「現代人の仏教教養講座」

仏教の教えと生きる意味を分かりやすく
体系的に学べる仏教の総合サイト

日本仏教学院ロゴ 日本仏教学院ロゴ

生きる意味を、知ろう。

仏教の目的は何ですか

「仏教の目的とは、何なのだろう」
「お葬式や法事のためではないと思うけれど」

調べてみると、悟りを開くこと、煩悩をなくすこと、執着を離れること、心を穏やかにすること、思いやりを持つことなど、いろいろ出てきます。
どれも聞いたことがあります。
ところが読み終わっても、
「では、私は何のために仏教を聞くのか」が分からないままです。

法事の席でお坊さんの話を聞いても、お寺で手を合わせても、そこは分かりません。
仏教は2600年前から続いてきた教えですから、何もないはずがない。
それなのに、肝心の一点だけが出てこない感じがします。

目的というのは、本来たった1つのはずです。
いくつも並んでいるものは、目的とはいいません。
どれも大切です、といわれた時点で、それは目的の話ではなくなっています。

では、仏教の目的は1つに決まっているのでしょうか?
決まっているとすれば、それは何なのでしょうか。

よくいわれる5つの答え

はじめに、世間では「仏教の目的」として
どんなことを言われているでしょうか?
どれも確かにもっともらしく聞こえるのですが、
果たして目的といえるのでしょうか。

先祖供養のため

お葬式法事僧侶を呼びますので、
仏教は亡くなった人のためのもの、
と思われています。

ところが、お釈迦さまが35歳で悟りを開かれてから80歳で亡くなられるまで、
45年間仏教を説き続けられたのは、目の前にいる、生きている人に対してでした。
亡くなった人に向かって説かれた説法は、
1つもありません。

しかも、先祖供養が目的だとすると、おかしなことになります。
先祖を供養している私も、やがて死んで先祖になります。
その私を、子孫が供養します。
では、その子孫は何のために生きているのかというと、また供養されるためです。
これでは、誰1人救われません。

先祖の恩に感謝して大切にするのは、いいことです。
ただ、それが仏教の目的だとすると、
お釈迦さまは45年間、生きている人に向かって何を説き続けられたのか、
説明がつかなくなります。

悟りを開くため

滝に打たれたり、坐禅を組んだりして修行をし、悟りを開く。
仏教というと、この姿を思い浮かべる人が多いと思います。

ところが悟りには、低いものから高いものまで52の段階があります。
その最高位が仏のさとりです。
そして、修行によって仏のさとりまで開かれた方は、
仏教の長い歴史の中で、地球上ではお釈迦さまただ1人しかありません。

目的というのは、果たすためにあるものです。
ほとんど誰も悟りを開けないのなら、
私たちが仏教を聞く目的とは言えません。

ちなみに悟りの52の段階については、以下の記事で解説しています。
悟りを開くとは?意味と52の段階|現代に悟りを開いた人はいるのか

煩悩をなくすため

怒り愚痴ぐちといった煩悩をなくすこと、とも思われています。
確かに煩悩は、私たちを苦しめています。

ところが、煩悩は減りもしなければ、なくすこともできません。
腹が立たないようにしようと決めた人が、その日のうちに腹を立てます。
欲を持つまいとする心も、欲の1つです。
死ぬまでなくならないのが煩悩です。

煩悩をなくそうとしたら、
死ぬまで煩悩を抑えよう、抑えようと格闘し続けるだけです。
これでは目的とは言えません。

心を穏やかにするため

近ごろは、心を整えるため、というのもよく聞きます。
静かに座れば、確かに心は落ち着きます。

ところが、その落ち着きは続きません。
座を立って、電話が1本かかってくれば元に戻ります。

実際に心をしずめようとしてみると、
しずめようとすればするほど散り乱れます。
これは煩悩をなくさない限りできません。
煩悩がなくならない以上、心が穏やかになることもないのです。
やはりそれが目的とは言えません。

