一切衆生悉有仏性とは?仏性の本当の意味
「一切衆生悉有仏性の意味」
「仏性とは何か」
倫理の授業で習った。
お寺の掲示板で見かけた。
本を読んでいて目にとまった。
「一切衆生悉有仏性」という仏教の教えを、
どこかで聞いたことがある人は多いと思います。
すべての人に、仏性がある。
今はそう思えなくても、自分の心の奥にも、
仏になれる尊いものが眠っている。
そう聞くと、何だか励まされるような、
救われるような気持ちになります。
ところが一方で、こんな疑問も浮かんできます。
本当に自分の中に、そんな尊いものがあるのだろうか。
毎日のように流れてくる悲しい事件を見ると、
とてもそうは思えない。
そもそも仏性とは、一体何なのだろうか……。
実は、お釈迦さまは、仏性は私たちの心の中に
宝石のように入っているものだとは、説かれていません。
では「一切衆生悉有仏性」とは、
本当はどんな意味なのでしょうか?
一切衆生悉有仏性の意味と読み方
「一切衆生悉有仏性」は、
「いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」と読みます。
「悉有」は「しつう」と読み、書き下すと
「一切衆生、悉く仏性有り」と読みます。
「一切衆生」とは、すべての生きとし生けるもののことです。
「悉く」とは、一人残らず、ということです。
「仏性」とは、一般には、仏になる性質、
仏になれる可能性のことだと説明されています。
そこで「一切衆生悉有仏性」は、
「すべての生きとし生けるものには、一人残らず、
仏になる性質がある」という意味だといわれています。
この教えは、お釈迦さまが、
『涅槃経』に繰り返し説かれているものです。
例えば、このように説かれています。
師子吼とは決定の説に名づく。
一切衆生、悉く仏性有り。
如来は常住にして変易有ること無し。
(漢文:師子吼者名決定説。一切衆生,悉有仏性。如来常住無有変易)(出典:『大般涅槃経』)
「師子吼」とは、ライオンが吠えると、どんな獣も静まり返るように、
お釈迦さまが、少しも揺るがずに説き切られることです。
「決定の説」とは、決して変わることのない教えのことです。
ライオンの咆哮にあらゆる獣が恐れ、従うように仏が説法されるのですが、
その決して変わることのない教えを、ここで2つ挙げられています。
それが「一切衆生、悉く仏性有り」と「如来は常住にして変易有ること無し」です。
「如来は常住にして変易有ること無し」とは、
仏さまは永遠に変わることがない、ということです。
お釈迦さまは、「一切衆生悉有仏性」を、
それほど揺るぎない教えとして説かれています。
日本では、平安時代の初めに、
伝教大師・最澄が、この「一切」を
文字通り、すべての人のことだと主張して、
仏になれない人もいるとする法相宗の徳一と、
激しい論争をしています。
高校の倫理の教科書で、この教えが出てくるのも、
そのためです。
最澄の生涯については、
以下の記事で解説しています。
➾伝教大師最澄とは?生涯をわかりやすく解説
山川草木悉有仏性また、日本では「山川草木悉有仏性」
「草木国土悉皆成仏」ともいわれ、
人間や動物だけでなく、山や川、草や木にまで、
仏性がある、仏になる、ということもいわれます。
「悉有仏性」は、悉く仏性が有る、
「悉皆成仏」は、悉く皆、仏に成る、ということです。
この、すべての人にあるという仏性は、
一体どんなものだとされているのでしょうか?
「心の中に仏性という宝石がある」という考え方
仏性は、多くの場合、私たちの心の奥にある、
清浄な心だと思われています。
例えるならピカピカ光る宝石や、
ダイヤモンドのようなものです。
私たちの心は、煩悩という泥やほこりにまみれている。
ですがその奥には、仏性というダイヤモンドが輝いている。
だから、修行をして汚れを落とし、磨いていけば、
やがて中のダイヤモンドが輝き出して、
仏になることができる。
こういう考え方です。
「魔性の女」といわれるように、
心の底に悪い塊があるのが魔性なら、
仏性はその反対で、
心の底にある尊いものの塊のように思われています。
この考え方は、多くの人を励ましてきました。
自分は駄目な人間だと思っている人も、
「あなたの中にも尊い宝がある」と言われると、
もう一度、頑張ってみようという気持ちになります。
人を見る時も、どんな人の中にも、
尊いものがあると思えば、大切にしようと思えます。
『涅槃経』には、仏性について、
貧しい女性の家に埋まっていた金の蔵のたとえや、
力士の額の珠のたとえが説かれています。
これらのたとえも、
「宝は、気づいていないだけで、自分の中にある」
という意味だと説明されることがよくあります。
ですが、本当に私たちの心の中に、
そんな尊い宝石があるのでしょうか?
