往生おうじょうの正しい意味とは?

往生」というと、一番使われるのは、「往生際」です。
政治家などで往生際が悪いといわれています。
また踏切内で立ち往生したとか、雪国で雪で立ち往生したなど、車がよく「立ち往生」するといわれます。
関西方面になると、よく「往生せいや−!」ともいわれます。

実はこれらの往生の使い方は誤解です。
誤解されている意味は3種類くらいあります。
ところが本当の往生の意味は、辞書などには載っていますが私たちの人生に大きな影響があります。
さらに仏教では辞書にも載っていないさらに重要な意味があります。
これを知らないと本当の幸せにはなれないので、この仏教でいわれる2つの意味を、お経の根拠をあげて分かりやすく解説して行きます。

よくある3つの誤解

往生」は日常でも色々な意味で使われていますが、ほとんどは誤解された意味で使われています。
それには大体3種類あります。

死ぬ

その中でも一番多いのは、死ぬという意味です。
例えば「今日隣の婆さん往生したそうだ」とか
喪中はがきで「永眠しました」の代わりに「往生しました」と書かれていることもあります。

また「大往生」といえば、長生きした人が老衰で息を引き取ることですし、
弁慶の立ち往生」といえば、弁慶が立ったまま死んだということです。
このように往生を「死んだ」という意味で使われます。

そのため、関西方面でよく「往生せいや−!」というのは、
死ねやー!」という意味になります。

あきらめる

往生を死ぬということだと誤解した場合、「往生際」というのは死に際ということです。
時代劇で対決して負けた時、「往生際が悪いぞ」といわれれば、死に際という意味です。
ところがさらにそこから転じて、「あきらめが悪いぞ」という意味に誤解されます。

そこで政治家などが「往生際が悪い」といわれると、別にご臨終を迎えているわけではないので、もうどうにもならないことなのにアキラメが悪いという意味で使われます。
普通なら辞任すべきところ、あれこれ言って辞任しない時などに往生際が悪いといわれます。
このようなあきらめるという意味では「往生せいやー」といった時には、諦めろやー、観念しろやー、という意味になります。

困る

さらにそこから転じて、困るという意味で使われます。

例えば「事故で渋滞して往生した」というと、
車が進退きわまって動けなくなり、予想以上に時間がかかって困ったという意味です。
立ち往生」というとまさに身動きがとれなくなった時に使われます。
そのため交通機関が多く、踏切で動けなくなると、立ち往生したといいます。
しばらくすると電車が来るので非常に危険です。
電車が風や雪で動けなくなることも立ち往生といいます。

信号が赤になって、止まろうか迷っているうちに、ブレーキングが遅れ、横断歩道の上で止まった場合も、立ち往生といいます。
歩行者の邪魔ですが、かといって動くのも危険です。
そのシーンを回想して、「あの時は往生したわ」というと、困ったという意味になります。

このように、「往生」は、日常生活の中では、死ぬとかあきらめる、困るという意味で使われています。
しかし、この3つはどれも正しい意味ではありません。

往生」という漢字を見ても、「」は往復の往ですから往く、「」は生まれるという意味なので、死ぬとか、あきらめる、困るという意味はありません。
むしろ「死ぬ」と「生まれる」は逆で、立ち往生の身動きがとれなくなるというのも、往生の「」の意味と比べると反対です。

往生は、もともと仏教から来た言葉ですが、
死ぬとか動けなくなる、困るとは比較にならない尊い意味があります。
それは一体どんな意味でしょうか?

往生の2つの意味

仏教では、往生には2つの意味があります。
1つ目は「」って「」まれるという往生
2つ目は「」かされて「」くという往生です。

往生の2つの意味
  • 」って「」まれるという往生
  • 」かされて「」くという往生

この1つ目の「往って生まれる」という往生は、死んでからの往生ですので、世の中で死ぬという意味に誤解されているのは、まったく根も葉もないことではありません。
ここから来たものと思います。
ですが死ぬことではありませんし、死んだからといって誰でも往生できるわけではありませんので、まったく違う意味です。

この一つ目の「」って「」まれるという往生は、辞書にも載っているので知っている人もあると思いますが、2つ目の「」かされて「」くという往生は、ほとんどの人は知らないと思います。
ですが非常に重要ですので、2つ目まで知っておいて頂ければと思います。

ではまず1つ目の往って生まれる往生はどんな意味なのでしょうか?

