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真理とは?

真理」といえば、西洋では、昔から「真・善・美」の3つを
価値ある理想として、追い求めてきました。
その3つの最初にあげられるのが真理です。

真理とは一体何なのでしょうか?
この記事では、西洋の真理、仏教の真理、インド哲学での真理などから分かりやすく解説します。

真理の意味

まずは参考までに、辞書に書かれている真理の意味をみてみましょう。

しん‐り【真理】
1 ほんとうのこと。まことの道理。真実のこと。
2 哲学で、古代・中世には、認識が実在の事物に一致すること。
スコラ哲学では、この認識の真理をささえる絶対の真理として神を考え、神は信仰によって啓示されるとした。
近代では、判断が思惟法則に一致するという形式的真理と、判断が経験の先天的原理である悟性の法則に一致するという認識の真理がとりあげられた(カント)。
現代では、命題の性質とみなされ、論理学におけるトートロジー(恒真式)群とその変形という形式的真理と、命題と事実の一致という認識の真理、命題が絶対とみなされた一貫した体系全体の必然的な一部分であると認められることという筋道一貫の真理、命題が有効であるというプラグマチックの真理、意志から独立に存在する物質とその運動を認め、物質を正しく反映する意識をさす唯物論的真理などに分かれて研究されている。
3 真如(しんにょ)のこと。真実で永遠不変の理法をいう。

辞書の内容では、大部分が西洋哲学での真理になっていますが、日常的に使われる意味と、仏教での意味も少し出ています。
少し偏っているようにも見えますし、わかりにくいと思いますので、以下ではできるだけわかりやすく、簡単に解説します。

西洋での真理

西洋では哲学の一つのテーマとして真理があげられます。
西洋哲学が始まった頃から、
真理とはどんなものなのか論じられ、
詳しく研究されてきました。

ところが真理とは絶対的なものなのか、
相対的なものが真理といえるのか、
人間に真理が認識できるのか、
2千年以上の時を経て、いまだに答えが出ず、議論が続いています。

たとえば哲学者のニーチェは真理はないと考えているようです。

『真理なるものはない。すべては解釈だ」というのがニーチェの主張だと言われています。
これは道徳に関しても、学問的な真理に関しても、同じ表現で彼は語ります。
「事実なるものはない。ただ解釈のみがある」

西洋では伝統的に、真理を言葉て表せると考えてきました。
『聖書』の中に「はじめに言葉ありき」と書いてあったりします。
ですが、言葉と論理を積み重ねて真理に到達できるのかというと、それは難しいということが西洋哲学でも分かってきています。

インド哲学での真理

インドで真理といえば、「ダルマ」に真理という意味があります。
ダルマというのはサンスクリットでは、「dharma」と書きます。
これは「保つ」とか「支持する」を意味する「√dhṛ」という動詞語根から派生した言葉です。

自然現象や社会の現象を支えたり維持しているものがダルマということです。
ですからインドでは、ダルマは自然法則のような意味もありますし、社会規範や法律のような意味もあります。

社会規範としてのダルマ

インドで社会規範を表すダルマについてまとめられた最も古いものは『ヴェーダ』の中に、『ダルマ・スートラ』というものがあります。
その内容は、『ヴェーダ』の学習法や人生を4つの時期に分けた「四住期」の過ごし方、食事の決まり、罪を償う方法などです。
その後まとめられていった文献に有名な『マヌ法典』があります。
そこには民法や刑法など裁判で基準にする法律、カースト制度の各身分の義務、女性の義務、四住期の過ごし方、食事の決まり、罪を償う方法などに加えて、輪廻や業などの哲学的な問題についても記されています。
このようなダルマを実践することを理想として、現代のインドの文化にも大きな影響を与えています。

自然法則としてのダルマ

自然法則のような意味のダルマは『ヴェーダ』の中でも最も古い『リグ・ヴェーダ』でも使われています。
宇宙の秩序を司るミトラとヴァルナという神がダルマを支持するものとされています。

またダルマの功徳の面が強調されると徳とか善と同じ意味にもなり、ダルマの否定が悪と同じ意味になります。
また、宗教的な意味が薄らぐと、物質の性質のような意味でも使われます。

このように、インド哲学では、真理というと、宇宙や社会の秩序を保つ法則であるダルマの一面ということになります。

では、インドから世界へ広まり、世界の三大宗教の1つとなった
仏教では、真理とはどんなものなのでしょうか?

