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生きる意味を、知ろう。

仏教の死生観

「死生観(しせいかん)」とは、死に対する考え方です。

誰もが100%確実に直面する死ですが、
自分の死に対する考え方によって、おのずと今の生き方も変わって来ます。
正しい死生観によって、臨終に後悔のない人生を過ごせます。

哲学や、神道、特に仏教についての死生観を詳しく解説します。

死生観とは

死生観とは、死に対する考え方のことで、様々な考え方があります。

たとえば西欧では、「メメント・モリ」という言葉があります。
メメント・モリの意味は「死を忘れるな」です。

なぜ死を忘れるなと言われるのか、下記をご覧ください。
➾メメントモリ(死を想え)の意味を哲学と仏教から解説

さらに死について考えることで、
「最期をどこで迎えたいか」ということを考える人も多く、
自宅で迎えたいという人が多いことが分かります。

最期を迎えたい場所
最期を迎えたい場所


(引用:内閣府『平成27年版高齢社会白書』)

「安らかに死にたい」という思いがあり、自宅が一番安心できる場所だからでしょう。

しかし実際の調査から分かるのは、1950年度は自宅で死ぬことが多かったのですが、
現在は病院で死ぬことが多くなります。
(出典:厚生労働省看取り参考資料)

また安楽死・尊厳死という考え方もあります。
自らの決断で、苦痛の伴わない方法を使って死に至らせることです。

安楽死についてはこちらもご覧ください。
➾ドクター・キリコvsブラック・ジャック、安楽死問題に終止符

死生観と聞くと、
「余生をどう過ごすか」
「どこで死ぬか」
「どのような方法で死ぬか」
など考えがちですが、
これだけでは死の際に大きな後悔をしてしまいます。

人生の最期に後悔しないために、もっと根本的な問題として
「死とは何か」について以下で解説していきます。

死亡率100%

どんな人も必ず死にます。

人類史上、死ななかった人は一人もいませんので、人間の死亡率は100%です。
やがて自分も死んでいかなければなりません。

死んだらどうなるのでしょうか?

誰も、見てくることはできませんので、死んだらどうなるかは分かりません。

しかし、よく分からないところへ行くのは、不安になります。
文化も言葉も違う外国に行くのさえ、よく調べてからでないと不安になりますから、事前に色々と調べたり、準備したりします。

ましてやまったく分からない「死」です。
生きているときに手に入れたものも、みんな置いて死んでいきますし、死んだらもう帰ってこれません。
取り返しはつかないのです。

死に対してどう考えるかという「死生観」がなければ、死が近づくにつれて
「死んだらどうなるのか」
という不安が高まるばかりです。

また、どんな死生観を持つかによって、この世でどんな準備をするのか、元気なときからどんな生き方をするのかにも、大きな影響を与える問題なのです。

では、死についてみんなどう考えているでしょうか。

現代人によくある死生観

現代人によくあるのは、
「死んだら無になる」
という死生観です。
これは死後の世界はない、と思う人だと思いますが、
アンケートをとると、全体の3割近くあります。

これは大きな成果をあげた科学の影響で、「物質である肉体が心を生み出しているのだから、肉体が死ねば、心もなくなるのだろう」という推測から信じられていることです。
しかし、科学が取り扱うのは物質と心では物質のみで、心は対象としません。
物質が心を生み出すというのは科学的でもなければ、実は何の根拠もないのです。

「無になる」という言葉はおかしい

また「無になる」という言葉もおかしいのです。
哲学者の池田晶子はこのように述べています。

「無になる」ということ言葉自体が変です。
「無になる」とはつまり「無に成る」ですよね。
「成る」のだから、やっぱりそれは「無」ではなくて「有」でしょう。
「無になる」という言表自体が、実は不可能なものなのです。

「無になる」というわずか4文字の中で、よく考えると変な言葉の使い方がなされているのです。

生きる意味が分からなくなる

しかしながら、もし死んだら無になるとすれば、なんのために生きるのかは分からなくなります。

ちょうど、滝壺へ向かう船の上にいるようなものです。
船はすごいスピードで流れて行き、最後は船もろとも跡形もなく滝壺へ落ちるようなものです。
その間何をやったらいいのでしょうか?