1.往って生まれる(死んでからの)往生とは?

往生の2つの行き先

まず、往って生まれる往生ですが、「往って生まれる」といっても、どこへ往くのでしょうか?

往って生まれる」という往生の行き先はどこかといいますと、浄土です。
ですから、死んでから浄土へ往って生まれるのが1つ目の往生です。
これは国語辞書などで調べれば大体トップに出ているので、知っている人もあると思います。

ですが、仏教で浄土といっても色々あります。
メジャーな行き先は2つあります。
1つ目は、弥勒菩薩の浄土である、兜率天、
2つ目は、阿弥陀仏の浄土である、極楽浄土です。

ただ、兜率天は正確には浄土ではなく、天上界ですし、
兜率天へ行くには出家して戒律を守り、ものすごい修行が必要なので、
実質実行不能なため、今では廃れてしまいました。

そのため現在の「往生」の行き先は、極楽浄土のみです。

往って生まれる往生とは?

ですから1つ目の「往生」とは、極楽浄土へ「」って「」まれることを言います。

何に生まれるのかというと、仏に生まれます。
極楽へ「」って仏に「」まれるのが1つ目の往生です。

これは肉体の往生です。
肉体が死なないと、極楽へ生まれることはできませんので、
死んでからの往生となります。
この死んで極楽へ往く往生は、
仏教を聞けばどんな人でもできますので、
お釈迦さまは、すべての人に勧められています。

往って生まれる往生
  • 極楽へ往って仏に生まれる
  • 肉体の往生
  • 死んでから

死ねば誰でも往生できる?

ところが、誰でも死ねば往生できるのではありません。
お釈迦さまは、極楽浄土についてこのように説かれています。

往き易くして人なし

大無量寿経』というのは、往生について最も詳しく教えられているお経です。
そこにお釈迦さまは「極楽へは往きやすいのに、往っている人が少ない
と説かれています。

それというのも仏教では、来世はどうなるのかについて、
死ぬまでの行いによって、因果の道理にしたがって、
因果応報死後の世界が決まると教えられています。
そして、果てしない遠い過去から、生まれ変わり死に変わりして今人間に生まれ、この先も永遠に輪廻転生を繰り返して行きます。

この永遠に無限ループする迷いから離れて、死んで極楽へ往生するには、
生きている時に果たしておかなければならないことが、
たった1つある
のです。

これを知っているかどうかは、
往生できたり、往生の道が閉ざされたりする重大な意味があります。
それが、2つ目の、生かされて往く往生です。

2.生かされて往く(生きている時の)往生とは?

2つ目の生かされて往く往生は、生きている時の往生です。
そんな生きてる時の往生なんてあるんですか?
と思うかもしれませんので、仏教を説かれたお釈迦さまに聞いてみましょう。

お釈迦さまのお言葉

生きている時の往生について、お釈迦さまはどこに説かれているかといいますと、『大無量寿経』です。
このように説かれています。

諸有衆生しょうしゅじょう 聞其名号もんごみょうごう(諸有の衆生、その名号を聞きて)
信心歓喜しんじんかんぎ 乃至一念ないしいちねん(信心歓喜せんこと乃至一念せん)
至心廻向ししんえこう 願生彼国がんしょうひこく(至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生れんと願ずれば)
即得往生そくとくおうじょう 住不退転じゅうふたいてん(即ち往生を得、不退転に住す)

まず、「諸有の衆生」というのは、すべての人ということです。
すべての人は、「その名号を聞いて信心歓喜せんこと乃至一念せん」というのは、「一念」というのは、何億分の一秒よりも短い一瞬のことですから、すべての人は、仏教を聞いて、一瞬で心の闇が断ち切られ大安心大満足の心になる、ということです。
あらゆる人は、仏教を聞いて、一瞬で大安心大満足の心になれば、「即ち往生を得る」と説かれています。

この往生は、生かされて往くという往生です。
生かされて往くというのは、生まれ変わって往く、ということです。

では、どのように生まれ変わって往く身になるのかというと、
それについてお釈迦さまは次に、
住不退転」、
不退転に住すといわれています。

不退転ふたいてん」というのは、時々世間の人でも
不退転の決意でやります」と使います。
決して後にひかない、変わらない決意で臨むということです。
あれはこの仏教の不退転から来ています。

