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行脚とは?意味と由来|雲水が命がけで探し求めた本当の目的

「行脚って、どういう意味?」
「全国行脚や謝罪行脚の行脚って何?」

全国行脚、謝罪行脚、ラーメン行脚。
ニュースや会話の中で、「行脚」という言葉を
耳にすることがあります。
どれも、あちこちを巡り歩くことです。

ですが、行脚はもとは仏教の言葉です。
昔の修行僧は、草をかき分けて山を越え、
川を渡って、何年も歩き続けています。
それほどまでして、一体何を探しているのでしょうか。

その答えは、何のために生きるのかを知りたい私たちにも、
深く関わっています。

では、行脚とはどういう意味で、その目的は何なのでしょうか?

行脚とは?意味と語源

「行脚(あんぎゃ)」とは、仏教の僧侶が修行のために、
諸国を歩いて巡ることです。
辞書には、主に次の2つの意味が書かれています。

「行脚」の2つの意味
  • (1)仏語。禅僧が諸国を巡って修行すること。また、その僧。
  • (2)徒歩で諸国を旅すること。また、その人。

(出典:『日本国語大辞典』第二版)

1つ目が行脚のもとの意味で、
主に禅宗の修行として行われてきたものです。
行脚する僧のことは、「雲水(うんすい)」ともいいます。
2つ目はそこから転じて、僧侶でなくても、
歩いて諸国を旅することです。

行脚の「行」は行くこと、「脚」は足のことで、
自分の足で歩いて行くことを表しています。

では、行脚する僧が「雲水」と呼ばれるのは、なぜなのでしょうか?

雲水行脚とは?行脚僧が雲水と呼ばれる理由

行脚する僧が「雲水(うんすい)」と呼ばれるのは、
行く雲や流れる水のように、
1つの所にとどまらずに旅を続けるからです。
雲水は「行雲流水(こううんりゅうすい)」からきた呼び名で、
雲水が諸国を巡る修行の旅を、
四字熟語で「雲水行脚」や「諸国行脚」といいます。
住む所にも持ち物にも執着せずに
歩いていく姿を、雲と水にたとえたものです。

では、今では行脚は、どのように使われているのでしょうか?

全国行脚・謝罪行脚とは?ビジネスでの行脚の使い方

今では行脚は、何かの目的のために、
各地を自分の足で回ることに使われています。

全国行脚は、社長が全国の支店を回って社員と直接話をしたり、
歌手が新曲を持って各地のお店を回ったりすることです。
政治家が支持を求めて地方を回るのは、
地方行脚や遊説(ゆうぜい)行脚といいます。
謝罪行脚(お詫び行脚)は、不祥事の後に、
迷惑をかけた取引先などを一軒一軒訪ね、
頭を下げて回ることをいいます。

松尾芭蕉
松尾芭蕉(1644−1694)

ほかにも、お礼行脚や挨拶行脚、
話題の店を食べ歩くラーメン行脚、温泉行脚などがあります。
これらはもはや徒歩ではなく、車や電車で旅していることでしょう。

江戸時代には、松尾芭蕉(1644−1694)のような
俳人の旅も、行脚と呼ばれています。

ビジネスで行脚という時には、メールや電話で済ませずに、
自分から足を運ぶという熱意や誠意が込められています。
どの使い方も、もとの「歩いて巡る」という意味から来たものです。

では、もとの行脚の僧たちは、
どんな姿で旅をしているのでしょうか?

行脚僧の服装と旅の暮らし

行脚の僧は、網代笠(あじろがさ)をかぶり、
黒い衣に草鞋(わらじ)を履いた姿で旅をしています。
日本の雲水の主な服装と持ち物は、次のようなものです。

行脚僧(あんぎゃそう)(雲水)の服装と持ち物
  1. 網代笠(竹などを薄く削って編んだ大きな笠)
  2. 黒い衣(直綴(じきとつ))と手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)
  3. 草鞋
  4. 袈裟文庫(けさぶんこ)(袈裟や経本を入れて胸の前にかける箱)
  5. 頭陀袋(ずだぶくろ)(身の回りの物を入れる袋)
  6. 応量器(おうりょうき)・持鉢(じはつ)(托鉢(たくはつ)や食事に使う器)
行脚僧(雲水)
行脚僧(雲水)

家々の前に立って托鉢をし、食べ物をいただきます。
宿がなければ、木の下や石の上で眠ります。
これを「樹下石上(じゅげせきじょう)」といいます。

中国の唐の時代の行脚僧は、
ボロ布をつなぎ合わせた衲衣(のうえ)を着て歩いています。
そのため、禅僧は衲僧(のうそう)とも呼ばれます。

唐を旅した日本の僧、円仁(えんにん)(794−864)の
『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』にも、
毛織の衲衣を着て錫杖(しゃくじょう)をついた50人余りの禅僧が、
各地から集まってきた様子が記されています。

