親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生涯と教え

親鸞聖人(1173−1262)は、日本最大の宗派浄土真宗の宗祖です。
先生の法然上人の教えを受け継ぎ、その本質を明らかにしました。
その一枚看板は、生きているときに、絶対の幸福になれる、平生業成の教えです。
一体どんな一生を過ごされ、何を明らかににされたのでしょうか?

天涯孤独の少年

親鸞聖人は、1173年4月1日、京都に生まれられました。
世の中は、貴族の支配する平安時代から武士の鎌倉時代に移ろうとする激動の時代でした。
親鸞聖人のお父さんは、藤原有範(ありのり)という貴族の家柄、お母さんは、武士である源氏の流れを汲む吉光御前(きっこうごぜん)といわれます。
ある晩、吉光御前の夢に、如意輪観音が現れ、五葉の松を授かり、やがて子供が生まれたのです。
幼名を「松若丸(まつわかまる)」と名づけました。

ところが松若丸が4歳の5月18日、お父さんの有範は、病がもとで亡くなってしまいました。
続いてお母さんも、松若丸8歳の5月21日に病気であっけなく亡くなりました。
天涯孤独の身になった親鸞聖人は、
次に死んで行くのはおれの番だ。死ねばどうなるのだろう
死んだらどうなるか真っ暗なことに驚きました。
そして、どんな人にも必ずやってくる死の問題を解決するには、仏教を聞くしかないと、仏道を志したのです。

一度は伯父の藤原範綱(のりつな)に身を寄せた親鸞聖人でしたが、翌年9歳のときには、遠縁にあたる慈鎮和尚を頼って仏門に入ることになったのです。

9歳・親鸞聖人出家の動機

親鸞聖人9歳の3月15日の夕方、範綱に手をひかれ、京都の青蓮院(しょうれんいん)の前で車を降りました。
慈鎮和尚は、この青蓮院の門跡でした。門跡とは、特定の有力な寺院の住職です。当時まだ27歳でしたが、後の関白九条兼実の兄で、やがて天台宗の比叡山の座主になる実力者です。
範綱と共に慈鎮和尚に面会すると、
「そなたが有範殿のご子息か」
「はい、松若丸でございます」
慈鎮和尚はまじまじと親鸞聖人を見て、その非凡なすがたににっこりと満面の笑みをもらしました。
「うーむ、わずか9歳で出家を志すとは尊いことじゃ。きっと立派な僧侶になるであろう」
「では、出家の願い、お聞き届けいただけますでしょうか」
「よいよい、今日はもう遅いから、明日、出家得度の式をあげよう」
ところが、許しを得て嬉しいはずの親鸞聖人は黙ってしまい、硯箱の筆を借りて、すらすらと一句の歌を詠んだのでした。
明日ありと思う心の仇桜(あだざくら)
   夜半に嵐の 吹かぬものかは

それを見た慈鎮和尚はびっくりしました。
明日ありと思う心のあだ桜」とは、みんな、明日があると思って生きていますが、それは本当でしょうか、ということです。
親鸞聖人は、
「この世は無常の世界と聞いております。
今を盛りと咲く桜の花も、夜半に吹く一陣の嵐で散ってしまいます。
人の命は桜の花よりも儚いものなのに、その厳粛な無常を忘れていたら、仏教を聞かずに命が終わってしまいます。
明日と言わず、どうか今日、得度していただけないでしょうか」
といわれているのです。
これは仏教に説かれる真実ですから反論できません。慈鎮和尚は
「まことに仏法に明日はない。仏法のことは急がなければならない。
それなら今日得度の式をあげよう。すぐに用意を頼むぞ」
いつ死がやってくるかわからないという痛烈な無常観によって、親鸞聖人はその日のうちに出家されたのでした。

19歳・磯長の夢告

当時、身分の低い者が出世するには僧侶になるのが一番でしたので、比叡山には名利のために学問や修行をしている者も数多くありました。
ところが親鸞聖人の出家の目的は、死の問題の解決一つでした。これを「生死出ずべき道」ともいわれます。目的が生死の解決だったので、親鸞聖人の修行は命がけでした。
来る日も来る日も生死の解決一つを求めて学問と修行に打ち込みます。
10歳から天台宗の学問を学び、12歳からは法相宗、15歳では真言宗、16歳からは華厳宗の教えも学びとり、修行に励んだのですが、何年経っても少しも後生が明るくなるめどは立ちません。「どうすれば生死の解決ができるのか」と悩んでいたとき、昔、母から聞いた、如意輪観音が夢に現れて予告され、自分が生まれたという話を思い出し、如意輪観音の生まれ変わりといわれ、仏教を日本に広められた聖徳太子の御廟に行ってみようと思いつきます。

