なぜ人は死ぬのか?科学と仏教から分かる本当の理由
「なぜ人は死ぬのか」
「どうして人は死ななければならないのか」
大切な人を亡くした時や、
自分もいつかは死ぬのだと気づいた時、
そう問わずにいられなくなることがあります。
科学では、細胞の寿命や死の遺伝子、
進化の仕組みから、人が死ぬ理由を説明しています。
また、死は自然の摂理だから、
受け入れるしかないともいわれます。
ところが仏教では、
人が死ぬ本当の理由が、はっきりと教えられています。
それは、誰もが知っているのに、
ほとんどの人が見過ごしていることです。
しかもそれが分かると、
「なぜ死ぬのか」よりも、
もっと大切な問いが見えてきます。
では、仏教で教えられる、
人が死ぬ本当の理由とは何なのでしょうか?
「なぜ人は死ぬのか」と問わずにいられない時
子供に、「どうして人は死ぬの?」と聞かれて、
答えに困ったことはないでしょうか。
かわいがっていた金魚が動かなくなった時や、
おじいちゃんのお葬式の後に、
子供は、まっすぐにそう聞いてきます。
大人になると、
そんなことは、あまり口にしなくなります。
人はいつか死ぬものだと、
頭では分かっているからです。
ですが、身近な人が突然亡くなると、
その問いが、また心の底から湧いてきます。
さっきまで一緒に朝のテレビを見ていた家族が、
出かけた先で事故に遭い、
そのまま帰らぬ人になることもあります。
そんな時「どうしてあの人が死ななければならなかったのか」
と、思わずにはいられません。
生きる意味さえ、見失いそうになります。
自分自身の死も同じです。
人は必ず死ぬと頭では分かっていても、
本心では、それを受け入れられません。
死ぬのが怖いという気持ちも、
なくなることはありません。
いざ自分が死ぬとなると、
多くの人が「どうして」と口にするといわれます。
「なぜ人は死ぬのか」という問いは、
頭で分かっていることを、
心がどうしても受け入れられない時に
出てくる問いなのです。
では、この問いに、
世間ではどのように答えられているのでしょうか。
科学で説明される人が死ぬ3つの理由
現代では、人が死ぬ理由は、
主に生物学や医学から説明されています。
代表的なものは、次の3つです。
- 細胞が分裂できる回数には限りがある
- 細胞には自ら死ぬ仕組みがある
- 死は次の世代のためにある
細胞が分裂できる回数には限りがある
私たちの体は、約37兆個の細胞でできています。
その細胞の多くは、分裂を繰り返して、
新しい細胞と入れ替わっています。
ところが1961年、
アメリカの生物学者レナード・ヘイフリック(1928−2024)は、
人間の細胞が50回ほど分裂すると、
それ以上は分裂できなくなることを発見しました。
これを「ヘイフリック限界」といいます。
その原因の1つが、
染色体の端にあるテロメアという部分です。
テロメアは、細胞が分裂するたびに短くなり、
ある長さより短くなると、
細胞はもう分裂できなくなります。
そのため、テロメアは「命の回数券」とも呼ばれます。
医学がどれだけ進歩しても、
人類が昔から求めてきた不老不死は実現していません。
記録に残る最も長生きした人でも、
フランスのジャンヌ・カルマン(1875−1997)の122歳です。
人間の寿命には、限りがあります。
細胞には自ら死ぬ仕組みがある
また、細胞には初めから、
自ら死んでいく仕組みが組み込まれています。
1972年に名づけられた、アポトーシスです。
もとはギリシア語で、
枯れ葉が木から落ちていくことを意味します。
例えば、オタマジャクシがカエルになる時に
尻尾がなくなるのは、
尻尾の細胞が自ら死んでいくからです。
私たちの手の指も、母親のお腹の中にいる間に、
指と指の間の細胞が死んでいくことで
形づくられます。
薬学者の田沼靖一(1952−)は、
『ヒトはどうして死ぬのか』で、
私たちの細胞には、死ぬための遺伝子が組み込まれていると
説明しています。
私たちの体は、生まれた時から、
死を前提にできているということです。
死は次の世代のためにある
では、なぜ生き物には、
そんな死ぬ仕組みがあるのでしょうか。
東京大学の生物学者、小林武彦(1963−)は、
