「現代人の仏教教養講座」

 

仏教ウェブ入門講座

仏教の教えと生きる意味を分かりやすく
体系的に学べる仏教の総合サイト

日本仏教学院ロゴ 日本仏教学院ロゴ

生きる意味を、知ろう。

阿羅漢(あらかん)とは?

昔、「阿羅漢あらかん」という映画もありましたが、
阿羅漢は、小乗仏教しょうじょうぶっきょう(部派仏教)で最高の悟りの名前です。
阿羅漢のことを羅漢ともいいますので、十六羅漢とか、五百羅漢というのは、16人の阿羅漢、500人の阿羅漢のことです。
阿羅漢は、ブッダとは違うのでしょうか?
阿羅漢の意味を分かりやすく解説します。

阿羅漢とは

まず、阿羅漢について、仏教の辞典で見てみましょう。

阿羅漢
あらかん
サンスクリット語arhan(arhatの単数主格形。パーリ語arahant)に相当する音写。
<羅漢>とも略称する。
漢訳は<応供おうぐ>。
尊敬・施しを受けるに値する聖者しょうじゃを意味する。
インドの宗教一般において、尊敬されるべき修行者をさした。
原始仏教・部派仏教では修行者の到達し得る最高位を示す。
学道を完成し、もはやそれ以上に学ぶ必要がないので阿羅漢果を<無学位>という(それ以下の不還ふげん一来いちらい預流よる果を<有学うがく位>というのに対する。)。
また通俗語源解釈によって、煩悩の賊(ari)を殺し(√han)、また涅槃に入って迷いの世界(三界)に生まれない(a(不)+ruh(生ずる))ので、<殺賊せつぞく>あるいは<不生>ともいう。
部派仏教では退法・思法・護法・安住法・堪達法・不動法の六種阿羅漢を立てる。
釈尊の10の別称(十号)にも<応供>の名がみられるように、もとは仏の別称であったが、のちに仏と区別されて、弟子(声聞しょうもん)の最高位に<阿羅漢>の称が当てられるようになった。
特に大乗仏教では批判的に声聞の最高位を阿羅漢と呼び、仏と区別した。
中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を<十六羅漢>と称し、また、第1回の仏典編集(結集けつじゅう)に集まった500人の弟子を<五百羅漢>と称して(異説もある)尊崇することが盛んになった。
特に禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉まかかしょうに釈尊の正法が直伝されたことを重視するので、釈尊の高弟の厳しい修行の姿が理想化され、五百羅漢の図や石像を制作して、正法護持の祈願の対象とした。

ここには、阿羅漢について簡潔に書かれていますので、分かりやすく解説していきます。

阿羅漢の3つの意味

阿羅漢とは、サンスクリットのarhan(アルハン)の音訳です。

サンスクリットの意味

arhan(アルハン)はサンスクリットでは「値する」「相応しい」という意味の語根が√arh(アルフ)の動詞から来た男性名詞(の単数主格)です。
ですが、敵という男性名詞ari(アリ)+ 「殺す」という意味の語根が√han(ハン)の動詞を組み合わせて、(煩悩の)「敵を殺す」という意味だという通俗的な解説をする人もあります。
確かに阿羅漢になるには煩悩をなくさなければならないので、その意味から結びつけた解説です。
ですが本来は「相応しい」という意味の動詞から来た名詞です。

漢訳の意味

漢訳では、サンスクリット本来の「相応しい」という意味から、普通「応供おうぐ」といわれますが、さらに詳しくいえば「」です。

」とは「ふさわしい」という意味ですが、この応に3つの意味があります。

1つには、「応断」です。すべての煩悩ぼんのうを断ち切るにふさわしいという意味です。
これを煩悩の賊を断ち切ったということで「殺賊せつぞく」ともいいます。

2つには、「応不受」です。
すべての煩悩を断ち切ったので、苦しみ迷いの世界である三界に生まれないことがふさわしいということです。
これを「不生ふしょう」ともいいます。