聖徳太子の御廟は大阪の磯長にあります。
三日三晩こもって生死出ずべき道を尋ねました。
すると、2日目の夜、夢に聖徳太子が現れ、次のように告げられました。
我が三尊は塵沙の界を化す。日域は大乗相応の地なり。
あきらかに聞け、あきらかに聞け、我が教令を。
汝が命根はまさに十余歳なるべし。
命終わりて速やかに清浄の土に入らん。
よく信ぜよよく信ぜよ、まことの菩薩を

我が三尊」とは、阿弥陀如来と、勢至菩薩、観音菩薩です。
塵沙の界を化す」とは、すべての人を救おうとしている。
日域は大乗相応の地なり」とは、日本は大乗仏教の花開く、ふさわしい土地である。
耳を澄ましてあきらかに聴くがよい、私の言うことを。
そなたの命は、あと10年である。
命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう。
よくよく信じなさい、真の菩薩を。

親鸞聖人は、「真の菩薩」や「清らかな世界」が何かはわからなかったのですが、「あと10年の命」には衝撃を受けました。
「10年などあっという間に過ぎて行く、私の命もいよいよ終わりだ、何としても命のうちに、生死の解決ができなければ、未来永遠真っ暗闇だ」
と煩悶し、ますます命がけの修行に打ち込むようになったのです。

26歳・不思議な女性との出会い

親鸞聖人は、学問も修行も群を抜いていたため、25歳になると、聖光院の門跡に抜擢されました。
それでも生死の解決はつかず、26歳の時、山を下りて京都の慈鎮和尚に相談に行きます。
その帰りのことでした。
赤山明神の前を通りかかったとき、
「親鸞さま、親鸞さま」
と声をかけてくる美しい女性がありました。
「親鸞さま、これからどこへ行かれるのですか?」
「修行のために比叡山に帰るところです」
「それなら私も悩みを解決したいのでどうか一緒にお連れください」
「……それは無理です。比叡山を開いた伝教大師は、女人は入ってはならないと定められています。
天台宗の拠り所とする法華経
女身は垢穢にして、これ法器に非ず
女性は汚れているので仏法の器ではないと説かれているからです。
されば決まりですから、無理な望みは諦めてお帰りください」
「親鸞さままでそんな悲しいことをおっしゃるのですか。
伝教大師ほどの方が、『涅槃経』に『一切衆生悉有仏性』、
すべての人に仏性が有るとと説かれていることをご存じなかったのでしょうか?」
「え?すべての人に?」
「はい、それに天台宗の教えだって『円教』という完全無欠な教えなのでしょう?完全無欠なのに差別があって、救えないという人があるのものでしょうか」
「……」
「それどころか、汚れている、罪の重い者ほど憐れみたまうのが、仏さまの慈悲と聞いております。それなのになぜ、このお山の仏教は、女を見捨てられるのでしょう」
返す言葉のない親鸞聖人に、その女性は
「親鸞さま。お願いでございます。
どうか、いつの日かすべての人の救われる、真実の仏教を明らかにしてくださいませ。
今日お会いできたご縁に、どうかこの玉手箱をお受け取りください」
親鸞聖人が玉手箱を受け取り、開いてみると宝玉が入っていました。
女性と別れて振り返ると、もう女性はいませんでした。

親鸞聖人もうすうすおかしいなとは思っていたのですが、
このとき、当時の仏教の間違いを明確に認識したのです。

28歳・大乗院の夢告

磯長の聖徳太子の夢告で余命10年と宣告されてから9年が経ちました。
28歳の親鸞聖人は、目前に迫る生死の一大事に煩悶し、12月に大乗院にこもります。
夜半になると谷へ下りて氷を砕いて冷水を浴び、大乗院の堂内に座って心を凝らします。
「私の命も今年限りでございます。いまだに後生に明かりがつきません。このまま死ねば今までの人生はなんだったのでしょう。どうかお導きください」

これを3週間の間続け、いよいよ12月28日になると、
深夜2時、夢に如意輪観音が現れ、こう告げました。
善いかな、善いかな。汝が願い、まさに満足せんとす。
善いかな、善いかな。我が願い、また満足す

これは、そなたの生死の解決が近づいた、私の役割も終わろうとしている、ということです。
阿弥陀如来の脇士である観音菩薩の役目は、すべての人を阿弥陀如来の救いにあわせることです。
親鸞聖人に絶対の救いが近づき、観音菩薩は使命を果たす喜びを述べたのでしょう。
しかし親鸞聖人は救われないまま年が明けたのです。

