歎異抄とは?衝撃度トップ5の言葉で分かりやすく解説
「善人でさえ救われるのだから、まして悪人はなおさら救われる」
『歎異抄』で最も有名な一節です。
悪いことをした人が救われるなんて、おかしいのではないでしょうか?
普通は善人が救われて、悪人は救われないはずです。
ですがこれは、他力信心の極致を表された言葉なのです。
このような私たちの常識を真っ向から覆し、
仏教の真髄を明らかにされた5の衝撃的なお言葉を通して
700年読み継がれた『歎異抄』の魅力に迫ります。
歎異抄とは何か?
まず初めに『歎異抄』とはどんな本なのでしょうか?
『歎異抄』は、鎌倉時代後期に書かれた仏教書です。
仏教書といっても、難しい漢字が並ぶお経とは違い、
流れるような美しい日本語で書かれています。
しかも『歎異抄』は、文字にして約1万字、
400文字の原稿にすると30枚くらいの本で、比較的短く書かれています。
短い中に深い内容がつまっており、日本の名著として、
司馬遼太郎や西田幾多郎など、多くの知識人を魅了してきました。
ところが実はこの本、書いた人の名前も、書かれた年月日も分かっていません。
では、一体誰が書き残したのでしょうか?
誰が書いたの?
現在では、浄土真宗の祖師・親鸞聖人のお弟子の一人、
「唯円」が作者ではないか、という説が有力です。
根拠は『歎異抄』の本文です。
第9章と第13章に「自分が申し上げた」という書き方で
唯円の名前が出てくるので、これは第三者ではなく
当事者が書いた文章だろうといわれています。
『歎異抄』の原本は失われ、現存するのは写本だけです。
写本にも『歎異抄』の著者名はなく、もともと原本にもなかったと考えられています。
では、なぜ唯円は自分の名前を書き残さなかったのでしょうか?
一つのヒントが、『歎異抄』の序文にあります。
故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。
(引用:『歎異抄』前序)
これは、「亡き親鸞聖人から聞いたお言葉を、耳の底に残っているものを少しでも書き記しておく」
という意味です。
著者自身、この本は「自分の考えを述べたもの」ではなく、
「師のお言葉を書き残したもの」と考えています。
「師の言葉をありのままに伝えるため、自分の名は出すべきではない」
と考えたのかもしれません。
では、著者名を伏せて著者が伝えたかったことは何だったのでしょうか。
なぜ書かれたの?
唯円が書いた理由は、本のタイトルに直接表れています。
- 歎(なげく)
- 異(ことなる)
- 抄(書き記したもの)
つまり「(師の教えと)異なることを歎いて書き記したもの」という意味です。
親鸞聖人がお亡くなりになった後、
「これが親鸞聖人の教えだ」と言いながら、
まったく違うことを広める人々が現れました。
それを歎いた唯円が、親鸞聖人から直接聞いたお言葉を書き残し、
正しい教えを後世に伝えようとしたのです。
歎異抄の構成
この執筆の目的は、次のような本の構成に表れています。
『歎異抄』は大きく「前序・前半(第1〜10章)・後半(第11〜18章)・後序」の4パートで構成されました。
- 前序
唯円が、なぜこの本を書いたのかを述べた導入部分 - 第1〜10章(前半)
親鸞聖人から直接聞いたお言葉を記録した部分 - 第11〜18章(後半)
師の教えと異なる異説を取り上げ、一つひとつ批判・訂正した部分 - 後序
前半は「師のお言葉を残す」、
後半は「異説を正す」。
唯円は前半と後半で大きく書き方を変えて、親鸞聖人の教えを明らかにしました。
しかし、唯円が書き残したその流れるような文章は、
あまりにも常識外れなものでした。
そのためにこの本は長い間、
ある運命をたどることになります。
歎異抄はかつて封印されていた
実は『歎異抄』は、かつて誰でも読める本ではなく、
一部の人しか読むことができませんでした。
室町時代、浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如上人は、『歎異抄』を書き写した際、
末尾にこのような「奥書」を書き添えました。
右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。
無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。
釈蓮如(引用:『歎異抄』奥書)
これは「この本は、とても重要な本である。仏教と縁の浅い人にはむやみに読ませてはならない」
ということです。
つまり、封印してしまったのです。
なぜ、蓮如上人はこの本を封印したのでしょうか?
