自分探しの意味と方法

自分探し」というと、リュック1つで世界中を旅することを思い浮かべます。
イタリアのセリエAでプレーした元プロサッカー選手の中田英寿も、引退後、約10年の自分探しの旅をしていました。
自分探し」とはどんなことで、どうすれば本当の自分が見つかるのでしょうか?

自分探しとは?

自分探し」とは、自分とは何かを探し求めることです。

まだ社会に出る前の、モラトリアムの時代ならば、自分とは一体何なのか。
社会でどんな役割を担えばいいのか。
何のためにこれから社会に出て生きていくのかと悩みます。
自分がどんなものか分からなければ、何をしていいのか分からず、何もできなくなってしまいます。

また、学校を卒業したので、とりあえず流れに任せて就職しても、今やっている仕事がしっくりこないことがあります。
毎日が同じことの繰り返しで、こんなことで人生が終わってもいいのだろうか。
本当にこれが自分のやりたいことなのだろうか。
自分とは一体何なのだろうか。
生き方に迷い、自分の生きる意味は何なのだろうかと思い悩みます。

そして、ここは自分の居場所ではないのではないだろうかと思い、自分に納得できません。
それで、もっと自分が納得できる、本当の自分と本当の居場所を求めて旅に出るのです。これが「自分探しの旅」です。

自分がどんなものか分からないのに、充実した人生も幸せな人生もありません。
どんなに科学が進歩しても、人間とは何かを知らずに、人間を幸せにすることはできません。
経済が発展しても、政治が変わっても、人間が何か分からないまま、苦しみをなくすことはできません。
どれだけ科学が進歩しても、医学が進歩しても、経済が繁栄しても、政治が変わっても、人類が未だに幸せになれないのは、自分とは何かが分からないからです。
それは自分探しができないと、政治も経済も科学も医学も、存在意義を失ってしまうということです。
だから人類にとって、自分探しはとても大切なことなのです。

世界中で重視される自分探し

ですから自分探しが大切であることは、昔から世界中で言われることです。

西洋哲学

例えば有名なのは、ギリシアのデルフォイの神殿に刻まれた「汝自身を知れ」という言葉です。
2千年以上昔から、あなた自身を知りなさい、と語り継がれているのです。

また、16世紀のフランスの哲学者・モンテーニュは、エッセーに、「世界で最大のことは自分自身を知ることである」と書いています。

19世紀のデンマークの哲学者で、実存主義の創始者といわれるセーレン・キェルケゴールは、『死に至る病』でこう言います。
自己自身を失うという本当に一番危険なことが世間ではまるで何でもないかのようにきわめて静かに行われうるのである。これほど静かに済まされうる喪失は他に何もない」(死に至る病)

20世紀初頭のドイツの哲学者エルンスト・カッシーラーは、
自己を知ることが哲学的探求の最高の目的であることは、一般に認められているようである。異なった哲学の学派間のあらゆる論争を通じて、この目的はつねに変らないものであり、ゆるがないものであった。──それは明らかに、全思想の支点であり、固定した、動かし得ない中心であった。最も懐疑的な思想家さえも、自己を知る可能性と必要性を否定しなかった
と『人間』という本に書いています。
西洋哲学の全思想の中心であり、最高の目的は、自分探しである、といっても否定はできないのです。

他にも自分を見落としていることを戒められたり、自分探しを勧められたりしています。

エジプトのスフィンクス

エジプトのスフィンクスは、ライオンの身体に鷲の羽、美しい女性の顔をした生き物です。
高い知性を持ち、通りかかる旅人に、一つの謎を問いかけます。
その謎とは「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足となるものは何か」というものです。
これに答えられなければ食い殺されたのです。
この答えは、生まれた頃はハイハイし、やがて立ち上がって二足歩行し、老人になれば杖をつく「人間」ですから、自分のことが分からなければ、生きるに値しない、生きる意味はないということです。
スフィンクスの厳しさは想像を超えています。
自分探しを他の人にしてもらって、誰かに代わりに答えてもらうことも許されませんし、自分探しをした他人からの受け売りの知識も通用しません。
自分で自分探しをして、自分の本当の姿を自分でハッキリと知らなければならないのです。

中国の孔子

中国の儒教を生み出した孔子には、『孔子家語』3巻に、こんな問答が残されています。
魯の国の哀公が、孔子に、
私めは、引っ越しのときに自分の妻を忘れた人がいる、と聞いたことがあります。
そんな人が本当にあるものでしょうか?