29歳・比叡山を下山

その親鸞聖人の苦しみが『歎徳文』に記されています。
定水を凝すと雖も識浪頻に動き、心月を観ずといえども妄雲なお覆う、
しかるに一息つがざれば千載に長く往く、
何ぞ浮生の交衆を貪って徒に仮名の修学に疲れん、
須らく勢利を抛って直に出離をねがうべし

これは、親鸞聖人が比叡山で、全生命をかけて生死の解決をしようとつとめられた時に見えてきた自己の姿です。
定水」とは静かな水面です。
比叡山から下を見渡すと、琵琶湖の湖水は月の光で照らされて、鏡のように澄み渡っています。
それを見下ろして親鸞聖人は、
「ああ、あの琵琶湖の水面のような静かな心になりたい」
と心を一つにしようとされているのが「定水をこらす」ということです。
ところが、「識浪しきりに動く」とは「識浪」とは心の波です。
静かな心になろうと20年間つとめたけれど、そのようにすればするほど、心が逆巻くのが見えてきたのです。
親鸞聖人は、思い通りにならない自分の心に泣かれたのです。
涙に曇るまなこで天上を見上げれば、満月がこうこうと冴えわたっています。
「なぜ親鸞の心にはあの欠け目のない満月のような、さとりの月を見ることができないのか。
煩悩のむらくもで覆い隠してしまう」
生死の一大事が解決できずにのたうちまわり、絶望の淵に立たれた親鸞聖人が、一歩踏み出されたのは、 「しかるに一息つがざれば千載に長く往く
今死んだら永遠に苦患に沈んでしまう、という驚きからでした。
刻々と迫る無常に、 こんな一大事を持ちながら、どうして世間のつきあいにわずらわされ、はかない修行や学問に打ち込むことができようか。 まさしく権力や利益のような世間事をなげうって、今すぐ生死の解決を求めなければならないのだ」
比叡山に解決の道はないと知らされた親鸞聖人は、刻々と迫る無常に背中を押され、29歳のとき、ついに下山を決意したのでした。

29歳・信心決定

比叡山を捨てた親鸞聖人は、京都の六角堂の観音に100日の祈願をしたのでした。
「聖徳太子の夢告から10年、私の命はもうありません。
どうか真の菩薩をお示し下さい」
100日経っても解決ができなかった親鸞聖人は、夢遊病者のように京都の町を歩いていると、四条大橋の上で、かつての比叡山での法友、聖覚法印にあいました。
「あなたは生死の解決をどうされましたか?」
「そのことでしたか。私は法然上人から他力の教えを聞いて救われました」
「他力の教え?」
「はい、他力によれば、どんな修行もできない、悪しかできない者でも救われます。
だからこそ、私のような者でも救われたのです」
「それは本当ですか?ぜひ私も法然上人のもとへお連れください」
「いいですとも、さあ参りましょう」
こうして法然上人にめぐり会うことができのたです。

法然上人は、吉水の草庵で毎日他力真実の仏教を説かれていました。「我々の力では20年や30年、どれだけかかっても生死の一大事の解決はできません。ところが、どんな悪人でも、他力によって苦悩の根元を断ち切られれば、煩悩あるがままで、絶対の幸福になれるのです」
こうして親鸞聖人は法然上人のお弟子となり、雨の日も風の日も、火のつくような聞法に身を投じたのでした。
そしてついに29歳のとき、阿弥陀如来の本願力によって苦悩の根元が断ち切られた瞬間、生死の一大事が解決され、絶対の幸福に救われたのです。
これを「信心決定(しんじんけつじょう)」といいます。

こうして聖徳太子の夢告でわからなかったこともすべてわかりました。「真の菩薩」といわれていたのは法然上人のことであり、命終わると共に清らかな世界に入るというのは、迷いの命である苦悩の根元が断ち切られて、絶対の幸福の世界に出ることだったのです。

信心決定された親鸞聖人は、この阿弥陀如来の大恩は、身を粉に骨を砕いても報わずにはいられないと、すべての人の救われる道を明らかにするための大活躍を始められます。

31歳・肉食妻帯

31歳のとき、師匠である法然上人の勧めに従われ、関白九条兼実の娘、玉日姫と結婚されました。
当時の僧侶には結婚は固く禁じられていたのですが、親鸞聖人はそれを公然と断行されたのです。これは出家して戒律を守って修行する、それまでの仏教の否定でした。
その結果、仏教界からは「肉食妻帯の堕落坊主」「仏教を破壊する悪魔」「気が狂っている」と非難を受け、
世間中からも「破戒僧」「色坊主」と嘲笑罵倒を浴びました。