アカデミー賞を受賞した2008年の映画『おくりびと』では、本木雅弘演ずる主人公・小林大悟が、河をのぼるサケや河に浮いているサケを見て、
「なんかせつないですよね。死ぬために昇るなんて」
「どうせ死ぬなら何もあんなに苦労しなくても」
と言います。

死んだら無になると思ったら、そんなに頑張って生きるのは何のためなのか、生きる意味が分からなくなるのです。

では、西洋哲学では、死についてどのように考えているのでしょうか。

哲学の死生観

死は哲学でも昔から大きなテーマの一つでした。
例えば哲学の最高権威の1人、プラトンは、『パイドン』に、
「本当の哲学者は死と死にゆくことを追及する」
と言っています。
他にも、ストア学派、モンテーニュ、ブルーノ、デカルト、パスカル、スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、フォイエルバッハ、ニーチェなど、多くの哲学者にとって、死は重要なテーマでした。

ただ中には、死んだときには、脳も機能を停止し、何も感じることはできなくなっているので、誰も死を経験することはできない。
だから死を考えるのは無意味という人もあります。

それでも、モンテーニュは『随想録』に、こう言っています。

モンテーニュモンテーニュ

哲学するとは死を学ぶことである。
(モンテーニュ『随想録』)

ショーペンハウアーなどは、主著の『意志と表象としての世界』に、このようなことまで述べています。

ショーペンハウアーショーペン
ハウアー

すべての宗教や哲学の大系は主に死についてわれわれを慰めるためのものであり、かくして第一義的には確実な死の恐怖への対策である。
(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)

ノーベル賞を受賞したイギリスの哲学者、バートランド・ラッセルは、やはり死について考えなければならないと考察しています。

ラッセルラッセル

全く死に対して心構えができていないものに、このことが起った時は、心の平静を失うことはひどいようである。
だから私たちは、死をただ無視するのではなくて、これに対する態度を何か決めておくように努力しなければならぬ。

(バートランド・ラッセル「克己心と健全な精神」『怠惰への讃歌』所蔵)

また、実存主義の哲学では、死を積極的に考えようとします。

マルティン・ハイデッガーは、このように言っています。

死を忘れて生きているほとんどの人の生き方は堕落である。
(マルティン・ハイデッガー)

また、カール・ヤスパースは、こう言っています。

カール・ヤスパースカール・
ヤスパース

生きることを学ぶことと、死ぬことを学ぶことは一つである。
(引用:カール・ヤスパース『哲学入門』)

ところが哲学ではここまでは分かったのですが、では、死に対してどうすればいいのかは、分からないままです。

このように、哲学では、死に対する不安もなくなりませんし、今をどう生きればいいのかも分からないのです。

では、日本人は死についてどう考えているのでしょうか?

神道の死生観

日本の神道では、死んだら神のもとへ帰る、祖先が霊となって私たちを守ると言っています。

神道は祖先を崇敬する信仰が基になっています。
氏族の始祖を氏神(うじがみ)として崇敬し、祖先を自分たちの守り神として崇敬します。
このように人は死後、家族や親族を見守る霊となって祖先神の仲間入りをすると考えられます。

しかし実際のところ、死は「ケガレ」(死穢(しえ)といいます)として、忌み嫌われます。
(参考:延喜式「臨時祭」に死穢に対する規定)

甲の家族に死穢が発生した場合、乙が甲の家で着座すると乙の家族全員が汚染し、乙の家に丙が着座すると丙1人が汚染、その家族に汚染は及ばない。しかし乙が丙の家で同座すると丙の家族全部が汚染するが、丁が丙の家で着座しても丁はもう汚染されないという。

葬式に行って帰ってくると、家に入る前に塩で「清める」人があります。
清めるということは、ケガレを清めるということですから、死がケガレなのです。

映画『おくりびと』でも、死者を棺に納める納棺師になった主人公は、久しぶりにあった昔の友人から
「噂になってるぞ、もっとましな仕事になってくれ」
と言われます。

広末涼子演ずる主人公の奥さんからも、
「こんな仕事して、恥ずかしいと思わないの?」
と言われ、なだめようとすると、
「さわらないで、けがらわしい!」
と言って、奥さんは実家へ帰ってしまいます。

このように死が忌み嫌われるのも、日本の国土を生んだというイザナギが、死んだ妻・イザナミへ会いに死後の世界である黄泉の国へ行きますが、ウジ虫がわいて変わり果てた妻の姿に驚いて逃げ帰るという話があるからかもしれません。

このように、神道では、死はケガレとして、忌み嫌われる伝統があるのです。

仏教の死生観

仏教では、死を見つめることを繰り返し教えられます。
これを「無常観(むじょうかん)」といいます。
「無常」とは、常がない、続かないということで、諸行無常といわれるように、この世の一切は続きません。
ですが、その一切の中でも、最も大きな影響を与える無常は自分の死です。
ですから無常といえば、その本当の意味は、死のことです。
「観」は、感じるではなく、観じるということで、
見つめるということです。

そこで、仏教では、死について様々な角度から教えられています。
例えば、有名なのは「三人の妻」です。

三人の妻と別れる

「死」の基本的な性質について、『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』にたとえを使って、こんな話が説かれています。

