煩悩を捨てる方法
「煩悩を捨てたい」
「この欲も、怒りも、消せるものなら消してしまいたい」
また腹を立ててしまった。
人が褒められているのを、素直に喜べなかった。
やめると決めていたものに、夜中に手が伸びた……。
そのたびに、自分が嫌になります。
こんな心さえなければ、もっと穏やかに生きられるのに、と思います。
そこで、今度こそと決めます。
明日からは腹を立てない。
人と比べない。
間食はやめる。
それから3日ほどは、もちます。
しかし4日目には、元に戻っています。
しかも、我慢していた分だけ、前より強く出てきます。
これは一度や二度のことではありません。
年の始めにも、誕生日にも、大きな失敗をした翌朝にも、
同じことを決めて、数日後に同じところへ戻ってきています。
そのような私たちが煩悩を捨てることは、できるのでしょうか?
捨てたいのは、どの煩悩か
煩悩というのは、私たちを煩わせ、悩ませる心のことで、
仏教では全部で108あると説かれています。
その意味や種類については、以下の記事で解説しています。
➾煩悩とは?108ある煩悩の意味と、欲が満たされても苦しくなる理由
ところで、「煩悩を捨てたい」と思う時、
私たちは、その108の煩悩のすべてを捨てたいと思っているでしょうか。
例えば、すぐに腹を立ててしまうところは直したい。
ですが、負けたくないという心まで消えてしまっては、
勉強や仕事に支障が出てきます。
いつも食べ過ぎてしまうので、食欲は減らしたい。
けれども、美味しいものを前にした時の、あの嬉しさは残しておきたい。
人に嫉妬する心は、我ながら見苦しいと思う。
ですが、人から良く思われたいという心まで、なくしたいとは思いません。
このように私たちは、選んで捨てようとしています。
では、何を基準に選んでいるのでしょうか。
捨てたいと思うのは、その心が自分に都合が悪くなった時です。
腹を立てた後で自分が嫌になるのは、
怒りが悪いと分かったからというより、
怒りに任せて振る舞うと嫌われる、と思うからですし、
食べ過ぎを悔やむのは、体に悪いからというよりも、
太るのが嫌だからです。
捨てたい心の後ろには、いつも別の心が立っています。
その別の心が「これは損だ」と判定したものだけを、
私たちは煩悩と呼んで、捨てたがっています。
その証拠に、同じ心でも、得になっている間は呼び名が変わります。
人に勝ちたい心は、仕事の場では向上心と呼ばれます。
食べたい心は、食べ歩きが趣味だといえば、豊かな楽しみになります。
人の目が気になる心は、身だしなみなどの見た目に気をつけていることになります。
どれも、捨てたいものの一覧には入っていません。
では、私たちが煩悩と呼び、捨てたいと思っている心は、捨てられるのでしょうか。
世間でよくいわれる3つの方法
煩悩を捨てる方法として、世間でよくいわれるものが3つあります。
我慢して抑える
まずよくあるのが、そういう心が出てきそうになったら我慢しなさい、というものです。
腹が立っても口に出さない。
欲しくても手を出さない。
意志の力で抑えておきなさい、というわけです。
確かにこれは間違っていませんし、
抑える力がなければ、人と上手く付き合うことはできません。
ですが、抑えるというのは、出てこないようにフタをすることです。
フタをしている間、その下はどうなっているでしょうか。
口に出さなかった怒りは、夜中に思い出してまた燃え上がります。
我慢した食べ物は、我慢した分だけ美味しそうに見えて、ますます食べたくなります。
それに、抑えた心は、抑えた場所で止まってはくれません。
上司に言い返せなかった言葉は、その日の夜、
家族に向かって別の言葉となって表れます。
出口をふさいだだけで、中身はそのまま残っているのです。
そしてフタは、いつか外れます。
疲れている時、お酒が入った時、誰も見ていない時です。
抑えられるのは、抑えていられるうちだけです。
これでは捨てたことにはなりません。
座って心を静める
次によくいわれるのが、座禅や瞑想で心を静めなさい、というものです。
これは実際に多くの人が、これで心が楽になったという方法ですし、
座っている間、ざわついた心が静まるのも本当のことです。
呼吸に意識を集中すると、腹が立っていた心が落ち着いてきます。
瞑想のやり方や種類については、以下の記事で解説しています。
➾瞑想の目的と意味、効果とやり方の種類、注意点は?