仏教での真理

仏教では、真理について例えば『ダンマパダ』にこう説かれています。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

このことを『出曜経』ではこのように説かれています。

怨み、怨みを以てはついにやめて休息を得べからず。
忍を行ずれば怨み、やむことを得。
これを如来の法と名く。

(漢文:不可怨以怨 終已得休息 行忍得息怨 此名如來法)

このように仏教では真理のことを「」とか「ダルマ」といわれます。
『ダンマパダ』で、法にあたるところを「永遠の真理」と言われているように
仏教で真理というものは、三世を貫き、十方を普いて変わらないものです。

三世さんぜ」とは、過去、現在、未来のことで、
いつでも成り立つということです。
十方じっぽう」とは、東西南北上下四維しゆいのことで、
どこでも成り立つということです。

仏教では、いつでもどこでも成り立つものが、真理です。

ですから、昔は正しいと言われたことでも、
今は間違いだとわかるようなものは、
真理とは言えません。

例えば、太陽は、一見地球の周りを回っているように思いますが、
今では科学の進歩でそうでないことがわかりましたので、
科学が進歩したら間違いといわれるようなことは
真理ではありません。

また真理は十方を普くものですから、
日本では正しいとされることでも、
アメリカへ行くと間違いになるようなことも、
真理とは言えません。

アメリカでは、積極的に個性的なことをするのがよしとされますが、
日本では、波風を立てないのが美徳とされますので、
このような社会習慣も、真理とはいえません。

いつの時代でも、どこの国へ行っても成り立つことが、
真理なのです。

真理を表すさまざまな表現

仏教では、真理とほぼ同じ意味の言葉が、たくさんあります。
真理を言い換えると、涅槃ねはん滅度めつど無為むいなどともいわれます。
また、安楽、常楽、実相、法身、法性、真如、一如、仏性、如来などさまざまな言葉で表現されています。
言葉がそれぞれ異なるので、言葉に応じて多少ニュアンスは変わりますが、すべて真理であり、相通じるものがあります。
つまり、仏教でいう真理は、悟りの世界で知らされたことを、さまざまな言葉で表現しているという特徴があるのです。

では、真理は何の役に立つのでしょうか?

すべての人を本当の幸せにする真理

このような、いつでもどこでも成り立つものには、
科学的な真理や、数学的な真理など、色々あります。

たとえば、直角三角形の
三平方の定理(ピタゴラスの定理)」は、
古代ギリシアのピタゴラスも知っていたといわれますし、
紀元前の中国の書物にも出ています。
江戸時代の日本の和算の本にも出ています。
このような数学的真理は、いつの時代どこの国でも成り立ちます。

また、科学なら、「万有引力の法則」など、
いつの時代、どこの国でも、
それどころか宇宙でも成り立ちます。

ところが、数学や科学はどれだけ進歩しても、
人を幸せにすることはできません。
20世紀は「科学で幸せになれないことを証明した世紀
といわれます。
数学や科学は便利で強力な手段ではありますが、
本当の幸せが何かは分からないのです。

それに対して、仏教で教えられる真理は、
このような、数学的真理や科学的真理ではありません。
すべての人が本当の幸せになれる真理です。
これを「真如しんにょ」といわれます。

いつでもどこでも変わらない、
すべての人を本当の幸せにする真理が、
仏教で教えられる真如なのです。

真如は言葉で表せる?

西洋では、伝統的に、真理を言葉で表せるものと考えています。

キリスト教の新約聖書に、
初めに言葉ありき
と書かれていることからもわかります。

ところが、真理は言葉を離れたものですので、
このような真如を、
離言真如りごんしんにょ
と言います。

真如は本来、言葉で表せないものなのです。
しかも言葉を離れているばかりか、
悟りを開いていない人にとって、
想像さえもできないことです。

維摩居士ゆいまこじが真理について語ったエピーソードがありますので、
こちらもお読みください。
悟りをひらくとは?

ブッダの不可能への挑戦

だからお釈迦さまは、
35才でさとりを開かれたとき、
はじめは自殺しようとされました。

それは、誰も想像もできないことを、
正しく伝えなければならないというのは、
もうはじめから不可能だからです。
言えば謗って罪を造らせることになります。

ですが言葉にできないからといって、
言葉にしなければ、まったく伝することができず、
お釈迦さまだけで終わってしまいます。

どうしたら真実へ導くことができるかと、
お釈迦さまの不可能への挑戦が始まったのです。

この、言葉を離れた世界を、
何とか言葉で表わそうとされた真如を、
依言真如えごんしんにょ」と言います。

ですから、言葉で表されたものは、
もはや真如そのものではないのですが、
真如を何とか伝えようとされたのが仏教の教えなのです。

最近の仏教研究の落とし穴

このように、仏教は本来言葉にできない真如を明らかにされたものですが、
最近の仏教学は、真理を言葉で表せると考えている西洋の伝統に基づく
文献学の影響が強く、注意が必要です。

文献学では、原語や、語源などによって、
言葉だけで意味を推測しようとする学問ですが、
言葉にとらわれては、本当の仏教の教えは分かりません。

教えの通りに実行して、
その言葉が表そうとしている事実や体験を
体得しなければならないのです。

真如は言葉を離れたものですから、
ブッダが無理を承知で何とか言葉によって表そうとされた
真理の言葉に導かれ、
言葉を離れた本当の幸せの世界に出られるのが、
仏教の教えなのです。

では、そのすべての人が本当の幸せになれる真理とは何かということは、
仏教の真髄ですが、メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んで見て下さい。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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