嫉妬しない方法(愚痴について)
好きな人が、他の人と話をしたり、テレビに出てきた芸能人をほめていると、話題に上がった人に対して、嫉妬の心が起きてきます。
そして、そのライバルを恨み呪う心も出てきます。
このような、嫉妬やねたみ、恨み呪いの心を、仏教では「愚痴(ぐち)」といわれ、全部で108ある煩悩の中でも最も恐ろしい、三毒(さんどく)の一つです。
嫉妬すると恨み呪う
女性なら、大好きな彼が、芸能人の誰それがかわいいとか、映画の女優がきれいとか言い出したら、嫉妬の心が起きてきます。
男性でも、大好きな彼女が、芸能人の誰それがかっこいいとか、あのイケメン俳優が好き、と言っていたら、嫉妬して悔しがります。
芸能人や映画俳優なら、高嶺の花で現実味がないのでまだしも、身近な自分の友達をほめていたら、内心穏やかではありません。
嫉妬していることを相手に気づかれたくないですが、
「何でそんなこと言うの?」
と聞きたくなります。
そして、ライバルを恨み、呪い、ワラ人形を作って夜中に「死ねー」と五寸釘を打ち込みたくなります。
恨み呪えば身の破滅
このように、嫉妬すると、恨んだり呪ったりするのですが、恨み呪えば身の破滅です。
ワラ人形を作って五寸釘を打ち込んでも、相手には何のダメージもありません。
それどころか、ワラ人形を作るお金と時間が自分へのダメージとなります。
夜中に五寸釘を打ち込んだ分、睡眠時間が減って、翌日眠くなり、自分が失敗して何のいいこともありません。
恨み呪いから出てくるのは悪い行いですから、因果の道理にしたがって、悪因悪果、自分に不幸や災難がやってくるのです。
そもそも嫉妬心を起こした時点で不安になったり、ライバルを憎んだり、自分が苦しんでいるのです。
なぜ嫉妬の心が起きるのでしょうか?
嫉妬の原因
仏教では、嫉妬やねたみ、恨み憎しみの心を「愚痴」といいます。
愚痴の「愚」は愚か、「痴」も智慧が病だれに入って病院に入っていますから、バカということです。
「愚痴」とは、愚かでバカな心ということなのです。
世間では、「愚痴」というと、何か嫌なことがあったときに、ぶつぶつ不平を言うことを愚痴を言うといいます。しかし仏教ではそれだけではありません。
人の幸せをねたみ、逆に人の不幸を喜ぶ醜い心をいいます。
他人の不幸を喜ぶ心
俗に、人の不幸を喜ぶことを「隣の貧乏雁の味」と言われます。
隣が貧乏で苦しんでいると「お気の毒に」とは言いながら、内心ほくそえんではいないでしょうか。
自分よりすぐれた人や、嫌いな人が苦しんでいると、内心「ざまあみろ」「いい気味だ」と思う心はないでしょうか。
あの程度ではまだまだ足りないから、もっとひどい目に遭ったらいいと思う心がでてきます。
自分以上にうまくやっている人を見ると、足を引っ張ってやりたい心も出てきます。
芸能人なら、結婚したおめでたいでき事より、離婚したりスキャンダルをおこしたほうが、みんなの関心を強くひきつけます。
ニュースなら、残虐性の強い事件ほど、テレビの視聴率はあがり、週刊誌が売れるのは、この醜く汚い私たちの愚痴の心の強さを物語っています。
『悪魔の辞典』には、「幸福とは、他人の不幸を見て喜ぶ快感」と書かれていますが、このような他人の不幸を喜ぶ醜い心を「愚痴」の心と言います。
人の幸せをねたむ嫉妬の心
反対に、自分以上に幸せな人を見ると、内心、苦々しく思う心があるのではないでしょうか。
自分でもいやになってくる、ねたみ、そねみの心が起きてきます。
幸せそうな2人を見ると許せないという、嫉妬の心だけではありません。
恋愛関係でなくても、何でもそうです。
例えば、自分の家は不幸続きで、イライラしている時に、隣の家は新築して、蔵まで建つと、腹立たしく思います。
それどころか、
「隣に何か災難がおきればいいのに、火事にでもあって家が燃えてくれないかなぁ。
もちろん、自分の家には燃え移らないように」
と、隣の不幸を祈る心さえ出て来る始末です。
この勝るをねたむ心を「愚痴」というのです。
嫉妬というのは、この愚痴の一つの表れです。
では、愚痴はなぜ愚かなのでしょうか?