磨けば光るダイヤモンドは本当にあるのか
もし、どんな人の心の中にも
ダイヤモンドのような清らかな心があるなら、
人は、なぜ他人を傷つけるのでしょうか。
テレビやインターネットを見れば、
耳を疑うような悲しい事件が、毎日のように報道されています。
それを起こしているのは、
心にダイヤモンドを持っているはずの人間です。
これについては、
「ダイヤモンドの原石に、泥やゴミがたくさんついているので、
光が見えなくなっているのだ」と説明されます。
そのダイヤモンドについている汚れが「煩悩」です。
これを「客塵煩悩」といいます。
心の本性はダイヤモンドなのに、そこに一時的にお客さんとして塵がついている。
だから修行をして、その汚れを落とすのだ、
といわれます。
ところが、自分の心を本気で見つめて、
磨いていけばいくほど、
見えてくるのは、ダイヤモンドではありません。
自分さえよければ、人はどうなってもいいという心。
人の幸せをねたみ、人の失敗を喜ぶ心。
口では立派なことを言いながら、
腹の底では、自分のことばかり考えている心です。
磨いても磨いても、出てくるのは、
中の中まで、そのような心ばかりです。
清らかに輝く心など、どこにも見つかりません。
むしろどちらかというと、本性が煩悩で、
表面を清らかであるかのように取り繕っている
というほうが事実によく合います。
現実をありのままに直視すると、
逆ではないでしょうか。
ちなみに心の中の仏性を磨き出す修行と、
仏教の本当の教えとの違いについては、
以下の記事で解説しています。
➾自力と他力の違いとは?仏教の2つの道を分かりやすく解説
ですがお釈迦さまは、お経に
「一切衆生悉有仏性」と説かれています。
これは間違いなのでしょうか?
『涅槃経』に説かれる仏性は内でも外でもない
そうではありません。
実はお釈迦さまは、仏性が私たちの心の中にあるとは、
説かれていないのです。
『涅槃経』で、お弟子の迦葉菩薩が、
「なぜ、一切衆生悉有仏性と説かれるのですか?」と尋ねると、
お釈迦さまは、このように答えられています。
衆生の仏性は現在に無なりといえども、無と言うべからず。
虚空の性は現在に無なりといえども、無と言うことを得ざるが如し。
一切衆生また無常なりといえども、而もこれ仏性は常住にして変なし。
是ゆえに我この経の中において、
衆生の仏性は非内非外にして、
なお虚空の非内非外なるが如しと説く。
如し其の虚空に内外有らば、虚空を名づけて一と為し常と為さず。
また一切処に有りと言うことを得ず。
虚空はまた非内非外なりといえども、
而も諸の衆生、悉く皆これを有す。
衆生の仏性もまたまたかくの如し。
(漢文:衆生仏性雖現在無,不可言無。如虚空性雖無現在,不得言無。一切衆生雖復無常,而是仏性常住無変。是故我於此経中説,衆生仏性非内非外,猶如虚空非内非外。如其虚空有内外者,虚空不名為一為常。亦不得言一切処有。虚空雖復非内非外,而諸衆生,悉皆有之。衆生仏性亦復如是)(出典:『大般涅槃経』)
「衆生の仏性は現在に無なりといえども、無というべからず」とは、
人々の心の中に、今は仏性がないけれども、
仏性がないと言ってはならない、ということです。
「虚空」とは、大空、空間のことです。
空間は、手に取ることも、目で見ることもできませんが、
空間がない、とは誰も言いません。
仏性も、それと同じだと説かれています。
「一切衆生また無常なりといえども、
而もこれ仏性は常住にして変なし」とは、