3つには、「応供」ということで、自分は完全な幸せになり、あとは他人を幸せにするのみなので、たくさんの布施を受けるのにふさわしいということです。

このことを『成唯識論じょうゆいしきろん』にはこのように説かれています。

すでにとこしえに煩悩の賊を害するが故に。
世間の妙供養を受くるに応ぜるが故に。
とこしえにまた分段生ぶんだんしょうを受くまじきが故なり。

(漢文:已永害煩惱賊故 應受世間妙供養故 永不復受分段生故)

とこしえに煩悩の賊を害する」というのは、煩悩が永遠になくなった、ということです。
これが「殺賊」です。
大乗仏教では、さとりの52位の中で、48段目の八地で煩悩障を断じ尽くしますので、第八地が阿羅漢にあたります。

世間の妙供養を受くるに応ぜるが故に」というのは、世の中のみなさんから供養を受けるにかなう、ふさわしいという、「応供」のことです。

とこしえにまた分段生を受くまじきが故に」の「分段生」は限りある命のことです。
生死には2つあります。
分段生死と変易へんやく生死の2つです。
1つ目の分段生死は命に限りがある生死です。
私たち人間のような生死です。
2つ目の変易生死とは寿命に限りがない生死です。
長く生きて人々を救いたいと思えば、どれだけでも長く生きられます。
この2つのうち、命に限りのある分段生死を受けることがない、ということです。
これは「不生」のことです。

このように、阿羅漢には3つの意味があり、「応供」というと意味が減ってしまうので、普通は「応供」といわずに、阿羅漢といわれます。

阿羅漢の3つの意味
  1. 応断(殺賊)
  2. 応不受(不生)
  3. 応供

このように3つの意味を持つ阿羅漢ですが、実は1通りではなく6通りの阿羅漢があります。
それはどんな人でしょうか。

六種羅漢とは

阿羅漢には、下から上まで、全部で6種類あります。
これを六種羅漢とか六種阿羅漢といいます。
下からいうと、退法、思法、護法、安住法、堪達法、不動法の6つです。

六種羅漢
  1. 退法
  2. 思法
  3. 護法
  4. 安住法
  5. 堪達法
  6. 不動法

6つ全部についている「」とは種類のことです。
退法の阿羅漢なら、退という種類の阿羅漢ということです。
それぞれどんな意味でしょうか。

1つ目の退法とは、悟りが崩れる可能性がある阿羅漢です。
一旦は阿羅漢の悟りを開いても、病気になったり、何かの縁によって煩悩を起こして阿羅漢の悟りが崩れて、もっと低い悟りになってしまうものです。
このように、阿羅漢の悟りは崩れるのです。

2つ目の思法とは、悟りが崩れるのを怖れて、自殺しようと思うものです。

3つ目の護法とは、悟りが崩れないように、常に防ぎ、護ろうとするものです。

4つ目の安住法とは、悪い縁を離れて、退くことのないものです。

5つ目の堪達法とは、非常にすぐれた人で、よく修行して、早く次の不動法に達することができるものです。

6つ目の不動法とは、他の5つの阿羅漢にはない智慧である「無生智」をおこして、二度と崩れることがなくなったものです。

では、阿羅漢の悟りを開くまでは、どのような悟りの段階があるのでしょうか。

阿羅漢までの3つの悟り

阿羅漢までには、3つの悟りがあります。
阿羅漢も入れると、4つの悟りです。
これを『雑阿含経ぞうあごんきょう』にはこう説かれています。

何らをか沙門果しゃもんかと為す。
いわく須陀洹果しゅだおんか斯陀含果しだごんか阿那含果あなごんか、阿羅漢果なり。

(漢文:何等爲沙門果 謂須陀洹果 斯陀含果 阿那含果 阿羅漢果)