なぜ愚かなの?
お釈迦さまは、なぜ愚かでバカだと言われたのかというと、計算ができないからとか、字が読めないからではありません。
お釈迦さまが愚かだと言われているのは、因果の道理が分からないからです。
因果の道理とは「すべての結果には必ず原因がある」、まかぬたねは生えませんが、まいた種は必ず生えるということです。
その種まきと、結果の関係は、
「善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)」
という関係があります。
善い行いは善い運命を生みだし、
悪い行いは悪い運命を生み出す。
自分のまいたたねは自分が刈り取らなければならない、ということです。
自分よりもすぐれた人には、他人の知らないたねまきがあり、因果の道理に従って、たねまきに応じた結果を受けているだけです。
因果応報の因果の道理には寸分の狂いありません。
自分に起きる結果のすべては、自分の行いが生みだしているのです。
その因果の道理が分からないのが愚痴の心です。
自分よりすぐれた人がいれば、因果の道理からすれば、自分が努力してその人以上に向上しなければならないのに、因果の道理が分からずに、ねたんだり、嫉妬したり、怨んだり呪ったりして、足を引っ張るのです。
また、愚痴の心によって、自分に悪いことが起きると自分を反省することもなく人のせいにします。
そんなことをしても、何も善いことはありません。
愚痴の心によって、人をねたんだり、嫉妬したり、怨んだり、呪ったり、人のせいにしたりするのは悪いたねまきなので、ますます不幸や災難が起きてきます。
愚痴の心は、自分の向上を忘れて、他人の足を引っ張ろうとして自分が不幸になるので、お釈迦さまは、愚かだと言われているのです。
嫉妬しない方法
嫉妬やねたみ、恨みや呪いの原因は、因果の道理が分からないところにありますから、因果の道理が分かれば、嫉妬は起きません。
ライバルが現れたときは、自分の至らない点を見つけて、そこを向上して、ライバル以上の自分になれば問題はありませんから、嫉妬の心も起きません。
恨み呪ってライバルの足を引っ張ろうとても、無駄ですし、心の狭い人と思われて、逆効果です。
逆に、至らない自分にもかかわらず、今のような幸せがあることに感謝して、反省・努力し、向上するのが大切です。
因果の道理をよくよく知りましょう。
それでも好きな人をとられた場合は、大変なショックを受けます。
一晩中一睡もできずに、目を真っ赤にはらして、天井を見ながら、朝を迎えるかもしれません。
そんなときは、もし好きな人が他の人になびくとすれば、必ず何か、自分に至らない点がありますから、その自分のたねまきを見つめて、やがて相手が「あなたと結婚すればよかった」と後悔するくらい、反省・向上しましょう。
どんなことでも、自分を磨く糧とすれば、よりよい人生を築くことができるのです。
なぜお釈迦さまは愚痴を教えられたの?
ではなぜお釈迦さまは、このような愚痴の心を教えられたのでしょうか?
それは、本当の自分の心を知らないまま、本当の幸せになることはできないからです。
仏教を聞いて、その教えにしたがって進んで行きますと、今まで知らなかった自分の姿が知らされて来ます。
自分の本当の心が知らされることは、苦しい、恐ろしいことです。
しかし、自分の姿が知らされて、進んでいった先に本当の幸せがあるのです。
では、本当の幸せとはどんなもので、どうすれば本当の幸せになれるのか、については、仏教の真髄ですので、メール講座と小冊子に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んでみて下さい。