『生物はなぜ死ぬのか』で、
生き物は、死んで次の世代に場所を譲ることで、
様々な変化を生み出し、進化してきたと述べています。
死があったからこそ、
生命は今日まで続いてきたということです。
そこから、死は、命を次の世代につなぐという
大切な役割を果たしているのだから、
自然の摂理として受け入れよう、
ともいわれます。
確かにどれも、人が死ぬ理由の一面を明らかにしています。
ですが、これで私たちの心にある「なぜ」という問いは、
なくなるのでしょうか。
仕組みが分かってもなくならない「なぜ」
どれだけ死の仕組みが分かっても、
心にある「なぜ」はなくなりません。
「なぜ」という問いには、2つの意味があるからです。
1つは、「どのようにして」という意味です。
もう1つは、「何のために」という意味です。
例えば、遠足の日に雨が降って、
子供が「なぜ雨が降るの?」と泣いていたとします。
そこで、水蒸気が冷えて雲になり、
雨粒になって落ちてくるのだと説明しても、
子供の涙は止まりません。
子供が知りたいのは、雨の仕組みではなく、
「なぜ楽しみにしていた今日、雨が降るのか」
ということだからです。
仕組みをどれだけ詳しく説明しても、
その子の「なぜ」に答えたことにはなりません。
科学が答えているのは、
1つ目の「どのようにして死ぬのか」です。
大切な人を亡くした人が知りたいのは、
テロメアやアポトーシスのことではありません。
「なぜ、あの人が死ななければならなかったのか」
「なぜ、自分も死ななければならないのか」
という、2つ目の「なぜ」です。
そしてこの「なぜ」は、やがて
「何のために生きるのか」という、
生きる目的への問いにつながっていきます。
次の世代のために死ぬのだといわれても、
私たちは「人類」という種として
死ぬのではありません。
一人ひとりが、かけがえのない自分として死んでいきます。
「人類の進化のために、あなたは死んでください」
と言われて、納得できる人はいないでしょう。
また、「自然の摂理だから仕方がない」というのも
答えではありません。
答えが出ないので、問うのをやめただけです。
では、仏教では、
なぜ人は死ぬと教えられているのでしょうか。
仏教で教えられる人が死ぬ理由(生者必滅)
仏教では、人が死ぬのは、
生まれたからだと教えられています。
そんなことは当たり前だと思われるかもしれません。
ですが、その当たり前のことの重さに、
私たちはほとんど気づいていません。
お釈迦さまが亡くなられる直前、
最後の食事を供養した純陀が、
どうかいつまでもこの世にいてくださいと、
涙ながらにお願いしました。
その時、お釈迦さまが説かれた教えが、
『涅槃経』にこう記されています。
一切の諸の世間、生ある者は皆死に帰す。
寿命無量なりと雖も、要ず必ず当に尽くること有るべし。
(漢文:一切諸世間,生者皆帰死。寿命雖無量,要必当有尽)(出典:『大般涅槃経』)
「一切の諸の世間」とは、
人間の世界だけでなく、あらゆる世界のことです。
「生ある者は皆死に帰す」は、
生まれた者は皆、死んでいくということです。
「寿命無量なりと雖も」とは、
天上界の神々のように、何万年、何億年という、
計り知れない寿命があったとしても、という意味です。
そして「要ず必ず当に尽くること有るべし」と、
その寿命も必ず尽きる時がくると説かれています。
どんなに長い寿命があっても、
生まれた人で、死なない人は一人もいません。
お釈迦さまご自身も、80歳でこの世を去っていかれました。
これを「生者必滅」といいます。
よく会者定離と並べて、
「生者必滅、会者定離」ともいわれます。
死の原因について、パーリ仏典にはこのようにハッキリ説かれています。
これこそ老死の因、その因縁、その集、その縁たり、いわく生これなり。
(出典:『大縁経』《南伝大蔵経》第7巻 長部経典二p.4)
死の原因であり、起因であり、その生じる源であり、その間接要因であるもの、
それが生である、ということです。
医師が書く死亡診断書には、
死因として、病名や事故の種類などが書かれます。
ですがそれは、どのようにして亡くなったかであって、
死ぬ理由ではありません。