私たちは移り変わっていく無常のものだけれども、
仏性は、永遠に変わることがない、ということです。
もし仏性が、私たちの心の中に入っているものなら、
私たちと一緒に、移り変わり、
やがてなくなってしまうはずです。
そして、「衆生の仏性は非内非外」、
衆生の仏性は、私たちの内にあるのでも、外にあるのでもない、
虚空と同じである、と説かれています。
「如し其の虚空に内外有らば、虚空を名づけて一と為し常と為さず。
また一切処に有りと言うことを得ず」とは
虚空は、私たちの体の中に入っているのでも、
どこか遠くの外にあるのでもありません。
もし一人一人の中にあるのなら、虚空は一つとはいえませんし、
人は無常で必ず死ぬので、虚空は常とはいえません。
また、もし人の外にあるのなら、「一切処に有り」、至る所に満ちているとはいえません。
どんな人も、その虚空の中にいます。
「虚空はまた非内非外なりといえども、
而も諸の衆生、悉く皆これを有す」とは、
虚空は内にあるのでも外にあるのでもないけれども、
すべての人が、みな虚空を有している、ということです。
「衆生の仏性もまたかくの如し」、
仏性も、そのように至る所に満ちている、と説かれています。
「一切衆生悉有仏性」とは、
一人一人の心の中に仏性がある、ということではありません。
「悉有は仏性なり」、
至る所に悉く有るのが、仏性なのです。
先ほどの2つのたとえも、そうなっています。
貧しい女性のたとえは、このように説かれています。
貧しき女人の舎の内に、多く真金の蔵有るが如し。
家の人、大小、知る者有ること無し。
(漢文:如貧女人舎内,多有真金之蔵。家人,大小,無有知者)(出典:『大般涅槃経』)
ある貧しい女性の家に、金の蔵が埋まっていましたが、
家の人は、大人も子供も、誰も知りませんでした。
そこへ、方法をよく知る人が訪ねてきて、
その家から金の蔵を掘り出してみせると、
女性は大変喜んだ、というたとえです。
お釈迦さまは、金の蔵を掘り出した人は如来、
貧しい女性はすべての衆生、
金の蔵は仏性のことだと教えられています。
ここで、金の蔵が埋まっていたのは、
女性の体の中ではありません。
女性が暮らしている家の中です。
身近にありながら気づいていない、というたとえです。
力士のたとえは、このように説かれています。
譬えば王家に大力士有るが如し。
其の人の眉間に金剛珠有り。
余の力士と力を較べて相撲す。
而るに彼の力士、頭を以て其の額の上に抵触す。
珠、尋いで膚の中に没し、
都て自ら是の珠の所在を知らず。
(漢文:譬如王家有大力士。其人眉間有金剛珠。与余力士較力相撲。而彼力士以頭抵触其額上。珠尋没膚中,都不自知是珠所在)(出典:『大般涅槃経』)
王に仕える力士の眉間に、金剛の珠がありました。
ところが、相撲を取った時に、
相手の頭が額にぶつかって、珠が皮膚の中にめり込み、
本人は、どこにいったのか分からなくなってしまいました。
珠をなくしたと思って嘆く力士に、
名医が鏡で照らして、珠が皮膚の中にあることを見せた、
というたとえです。
この珠も、もともと力士の体の中にあったのではありません。
眉間にあったものが、外からぶつかって、
皮膚の中にめり込んだだけです。
どちらのたとえも、宝が心の中にあるとは、
まったく説かれていません。
身近に宝があるのに全然気づいていないことのたとえです。
では、至る所に満ちている仏性とは、
どんなものなのでしょうか?
