仏教の死生観

死生観」とは、死に対する考え方です。

誰もが100%確実に直面する死ですが、自分の死に対する考え方によって、おのずと今の生き方も変わって来ます。

死亡率100%

どんな人も必ず死にます。

人類史上、死ななかった人は一人もいませんので、人間の死亡率は100%です。
やがて自分も死んでいかなければなりません。

死んだらどうなるのでしょうか?

誰も、見てくることはできませんので、死んだらどうなるかは分かりません。

しかし、よく分からないところへ行くのは、不安になります。
文化も言葉も違う外国に行くのさえ、よく調べてからでないと不安になりますから、事前に色々と調べたり、準備したりします。

ましてやまったく分からない「」です。
生きているときに手に入れたものも、みんな置いて死んでいきますし、死んだらもう帰ってこれません。
取り返しはつかないのです。

死に対してどう考えるかという「死生観」がなければ、死が近づくにつれて
死んだらどうなるのか
という不安が高まるばかりです。

また、どんな死生観を持つかによって、この世でどんな準備をするのか、元気なときからどんな生き方をするのかにも、大きな影響を与える問題なのです。

では、死についてみんなどう考えているでしょうか。

現代人によくある死生観

現代人によくあるのは、
死んだら無になる
というものです。

これは大きな成果をあげた科学の影響で、「物質である肉体が心を生み出しているのだから、肉体が死ねば、心もなくなるのだろう」という推測から信じられていることです。
しかし、科学が取り扱うのは物質と心では物質のみで、心は対象としません。
物質が心を生み出すというのは科学的でもなければ、実は何の根拠もないのです。

しかしながら、もし死んだら無になるとすれば、なんのために生きるのかは分からなくなります。

ちょうど、滝壺へ向かう船の上にいるようなものです。
船はすごいスピードで流れて行き、最後は船もろとも跡形もなく滝壺へ落ちるようなものです。
その間何をやったらいいのでしょうか?

アカデミー賞を受賞した2008年の映画『おくりびと』では、本木雅弘演ずる主人公・小林大悟が、河をのぼるサケや河に浮いているサケを見て、
なんかせつないですよね。死ぬために昇るなんて
どうせ死ぬなら何もあんなに苦労しなくても
と言います。

死んだら無になると思ったら、そんなに頑張って生きる意味が分からなくなるのです。

では、西洋哲学では、死についてどのように考えているのでしょうか。

哲学の死生観

死は哲学でも昔から大きなテーマの一つでした。
例えば哲学の最高権威の1人、プラトンは、『パイドン』に、
本当の哲学者は死と死にゆくことを追及する
と言っています。
他にも、ストア学派、モンテーニュ、ブルーノ、デカルト、パスカル、スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、フォイエルバッハ、ニーチェなど、多くの哲学者にとって、死は重要なテーマでした。

ただ中には、死んだときには、脳も機能を停止し、何も感じることはできなくなっているので、誰も死を経験することはできない。
だから死を考えるのは無意味という人もあります。

それでも、モンテーニュは『随想録』に、
哲学するとは死を学ぶことである
と言っています。

ショーペンハウアーなどは、主著の『意志と表象としての世界』に
すべての宗教や哲学の大系は主に死についてわれわれを慰めるためのものであり、かくして第一義的には確実な死の恐怖への対策である」とまで述べています。

また、実存主義の哲学では、死を積極的に考えようとします。

マルティン・ハイデッガーは、死を忘れて生きているほとんどの人の生き方は堕落であると言っています。

また、カール・ヤスパース
生きることを学ぶことと、死ぬことを学ぶことは一つである
と言っています。

ところが哲学ではここまでは分かったのですが、では、死に対してどうすればいいのかは、分からないままです。

このように、哲学では、死に対する不安もなくなりませんし、今をどう生きればいいのかも分からないのです。

では、日本人は死についてどう考えているのでしょうか?

神道の死生観

日本の神道では、死んだら神のもとへ帰ると言っていますが、実際のところ、死は「ケガレ」として、忌み嫌われます。

葬式に行って帰ってくると、家に入る前に塩で「清める」人があります。
清めるということは、ケガレを清めるということですから、死がケガレなのです。

映画『おくりびと』でも、死者を棺に納める納棺師になった主人公は、久しぶりにあった昔の友人から
になってるぞ、もっとましな仕事になってくれ
と言われます。

広末涼子演ずる主人公の奥さんからも、
こんな仕事して、恥ずかしいと思わないの?
と言われ、なだめようとすると、
さわらないで、けがらわしい!
と言って、奥さんは実家へ帰ってしまいます。

このように死が忌み嫌われるのも、日本の国土を生んだというイザナギが、死んだ妻・イザナミへ会いに死後の世界である黄泉の国へ行きますが、ウジ虫がわいて変わり果てた妻の姿に驚いて逃げ帰るという話があるからかもしれません。

このように、神道では、死はケガレとして、忌み嫌われる伝統があるのです。

仏教の死生観

仏教では、死を見つめることを繰り返し教えられます。
これを「無常観」といいます。
無常」とは、常がない、続かないということですが、死のことです。
」は、感じるではなく、観じるということで、
見つめるということです。

それというのも、仏教では
生死一如(しょうじいちにょ)」
といわれます。

生死一如

一如」とは、一つのごとしということです。
生と死は、反対のことのように思っていますが、二つであって一つ、一つであって二つ、切っても切り離せない関係にあるのだ、ということです。

ちょうど、台所とトイレのような関係です。
台所は、一家が集まって団らんする楽しいところです。
トイレは、一人で寂しく行く苦しいところで、みんな好きなところではありません。
ところが、一軒の家に、台所はあるけど、トイレは作り忘れた、ということはありません。台所とトイレはセットです。

あの家は豪邸だから、豪華なキッチンはあるけど、トイレのような汚い場所はない
ということもなければ、
あの家は、プレハブ小屋だから台所だけあってトイレはない
ということもありません。

台所があれば、必ずトイレがあります。
それはなぜかというと、食べたものは、100%必ず出さなければならないからです。
トイレがなければ、台所で楽しく食事をすることは、できないのです。

ちょうどそのように、私たちも生まれたからには必ず死ななければなりません。
どんなに死をさけようと思っても、さけられないのです。

100%確実に死ななければならないのに、死んだらどうなるか分からず、真っ暗な状態では、明るい生き方はできないのです。

どれだけ死を忘れていても、死が間近になると、
自分の人生は一体何だったのだろう
というスピリチュアル・ペインに襲われます。
人生の大問題が解決できていなかったからです。

生死一如」ということは、死を見つめることが生を見つめることになる、死を解決することが、生を解決することになる、ということです。

そして、仏教では、死を見ないようにして、ごまかす必要はありません。

死の問題を解決して、変わらない幸福になる道が教えられているのです。

その仏教に説かれた死の大問題を解決して、変わらない幸福になる方法は、小冊子とメール講座にまとめてありますので、今すぐ見ておいてください。

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