ですが、座っていた場所を立って動き回ると、また腹の立つことが起きます。
静まっていたのは、静まりやすい場所に身を置いていた間だけです。
静まった心は、静けさが破られた時に、消えてしまいます。
確かに座っている間は、誰も邪魔をしないかもしれません。
邪魔が入らない場所で穏やかにいられたとしても、その後
邪魔が入った時にどうすればいいかは、誰も教えてくれません。
そして、あの落ち着いた感じをもう一度味わいたいと思って、また座るとすれば、
新たに静けさのほうを、求める心に変わっています。
この場合、捨てたい心が別の形に変わっただけで、解決にはなっていません。
除夜の鐘で祓う
3つ目によくいわれるのが、除夜の鐘で祓ってもらう、というものです。
大みそかの夜、煩悩の数だけ鐘をつきます。
あの鐘で、1年の煩悩が落ちる、といわれます。
それで煩悩に悩まされることがなくなるというわけです。
除夜の鐘をなぜ108回つくのかは、以下の記事で解説しています。
➾除夜の鐘の意味とは?108回つく理由と由来・煩悩との関係
年の終わりに、その1年の自分を振り返るのは大切なことです。
ですが、鐘をつけば消えるのなら、次の年につく必要はありません。
毎年つかれているということは、毎年同じ状況にあるということです。
元旦の朝は、確かに気持ちが改まります。
ところが、三が日が明けて仕事が始まれば、
初日の午後には、去年と同じことで人を責めています。
落ちたはずのものが、松の内のうちに戻っています。
これらは3つとも、煩悩が表に出てこないようにする工夫です。
では、これらを実践して煩悩に「打ち勝った」と感じた時、
煩悩そのものはどうなっているのでしょうか。
「打ち勝った」時に心の中で起きていること
「煩悩に打ち勝った」と思う瞬間が、誰にでもあります。
学生の頃、朝どうしても起きられなかった、という覚えはないでしょうか。
明日また寝過ごしたら、単位が足りなくなる。
目覚ましを何個も枕元に並べて、机の前には「克己心」と書いた紙を貼ります。
それでも朝は眠い。
このまま寝て、もう1年やり直すか、というところまでいって、
ガバッと起きます。
睡眠欲に打ち勝った、と言いたいところです。
ですがこの時、あなたを起こしたのは、意志の力だったのでしょうか。
あなたを起こしたのは、留年したくないとか、
人にどう思われるかという名誉欲です。
眠っていたい心と、恥をかきたくない心が引っぱり合って、
恥をかきたくない心のほうが強かった、というだけのことです。
こういう場面は、何歳になっても起こります。
4人で集まった部屋に、皿に乗ったケーキが5つ運ばれてきたとします。
4人で1つずつ食べて、皿には1つ残ります。
美味しかったので、みんなもう1つ食べたいと思っています。
ところが、誰も手を出しません。
1時間経っても、2時間経っても、皿の上にそのまま残っています。
やがて1人が、サッと取って食べます。
すると残りの3人は、心の中で「よく食べられるな」と思います。
この3人は、食欲に勝ったのでしょうか。
食欲より、名誉欲のほうを選んだだけです。
その証拠に、無人島に流れ着いて、これを食べなければ死ぬとなれば、
4人はためらわずに奪い合います。
お中元を差し出された時も同じです。
「どうぞ」と言われて、すぐに受け取ることは多くありません。
2、3回は辞退して、最後に受け取ります。
欲しくないのではなく、すぐに受け取ると欲深く見えると、
その場で計算が働いています。
海外の映画で、迷っている人の肩の上に、天使と悪魔が現れる場面があります。
悪魔が「食べてしまえ」とささやき、
天使が「ダメよ、人に見られているでしょう」と止めます。
悪い心と善い心が争っているように見えますが、
天使が持ち出しているのは「人に見られている」ということです。
つまり争っているのは、食欲と名誉欲です。
善いことをした時も、同じことが起きています。
困っている人に手を貸した。
募金箱にお金を入れた。
その時に誰かが見ていたかどうかで、手の動きは変わります。
見ていてくれたほうが、いくらか気持ちよくお金が出ていきます。
善い行いのほうにも、煩悩は同じだけ入り込んでいます。
どの場面でも、減った煩悩は1つもありません。
私たちが「煩悩に打ち勝った」と思っているのは、
強くあらわれた煩悩が、別の煩悩を上回った時のことです。
押しのけられたほうは、消えたのではなく、順番を譲ったようなもので
そのまま残ります。
この有様を、お釈迦さまは『雑阿含経』に、こう説かれています。
血を以て血を洗い、
もろもろの悪を捨て離れて、還ってまた悪を取る。
(漢文:以血洗血,捨離諸悪,還復取悪)(出典:『雑阿含経』)
「血を以て血を洗う」とは、血のついた手を、血で洗うということです。
洗ったつもりで、汚れは増えています。
悪を捨て離れたと思って、また別の悪を取っている。
煩悩で煩悩を抑えるというのは、そういうことです。
そして、このお言葉を説かれた相手は、
出家して修行していたお弟子たちでした。
では、お釈迦さまは、煩悩を捨てられると説かれたのでしょうか。
そして、もし捨てられるのであれば、どうすればいいと教えられたのでしょうか。
お釈迦さまが出家したお弟子に説かれた道