それは、この本に書かれている言葉が他力信心の極致を表されているため、
あまりにも鋭く、逆説的で、誤解を招きやすいからです。
例えば、「悪人こそ救われる」と聞くと
「じゃあ悪いことをしても大丈夫だ」と取り違えます。
「ただ念仏して」と聞くと、
救われるためには「念仏さえ称えればよい」と、ご誤解してしまいます。
そういった致命的な誤解を防ぐために、
あえて封印されたのでしょう。
蓮如上人が室町時代に封印されてから、明治時代になるまで、
仏縁の深い人のみが読むことを許された
浄土真宗の秘本でした。
では、それほどまでに危険で、かつ人々を惹きつけてやまない「歎異抄の言葉」とは、一体どのようなものなのでしょうか。
仏教の真髄を明かされた衝撃的な5つの言葉
『歎異抄』には、美しい文章で、逆説的な表現が鏤められています。
その中でも特に誤解されやすく、
かつ重要な意味を持つ5つの言葉があります。
この5つの意味が分かれば、『歎異抄』がいかに誤解されやすいのかが分かると共に、
『歎異抄』が何を伝えたいのかが見えてきます。
悪人正機
私たちは普通、
「善いことをすれば善い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある」
と考えます。
これは洋の東西を問わず、人間が当然のこととして受け入れてきた常識です。
仏教では「善因善果・悪因悪果」と説かれ、
善い行いをすれば、善い結果が現れる、
悪い行いをすれば、悪い結果が現れる
と教えられています。
ところが親鸞聖人は、
その常識を真っ向から覆すかのようなことを言われています。
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
(引用:『歎異抄』第3章)
これは「善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら助かる」ということです。
これを「悪人正機」といわれます。
「悪人こそが救われる」と聞くと、
「悪人のほうがいいのか?」とか
「悪いことを推奨しているのか?」と思われるかもしれません。
ですが実は、ここでいう「悪人」とは、犯罪者のような人のことではありません。
仏教でいう「悪人」とは、煩悩にまみれた私たち「すべての人」のことです。
仏教では、すべての人は、欲や怒りや愚痴の心でできている
煩悩具足の者だと教えられています。
口や体では善いことを言い、
善いことをしている人でも、
心の中はどうでしょう。
もし心の中を映し出すスクリーンが発明されたら、
あなたは他人に何分間見せていられますか?
もしあまり長い時間見せられないとすれば、
とても自分を「善人」だとは言えません。
「善人」だと思っている人は、
「自分は善ができる」という自惚れ心によって、
仏様の、すべての人の姿は悪人だと見抜かれて、
それをそのまま救うという御心をはねつけて、
救いにはあえないのです。
逆に「悪人」である本当の自分の姿がハッキリ知らされた人こそが、
仏様の救いの本当の相手(正機)なのです。
では、私たちは本当にそれほどの悪人なのでしょうか?
「私はそこまで悪いことはしていない」と思うかもしれません。
その問いに対して、親鸞聖人はご自身の衝撃的な告白を通して答えられています。
さるべき業縁の催せば
さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし。
(引用:『歎異抄』第13章)
これは「避けられない縁が来たならば、どんなことでもする親鸞だ」ということです。
それは「縁さえ来れば、詐欺も、窃盗も、殺人でさえも、やってしまう親鸞である」
という告白なのです。
多くの人から慕われ尊敬されている親鸞聖人が、
なぜ「どんな悪事でもやってしまう」と言われたのでしょうか。
その真意を伝えるため、親鸞聖人はお弟子に、ある衝撃的な質問をされています。
殺人を勧めた!?