ご利益を頂くため

病気が治るように、商売がうまくいくように、試験に受かるように
そう願ってお寺で手を合わせる人も多いと思います。

ところが、仏教では、自分の運命は自分の行いによって決まります。
善い行いをすれば幸せな結果、
悪い行いをすれば不幸や災難がやってきます。
手を合わせたからといって、
病気が治ったり、
商売が繁盛したり、
大学に合格するものではありません。

ですが、努力の結果、願いが叶ったとして、
その次はどうなるでしょうか。

病気が治ったからといって、
二度と病気にならなくなったわけではありません。
また再発したり、別の病気にかかったりします。
次の心配が出てくるのです。

試験に受かれば、受かった先の苦労が始まります。
願いが叶えば叶うほど、次の願いが出てくるだけで、
どこにも終わりがありません。

終わりのないものは、目的になりません。
仏教ではむしろ、そんなものでは幸せになれないと教えられています。

この5つは、どれも仏教の目的だと思っている人がいます。
ですが、そうではありません。
目的というのは、ハッキリと果たすことができるものだからです。

お釈迦さまは、そこまで言われた

では、お釈迦さまご自身は、何のために聞けと言われたのでしょうか。
お釈迦さまは、仏教を聞く心構えをこう説かれています。

たとい大火ありて、三千大千世界さんぜんだいせんせかい充満じゅうまんせんに、かならずまさにこれを過ぎて、この経法きょうぼうを聞くべし。
(漢文:設有大火,充満三千大千世界,要当過此,聞是経法)

三千大千世界さんぜんだいせんせかい」とは、大宇宙のことです。
大きな火があって、大宇宙に充満すれば、そこは火の海です。
大宇宙が火の海になっても、その火の中を突き抜けて、
この教えを聞きなさい、と言われています。

命が危ないなら、まず逃げるのが当たり前です。
命あっての物種」といわれる通り、世の中では命より大事なものはありません。
その命をかけて聞け、と言われているわけですから、よほどのことです。

お釈迦さまは、なぜそこまで言われたのでしょうか。
言葉を強めて勧められたのではありません。
火の中を突き抜けてでも、それだけの価値のあることが1つある、ということです。
それは一体何なのでしょうか?

仏教はここから始まる

命をかけて聞く値のあることとは何でしょうか。
仏教は、「後生ごしょうの一大事」を知るところから始まります。

後生ごしょう」とは、死んだ後のことです。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
後生の意味・すべての人の未来にある恐るべき大事とは?

後生の一大事」という言い方が耳慣れなければ、
死の問題といっても同じことです。

そして「一大事」とは、取り返しのつかない重大なことです。

私たちの人生には、大事なことがたくさんあります。
進学も、就職も、結婚も、家を建てることも、子供のことも、健康も、どれも大事です。
ですが、それらは失敗したとしても、取り返しがつきます。
失敗したら、反省して努力すれば、よりよい結果になることもあります。
家事で家が焼けたといっても、火災保険でもっと立派な家が建つこともあります。
この世のものというのは気持ち1つで取り返しがつきます。

私たちが必ずぶちあたっていかねばならない後生の一大事に比べると、
小事に過ぎません。
それに対して、後生の一大事は取り返しがつきません。
後生に取り返しのつかない一大事があると教えられているのが仏教です。
一度起きてしまえば、取り返しのつかない、魂の一大事、
それが「後生の一大事」です。

この世のことは、長くても80年か100年のことです。
ところが後生は永遠です。
それに比べれば、100年といっても、一瞬で過ぎていきます。

その間の生きる手段として、どれだけ努力して積み上げたものも、
一息切れればすべてが手を離れます。
お金も、地位も、家族も、体さえも置いていきます。
そして、すべてを置いて未来永劫の後生に旅立つ自分は、
一体どうなるのでしょうか。
大変な一大事が起きるとお釈迦さまは教えられています。

そしてこれは100%確実な未来です。
しかも私たちは、いつまで生きていられるか分かりません。
明日死ねば明日から後生、
今晩死ねば今晩から後生です。
後生といえば、30年も50年も先のように思っている人ばかりですが、
後生は今にふれあう問題なのです。

