、
白いものが散らばっていることに気づきます。
あちこちにあるので、何だろうと拾ってみると、
それは人間の白骨でした。
なぜこんな所に白骨がたくさんあるのだろう、
と思っていると、
前方から、うなり声が聞こえてきます。
前のほうを見てみると、それは飢えた大きな虎でした。
それを見た瞬間、旅人は白骨のわけを知りました。
この白骨は、今まで自分と同じように野原を旅していた旅人たちが、
あの虎に食べられた残骸だ。
そして自分も白骨になるのだと分かり、
旅人は、くるっと振り向いて、もと来た道を一目散に逃げ出しました。
ところがどこをどう道に迷ったのか、
断崖絶壁に出てしまいました。
崖の上には、1本の松の木が立っています。
その根元から、1本の藤蔓が垂れ下がっていました。
旅人がその藤蔓を伝ってスルスルーッと下りるのと、
虎が松の木にたどり着いたのは、ほとんど同時でした。
虎は悔しそうにうなっています。
旅人は、ここは一体どんなところなんだろうと下を見ると、
下は深さの知れない深海でした。
しかも海からは、赤と青と黒の3匹の毒龍が、
旅人が落ちてきたら食べてやろうと、
落ちてくるのを今か今かと待ち構えています。
ですが時間が経つと、どんなに悲しいことも、苦しいことも、
だんだん慣れてきます。
そういえばお腹がすいてきたと思って、
何か食べ物がないかあたりを見回すと、
今までで一番驚いたことがありました。
上を見ると、命の藤蔓の根元を、
白と黒の2匹のネズミが、
交互にがりがりかじりながら回っているではありませんか。
これは大変だ、追い払わなければならないと
旅人は、藤蔓を揺さぶってネズミを追い払おうとしました。
ところが、白と黒のネズミは、少しも逃げていきません。
その時、ぽたりと何かが顔に落ちてきました。
手に受けてなめてみると、それは藤蔓の根元の蜂の巣から
したたり落ちた、甘い蜂蜜でした。
蜂蜜は、ぽたり、ぽたりと、5滴落ちてきます。
お腹がすいていた旅人は、そのおいしさに、全身がしびれました。
もう旅人は蜂蜜のことしか考えられなくなります。
そして、虎のことも、毒龍のことも、ネズミのことも忘れて、
もっと蜂蜜をなめようと、藤蔓を揺すり続けました。
そこまでお釈迦さまが話をされた時、
勝光王が、参詣者を代表して、
「お釈迦さま、その話、これ以上聞いておれません。
何と怖ろしいことでしょうか。
その旅人は、そんなところにおりながら、
虎のことも忘れて、
深海のことも忘れて、
白と黒のネズミのことも忘れて
蜂蜜のことばかり考えているというのは、
何と愚かなのでしょうか」
と言うと、お釈迦さまは、
「勝光王よ、これはそなたの姿なのだ」
と言われます。
「その旅人のどこが私の姿なのでしょうか」
勝光王が尋ねると、
「いや、そなただけのことではない、これはすべての人の姿なのだ」
とお釈迦さまは言われます。
すると参詣者はみんな、
「どうしてその愚かな旅人が私たちの姿なのでしょうか」
とお尋ねします。
それでお釈迦さまは、
「ではこれは何をたとえているのか話をしよう」
と1つ1つ解説されます。
では、このたとえは、
それぞれ何を表しているのでしょうか。
旅人のたとえが教える人間の真実の姿
このたとえは、私たち人間の真実の姿を、
次のように表されています。
- 旅人……私たちすべての人
- 白骨……他人の死の見聞
- 飢えた大虎……無常の風(やがて必ず来る自分の死)
- 藤蔓……寿命
- 白と黒のネズミ……昼と夜
- 三匹の毒龍……三毒の煩悩(欲・怒り・愚痴)
- 深海……死んだ後の世界(後生)
- 五滴の蜂蜜……五欲
旅人は私たちすべての人
旅人とは、私たちすべての人のことです。
お釈迦さまがこのたとえで説かれたのは、
どこか遠い国の誰かではなく、
すべての人間の真実の姿です。
何万年前の人も、今から生まれてくる人も、
古今東西のすべての人をたとえられています。
今これを読んでいる、私自身の姿でもあります。
人間を旅人にたとえられることはよくあります。
私たちは、どこから来たのかも知りませんが、