病気を1つ治しても、事故を1つ避けても、
死そのものがなくなることはないからです。
死ぬきっかけは数えきれないほどありますが、
死ぬ理由は、生まれたこと1つなのです。
お釈迦さまが、
迷いの世界の因果を12に分けて明らかにされた十二因縁でも、
生まれることによって、老いと死があると教えられています。
死ぬのは、生まれたことが原因です。
そこに、病気や事故、戦争などの色々な縁が来て、
死ぬという結果が生じます。
大きな手術が成功した時や、
事故から奇跡的に生還した時、
私たちは「助かった」と言います。
ですが、それは死の縁を1つ回避しただけで、
死ぬ原因はなくなっていません。
生まれた人は必ず死ぬのですから、
本当は「一時的に助かった」ですし、
もっといえば、「死が少し先に延びた」と言うべきでしょう。
料亭の水槽で泳いでいる海老は、
網が入ってくると、捕まるまいと慌てて逃げ回ります。
ところが、仲間の1匹がすくい上げられると、
残った海老は、何事もなかったように落ち着いて泳ぎ始めます。
ですが、2〜3日のうちには、
どの海老も料理されていきます。
本当に「助かった」といえるのは、
水槽から出られた時だけです。
私たちも、身近な人が亡くなると、
「なぜ人は死ぬのか」と問いながら、
しばらくすると、自分はまだ大丈夫だと、いつもの毎日に戻っていきます。
ですが生まれた以上、死から逃れられる人は、一人もいません。
生まれたから死ぬのだとすれば、
私たちは、死ぬために生まれてきたのでしょうか。
本当に問うべきは「なぜ生まれてきたのか」
仏教では、私たちが人間に生まれてきたのは、
ただ死ぬためではなく、果たすべき目的があるからだと教えられています。
死ぬ理由が、生まれたことにあるのなら、
「なぜ人は死ぬのか」という問いは、
「なぜ人は生まれてきたのか」
という問いと、1つになります。
生と死は、別々のものではないからです。
「命を次の世代につなぐため」
という答えもあります。
ですが、命のバトンを受け取った子供も、
やがて、また次の世代にバトンを渡して死んでいきます。
それだけなら、ゴールのないリレーを、
いつまでも走り続けるようなもので、
何のために走っているのかは、誰にも分からないままです。
しかも、死ねばすべてが終わるのでもありません。
仏教では、生きている間の私たちの行いは、
業力という目に見えない力となって、
阿頼耶識という蔵のような心に収まると教えられます。
そして死んだ後、その業力によって、
次の世界が生み出されるのです。
私たちは、果てしない昔から、
生まれては死に、死んでは生まれる
生まれ変わりを繰り返しています。
その中で、今、人間に生まれてきたのは、
滅多にない有り難いことなのです。
では、何のために人間に生まれてきたのかといえば、
「人間に生まれてきてよかった」と心から喜べる、
変わらない幸せになるためです。
これが、すべての人に共通する人生の目的です。
「なぜ人は死ぬのか」という問いの奥には、
自分は何のために生まれてきたのかを知りたいという、
誰もが心の底から求める深い願望があったのです。
では、生まれてきてよかったと心から喜べる本当の幸せとは、
どんな幸せなのでしょうか。
生まれてきた意味が分かる本当の幸せ
仏教に説かれる本当の幸せとは、
一度その身になれば、いつまでも変わらない幸せです。
しかもそれは、遠い未来のことではなく、
生きている今、その幸せになることができます。
その身になった時、
「人間に生まれてきたのは、このためだったのか」と、
生まれてきた意味が、ハッキリと分かります。
これまで歩んできた道のりも、
出会ってきた人たちとの日々も、
すべてがこの幸せにつながっていたと知らされて、
心の底から喜びに満ち溢れます。
大切な人を思い、自分の人生と真摯に向き合って、
真剣に問いの答えを求めてきたその心こそ、
本当の幸せへ導く心です。
お釈迦さまは、どんな人でもその本当の幸せになれる道を説かれているのです。
では、その本当の幸せとはどんな幸せで、
どうすればその幸せになれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