仏教で不退転というのは、絶対に変わらない、崩れないということです。

これは、絶対変わらない幸せのことで、絶対の幸福のことです。
この「不退転」は、「正定聚不退転しょうじょうじゅふたいてん」の「正定聚しょうじょうじゅ」が省略されて不退転といわれています。
正定聚」とは、「」は人々ということですので、「正しく」必ず、仏に生まれるに「」まった人のことです。
不退転」とは、絶対変わらない身ということですから、
正定聚不退転」は、いつ死んでも極楽へ往って仏に生まれること間違いなしの
絶対の幸福のことです。

生かされて往くのはいつ?

では、「即ち往生を得る」の「即ち」はいつのことなのでしょうか?

即ち」には、仏教で2つの意味があります。
1つ目は「同時即どうじそく」といわれる即、
2つ目は「異時即いじそく」といわれる即です。

同時即というのは、光が来たら即ち闇が去るという時に、即ちといわれます。
この場合、光が来るのと、闇が晴れるのは同時ですから、同時即といいます。

異時即というのは、船に乗ったら即ち向こう岸につくという時に使われる即ちです。
この場合、船に乗った時に向こう岸につくわけではありません。
船に乗ったらやがて向こう岸につくということです。
船に乗った時と向こう岸についた時は異なるので、異時即といわれます。

「即」の2つの意味
  • 同時即…同時(光が来たら即ち闇が晴れる)
  • 異時即…やがて(船に乗れば即ち向こう岸に着く)

では、この「即ち往生を得る」の「即ち」が同時即なら、一念の時のことですし、異時即なら、死んだらということもあり得ます。
この「即ち」というのは、同時即でしょうか?
それとも異時即でしょうか?

即の意味

それが分かるのは、お釈迦さまが『大無量寿経』の別のところで、
弥勒菩薩に対してこう教えられている所です。

聞此経者もんしきょうしゃ 於無上道おむじょうどう 終不退転じゅうふたいてん
(この経を聞く者は、無上道に於てついに退転せじ)

このお経に説かれる教えを聞いた人は、最高に素晴らしい教えにおいて、
ついに退転しない、不退転となる
」ということです。
このお経の教えは死んでからでは聞けません。
仏教を聞けるのは生きている時のことですから、不退転になるのは、生きている時です。

ですから、「即ち往生を得る」の即ちは、異時即ではなく、同時即ということが分かります。
ですから、「即ち往生を得、不退転に住す」というのは、
あらゆる人は、仏教を聞いて、心の闇が断ち切られた瞬間、往生を得て不退転になる
ということですから、この往生は生きている時の往生です。

この「即得往生」の往生が生きている時の往生だというのは、よく知られている話です。
日本の仏教で最大宗派の浄土真宗親鸞聖人も分かりやすくこう言われています。

「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという。
「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。
「不退転に住す」というは、すなわち正定聚の位に定まるなり。
「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。
「即」はすなわちという、
「すなわち」というは時をへだてず日をへだてぬをいうなり。

この「即得往生」は、『大無量寿経』の「即得往生」のことです。
」は時を隔てず、日を隔てないということは、信心を獲た、その時往生するということですので、生きている時です。

この生きている時の往生は、お釈迦さまが言われていることで、仏教の世界では常識ですし、仏教の最大宗派でよく言われる有名な往生なので、この往生の意味があまり辞書にも載っていないのがびっくりなくらいです。

なぜ生きている時に往生できる?

なぜ生きている時に、往生できるのかというと、
もしこれが往って生まれる往生なら、死なないと生まれられないので肉体の往生です。
ですが、生かされて往く往生は、肉体の往生ではなく、
心の闇が死んで、絶対の幸福に生まれ変わる、心の往生だからです。
だから、肉体がまだ元気な生きている時に、往生ができるのです。

このように、生きている時の往生とは、心の闇が破れ、絶対の幸福になることです。

もし「往生せいやー!」というのが、
絶対の幸福になりなさい」という意味だとすれば、
お釈迦さまのオススメと同じですので、大変尊い言葉です。

生かされて往く往生
  • 絶対の幸福に生かされて往く
  • 心の往生
  • 生きている時

でも、生きている時の往生は何のためにあるのでしょうか?
生きている時の往生ができればそれにこしたことはないですが、
もしできなくても、死んで往生できればそれでいいような気もします。
生きている時の往生と死んでからの往生はどんな関係にあるのでしょうか?