と尋ねました。すると孔子は、
妻を忘れる位はまだそんなにひどくはありません。
もっとひどいのは、己を忘れている者です

と答えています。
これは「徙宅忘妻(したくぼうさい)」とか「徙家忘妻(しかぼうさい)」という四字熟語になっています。「徙宅」とは引っ越しのことです。引っ越しで、身近な妻を忘れるのもひどい物忘れですが、もっと身近な自分を忘れていませんか?ということです。

インドのブッダ

約2600年前、インドの仏典にもあります。
ある時、ブッダが林の中の樹のかげに休んでおられました。
その時、同じ林の中で、30人の貴公子達が、銘々奥さんを連れて酒宴を楽しんでいました。
その中に一人だけ独身の人がいて、奥さんがいなかったので、レンタル彼女のような女を連れて加わっていました。
ところが、みんなが疲れている間に、この女性が一行の貴重品を盗んで逃げたのです。
目がさめて驚いた一同は懸命に女を探し回っている時、ちょうど樹のかげにブッダの尊容を見つけます。
みんな近寄って行って、
一女人の通りかかるのを御存知ありませんか」と尋ねました。
ブッダはことの次第をきかれて
そのようなわけか。だが一女人を求めることと汝自身を求めることと、いずれが大事であろうか
と問い返されたので、一同は「それは自分を求めるほうが大事だ」と答えました。
泥棒の女を探すより、自分探しのほうが大事だということです。
みんな迷いの夢からさめた心地でブッダの説法を聞き、お弟子となったと説かれています。

このように、世界中で自分探しの大切さが教えられているのです。
それというのも、自分探しはそんなに簡単ではないからです。

自分が分からない

知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは 己なりけり
といわれるように、知っているようで、一番わからないのが自分自身のことです。

北宋の政治家のひげ

中国の北宋の政治家に、蔡襄(1012-1067)という人がいました。字は君謨といい、蔡君謨(さいくんぼ)といわれます。非常に難しい科挙という国家試験に合格して進士となり、すぐれた政治家となりました。
その蔡君謨は、五丈六尺の長い立派なあごひげでも有名でした。

ある時、天子から「見事なあごひげじゃのう、そのひげは、夜寝るときは、掛け布団の上に出して寝るのか、入れて寝るのか」と尋ねられました。
ところが蔡君謨は、そう言われてみると、分かりません。
毎日自分がやっていることでも、意識しないで身体が勝手に動いているので、改めて聞かれると分からないのです。
はて、確かに分かりません。恐縮ですが、今晩確かめて、明日お返事したいと思います」と言って、ひと晩猶予をもらいました。
さっそく家に帰って布団を敷いて、最初に掛け布団の中に入れて寝てみました。
すると、ひげが押さえつけられて、寝苦しく感じます。
今までこんなことはなかった。やっぱり上に出していたに違いない
と布団の上に出して寝てみると、今度は喉がスカスカ感じて、今までと違うように思います。
やっぱり布団の中だったのかと、ひげをしまってみると、やはりしっくりきません。
この調子で、ひげを出したり入れたり明け方までやっていましたが、とうとうはっきりしませんでした。
翌朝、天子のもとへ行き、
申し訳ございません。実はかくかくしかじかハッキリしませんでした
と正直に報告すると
蔡君謨よ、お前はこの国のことについては詳しいが、自分のことには暗いのお
と言われたと伝えられます。
このように、どんなに頭が良くても、地位が高くても、自分のこととなると分からないのです。
自分探しができていなかったということです。

泥棒組合の親分の発言

こんな話もあります。昔、泥棒組合の親分が、子分達と一仕事をして、山の上に集まりました。
盗んできたものを目の前に積んで、車座になって、打ち上げを始めます。親分が
お前たち、今日はよくやった。山分けする前に、祝杯をあげようじゃないか
というと、みんなで酒を飲み始めました。
ところが、盗んできたものの中に、金杯が一つありました。
その金杯になみなみと酒をつがせて、親分が一杯やります。
やはり金杯で飲むと味が違う、お前達も飲んでみろ
ぐるっと仲間たちに回して回しのみを始めます。
やっぱり金杯は違うな
一人一人飲んでいくうちに、やがて金杯がなくなります。
それを聞いた親分が立ち上がり、
お前ら、今まであった金杯がなくなるということは、この中に泥棒がいるぞ
と腹を立てたといわれます。
これは全員が泥棒で、その親分が自分だということを忘れなければ言えないことです。

泥棒なら、自分の職業を悪いものと認めて恥じているはずだと思いますが、そんなことはありません。
このように、自分が何者なのか分からないのです。

なくて七癖

なくて七癖」といわれるように、自分はクセがないという人でも、7つ位はクセがあるものだといわれます。
あなたのくせは何ですか?」と聞かれると、7つも言えるでしょうか?
むしろ「あの人のくせは?」と聞かれたほうが、たくさんのくせを挙げられます。
自分のことは、それだけよく分からないのです。

それで、自分探しが重要になってくるのです。
ではどうすれば自分探しができるのでしょうか?