百丈懐海
百丈懐海(749−814)

そんな身なりなので、行脚僧は見下されることもあります。
唐の百丈懐海(ひゃくじょうえかい)(749−814)が、
まだ行脚していた頃のことです。
善勧寺(ぜんかんじ)というお寺を訪ねて、
お経を読ませてほしいと頼むと、お寺の主は
「禅僧は衣服が汚いから、お経を汚されては困る」と、
初めは断っています。
それでも読みたいという熱意に押されて、最後は許しています。

のちに百丈は、大雄山(だいゆうざん)(百丈山)の住職になります。
善勧寺の主は、あの時の汚い身なりの僧が百丈だったと知ると、
「私はまったくの凡夫(ぼんぶ)だ。
あの方が、人間も神々も導くよき師だと見抜けなかった
」と悔やみ、
自らも衲衣をまとって、百丈のもとで禅を学び、
やがて百丈山の2代目の住職になっています。
(出典:『祖堂集(そどうしゅう)』巻14)

では、そんな粗末な姿で歩き続ける行脚には、
どんな目的があるのでしょうか?

世間でいわれる行脚の目的

行脚の目的には、世間で次の4つがいわれています。

行脚の目的といわれるもの
  1. 歩く一歩一歩が修行になる
  2. 野宿や托鉢の厳しさに耐えて心身を鍛える
  3. 執着を離れ、煩悩をなくしてさとりを開く
  4. 各地の人々に仏教を広める

辞典にも、行脚は「歩々これ道場の修行」とあり、
歩く一歩一歩が、そのまま修行の場だとされています。
(出典:『改訂新版 世界大百科事典』)

笠1つ、杖1本で野宿を重ね、
寒さや飢えに耐えていけば、心も体も鍛えられます。
弘法大師ゆかりの四国八十八か所を巡るお遍路も、
行脚の1つといわれることがあります。
これらのよく言われる4つは、いずれも行脚の大切な一面です。

ですが、それだけでは、昔の僧が草をかき分け、
道のない所まで歩き続けた理由にはなりません。
歩くことが修行なら、1つのお寺の周りを歩いても修行になり、
心身を鍛えるなら、山のお寺にこもっても鍛えられます。
さとりを開くためなら、1か所に落ち着いて
修行した方がよさそうです。
仏教を広めるのが目的なら、人の多い町を回ればよく、
道のない山奥まで分け入る必要はありません。

では、行脚の本当の目的は、どこにあるのでしょうか?

行脚の本当の目的はよき師に会うこと

行脚の本当の目的は、よき師に会うことです。

唐の古霊神賛(これいしんさん)(生没年不詳)は、
出家したお寺を出て行脚し、
百丈懐海に出会ってさとりを開いてから、
最初の師のもとへ帰っています。

すると師は、どこか様子の変わった弟子に、
「汝、行脚し来たりて何人(なにびと)にか見(まみ)ゆる」と尋ねています。
(出典:『祖堂集』巻16)
行脚をして、どんな人に会ってきたのか、ということです。

行脚とは、どこを歩いたかではなく、
誰に会ったかの旅です。

そのような旅の姿を、昔の人は「撥草瞻風(はっそうせんぷう)」と言っています。
(出典:『祖堂集』巻5)

「草を撥(はら)い、風を瞻(み)る」と読み、
生い茂る草を払いのけながら、
風の吹いてくる方角だけを頼りに、
道のない所を進んでいくことです。
地図も道しるべもない中を、よき師がいると聞けば、
どんな山奥へも訪ねて行きます。

なぜそれほどまでして師を求めるのかというと、
仏教では、よき師のことを「善知識(ぜんちしき)」といい、
善知識こそが、仏道のすべてだと教えられているからです。

お釈迦さまのお弟子の阿難が、
「善知識は、仏道の半分ほども大切です」と申し上げた時、
お釈迦さまは「そう言ってはならない」とたしなめられ、
このように説かれています。

夫れ善知識の人は、即ち是れ全梵行(ぜんぼんぎょう)の人なり。
(漢文:夫善知識之人,即是全梵行之人)

「夫れ善知識の人は」とは、
そもそも、よき師という人は、ということです。

「即ち是れ全梵行(ぜんぼんぎょう)の人なり」とは、
よき師は、仏道修行のすべてにあたる人だ、ということです。
梵行とは、仏道修行のことです。

その理由は、よき師と共にいれば、
よい道を示してもらえるからだと説かれています。

では、行脚の旅人たちは、インドや中国、日本で、
どのように師を求めているのでしょうか?