仏性とは私たちに届いている仏の智慧のはたらき
仏性とは、仏さまの智慧の働きのことであり、
どんな人も本当の幸せにする働きです。
私たちに仏性があるといわれるのは、
そのどんな人も本当の幸せにする働きが、
虚空のようにあらゆる所に行き渡って、
すべての人に働きかけているからです。
ちょうど、ラジオやテレビのようなものです。
ラジオは、そのままでは、いつまでたっても
声を出すことはありませんが、
電波とのチューニングが合うと、たちまち放送が聞こえてきます。
テレビも、そのままでは何も映りませんが、
電源を入れて、その電波のチャンネルに合わせると、すぐに映像が映し出されます。
スマートフォンも、電波が届かない所では、
電話をかけることも、動画を見ることもできません。
声が聞こえたり、映像が映るからといって、
ラジオやテレビの中に、
もともと声や映像が入っていたとはいえません。
声も映像も、電波によって届けられているものです。
電波は、目には見えませんが、至る所に飛んでいて、
チューニングが合ったものから、声が出て、映像が映ります。
仏性も、それと同じです。
禅宗の公案には「犬にも仏性はあるか」と問われて、
「無」と答えたという有名な問答があります。
お釈迦さまの教えから言えば、
犬の中に仏性が入っているのではありませんが、
仏性は、犬にも働いています。
では、仏性を受け止める私たちの心は、
どんなものなのでしょうか。
それは、ダイヤモンドでも、悪の塊でもなく、
白い紙のようなものです。
白い紙は、墨で字を書けば黒くなり、
赤いインクで書けば赤くなります。
黒くも赤くもなる、どうにでもなるので、
決まった性質がありません。
ですから、ものすごく強い悪い縁が来れば、
人は、どんな恐ろしいことでもしてしまいます。
反対に、強い縁が加われば、
この世で変わらない幸せになることもできます。
このような、心は白紙のようなもので決まった性質のないことを、
「無自性仏性」という場合もあります。
中国思想の人間の本性は善だという性善説も、
本性は悪だという性悪説も、
人間の中に、決まった性質が入っていると考えています。
ですが仏教は、性善説でも性悪説でもありません。
善でも悪でもない白紙だからこそ、
どんな人でも、強い縁によって救われることができるのです。
先ほど、心を磨いても磨いても、
光るものが出てこなかったのは、当然のことです。
もともと、中に入っていなかったからです。
心の中のダイヤモンドを修行で磨き出す、という仏性と、
お釈迦さまが説かれた本当の仏性とは、
根本から違います。
そして、お釈迦さまは、
その仏性が届かない人は一人もいないと、
このように説かれています。
我常に宣説す、一切衆生悉く仏性有り。
乃至一闡提等にも亦仏性有りと。
(漢文:我常宣説,一切衆生悉有仏性。乃至一闡提等亦有仏性)(出典:『大般涅槃経』)
「一闡提」とは、因果の道理を否定して、仏教を信じる心が少しもない人のことです。
微塵ほどの善根もなく、屍骸のようなものだと説かれています。
特徴としては、つまらない嘘や噂話、悪口には目を輝かせてすぐ信じますが、
仏の説かれた真理になると疑ったり、話を変えたりします。
「乃至」とは、「〜まで」ということです。
「乃至一闡提等にもまた仏性あり」とは、
仏教を信じる心が少しもない人にも、仏の智慧の働きは届いている、
どんな人でも本当の幸せにする働きがかかっている、
ということです。
すべての人が本当の幸せになれる
仏性は、私たちの中にあるものではなく、
私たちに届いているものです。
「一切衆生悉有仏性」とは、
どんな人も本当の幸せになれる働きが、すべての人に、
一人の例外もなくかかっている、ということなのです。
男性も女性も、若い人もお年寄りも、
どの国に生まれた人も、どんな人生を歩んできた人も、
その点では、誰もがまったく平等です。
しかも仏の智慧というのはこの上なく強い縁です。
私たちの心は、決まった色のない白紙ですから、
その働きを受ければ、
どんなことがあっても変わらない、
未来永遠の幸せになることができます。
山にこもって修行する必要も、
心を磨き上げる必要もありません。
特別な才能も、長い年月も必要ありません。
生きている今、どんな人でも、
仏の智慧によって苦しみ迷いの根元が絶ちきられ、
「人間に生まれてよかった」と、
心の底から喜べる身になれます。
その働きは、遠い昔の誰かのためでも、
特別な誰かのためでもありません。
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では、その苦しみ迷いの根元とはどんな心で、
どうすればそれを断ち切って、本当の幸せになれるのか、
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