自分探しの方法

このような、なかなか分からない自分自身を見るには、鏡を使うしかありません。
しかも、肉体を映し出す鏡ではなく、心を映し出す鏡です。
世の中には、心を映す鏡は、3つあります。
それが、他人という鏡、自分という鏡、法鏡の3つです。
この3つ以外にありません。
それぞれどんな鏡なのでしょうか?

1.他人という鏡

他人という鏡とは、他人と比べたり、他人の言葉によって、自分を知る方法です。
よくいわれる「自分探しの旅」も、この他人という鏡にうつして自分を見ているのです。
旅に出ると、今まで知らなかった文化を知ったり、想像もできなかった考え方をする他人に出会います。
自分と違う文化と比べて自分の文化を知り、自分と違う考え方と比べて自分の考え方を知ることができるのです。

これは一応は自分の姿をうつしてくれますが、大きな欠点があります。
それは、他人には他人の都合があるということです。

他人を見る場合は、必ず都合が影響を与えて、自分にとって都合のいい人なら、「あの人は善人だ」と思いますが、都合が悪い人なら、「あの人は悪人だ」と思います。
自分が得すれば善人で損をすれば悪人という都合が入るのです。

例えば、他国へ旅行に行ったときに、交通違反で、警官に捕まります。
すると、その警官がのように冷酷な人に思えてきます。
そしてこの国は外国人に厳しく差別的な扱いをする悪い文化の国だと思います。
ところが、罰金を払ってしばらく行くと、15分後に強盗に襲われます。
そのとき、さっきの警官が助けに来てくれると、この警官は仏様のように慈悲深い良い人だと思えてきます。
そしてこの国は、外国人にあたたかい、良い文化を持った国だと思います。
その警官は同一人物で、15分前とまったく変わらないのに、自分にとって都合がいいか悪いかで、善人になったり悪人になったりするのです。

ですから、他人という鏡で分かる自分は、相手によります。
どこの国へ行って、誰と会うかにもよりますし、たまたま出会った他人との相性にもよります。
その相手にとって自分が都合がよければ、自分は善人とされ、都合が悪ければ自分は悪人とされてしまうのです。
例えばたまたま、ミャンマーと、アフガニスタン、ベルギーに行き、今まで知らなかった自分が分かることはありますが、それは氷山の一角であって、その「自分探しの旅」でわかった自分を、本当の自分だと確信するのはハイリスクです。

都合を抜きにして他人を見ることはできませんので、他人という鏡では、どうしてもありのままの本当の自分を探し出すことはできないのです。
だから他人の言葉に一喜一憂して不安におののく必要もありません。

では、2番目の、自分という鏡はどうでしょうか?

2.自分という鏡

自分という鏡とは、自分で自分を反省することです。
しかも、最も良心的に、最大限に厳しく自己を見つめての自分探しです。
しかし、それでもありのままの自分を探し出すことはできません。
なぜかというと、私たちには「自惚れ」があるからです。

自惚れというのは、自分を悪く見ることができず、少しでもよく見ようとする心です。
自分で自分を見ると、欲目が入るのです。

自分の子供がスーパーで万引きして警察から家に連絡があると、
うちの子に限ってそんなことをするはずがない」と思います。
自分の子供にさえ欲目が入るのですから、自分は尚更正しく見ることはできません。

七慢(しちまん)

仏教では、「七慢」といわれて、自惚れに7通りあると教えられています。
慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑下慢、邪慢の7つです。

最初の慢(まん)とは、自分よりも劣った相手を見下す心です。 テストで自分が80点で、相手が70点なら、自分のほうが上なのだと見下します。
見下され、馬鹿にされたほうは苦しいですので、恐ろしいです。