ある時、親鸞聖人はお弟子の唯円に、こう尋ねられました。
親鸞聖人「唯円よ、私の言葉は信じるか?」
唯円「もちろんでございます!」
親鸞聖人「本当に私の言葉に背かないか?」
唯円「謹んでお受けいたします」
親鸞聖人「では唯円よ、人を千人殺してきなさい。
そうすれば、そなたの極楽往生は確実となるだろう」
突然の殺人命令に、唯円は驚き、こう答えました。
唯円「せっかくのお師匠さまの仰せではありますが、私の器量では、千人どころか一人も殺すことができそうにありません」
親鸞聖人「ではなぜ私の言葉に背かないと言ったのか?」
親鸞聖人は、言い淀む唯円にこう教えられました。
親鸞聖人「これで分かっただろう。自分の心がけしだいで善でも悪でもできるのなら、千人殺せただろう。
しかし、一人も殺せないのは、今は殺すべき縁がないだけなのだ。
自分が善人だから殺さないのではない。
逆に、殺したくないと思っていても、縁さえあれば百人、千人を殺すこともあるのだよ」
私たちは、自分が罪を犯さないのは、自分の心が清らかだからだと思っています。
しかし仏教では、それは単に人を殺させるような「縁がなかっただけ」だと教えます。
それは縁さえ来れば、どんな恐ろしいことでもやってしまう恐ろしいタネを持っている、
そんな悪いタネは持っていない、というものが1つもないのが、
私たちの本当の姿だと親鸞聖人は教えられているのです。
では、そのような「縁次第で何でもやってしまう」恐ろしい悪業を持つ
「悪人」であるならば、
幸せにはなれないのでしょうか。
『歎異抄』の第1章に、その答えがハッキリと記されています。
摂取不捨の利益
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
(引用:『歎異抄』第1章)
『歎異抄』の最初の章には、「摂取不捨の利益」という言葉が出てきます。
これは「おさめとって捨てられない、絶対の幸福」のことです。
幸せについて、普段どのようなことを考えるでしょうか。
「今は幸せでも、この幸せはいつまで続くのだろう?」
「家族もいるし仕事もあるけれど、何かが満たされない」
私たちが知っている幸せは、一時的なものです。
お金は使えばなくなりますし、健康もいつ失うか分かりません。
家族や友人との関係も、いつも順風満帆とは限りません。
親鸞聖人が教えられた「摂取不捨の利益」とは、そんな移り変わるものではなく、
何があっても決して崩れない、永遠に変わらない幸せ、絶対の幸福なのです。
そしてそれには、年老いた人も、若い人も、善人も、悪人も、
一切の差別はない、と教えられています。
では「絶対の幸福」とは、一体どのような世界なのでしょうか。
親鸞聖人は『歎異抄』の第7章に、絶対の幸福を鮮烈なお言葉で表現されています。
無碍の一道
念仏者は無碍の一道なり。
(引用:『歎異抄』第7章)
「無碍の一道」の「碍」とは、さわりとか、妨げのことで、
「一道」とは、世界のことです。
つまり「無碍の一道」とは、何ものにも妨げられない世界ということです。
人生を振り返ってみると、妨げだらけではないでしょうか。
やめたいのにやめられない、変わりたいのに変われない。
運命の荒波に翻弄され、自分の無力さを嘆く日々。
しかし親鸞聖人は、「念仏者は、どんなものにも妨げられない幸福な世界に出るのだ」と言われています。
現代的に言い換えると、神や悪魔、運命や迷信、そういった一切のものに妨げられない、自由自在な世界です。
では、どうすればそんな世界に出られるのでしょうか。
その鍵は、『歎異抄』第2章の「ただ念仏して」という言葉の中にあります。
ただし、多くの人がこの言葉を誤解しています。
ただ念仏して
ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし
(引用:『歎異抄』第2章)
この一文を読むと、「念仏(南無阿弥陀仏)さえ称えたら誰でも助かる」
このように思わないでしょうか。
実は、『歎異抄』を読んでも意味が分からなかったという人の多くは、
この思い込みが邪魔をしています。
親鸞聖人は主著の『教行信証』にハッキリとこう書かれています。
涅槃の真因は唯信心を以てす。
(引用:親鸞聖人『教行信証』)
「唯」、つまり「ただ一つ」です。
親鸞聖人は「信心一つで救われる」と断言されているのです。
噛み砕いて言えば、「救われるかどうかを決めるのは、念仏の回数でも修行の量でもなく、信心ただ一つだ」ということです。
「ただ念仏して」の「ただ」は、この「信心」を表しています。
口で称える念仏ではなく、心で受け取る信心。
これ一つで、私たちは「悪人」のまま、「絶対の幸福」になれるのです。
700年読まれ続ける本当の理由
ここまで5つの言葉を通して『歎異抄』の他力信心の世界を見てきました。
一見バラバラに見えるこの5つの言葉は、実はすべて同じ1つの問いへの答えです。
それは、「どうすれば、本当の幸福になれるのか」という問いです。
700年にわたって読み継がれてきた理由は、単に言葉が美しいからでも、衝撃的だからでもありません。
哲学者も科学者も答えを出せずにいる「本当の生きる意味」の答えが、
ここにハッキリと示されているからです。
もし、この「絶対の幸福」を知らなければ、私たちはどうなるでしょうか。
死ぬ瞬間に「自分の人生は一体何だったのか」と後悔することになります。
人生はあっという間です。
取り返しのつかない後悔をする前に、
本当の生きる目的を知るようにしてください。
多くの人から「もっと早く知りたかった」といわれる
仏教の真髄である「絶対の幸福」について、
以下のメール講座と電子書籍で丁寧に解説しています。
ここまで読んでいただいた方に、ぜひ受け取っていただきたい内容ですので、
一度見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