当時、隠れて肉食妻帯している僧侶はたくさんいたので、もし肉食妻帯したいなら隠れてすればいいはずですが、なぜ敢えて公然と結婚されたのかといいますと、真実の仏教を明らかにするためです。

家を捨て、家族を捨てて出家しなければ助からない教えでは、ほとんどの人はスタートラインにも立てません。親鸞聖人は、どんな人も苦悩の根元を断ちきられて、ありのままで救われることを、大変なインパクトのある形で、身をもって明らかにされたのです。

35歳・新潟県へ流刑

35歳のときには、あまりにも精力的に真実の仏教を伝えたために、権力者の怒りを買います。貴族の世が武士の世に移り変わる混乱の時代に、法然上人がすべての人が救われる道を明らかにされ、燎原の火の如く広まっていく他力の教えに、仏教界も権力者も驚き、法然上人の教団に弾圧を加えたのでした。
それによって他力の教えの布教は禁止、法然上人の教団は解散、死刑4名、法然上人と親鸞聖人をする含む7名は流刑となりました。
最初は法然上人も親鸞聖人も死刑だったのですが、関白九条兼実のはからいで、罪一等を減じられ、法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流刑になったのです。

親鸞聖人が「騙されて地獄に堕ちても後悔はない」とまで慕われた法然上人に最後の別れの挨拶に伺った時、このような歌を歌われています。
会者定離 ありとはかねて 聞きしかど
    昨日今日とは 思わざりけり

それに対して法然上人は、こう返歌されています。
別れ路の さのみ嘆くな 法の友
    また遇う国の ありと思えば

これは、再度の面会は弥陀の浄土で、ということです。
実際、これが今生最後の別れとなったのです。

流刑の原因を肉食妻帯と思っている人がありますが、肉食妻帯していない法然上人も流刑に合われていますので、そうではありません。真の原因は、真実の仏教を熱烈に伝えた事だったのです。

親鸞聖人は
主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ
と名指しで天皇を批判し、怒りをぶちまけられています。
「ああ何たることか。天皇も臣下も真実の仏教に背き、正義に違い、無法の怒りを起こし迫害する」
ところが、親鸞聖人が29歳で決定された他力の信心には、転悪成善、煩悩即菩提の働きがありますのでこのように言われています。

大師聖人もし流刑に処せられたまわずば我また配所に赴かんや。
もしわれ配所に赴かずんば何によりてか辺鄙の群類を化せん。
これなお師教の恩致なり
」(御伝鈔)
「もし法然上人が流刑にあわれなければ、私も流刑にあわなかっただろう。
法然上人が、流刑にあわれるほど真実の仏教を伝えてくだされたから、私も救われることができたのだ。
そして私も伝えずにおれなくなったから、また法然上人と同じように流刑にあったのだ。なんと喜ばしきことであろうか。おかげで新潟県の皆さんに真実の仏教を伝える絶好のチャンスに恵まれた。
こうして、より一層精力的に、新潟県に仏教を伝えられたのです。

40歳・関東へ

新潟県では、あっという間に5年の月日が流れ、ある日、都から無罪放免の知らせが届きました。
「もう一度法然上人にあえる」
と京都へ向かおうとされた親鸞聖人でしたが、すぐ後に法然上人が亡くなったとの知らせが届きます。
茫然とされた親鸞聖人は、「お師匠を流刑にあわせた権力者のいる京都には何の未練もない」と、関東へ赴かれます。