インドの行脚|お釈迦さまと善財童子

インドでは、お釈迦さまご自身が、師を求めて歩かれています。
29歳で出家されたお釈迦さまは、
まずアーラーラ・カーラーマ、続いてウッダカ・ラーマプッタ
という修行者を訪ねて、教えを受けられます。
(出典:『中阿含経』羅摩経)

ですが、どちらの教えでも、
生老病死の苦しみを離れる道は見つかりません。
師と仰がれる人でも、その道を教えられるとは限りません。
お釈迦さまは2人のもとを去り、
6年の修行の末に、35歳で仏のさとりを開かれます。

大乗仏教の『華厳経』には、
善財童子(ぜんざいどうじ)という若者の行脚が説かれています。
仏のさとりを求める心を起こした善財童子に、
文殊菩薩は、まことの善知識を求めよと勧め、
このように教えられています。

善男子(ぜんなんし)、善知識を求むるに疲懈(ひけ)を生ずること勿れ。善知識を見るに厭足(えんそく)を生ずること勿れ。
(漢文:善男子,求善知識勿生疲懈。見善知識勿生厭足)

「善男子(ぜんなんし)」とは、仏教を求める人への呼びかけで、
ここでは善財童子のことです。

「善知識を求むるに疲懈(ひけ)を生ずること勿れ」とは、
よき師を求めることに、疲れたり怠けたりしてはならない、ということです。

「善知識を見るに厭足(えんそく)を生ずること勿れ」とは、
よき師に会っても、もうこれでよいと
満足してはならない、ということです。

この教えのとおり、善財童子は南へ旅立ち、
50人を超える善知識を次々に訪ねて教えを受け、
最後に普賢菩薩のもとで、求める道を成し遂げています。

では、中国の行脚僧たちは、
誰と、どのように歩いているのでしょうか?

中国の行脚|道連れと趙州の61歳からの旅

中国の行脚僧たちは、
よき友を道連れにして、師を求めて歩いています。
宋の時代の『碧巌録(へきがんろく)』には、このようにあります。

古人の行脚は、交わりを結び友を択び、
同行道伴(どうぎょうどうはん)と為りて草を撥(はら)い風を瞻(み)る。

(漢文:古人行脚,結交択友,為同行道伴撥草瞻風)

昔の人の行脚は、よき友を選んで道連れとなり、
道なき道を旅した、ということです。
一緒に歩きながら仏教を語り合い、
互いに励まし合って、よき師を探していきます。

趙州
趙州(778−897)

唐の趙州(じょうしゅう)(778−897)は、
61歳になってから行脚の旅に出ています。
日本の道元(どうげん)(1200−1253)は、
その時の趙州の心がけを、こう書き残しています。


七歳の童児なりとも、若し我に勝るらん者は、我れ即ち伊(かれ)に問わん。

7歳の子どもでも、自分より勝れていれば教えを請おう、
ということです。
年齢で人を量らず、教えの中身で師を求める。
それが趙州の行脚です。

趙州はそうして20年の間、修行を重ね、
80歳になって初めて、お寺に住んで人々を導いています。

『日本国語大辞典』で、日本の書物で行脚という語が使われた早い例に挙がっているのも、
この趙州の行脚を書いた一節です。

では、日本の僧たちの行脚は、
どのようなものなのでしょうか?

日本の行脚|道元・坦山と今の雲水

道元
道元(1200−1253)

日本の僧たちも、よき師を求めて、
海を越えてまで行脚しています。

如浄
如浄(1162−1227)

道元は24歳で宋に渡り、各地の寺を訪ね歩いて、
天童山の如浄(にょじょう)(1162−1227)に出会い、
その教えを日本に伝えています。

江戸時代の良寛(1758−1831)も、
越後を訪れた禅僧の国仙(こくせん)(1723−1791)を師と仰いで、
備中玉島(岡山県)の円通寺まで従い、修行を重ねています。

幕末から明治にかけての禅僧、原坦山(はらたんざん)(1819−1892)には、
仲間の僧と行脚していた頃の、こんな話が伝えられています。

ある日、2人が小川にさしかかると、
連日の雨で水かさが増し、
若い娘が川を渡れずに困っています。
坦山は「どれどれ、渡してあげよう」と、
娘を抱きかかえて向こう岸へ渡してやります。
娘は顔を赤らめてお礼を言い、去っていきます。

