「現代人の仏教教養講座」

 

仏教ウェブ入門講座

仏教の教えと生きる意味を分かりやすく
体系的に学べる仏教の総合サイト

日本仏教学院ロゴ 日本仏教学院ロゴ

生きる意味を、知ろう。

仏教は差別の教え?

差別」とは、生まれつきの家柄や身体的特徴によって、権利などに制限を受けたり、軽んじられたりすることです。

仏教はもともと「すべての人は平等である」と説かれた万人平等の教えです。
ところが日本では、仏教の因果応報の教えが、差別を助長するといわれたことがありました。
一体どんなことがあったのでしょうか?

日本の差別と仏教の関係

この問題に関係する差別は、主に「部落差別」です。
部落差別」とは、江戸時代、幕府が支配体制を固めるために「士農工商」の身分制度に加えて「穢多えた非人ひにん」という、もっと下の身分を作ったことに始まります。

それらの身分に決められた人たちは、住所や職業の自由もなく、河原や不毛の地に住まわされ、みんなのやりたがらない仕事をやられました。

また、幕府は、支配体制の強化のため、戸籍のような「寺檀制度じだんせいど」を作り、を活用して、身分制度を固定しました。
こうして日本では、政治的に、が差別を固定する形になったのです。

この250年以上続いた部落差別は、明治4年に太政官布告で解放令が出され、大正11年に全国水平社が結成され、昭和22年に基本的人権の尊重を掲げた日本国憲法が施行され、少しずつ解放に向かっていいます。

では「政治」ではなく、仏教の「教え」は、何か差別に関係あるのでしょうか?

仏教の教えは差別に関係ある?

昭和29年に、新興宗教の教師が、
部落に生まれたり、ハンセン病になるのは、過去世のたねまきの結果
と発言し、批判を浴びました。
そして、この新興宗教の教師は、
仏教の因果応報の教えを説いた
と言い訳したのです。

ハンセン病は、細菌を原因とする感染症ですので、この主張は間違いです。
しかも仏教では、気の毒な方には布施(親切)を心がけるように教えられています。

このような差別の解放運動が盛り上がってきた時代に、仏教の教えを正しく理解できなかった人に、差別を助長する教えだとして批判を受けたのです。

その仏教を差別の教えだと誤解してしまう人の原因は、仏教で教えられる因果の道理を、
部落に生まれるのは、前世の悪業による宿命だからどうにもならない。
来世に救われることを願って、この世は諦めなさい

という「運命」と聞き誤るところにあります。

では仏教は、運命論なのでしょうか。

インドにもあった身分差別

今日、インドでは主にヒンドゥー教が信じられていますが、ブッダの当時は、その前身であるバラモン教がインド中で力を持っていました。

バラモン教には、
婆羅門ばらもん」という祭司を頂点とする階級差別があり、
その次に「刹帝利せっていり」といわれる武士王族階級、
次に「吠舎べいしゃ」といわれる商工業の従事者、
最後が「首陀羅しゅだら」で、農家や奴隷でした。
これを四姓といいます。
それ以外にも、江戸時代の日本の穢多・非人のような、人間扱いされない人たちもいました。

四姓制度
  • 婆羅門ばらもん」……祭司
  • 刹帝利せっていり」……王族や武士
  • 吠舎べいしゃ」……商工業の従事者
  • 首陀羅しゅだら」……農家や奴隷

そして、その階級は生まれつき決まっていて、人間の価値も階級によって決まっているとされました。
バラモン階級の人は、生まれつき神聖だから、他の人は尊敬すべきであり、すべてのものはバラモン階級の人の財産であり、同じ罪を犯しても、バラモン階級の人は無罪になるというもので、バラモン階級の人は、生まれつき特権階級でした。

そして、階級が違うと結婚はできず、もっと階級が違うと会話もできない厳しい身分差別がありました。

では当時のブッダの仏教の教団でも、このバラモン教の生まれつきによる身分差別を助長したのでしょうか?

仏教は生まれつき身分が決まる運命論?