それからの20年間、茨城県の稲田に草庵をかまえ、真実の仏教を伝えられたのでした。

その頃関東には、たくさんの弟子や信者を持っていた弁円という山伏がいました。
親鸞聖人がすべての人が救われる道を明らかにされると、信者や弟子が次々と弁円を離れて親鸞聖人のもとへ行ってしまいます。
怒り心頭に発した弁円は、ついに白昼堂々、剣をかざして稲田の草庵に押しかけてきました。
「出てこい親鸞、貴様、肉食妻帯の破戒坊主、み仏に代わってこの弁円が成敗してくれる」
そこへ数珠一連持たれて親鸞聖人が現れました。
その尊い姿に接した弁円は、
「これは自分は間違っていたのではないか」
と思い始め、殺意が失われてしまいました。
「私は間違っていたー、稲田の繁栄をねたんで押しかけるなど弁円一生の不覚、お許しくだされ親鸞どの」
「いやいや弁円どの、私も憎い殺したいと思う人は山ほどあります。そんな醜い心を隠そうとしている偽善者です。心のままに振る舞われるあなたのほうがよっぽど正直者だ。本当の心を隠している私は、許すとか許さないとか、人を裁けるような立派な者ではありません」
「親鸞どの、こんな私でも救われる道がありましょうか」
「何を言われる弁円どの、真実の仏教は苦しむ者が正客、極悪最下の親鸞が救われたのですから、あなたならなおさら救われます」
「こんな弁円でも救われるとは!?それはまことか。どうかお弟子の末席にでもおいてくだされー!」
「いやいやこの親鸞、一人の弟子もありませぬ。真実の仏教を私も間違いないとハッキリ知らされ、みなさんにもお伝えしているだけですから、共に真実の仏教を聞かせていただく私たちは「御同朋・御同行(おんどうぼう・おんどうぎょう)」、喜ばしき友であり、兄弟なのです。弁円殿も、早くお聞きくだされ」
こうして、弁円は、親鸞聖人から真実の仏教を聞かれて苦悩の根元を断ち切られ、明法房という法名を頂いて、生まれ変わったのでした。

こうして多くの人に仏教を伝えられた親鸞聖人は、還暦過ぎて生まれ故郷の京都に帰られます。

84歳・長子、善鸞を勘当

京都に帰られた親鸞聖人は、ご説法のかたわら、著作のわざに励まれます。すでに主著の『教行信証』は50代の頃に書かれたのですが、それも一生手元に置いて加筆修正をされました。それに加えて
76歳『浄土和讃』『高僧和讃
78歳『唯信鈔文意
80歳『浄土文類聚鈔
83歳『尊号真像銘文』『愚禿抄
と次々に著されます。

ところが、83歳では、自宅が全焼するという火災にあい、
84歳には、我が子善鸞を勘当しなければならないという事件が起きました。
関東に残してきた長子・善鸞が、真実の仏教をねじ曲げていることがわかったからです。
親鸞聖人は何回もいさめの手紙を送ったのですが、善鸞は破り捨て、少しも従いません。
「子供かわいいの私情に負けて、多くの人を地獄へ堕とすことはできない」
親鸞聖人は、
今は、親というべからず、子ということ思い切りたり。かなしきことなり
と、勘当状を叩きつけます。

「生んだ子供さえ導けない者に他人を導くなど笑止千万」
と非難攻撃が湧き上がるのは承知の上で、
唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず」(教行信証)
「阿弥陀如来の広大なご恩を思えば、どんな非難も苦にはならならいのだ」と突き進まれたのです。
親鸞聖人は善鸞には臨終の面会さえも許されず、生涯許されることはありませんでした。
そして著作を続けられ、
85歳『一念多念証文
86歳『正像末和讃
を著されます。
このようなご苦労によって、波瀾万丈の90年、すべての人が救われる道を明らかにしてていかれたのです。そして苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福になることこそが、本当の生きる意味なのだと、私たちの生きる意味一つを生涯かけて明らかにされたのが親鸞聖人です。

90歳・ご遺言

こうして弘長2年(1262年)11月28日、京都の町の中程、押小路南、万里小路東にて、90歳になられた親鸞聖人は、浄土に還って往かれました。
臨終に臨んだ弟子は、顕智と専信、家族は5番目の子供の益方と末娘の覚信尼のみでした。
このようなご遺言が伝えられています。
我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし
二人居て喜ばは三人と思うべし
その一人は親鸞なり

この親鸞聖人最後のお言葉は、いよいよ親鸞、この世の命終わることになった。
この親鸞は、生きているときに苦悩の根元が断ち切られたから、死ぬと同時に、阿弥陀仏の浄土に往くが、苦しみ悩む人がいる限り、自分だけ極楽浄土で楽しんでいることはできないのだ。
私の好きだった和歌山県の片男波海岸の波が寄せては返し、無限の運動を繰り返すように、すぐに浄土から戻ってきて、苦しみ悩むすべての人を救うぞ。苦しみ悩む最後の一人が救われるまで、真実の仏教を伝えずにおれないのだ。
あなたは一人でないぞ、二人だぞ、
二人でないぞ、三人だぞ。
嬉しいときも悲しいときも、いつもこの親鸞が一緒にいるからな。
早く苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になるところまで仏教を聞いてくだされ、
ということです。

こうして親鸞聖人は、どんな人でも、煩悩あるがままで、苦悩の根元が断ち切られて、本当の幸せに救われる、真実の仏教を明らかにしていかれたのでした。

ではその苦悩の根元とは何か、どうすれば苦悩の根元を断ち切られ、絶対の幸福になれるのかについては、仏教の真髄ですので、
わかりやすく小冊子とメール講座にまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

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