それなのに、みんな取り返しのつかない大問題はそっちのけで、
取り返しのつくことに一生懸命です。
私たちが人生で抱える問題は、どれも生きている間だけの、
死ぬまでの問題だということです。

借金も、病気も、人間関係のもつれも、仕事の失敗も、苦しいには違いありません。
ですがそれらは、遅くとも死ねば決着がつきます。
何も持っていけないからです。
あっという間です。

ところが、後生の一大事だけは違います。
これだけが、取り返しのつかない一大事です。
死んで終わるものではないので、死んでも決着がつきません。
未来永劫、浮かぶか沈むかという大問題です。
そして、手を打てるのは生きている間だけです。

ここで誤解されやすいのは、これを死ぬ時の話だと思ってしまうことです。

一大事は、死ぬ時に始まるのではありません。
いつ死ぬかが分からない以上、今すでに始まっています。
明日かもしれず、今夜かもしれない一大事を抱えたまま、
私たちは今日を生きています。
だからこそ、火の中を突き抜けてでも聞け、と言われたわけです。

王将を取らなければ勝ちにならない

将棋を思い浮かべてみてください。
目的は、王将を取ることです。
飛車を取り、角を取り、金銀を取って、10枚取ったとします。
ところが、こちらの王将を取られれば、それで負けです。
10対1で勝ち、とはなりません。

逆に、駒をどれだけ取られていても、王将さえ取れば勝ちです。

人生も、同じところがあります。
進学という局面をどう乗り切るか。
就職という局面、子育てという局面、老後という局面をどう乗り切るか。
どの局面にも、うまいやり方を教えてくれる本があります。

ところが、乗り切って、乗り切って、では最後に何をどうすれば勝ちなのか。
そこだけが、どの本にも書いてありません。
王将がどれかを知らないまま、目の前の駒を取り続けているのが、私たちの姿です。

仏教で王将にあたるのが、後生の一大事の解決です。

先ほどの5つも、これで位置がはっきりします。
先祖を大切にすることも、修行も、心の落ち着きも、駒のようなものです。
駒が悪いのではありません。
駒を取ることが目的になってしまえば、王将を取らないまま終わる、ということです。

解決すると、どうなるのか

では、後生の一大事が解決すると、どうなるのでしょうか。

仏教の目的は、後生の一大事を解決して、未来永遠の幸せになることです。
未来永遠」ですから、絶対変わりません。

今日の幸せは、明日崩れることがあります。
健康も、財産も、人との縁も、続くかどうかは分かりません。

ところが、後生の一大事が解決した幸せは、死が来ても崩れません。
絶対変わらない幸せです。

そう聞くと、今の幸せを捨てるように思われるかもしれません。
しかし、そうではありません。

家族も、仕事も、健康も、そのままです。
持っているものを手放すのでも、欲を断ち切るのでもありません。
どんな人も、ありのままで変わらない幸せになれるのです。

そして、これは死んでからのことではありません。
生きている今、はっきりと変わらない幸せになれます。
今日その身になれば、今日から未来永遠の幸せです。

ここが、ほかの宗教とは大きく違うところです。

多くの宗教は、死んだ後のことを約束します。
それが本当かどうかは、死んでみないと分かりません。
仏教で説かれているのは、生きている今、はっきりするものです。
死んでからのお楽しみ、ではありません。
それでは取り返しのつかない後悔をすることになります。

仏教は、後生の一大事を知るところに始まり、
後生の一大事の解決に終わります。
仏教に説かれる数えきれない教えは、すべてここへ向かうためのものです。
そしてこれが、人間に生まれてこれ1つ果たせば満足、といえる
たった1つのこと
でもあります。

では、その後生の一大事は、どうすれば解決できるのでしょうか。

それには、後生の一大事を引き起こす、苦悩の根元を知り、
それを断ち切らなければなりません。
その苦悩の根元については、仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、一度見てみてください。

目次(記事一覧)へ

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。