先ほどの『雑阿含経』のお言葉の少し後に、こう説かれています。
四念処に心を繋けて、無相三昧に住し、修習し、多く修習すれば、
悪不善の法は、これより滅して、余すところなく永く尽く。
(漢文:於四念処繋心,住無相三昧,修習,多修習,悪不善法,従是而滅,無余永尽)(出典:『雑阿含経』)
「四念処」とは、身念処、受念処、心念処、法念処の4つを
ありのままに見つめる修行です。
1つ目の「身念処」とは、肉体が不浄であると観察することです。
2つ目の「受念処」とは、感受作用は苦であると観察することです。
3つ目の「心念処」とは、心作用は無常であると観察することです。
4つ目の「法念処」とは、一切は執着すべき実体がないと観察することです。
私たちは常楽我浄のひっくり返った考え方をしているので、
自分の体、感じること、心、ものごとの4つを対象に、
不浄、苦、無常、無我とありのままに見つめ続ける修行です。
「無相三昧」とは、目に映るものにも、心に浮かぶものにも、
心を止めない禅定のことです。
「修習し、多く修習する」とは、一度やって終わりではなく、
何度も何度もずっと続けるということです。
「悪不善の法」とは、むさぼる心、腹立つ心、人を害そうとする心です。
それが「余すところなく永く尽く」と言われています。
このように煩悩を断ち切る道は、確かに説かれています。
その道を進んでいたのが、先ほどのお弟子たちです。
髪を剃り、出家して、戒律を守る。
午前中は鉢を持って、家々を回って乞食を行う。
そしてお昼までに1日の食事を済ませて、
あとは瞑想に打ち込んだ人たちです。
家も、仕事も、田畑も、持ち物も、家族も置いてきています。
朝起きてから夜寝るまで、何とかして煩悩をなくそうと
修行一つに打ち込んでいました。
それでもその人たちは、悪を捨て離れたと思ったら、
また別の悪を取っていたわけです。
お釈迦さまの目の前で修行していて、そうだったのです。
色々な持ち物を捨てて出家し、朝から晩まで修行しても、
煩悩はそう簡単になくなりません。
口や身体のような外側は押さえ込めても、
内側の心の中まではどうにもならないのです。
あなたは、仕事も家庭もそのままで、
我慢と、わずかな時間の瞑想と、年に一度の鐘だけで、
この人たちを超えて煩悩を捨てられそうですか?
仏教では出家しなければ、煩悩をなくすことはおろか、
減らすこともできないので、
煩悩をなくすスタート地点にも立てないのではないでしょうか。
煩悩を消す方法も、断ち切る方法も、なくす方法も、
私たちの手の届くところには、ありません。
その上、大乗経典では、次のように説かれています。
(煩悩について)阿羅漢・辟支仏の智の断ずる能わざる所にして、唯如来の菩提智のみ能く断ずる所なり。
(漢文:阿羅漢、辟支仏智所不能断,唯如来菩提智之所能断)(出典:『勝鬘経』)
阿羅漢や辟支仏の智慧では、煩悩を断ち切ることができない。
ただ如来の悟りの智慧(菩提智)だけが、
煩悩を断ち切ることができるということです。
「阿羅漢」とは、小乗仏教での最高位の悟りです。
出家して厳しい修行に打ち込んだ人が到達できる悟りの境地です。
「辟支仏」は縁覚ともいわれ、独りで悟りを開く人のことです。
同じく出家をして厳しい修行をする人達です。
そのような人達でも煩悩を断ち切ることができないとなれば、
阿羅漢や辟支仏にはるかに及ばない私たちが
煩悩を断ち切ることはできるはずがありません。
この『勝鬘経』のお言葉は、
華厳宗でも法相宗でも、天台宗でも真言宗でも、
共通の前提になっていますので、
仏のさとりを開かないと煩悩をなくすことはできません。
仏のさとりを開かれたのは、今日まで、
地球上ではお釈迦さまただお一人です。
実際、お釈迦さまでもなければ
煩悩を捨てることはできないということです。
では、私たちは煩悩を抱えたまま、どうすることもできないのでしょうか。
勝たなくても変わらない幸せになれる
もし、煩悩に打ち勝った時だけしか幸せになれないのなら、
本当の意味では誰一人、幸せになれないことになります。
お釈迦さまが説かれたのは、そういう教えではありません。
意志の強い人、すぐれた人だけが通れる道ではなく、
すべての人が本当の幸せになれる道を説かれたのが仏教です。
確かに煩悩は私たちの苦しみの原因なのですが、
実は苦しみ悩みの根本原因は、煩悩とは別にあると教えられています。
その苦悩の根元を断ち切れば、欲も、腹立つ心も、人をうらやむ心も、そのままで、
「人間に生まれてよかった」と大満足できる身になれます。
これを煩悩即菩提といいます。
このことを『維摩経』には、こう説かれています。
煩悩を断ぜずして涅槃に入る。
(漢文:不断煩悩而入涅槃)(出典:『維摩経』)
この煩悩即菩提の身になるのに、
煩悩を抑える必要も、鐘をつく必要も、煩悩に打ち勝つ必要もありません。
どんな人でも、生きている今、その身になることができます。
では、煩悩即菩提になるのに、断ち切らなければならない
苦悩の根元とはどんな心なのか、
どうすれば断ち切ることができるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