それを見ていた連れの僧は、それきり黙り込んでしまいます。
出家の戒律では、
僧が女性に触れることは禁じられているからです。

日が暮れて、坦山が「どこかで宿をとろうか」と声をかけると、
連れの僧は「女を抱くような生臭坊主と、同じ宿には泊まれない」と、
そっぽを向きます。

すると坦山は、カラカラと笑って言います。
「なんだ、お前はまだあの娘を抱いていたのか」

娘を抱いて川を渡ったのは坦山ですが、
その娘を心の中でずっと抱き続けているのは、連れの僧の方です。
仏教では、体や口や心でする行いを業といい、
中でも心の行いが、一番大切だと教えられています。
よき道連れは、自分では気づかない心の中を知らせてくれます。

今でも、禅宗の修行道場では、
行脚の姿で訪ねてきた雲水が門をたたいても、
すぐには中に入れてもらえません。
玄関で頭を下げたまま入門を願い続ける
「庭詰(にわづ)め」が1日から数日、
小さな部屋で坐り続ける「旦過詰(たんがづ)め」が数日あって、
ようやく道場の一員として迎えられます。
よき師のもとで学ぶには、それだけの覚悟が問われます。

では、行脚の旅で本当によき師に出会うには、
何が必要なのでしょうか?

行脚の眼|よき師は名声では選べない

本当によき師に出会うには、
行脚する側にも「行脚の眼」が必要です。
『碧巌録』には、こう記されています。

大凡(おおよ)そ嚢(のう)を挑(にな)い鉢を負い、草を撥(はら)い風を瞻(み)るも、也(ま)た須(すべか)らく是れ行脚の眼を具(ぐ)して始めて得し。
(漢文:大凡挑嚢負鉢,撥草瞻風,也須是具行脚眼始得)

袋を担ぎ、鉢を背負って行脚するなら、
行脚の眼を具えていなければならない、ということです。

どれだけ草鞋を履きつぶして歩いても、
行脚する本人に、よき師を見分ける眼と覚悟がなければ、
よき師には会えません。

『碧巌録』は続けて、そんな行脚をしていれば、
閻魔大王から飯代を払えと言われるぞ、と戒めています。
人々から施された食事を、無駄にしてしまうからです。

禅では、そのような眼を具えた本物の修行者を褒めて
「行脚人」と呼ぶことがあります。
行脚人が師と初めて会う時は、
互いに相手の力量を見極める真剣勝負です。

唐の巌頭全豁(がんとうぜんかつ)(828?−887?)が、
徳山宣鑑(とくさんせんかん)(782−865)を訪ねた時のことです。
巌頭はそれまでに、『涅槃経』を講義するほど
学問を積んだ僧です。

徳山宣鑑
徳山宣鑑(782−865)

初めて会う時、巌頭が坐具(ざぐ)を広げて礼拝しようとすると、
徳山は杖の先でその坐具を引っ掛け、
階段の下へ放り投げてしまいます。
坐具とは、礼拝の時に敷く布のことです。

ところが、巌頭は顔色1つ変えずに階段を下りて
坐具を畳み、自分で役職の僧に挨拶を済ませると、
そのまま修行僧の堂に入っていきます。

その姿をじっと見ていた徳山は、
しばらくしてつぶやきます。
「この坊主、なかなかの行脚人らしい」
(出典:『祖堂集』巻7)

礼を尽くそうとして突き放されても、少しも動じない。
その眼と覚悟に、徳山もひそかに一目置いています。

反対に、行脚の眼を持たずに旅をする修行僧たちに、
雷を落とした禅僧もいます。

黄檗希運
黄檗希運(?−850?)

百丈懐海の弟子の黄檗希運(おうばくきうん)(?−850?)は、
大勢集まった修行僧たちを棒で追い散らし、
「お前たちは、酒の糟(かす)ばかり食らっている連中だ」と叱っています。
修行僧たちが、800人、1,000人と人の集まる所を見れば、
すぐにそこへ出かけていき、にぎやかな所ばかりを求めていたからです。
(出典:『景徳伝灯録』巻9)

黄檗は「大唐国内に禅師無し」とまで言っています。
1人の僧が「各地には、大勢の修行僧を集めて
教えている師が、たくさんおられるではありませんか
」
と尋ねると、黄檗は
「禅がないとは言わぬ。ただ、師がないと言うのだ」
と答えています。

世間では、名前の通った先生や、人が大勢集まる所に、
よい先生がいると思われがちです。

ですが、よき師を求めることと、名声に群がることは、まったく違います。

では、よき師かどうかは、何で見分ければいいのでしょうか?