毎日どこかへ向かって旅をしています。
昨日から今日、今日から明日へと進んでいますから、
旅をしているということです。
季節は秋の夕暮れ、無人の広野を、たった一人で歩いています。
秋の夕暮れというのは一年の中でも最も寂しい時です。
そして無人の広野というのはひとりぼっちです。
私たちも、家族や友人に囲まれていても、
誰にも言えないことがあります。
それが寂しくしているのです。
たとえ言ったとしても分かってもらえません。
これをお釈迦さまは、「独生独死 独去独来」と教えられています。
独りで生まれ、独りで死んでいかなければなりません。
それを無人の広野と言われています。
だから秋の夕暮れのように寂しくなるのです。
飢えた虎は無常
次に、旅人は野原で白骨を見つけてドキッとしたと言われています。
これは、人が死んだのを見たり聞いたりした時です。
私たちは、身近な人が亡くなると驚きますが、
それを自分のこととは、なかなか思えません。
しかし、たくさんの人たちが死んでいます。
私たちは、白骨を踏みしめて旅をしています。
向こうから飢えた虎が旅人めがけて走ってきます。
この飢えた虎は、無常の風です。
無常とは、常がない、続かないということですが、
中でも私たちにとって最も深刻な無常は、自分の死です。
どんなに若く元気な人にも、無常の風に吹かれたらイチコロです。
誰もが生まれた時から、背後に飢えた大虎がついていて、
虎視眈々と首筋を狙っています。
決して逃げ切ることはできず、やがて必ず喰われます。
いつ襲いかかってくるかも分かりません。
今この瞬間にも襲いかかってきます。
藤蔓は寿命
旅人は飢えた大きな虎から逃げようとして、
断崖絶壁に追い詰められます。
松の木の根元から出ていた細い藤蔓にすがって
スルスルーッと崖にぶら下がります。
その藤蔓は、私たちの寿命を表しています。
70年、80年と聞くと長いように思えますが、
過ぎ去ってみれば、あっという間です。
だから細い藤蔓にたとえられています。
旅人は、そのいつ切れるともしれない細い藤蔓に命を預けて、
深い海の上にぶら下がっています。
私たちもまた、限りある寿命にすがって、
今日という日を生きているということです。
白と黒のネズミは昼と夜
ところがその藤蔓を、白と黒のネズミがかじりながら回っています。
その白と黒のネズミについて、
お釈迦さまは、このように教えられています。
黒白の二鼠は、昼夜に喩う。
(漢文:黒白二鼠,以喩昼夜)(出典:義浄訳『仏説譬喩経』)
「黒白の二鼠は、昼夜に喩う」とは、
白と黒の2匹のネズミは、昼と夜をたとえたものだ、
ということです。
白いネズミは昼、黒いネズミは夜です。
寝ている間も、働いている間も、
テレビを見ている間も、ネズミは休みません。
私たちの命は、一瞬も止まることなく、
昼と夜に削られていきます。
やがて必ずどちらかが藤蔓を噛みきります。
私たちの寿命は今も、白と黒のネズミにかじられています。
3匹の毒龍は三毒の煩悩
藤蔓が切れたら、旅人は深い海へ落ちていきます。
そこで口を開けて待っているのが、
赤と青と黒の3匹の毒龍です。
3匹の毒龍は、欲と怒りと愚痴という、
私たちを最も苦しめる三毒の煩悩です。
欲は、なければないで欲しい、あればあったでもっと欲しい、
どれだけ手に入れても満足できない心です。
怒りは、その欲が妨げられるとカッと腹が立ち、
全てを焼き尽くす心、
愚痴は、因果応報の因果の道理が分からず、
人をねたんだり、うらんだりする心です。
仏教では、この三毒の煩悩で造った業の力によって、
因果の道理に従って死んだ後の世界が生み出されると教えられています。
深海は、その死んだ後の苦しみの世界です。
深海を生み出しているのは、実は三匹の毒龍です。
欲と怒りと愚痴の心が、苦しみの世界を生み出しているのです。
藤蔓が切れた後、自分はどうなるのか。
この死んだらどうなるかの一大事を後生の一大事といいます。
すべての人が抱える、最も大きな問題です。
蜂蜜は五欲