2番目の過慢(かまん)とは、同じ程度の相手なのに、自分の方が優れていると誇る心です。
テストでお互い80点でも、本当は私のほうが上なのだと思います。

3番目の慢過慢(まんかまん)とは、自分よりも優れた相手なのに、そうとは認められず、自分の得意分野を持ち出して自分の方が上だと思う心です。例えばテストの点で負けたら、スポーツは私のほうができるといって自惚れます。勉強でもスポーツでも負けたら、自分のほうが人気者だと自惚れます。とにかく自分のほうがすぐれている所を探して見下すのです。

4番目の我慢(がまん)とは、忍耐という意味ではありません。
自分の間違いに気づきながら、どこまでも自分の意見を押し通そうとする心です。
勉強しようとしていた所に、お母さんから「早く勉強しなさい」といわれると、
せっかく今から勉強しようと思っていたのに。もうやらない
とふてくされてしまいます。これが我慢です。

増上慢(ぞうじょうまん)とは、悟りを開いてもいないのに、悟ったと自惚れる心です。

卑下慢(ひげまん)とは、己のお粗末さを謙遜しながら、その謙遜さをニンマリ鼻にかける心です。

邪慢(じゃまん)とは、自惚れる価値のないことを自慢する心です。
例えば、テスト前に、「私昨日全然勉強しなかった」とか、「俺なんかこの1カ月勉強してないよ」と勉強していないことを誇ります。このようなとんでもないことを自慢する心です。

このように私たちは、自分よりも下の人にも上の人にも、いいことも悪いことも自惚れます。
これらの自惚れ心から、私たちは離れることができませんから、自分という鏡で自分を正しく見ることはできないのです。この自分という鏡で分かるのも氷山の一角です。
では、3番目の法鏡とはどんな鏡でしょうか?

3.法鏡

自分とは何か、ありのままに知るには、法鏡しかありません。
法鏡」の「」は真実ということですから、「法鏡」とは真実の自己を映し出す鏡ということです。

この法鏡とは仏教のことです。
仏教とは、仏の説かれた教えということです。
とは、大宇宙にたくさんある悟りでも最高の悟りのことです。
この仏という悟りを開かれた地球上でただ一人の方が、お釈迦さまです。
ですから、仏教とはお釈迦さまの教えのことです。

お釈迦さまは、約2600年前、インドで仏教を説かれて、80歳でお亡くなりになりました。
お釈迦さまがお亡くなりになるとき、お弟子が、
お釈迦さまがこれまで教えられたことは一体何だったのでしょうか?
とお尋ねしたところ、
仏教は法鏡である
と言われています。
仏教には、私たちの本当の姿が説かれているのです。

こんなに人間の心を詳しく説かれているものは他にありません。
マサチューセッツ工科大学の人工知能の権威、マービン・ミンスキー教授は、こういいます。
人工知能をやろうとすれば、当然ながら人間の知能(インテリジェンス)それから心(マインド)の仕組み、働き方が標的(ターゲット)になり、とくに心の研究には仏典が比類なきテキストになる
心の研究には仏教学ぶのが一番いいということです。

このように、仏教を聞けば、本当の自分の心はどんなものなのか知らされてきますから、本当の私たちの姿をうつす鏡が仏教であるということです。

私たちは普通、他人か自分という鏡しか知りません。
他人や自分という鏡は、私たちの正しい姿を映し出しませんので、自分探しをしても、本当の自分は見つからないのです。
それで、どんなに科学が進歩しても、経済が発展しても、未だにみんな苦しんでいます。
それは、この自分探しの方法を知らないところに原因があります。

私たちが仏教を聞くということは、法鏡に向き、法鏡に近づいて行くということです。
そして本当の自分を知るということです。

このことを源信僧都は、
よもすがら 仏の道を求むれば 我が心にぞ たずね入りぬる
と詠んでいます。
禅宗の道元は、『正法眼蔵』の現世公案の巻に
仏道を習うというのは自己を習うなり
と記しています。

仏教を聞き始めたときは、まだ法鏡から遠いので、ぼんやりとしか自分の姿を見ることができません。
それが、仏教を聞いて、法鏡に近づけば近づくほど、自分の姿がはっきり知らされて来るのです。
ですから自分探しのために旅に出る必要はありません。
仏教を聞くことが、最大の自分探しなのです。

ではその私たちの心を仏教にどう説かれているのでしょうか。
特に本当の生きる意味や幸せに関係の深い、私たちの迷いの根元とはどんなもので、どうすれば断ち切れるのかを、小冊子とメール講座にまとめておきました。
これは仏教の真髄ですので、今すぐ見ておいてください。

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