沙門しゃもん」とは出家して修行をする人です。
出家して修行をする人の悟りとはどんなものかというと、須陀洹果しゅだおんか斯陀含果しだごんか阿那含果あなごんか、阿羅漢果の4つがあるということです。

須陀洹果しゅだおんか預流果よるかともいいます。
斯陀含果しだごんかは、一来果いちらいかともいいます。
阿那含果あなごんかは、不還果ふげんかともいいます。
つまり、預流果よるか一来果いちらいか不還果ふげんか 、阿羅漢果の4つの悟りがあります。
これを「四果しか」とか「四沙門果ししゃもんか」といいます。

四果(四沙門果)
  1. 預流果よるか
  2. 一来果いちらいか
  3. 不還果ふげんか
  4. 阿羅漢果あらかんか

それぞれどんな悟りなのでしょうか?
天親菩薩てんじんぼさつの『倶舎論くしゃろん』に詳しく教えられていますので、『倶舎論』を元に解説します。

預流果よるかとは

1つ目の預流果よるか須陀洹果しゅだおんかともいい、聖者の流れに入った人のことです。
最大で7回、人間界と天上界を生まれ変わる間に、涅槃ねはんに入ることができます。
もう地獄餓鬼畜生などの三悪道に生まれることはなく、人間界に七回、天上界に7回、合わせて14回生まれれば、涅槃に入れるということです。

預流果に入るには、かなりの煩悩を断ち切らなければなりません。
煩悩には細かく分ければ見惑けんわくといわれるもの88種類と、修惑しゅわくといわれるもの81種類があります。
煩悩を108と数える時は、見惑の88種類と、修惑をもう少し荒く10種類と数え、派生的な煩悩をもう10種類加えて108とします。
煩悩について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
煩悩ぼんのうとは?意味や種類、消す方法を分かりやすく網羅的に解説

預流果に入るには、煩悩を見惑88種類と修惑81種類に分けた中で、見惑の88種類の煩悩を断ち切らねばなりません。
この預流果に向かって煩悩を1つずつ断ち切り始めた段階を 預流向よるこうといいます。

それまでには、悪友などの悪縁を離れて心身を清らかにする3種類の準備をし、七加行位という7段階の修行をしなければなりません。
預流向に入るのはそれからですので、大変な長期間がかかります。

そして預流向を経て、ついに預流果に入ると、見惑の88種類の煩悩を断ち切ったので、大きな喜びの心が起きます。
そして一度預流果に入れば、二度と預流果の悟りが崩れることはありません。
預流果は、決して崩れることのない悟りです。

一来果いちらいかとは

一来果いちらいかは、斯陀含果しだごんかともいい、あと1回、人間界と天上界で修行をすれば涅槃に入れる悟りの位です。

一来果に入るには、見惑88種類に加えて、修惑の煩悩も断ち切る必要があります。
修惑の81種類のうち、欲界の9種類、色界しきかい無色界むしきかいの72種類の煩悩のうち、欲界の6種類の煩悩を断ち切ったのが、一来果です。
5種類目までの煩悩を断ち切っている段階を一来向といいます。

不還果ふげんかとは

不還果ふげんかとは、阿那含果あなごんかともいいます。不還果ふげんかの人が死ぬと、天上界にも27種類ありますが、必ず今いるよりも上の天上界に生まれますので、還ってこない悟りということで、不還果ふげんかといいます。
天上界について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
【有頂天から始まる地獄】仏教の天上界の種類と意味・天上界へ行く方法

修惑81種類のうち、欲界の9種類の煩悩を断ち切った悟りが不還果です。
7種類目と8種類目の煩悩を断ち切った段階を「不還向」といいます。
特に欲界の最後の9種類目の煩悩を断ち切ると、色界や無色界などの上の世界に生まれますので、ここが非常に困難なところです。