よき師とは仏教を正しく教える先生

よき師かどうかは、何を教えているかで見分けます。

世間で「知識」といえば、物事をよく知っていることですが、
仏教で知識といえば、教えを説く先生のことです。
善知識とは、仏教を正しく教える先生のことです。

黄檗は同じ説法の中で、言葉ばかり覚えて
分かったつもりになっている修行僧に、こう問いかけています。

到る処に「我れ禅を会(え)す」と称す。還(は)た汝が生死に替わり得んや。
(漢文:到処称我会禅。還替得汝生死麼)

「到る処に『我れ禅を会(え)す』と称す」とは、
行く先々で、私は禅が分かったと言っている、ということです。

「還(は)た汝が生死に替わり得んや」とは、
果たしてその「分かった」ということが、お前の生死の問題を
代わりに引き受けてくれるとでもいうのか、ということです。

生死の問題とは、生きとし生けるものは、
やがて必ずその生涯を終え、来世に至ります。
では、死んだらどうなるのかがハッキリしないとすれば、
大変不安です。
これを生死の一大事といいます。

黄檗は続けて、
「急いで努力せよ。
わずかな衣と食べ物をいただくだけで、
虚しく一生を過ごしてはならない
」と戒めています。

言葉をいくら覚えても、やがて必ずやって来る
自分の生死の問題は、少しも解決しません。
お金や財産、地位や名誉も同じです。
どれだけ手に入れても、心からの安心や満足が得られないのは、
この死んだらどうなるかハッキリしない生死の不安が、
そのまま残っているからです。

応庵曇華
応庵曇華(1103−1163)

南宋の禅僧、応庵曇華(おうあんどんげ)(1103−1163)は、
自分が行脚した理由を、このように書き残しています。


生死の未だ明らかならざるを念(ねん)じて草を撥(はら)い風を瞻(み)、真の善知識に親近(しんごん)す。
(漢文:念生死未明撥草瞻風,親近真善知識)

生死の問題がまだハッキリと解決していないことを深く念じて、
草をかき分けて道なき道を旅し、
まことの善知識に親しく近づいて教えを受ける、ということです。

辞書には、行脚のもう1つの意味として、
「死ぬこと」も挙げられています。
(出典:『日本国語大辞典』第二版)

その例に引かれているのは室町時代の記録で、
大元和尚という禅僧が亡くなる時、
子どもを呼んで紙と筆を求め、
「我、即刻、行脚すべし」と言い残しています。
(出典:『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』)

死ぬことは、誰もが最後に必ず出かける行脚です。
その旅の行き先を、仏教では「後生」といいます。

死んだら無になると思っている人もありますが、
それを確かめて帰ってきた人はありません。
私たちは、自分の後生がどうなるのかを、
ハッキリ知りません。
行き先の分からない心の闇を抱えたまま、
人生の旅を続けています。

この後生がどうなるかが、人生の一番の大問題で、
仏教ではこれを「生死の一大事」とも「後生の一大事」ともいいます。
行脚の旅人たちが命がけでよき師を求めたのも、
この一大事を解決するためです。

よき師とは、後生の一大事を解決して人生の目的を果たす道を、
正しく教える人です。

それこそが、お釈迦さまが一生をかけて
ただ1つ説かれた教えだからです。

そのような善知識に遇うことの難しさを、
お釈迦さまは『大無量寿経』に、こう説かれています。

善知識に遇い、法を聞きて能(よ)く行ずる、これまた難しと為す。
(漢文:遇善知識,聞法能行,此亦為難)

「善知識に遇い」とは、
仏教を正しく教える先生に出会い、ということです。

「法を聞きて能(よ)く行ずる」とは、
その先生から教えを聞いて、教えのとおりに実践する、ということです。

「これまた難しと為す」とは、
これもまた難しいことだ、ということです。

では、正しい仏教の先生から教えを聞いて、
人生の目的を果たすと、私たちの人生はどう変わるのでしょうか?

人生の旅が明るい旅に変わる時

正しい仏教の教えを聞いて、人生の目的を達成すれば、
生きている今、後生暗い心が明るい心になって、
何があっても変わらない幸せになります。
「人間に生まれたのはこれ一つであった」と大満足の心になって、
人生の旅が、行き先の明るい旅に変わります。

もう遠い国まで行脚に出かける必要はありません。
善知識の言葉の下に、迷いの根元が絶ち切られ、
「人間に生まれてよかった」という
絶対に色あせることも薄れることもない幸せになれます。

それは、厳しい修行を積んだ人や、
特別な才能のある人だけのものではありません。
どんな人も、生きている今、この身になれます。

では、その変わらない幸せとは、どんな幸せなのか。
どうすれば、その幸せになれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。