ブッダは、そのような身分差別の文化の中にありながら、この4つの身分差別を否定され、平等であることをこのように説かれています。

かくの如き四姓はことごとく皆平等なり
何の差別かあらん。
まさに知るべし。大王、四種姓は皆ことごとく平等にして、勝如差別の異あることなし。

ですからブッダの仏教の教団には、どんな人でも平等に入ることができました。
そのため、バラモンや王族はもちろん、屠殺業の人や、遊女、盗賊も入っています。
そして一度お釈迦さまの教団に入れば、インドの5つの大河が大海に入れば、今までの名前がなくなって海と呼ばれるように、今までの身分制度はまったく関係なくなり、全員が平等にお釈迦さまのお弟子になると繰り返し説かれています。
例えばパーリ仏典の律蔵の 小品しょうほんにはこうあります。

比丘等よ、譬えば大河あり、いわく恒河・夜摩那河、阿夷羅跋提河、舎労浮河、摩企河なり。
これらは大海に到らば前の名姓を棄て、ただ大海とのみ号するがごとく、
かくのごとくの比丘等よ、刹帝利、婆羅門、吠舎、首陀羅の四姓あり、
かれらは如来諸説の法と律とにおいて、家を出て出家せば、前の名姓を棄てただ沙門釈子とのみ称す。

比丘びく」というのは出家したお釈迦さまのお弟子のことです。
恒河」とは全長2500キロのガンジス河、
夜摩那河」とはガンジス河の支流で1370キロのヤムナー河、
阿夷羅跋提河」とはコーサラ国を流れるラプティ河、
舎労浮河」とはサラブー河で、今でいうガンジス河の非常に長い支流のガーグラー河10180キロ、
摩企河」とはインド西部の580キロのマヒー河です。
(ちなみに日本で一番長い信濃川は360キロです)
これらの河が、インド洋に流れ込むと、今までの名前では呼ばれなくなり、ただ大海といわれます。

それと同じように、刹帝利、婆羅門、吠舎、首陀羅の4つの身分も、出家してお釈迦さまの教団に入ると、身分はなくなってみんな平等にお釈迦さまのお弟子となる、ということです。

このことをまた、『増一阿含経』にもこのように説かれています。

あらゆる四姓、鬚髮を剃除し、信堅固をもって出家学道する者、彼は当に本名字を滅し、おのずから釈迦の弟子と称すべし。

このようにブッダは、当時の厳しい身分差別を否定され、「すべての人は平等である」と教えられています。
実際、ブッダのお弟子の阿難尊者には、こんなエピソードが伝えられています。

身分の低い娘を励ますブッダの弟子

阿難は、ブッダのいとこで、大変なイケメンでした。
ブッダが生きておられるとき、ついにさとりが開けなかったのは、あまりにも女性に人気で、女難が多かったためだ、と言われています。

その阿難が、ある夏の暑い日、乞食行から祇園精舎に帰る途中のことです。

あまりに喉が乾いたので、樹のかげで一人の若い娘が手桶に水を汲んでいるのを見つけて、一杯の水を求めました。

あまりの美男子に声をかけられた娘は、赤面しながら小さな声で、
私は卑しい身分の女です。
あなたのような尊い身分の方に、あげたくてもあげられません

と断わりました。

この娘は、最初は四姓の首陀羅に分類されていましたが、やがて四姓にも入らないといわれる低い身分の生まれだったので、会話さえもできなかったのです。

ブッダは、このような時代に、カースト制度の鉄壁を打ち破られて、
すべての人々は平等である
と言い切っておられましたので、阿難は、やさしく娘を慰めて
人間は生まれながらに貴いとか賤しいとか身分が定まっているのではない、仏教の教えは一切の人々は、生まれながらに平等であり、自由だと教えられているのです。
どうか遠慮なさらずに私に水を一杯布施して下さい

と少女をはげましています。

このように、ブッダの教団には生まれによる身分差別は、助長どころか存在さえもせず、男尊女卑でもありません。

出家前の身分はすべて取り払われて、出家の順序や、修行の頑張り具合によって、序列が決められたのでした。

身分制度を否定されたブッダの言葉

経典には実際、こう教えられています。

身をけた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。

これは、草木、ウジ虫、コオロギ、アリ、四つ足の動物、魚、鳥などは生まれつき種類の区別はあるけれども、人間はそのような生まれにもとづく特徴の区別は存在しないということです。