阿羅漢果とは

阿羅漢になると、死ねば涅槃に入ることができます。

阿羅漢になるには、残りの修惑の72種類の煩悩も含めて、すべての煩悩をなくさなければなりません。
すべての煩悩を断ち切るまでの段階を阿羅漢向といいます。

この阿羅漢果は、これ以上断ち切る煩悩がなくなりますので、無学道むがくどうといいます。
これに対して、預流向から阿羅漢向まではまだ断ち切る煩悩が残っているので、有学うがくといいます。
学ぶべきことは、戒定慧かいじょうえの三学です。
戒定慧の三学については、以下の記事をご覧ください。
悟りを開く方法(煩悩をなくす方法)

阿羅漢の悟りを開いて、煩悩をすべてなくしても、病気など、何かの悪縁によって煩悩が起きると、阿羅漢の悟りは崩れます。

この4つの悟りの中で、預流果の場合は、決して崩れることはありませんが、一来果、不還果、阿羅漢果は、預流果までは崩れる可能性がある悟りなのです。

ちなみにこれらの、預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果の8つの悟りの段階を「四向四果しこうしか」とか「四双八輩しそうはっぱい」といいます。

四向四果(四双八輩)
  1. 預流向よるこう
  2. 預流果よるか
  3. 一来向いちらいこう
  4. 一来果いちらいか
  5. 不還向ふげんこう
  6. 不還果ふげんか
  7. 阿羅漢向あらかんこう
  8. 阿羅漢果あらかんか

阿羅漢とブッダの違い

では、阿羅漢とブッダはどこが違うのでしょうか?
ブッダというのは、仏のさとりを開かれた方のことです。
ブッダのことを阿羅漢といわれることもありますが、基本的には、阿羅漢は小乗仏教(部派仏教)の最高の悟りです。

小乗仏教では、ブッダは特別な方で、とても仏のさとりを開くことはできないと考えて、最高の悟りは阿羅漢としたのです。
ですから、小乗仏教で出家して修行をしても、仏にはなれません。

それに対して、大乗仏教では、全部で52段あるうちの最高の悟りの位は、仏のさとりです。
すべての人が仏になれる教えが大乗仏教なのです。
そして、阿羅漢は前述の通り、48段目にあたります。

大乗仏教と小乗仏教の違いについては、以下の記事をご覧ください。
大乗仏教と小乗仏教(部派仏教)の違い

ですから、阿羅漢とは小乗仏教の最高のさとりの位、仏のさとりは大乗仏教の最高の悟りの位という違いがあります。

阿羅漢の悟りを開くには

では、阿羅漢の悟りを開くには、どうすればいいのでしょうか。
まず、出家は必須です。
そして、厳しい修行に長期間打ち込まなければなりません。
それは非常に優れた早い人でも3回の生まれ変わりが必要で、遅い人であれば60こう必要といわれています。
一劫は4億3200万年ですので、大変な長い間が必要です。

お経の中には、『阿弥陀経』の十六羅漢や、仏典の結集にたずさわった五百羅漢など、たくさんの阿羅漢が登場します。
生きている時に阿羅漢になる人もあるのではないのでしょうか?

お経の中で阿羅漢の悟りを開いている人たちは、過去世に大変な長期間修行を重ね、今生のお釈迦さまのもとでの修行が最後だった尊い方々なのです。
まったく悟りを開いていない段階で、ゼロから始めた場合、早くて3生、長くて60劫かかり、とても一生でできるようなものではないということです。

では、私たちはどのようにすれば、迷いを離れることができるのでしょうか?
それには、苦しみ迷いの根本原因を知らなければなりません。

仏教に明らかにされた苦しみ迷いの根本原因は、煩悩ではなく、もっと深いところにあります。
それこそが、私たちの苦悩の根元であり、それを断ち切れば、この世から、変わらない幸せになり、死ねば輪廻りんねから離れ、仏のさとりを得ることができると仏教では教えられています。
ではその苦悩の根元とは何か、電子書籍とメール講座にまとめましたので、ぜひ読んでみてください。

目次(記事一覧)へ

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作