昔、ある金持ちの男に、三人の妻がいました。
1番目の妻を一番かわいがって、
寒いと言えば温め、暑いと言えば冷やし、
贅沢の限りを尽くさせて、一度も機嫌を損なうことはありませんでした。

2番目の妻は、1番目の妻ほどではありませんでしたが、
色々と苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、
いつも自分の側において楽しんでいました。

3番目の妻には、何か寂しい時や、悲しい時、困ったことがあった時だけ、逢って慰めてもらっていました。

やがて光陰矢の如し、あっという間に月日が流れ、
その男が不治の病床に伏すようになります。
刻々と迫りくる死の影に怖れおののいた彼は、1番目の妻を呼んで心の寂しさを訴え、
「ぜひとも死出の旅路に、一緒について来てくれないか」
と頼みました。
ところが1番目の妻から、
「他のこととは違って、死の道連れだけは、
お受けすることはできません
」
とすげなく断られ、男は絶望の谷底に突き落とされます。

それでも寂しさに耐えかねた男は、2番目の妻に一緒についてきて欲しいと頼んでみます。
ところが2番目の妻も、
「あなたがあれほどかわいがっていた1番目の奥さんでさえ、
嫌だって言ってたじゃありませんか。
それなら私はなおさら、まっぴらごめんです。
そもそも私は、あの時、あなたの押しがすごく強かったから結婚しただけで、
私からお願いしたわけじゃありません
」
思った通り、2番目の妻の返事も冷たいものでした。

男は、おそるおそる3番目の妻にすがります。
すると、
「日頃のご恩は決して忘れてはいません。
ですから、村はずれまでご一緒しましょう。
でもその後はどうか、ご容赦ください
」
と突き放されてしまいました。
(出典:『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』)

これは何をたとえられているのかというと、
男というのは私たちすべての人のことです。
1番目の妻は肉体、
2番目の妻は金銀財宝、
3番目の妻は父母、妻子、兄弟、友人など
をたとえられたものです。

いよいよ死んでいく時には、それまで命にかえて、大事に愛し求めてきた一切のものから見放され、何一つ心の支えになるものがなかったことに、驚き悲しむのです。
これを現代では「スピリチュアル・ペイン」ともいっています。

これをパーリ仏典の『相応部(そうおうぶ)』には、こう説かれています。

穀物も富も金銀も はた如何なる所有も
奴隷、下男、傭人 及びその他の従属者も
すべて従いて行くべからず。
すべてを捨てて行くなり。

死んでいく時には、食べ物もお金も宝石も、どんな持ち物も、持っていけない。
ヘルパーさんも、従業員も、とりまきも、家族も、誰一人連れていけない。
死ぬ時は、すべてを置いて、たった一人で旅立つのだ、ということです。

また『大方等大集経(だいほうどうだいじゅうきょう)』にはこのように説かれています。

妻子、珍宝、及び王位、命終の時に臨みてしたがわず。
(漢文:妻子珍寶及王位 臨命終時無隨者)

今まで大事にしてきた家族や、必死でかき集めたお金や財産、寝ずに努力して高めた地位も、死ぬ時には何一つ持っていくことはできない、ということです。
人生の夢が覚めて、いよいよ死んでいかねばならないという時には、
夢の中でかき集めてきた妻子も財宝も消えてしまいます。
丸裸で孤独に死出の旅路に足を踏み入れなければならないのです。

そうなると、やがて必ず死んで、手に入れたものすべてと別れていかなければならないのに、一体何のために生きるのか、分からなくなります。
死を見つめる無常観によって、生きる意味も問題になってくるのです。

呼吸の間にある

仏教で、死についてもう一つ繰り返し教えられているのは、「無常迅速」ということです。
無常迅速とは、死はあっという間にやってくるということです。
普通は死といえば、
「確かに自分も死ぬかもしれないけど、まだまだ先のことだろう」
と思っています。
死は30年も50年も先のことのように思って、まったくのノーマークです。

ですが、1年後も生きていると断言できるでしょうか?
1年以内に事故や病気で死ぬかもしれません。
1ヶ月後も生きていると言えるでしょうか?
1ヶ月以内に何かの拍子に死ぬ可能性もあります。
では、1週間後には生きていると断言できるでしょうか。
1週間もあれば、十分死ぬ可能性があります。
では、明日は生きていると断言できるでしょうか?
今晩死ねば、明日の命もありません。
このことをお経にはこう説かれています。

出る息還らざればすなわち後世に属す。
人の命、呼吸の間にあるのみ。
(漢文:出息不還則屬後世 人命在呼吸之間耳)