このような絶体絶命のピンチにありながら、
旅人は蜂蜜のことばかりを考えて、
蜂蜜をなめるために夢中で藤蔓を揺さぶっています。
この蜂蜜について、お釈迦さまはこう説かれています。
蜜は五欲に喩う。
(漢文:蜜喩五欲)(出典:義浄訳『仏説譬喩経』)
「蜜は五欲に喩う」とは、
蜂蜜は五欲をたとえたものだ、ということです。
五欲とは、代表的な欲を5つにまとめて教えられたもので、
食べたい・飲みたいという食欲、
お金や物が欲しいという財欲、
異性を求める色欲、褒められたいという名誉欲、
眠りたい、楽がしたいという睡眠欲の5つです。
5滴の蜂蜜は、この5つの欲です。
考えてみると、私たちの毎日は、
朝から晩まで、五欲に引き回されています。
仕事も、政治も、経済も、人間のあらゆる営みは、
どうすればおいしいものが食べられるか、
どうすればお金が入るか、褒められるか、
という5滴の蜂蜜を作る工場のようなものです。
私たちは、この五欲を満たせば幸せになれると思って、
毎日を生きています。
おいしいものを食べた時、お金が入った時、
褒められた時、確かに心は満たされます。
では私たちは、これほど危うい所にいながら、
なぜ平気で生きていられるのでしょうか。
なぜ人間は自分の本当の姿に気づかないのか
私たちが平気でいられるのは、
あの旅人と同じく、蜂蜜に心を奪われているからです。
トルストイが衝撃を受けたのも、これは自分の姿だと深く受け止めたからでしょう。
「よくも人間はこれが眼に入らずに生きられるものだ。
これこそまさに驚くべきことではないか!」と言っています。
今日明日にも死んでしまえば何1つ残らないのに、
この蜂蜜に酔いしれているからです。
世間では、蜂蜜をたくさんなめた人ほど幸せで、
人生の勝ち負けも、なめた量で決まると思われています。
ですが、旅人は蜂蜜をなめ終わってから、
藤蔓が切れるのではありません。
まだなめ足りないと思っている間に、
藤蔓は切れてしまうのです。
蜂蜜をどれだけなめたかで、
人生の勝ち負けが決まるのではありません。
ここで、哲学者の答えに戻ってみると、
その本当の意味が見えてきます。
パスカルは『パンセ』で、人間は考えるために作られているが、
考えるべき順序は、まず自分自身と、
その目的から始めることだと書いています。
考える葦が本当に考えるべきことは、
自分がどんな所に立ち、何のために生きているのか、
ということです。
ホモ・サピエンスの「知恵」も、
先を見通す力のことだといわれます。
目の前の蜂蜜ではなく、
藤蔓が切れた先まで見通してこそ、
本当に知恵ある人といえます。
人間らしい人間とは、
人生の目的を真剣に考える人なのです。
では、人間に生まれた私たちが、
生きている今、本当の幸せになれる道はあるのでしょうか。
人間に生まれてよかったといえる本当の幸せ
仏教は、人間の真実の姿を明らかにされた上で、
あの旅人と同じ私たちを、
そのまま救う道を明らかにされています。
五欲を持ったそのままで、
いつまでも変わらない、本当の幸せになるには、
仏教の力による以外にありません。
それは、死んでからではなく、
生きている今、なることができる変わらない幸せです。
その幸せになると、
人間に生まれたのは、この幸せになるためだったのかと、
ハッキリします。
人生は、行き先のハッキリした、明るい道のりに変わり、
心が晴れ晴れと満たされて、昨日も、今日も、明日も、
すべてが意味のある、かけがえのない1日となります。
人間とは何かを真剣に問うその心は、
本当の幸せへと向かう、大切な第一歩です。
それでお釈迦さまは、人間とはどんなものかを
このように分かりやすく教えられているのです。
では、五欲を持ったそのままでなれる本当の幸せとはどんなもので、
どうすればその身になれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、今すぐ見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