2つの往生の関係

死んでからの往生と、生きている時の往生は、
密接不離な関係があります。
しかも非常に重要な関係です。

それは、生きている時に心の往生を果たした人だけが、
死んで極楽へ往って、仏に生まれることができる
、ということです。

この世で生きている時の往生ができなければ、死んでからも往生できないということです。

なぜかというと、私たちの心は三世を貫いているからです。

三世を貫く私たちの永遠の生命

三世というのは、過去世、現在世、未来世のことです。
生まれる前を過去世、生まれてから死ぬまでを現在世、死んだ後を未来世といいます。

肉体は、死ねば滅びてしまいますが、私たちの永遠の生命は果てしない遠い過去から今日まで流れてきたのです。
そしてまた未来へと流れて行きます。
過去世、現在世、未来世と三世を貫いています。

ちなみにこの永遠の生命を仏教で 阿頼耶識あらやしきといいます。
阿頼耶識については、以下の記事で詳しく解説してありますのでご覧ください。

阿頼耶識とは?-ガンダムの阿頼耶識システムの間違い

その永遠の生命をとうとうと流れる悠久の大河にたとえると、
肉体は、その上にポッと現れて、しばらく流れて消えるあぶくのようなものです。
消えるとまた新しい泡ができて、しばらく流れて消えます。
ですから仏教では、肉体よりもこの永遠の生命が重要です。

心の往生の心というのは、意識のことではなく、この永遠の生命のことです。
ですから心の往生というのは、人間に生まれている現在世だけ幸せになれるということではありません。
心の往生というのは、永遠の生命の解決ですので、未来永遠の幸せなのです。

現在の往生ができないと?

永遠の生命は、現在から未来へ流れて行きます。
現在の延長が未来ですから、現在の往生ができていなければ、死んでも往生できません。
生きている時に往生できずに死ねば、これまで通り、死ぬまでの行いによって、因果の道理に従って、迷いの世界である六道に転生します。
また永遠に苦しみ迷いの輪廻を繰り返して行くということです。

これをお釈迦さまは『大無量寿経』にこう説かれています。

従苦入苦じゅうくにゅうく 従冥入冥じゅうみょうにゅうみょう
(苦より苦に入り、やみよりやみに入る)

今、苦しんでいる人は、死んだ後も苦しみの世界に入る。
今、心が暗い人は、死んでからも真っ暗闇の世界に入って行くということです。
生きている時はどうにもならないのに、死ねば浄土へ往けるということはありません。

お釈迦さまが、
極楽へは往きやすいのに、往っている人が少ない
と言われるのは、心の往生を果たした人は必ず死んで極楽へ往けるのに、
生きている時に心の往生を果たす人が少ないからです。

生きている時の往生ができなければ、死んでも極楽へ往けません。

現在の往生の重要な意味

ですが、生きている時に絶対の幸福に生かされて往く往生ができれば、
死ぬと同時に極楽へ往って仏に生まれる往生ができるのです。
生きている時の生かされて往く往生には、そういう極めて重要な意味があります。

2つの往生の関係
  • 生きている時の往生ができれば死んで往生できる
  • 生きている時の往生ができないと死んで往生できない

ですから、死んで極楽へ往く時に必ず必要なのは、
生きている時に絶対の幸福になること
です。

どうすれば心の往生ができるの?

では、私たちはどのようにすれば、
生きている時に心の往生を遂げて、
絶対の幸福になこるとができるのでしょうか?

それには、仏教を聞いて、心の闇を知り、
それを断ち切らなければなりません。
この心の闇が、私たちが幸せになれない、
苦悩の根元
なのです。

ではその苦悩の根元とは何か、仏教の真髄ですので、
電子書籍とメール講座にまとめました。
ぜひ読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

仏教が好きで、東大教養学部で量子統計力学を学んだものの卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とかみなさんに知って頂こうと失敗ばかり10年。やがてインターネットの技術を導入して日本仏教アソシエーション(株)を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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