人は無意識のうちに、息を吸ったり吐いたりしていますが、
ふーっと吐いた息が、吸えなければ、その時は、もう旅立ちの時です。
吸った息が吐き出せなければ、その時も、旅立ちです。

吸う息吐く息の呼吸をしている間は命がありますが、一息一息、最後の息に近づいています。
そしてそれが止まった時に、命は終わります。
いつ息が止まるか分かりませんから、死は今に触れ合っているのです。

死は100%確実な上に、いつ来るか分かりません。
いつどこにいても死と背中合わせに生きています。
何の前触れもなしに死んでいかなければならないのが人間です。

毎日交通事故でたくさんの人が亡くなりますが、その中には自分よりも若い人もいます。
その人たちは、今日が死ぬ日だと思っていたわけではありません。
いつもと同じ毎日だと思っていた人が、死んでいくのです。

いつ死ぬか分からないのは万人共通ですから、それは3才の子供でも、80才の人でも同じです。
どんなに元気な人でも、無常の殺気がくれば、あっけなく死んでいきます。
無常は迅速なのです。

そして100%確実で、いつ死ぬか分からないのに、何の準備もせずに、のん気に生きているのが人間なのです。

生死一如

このようにどんな人にとっても死は、100%確実で、しかもいつ来るか分かりません。
そんな死の大問題に対して、どう対応すればいいのでしょうか。

仏教では
「生死一如(しょうじいちにょ)」
といわれます。

「一如」とは、一つのごとしということです。
生と死は、反対のことのように思っていますが、二つであって一つ、一つであって二つ、切っても切り離せない関係にあるのだ、ということです。

ちょうど、台所とトイレのような関係です。
台所は、一家が集まって団らんする楽しいところです。
トイレは、一人で寂しく行く苦しいところで、みんな好きなところではありません。
ところが、一軒の家に、台所はあるけど、トイレは作り忘れた、ということはありません。台所とトイレはセットです。

「あの家は豪邸だから、豪華なキッチンはあるけど、トイレのような汚い場所はない」
ということもなければ、
「あの家は、プレハブ小屋だから台所だけあってトイレはない」
ということもありません。

台所があれば、必ずトイレがあります。
それはなぜかというと、食べたものは、100%必ず出さなければならないからです。
トイレがなければ、台所で楽しく食事をすることは、できないのです。

ちょうどそのように、私たちも生まれたからには必ず死ななければなりません。
どんなに死をさけようと思っても、さけられないのです。

100%確実に死ななければならないのに、死んだらどうなるか分からず、真っ暗な状態では、明るい生き方はできないのです。

このことを龍樹菩薩は、死を虎にたとえて、『大智度論』にこのように例えられています。

たとえば羊の虎に近づけば、好草美水を得といえども肥えること能わざるがごとし
(漢文:譬如羊近於虎雖得好草美水而不能肥如)

死の問題を未解決にしておくのは、羊が虎の近くで過ごすようなものだ、ということです。
どんなに美味しい食べ物や水があっても、羊は少しも太れません。
刑務所に入っている人も、無期懲役の人は結構太るそうですが、死刑囚の人は太らないそうです。
それだけ死が恐ろしいということです。

どんなにお金があっても、財産を手に入れても、心からの喜びも満足もないのは、
この死の問題があるからなのです。

そして、どれだけ死を忘れていても、死が間近になると、
「自分の人生は一体何だったのだろう」
というスピリチュアル・ペインに襲われます。
人生の大問題が解決できていなかったからです。

「生死一如」ということは、死を見つめることが生を見つめることになる、
死を解決することが、生を解決することになる、ということです。

仏教を深く学んだ哲学者の西田幾多郎は、次のように言っています。

西田幾多郎西田幾多郎

死の問題を解決するというのが人生の一大事である、死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。
(引用:『西田幾多郎随筆集』)

仏教の死生観では、死の問題の解決を教えられています。

死の問題を解決するには

今回の記事では、死生観とは何か、様々な死生観を紹介しながら、
哲学、神道、仏教の死生観について詳しく解説しました。

死生観とは死に対する考え方ですが、
死生観というと、私たちは「余生の過ごし方」「臨終の死ぬ場所」「安楽死などの死に方」ばかりを考えがちです。
しかし本当に後悔しない人生にするには
「死とは何か」を知っておく必要があります。

哲学では死を見つめること、考えることの大事さ、までは理解していますが、
死の問題への対応方法は分かりません。
神道では、死を忌み嫌って死を見ないようにします。

ところが仏教では、死の問題を見ないようにしてごまかす、ということはありません。
仏教には、死の問題を解決して、変わらない幸せになる道が教えられているのです。

その仏教に説かれた死の大問題を解決して、変わらない幸せになる方法は、
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

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京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。