生まれによって賤しい人となるのではない。
生まれによってバラモンとなるのではない。
行為によって賤しい人ともなり、
行為によってバラモンともなる。

バラモンというのはバラモン教の身分制度のバラモンではありません。
このあとブッダはバラモンとはどんな人かを教えられていますが、究極的には目覚めた人、仏のことです。

このことは他のお経にもあります。

生まれた家柄によって本当のバラモンであるといわれるのではなく、
生まれた家柄によって本当のバラモンではないといわれるのでもない。
行為によって本当のバラモンであるといわれ、
行為によって本当のバラモンではないといわれるのである。

このように仏教では、厳しい階級社会にありながら、生まれつきで運命が決まるのではなく、すべての人は平等に、行いで運命が決まると教えられています。

特に仏教では、生まれつき運命が決まっているという運命論は、因果の道理を否定する「宿作外道しゅくさげどう」といって、排斥されます。

ブッダは、私たちの未来の運命は、今からの行いによって変えることができる、と教えられ、カースト制度を打ち破っておられるのです。

私たちも、こんな部落差別やカースト制度のように、過去世のたねまきで運命は決まっていると諦めるのではなく、少しでも悪いことをやめて、善いことに心がけ、未来の運命をよりよくしてすることができるのです。

では仏教で、生まれつきではなく、行為で差別されるのはなぜなのでしょうか?

仏教でも行為で差別されるのでは?

ブッダは、全く差別されないのかというとそうではありません。人類を行為によって『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』では「 九品くぼん 」といわれる9通りに分けられたり、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』では「 三輩さんぱい」といわれる3通りに分けられたりしています。

例えば『大無量寿経』の三輩なら、「」とは人のことで、 上輩じょうはい中輩ちゅうはい下輩げはいの3通りの人です。
上輩とは、色々の善をする人です。
中輩とは、多少善をする人です。
下輩とは、善のできない人です。

実際には、すべての人は怒り愚痴煩悩の塊だと教えられていますので、善などできません。すべての人は、下輩です。
それなのになぜブッダは、このように3通りに分けられたのかというと、少しでも善いことをしようという心を私たちに起こさせるためです。
煩悩でできている私たちは、このように分けられると、あの人に負けたくない、上へ行きたいという気持ちが起きてきます。
それは競争心であり、名誉欲です。
どんなきれい事を言っていても、負けたくない、輝きたいという名誉欲は、内心誰でもあります。
ブッダが色々の善を説かれ、それをどの位しているかで差別されたのは、私たちの善い行為をしようという意欲を高めるためだったのです。

ではなぜブッダがこのような差別をされたのかというと、平等の世界へ導くためです。
すべての人を平等の幸せの世界に導くには、絶対必要だったのです。
これを方便といいます。

世間の差別は、生まれによって見下したり、権益を守ったりするためのものですが、仏教の差別は、平等の世界へ導く方便です。
世間の差別と仏教の差別はまったく次元が違うのです。

仏さまは、人間のみならず、すべての生きとし生けるものを憐れんで、
すべての生命は平等であり、上下はない
と一視同仁の平等の慈悲をかけておられます。

ブッダが差別されたのは、本当の自分の姿が分からない私たちに、ありのままの自分の姿を知らせ、本当の幸せに導くためだったのです。

本当の幸せは平等の世界

万川が海に入れば、みな同じ一つの味になります。
海に流れ込むまでは、太い川、細い川、清らかな川、濁った川と、千差万別の川がありますが、海に入れば、みな同じ塩味になります。
万川が海に入れば一味になるように、仏教に教えられる絶対の幸福になれば、どんな人も一味平等の世界に生かされます。
人種や職業、お金持ちかどうか、男女、才能、体の障害などに関係なく、すべての人が、同じ喜びの世界に共生できるのです。

それは「信心一致のうえは、四海みな兄弟」といわれるように、世界人類がみな兄弟になれる平等の世界です。

ではどうすれば絶対の幸福になれるのかについては、仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。

目次(記事一覧)へ

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作