末法とは?末法思想の本当の意味
「末法の世」
「末法思想とは」
毎日のように流れてくるニュースを見ていると、
思わず「世も末だ」と言いたくなることがあります。
遠い国で続く戦争。
頻繁に起きる豪雨や地震などの災害。
耳を疑うような悲惨な事件。
そんな時に「今は末法の世だから」と聞いて、
末法とは何なのか、気になったのではないでしょうか。
末法とは、仏教の言葉で、お釈迦さまがお亡くなりになった後の時代を
3つに分けて教えられたもののうちの1つです。
末法には、お釈迦さまの教えは残っていても、
その教えの通りに修行する人も、
さとりを開く人もいなくなると教えられています。
そして今は、その末法の時代です。
こう聞くと、末法思想というのは、
「仏教が衰えて、世の中が乱れていく暗い時代が来る」という予言か、
「平安時代の人たちが恐れた、昔の悲観的な考え」
のように思えるかもしれません。
ところが末法は、お釈迦さまが説かれたものです。
しかもそれは、ただ暗い時代が来ると予言されたものではありません。
末法が分かると、どんな時代が来ても変わらない、
本当に頼りになる教えは何なのかが、ハッキリします。
では、末法とは、本当はどんな意味なのでしょうか?
一般にいわれる末法思想の意味
辞書や教科書を開くと、末法思想は、
大体このように説明されています。
お釈迦さまが亡くなられてから、時代が下るにつれて、
仏教の教えが衰え、世の中も乱れていく、という考えです。
日本では、平安時代の後期に、
疫病や戦乱、天災が続いたこともあって、
人々は、いよいよ末法の世が来たと恐れました。
この世ではもう救われないのなら、
せめて死んだ後は極楽浄土に生まれたいと願い、
浄土教が広まったといわれます。
鎌倉時代に新しい宗派が次々と開かれたのも、
末法思想が背景にあったといわれています。
今でも「末法の世」といえば、
正しいことが通らなくなり、
何を頼りにすればいいのか分からない、乱れた世の中のことです。
「世も末」という言い方も、
もとは仏教の末法思想から来ています。
今が末法なら、2600年前に説かれた仏教を聞いても、
今の時代を生きる私たちには、もう役に立たないのではないか、
と思われるかもしれません。
どれも、もっともなことです。
末法の時代には、教えの通りに修行する人も、
さとりを開く人もいなくなるのですから、
仏教が衰えていく暗い時代だと思われるのも、無理はありません。
ですが、こうした見方は、どれも末法を、
「仏教が力を失い、さとりを開くことができなくなっていく時代」
とだけ見ている点では同じです。
では、お釈迦さまは、末法について、
どのように説かれているのでしょうか?
お釈迦さまが説かれた正法・像法・末法・法滅
お釈迦さまは、ご自身が亡くなられた後の時代を、
正法・像法・末法・法滅の4つに分けて説かれています。
末法は、平安時代の人たちが考え出したものではありません。
- 正法……仏滅の後500年。教・行・証がある
- 像法……正法の後1000年。教・行はあるが、証がない
- 末法……像法の後1万年。教だけで、行も証もない
- 法滅……末法の後未来永劫。教もなくなる
「教」とは教え、
「行」とは教えの通りに修行すること、
「証」とは、修行してさとりを開くことです。
お釈迦さまが亡くなられてから、正法と像法で1500年。
その後に、末法の1万年が続きます。
現代の私たちが生きているのも、まさにこの末法の時代です。
そして末法の次に来るのが、法滅の時代です。
末法の1万年が過ぎると、
お釈迦さまの教えも、この世からなくなってしまうと説かれています。
例えば『大集経』には、
過去の仏方は、寿命のままに亡くなられ、
その7日後には、正しい教えがすべて隠れてしまったと説かれています。
しかしお釈迦さまは、私たちを哀れんで無常を知らせるために、
ご自身の寿命の3分の1を捨てられたといわれます。
それは、本来120歳まで生きられるところを、
40年を捨てて、80歳で亡くなられたと
『大毘婆沙論』にいわれています。
それは、ご自身の教えを、この世に満たすためでした。
そして、ご自身が亡くなられた後の教えについて、
こう説かれています。
今、我が涅槃の後、正法五百年、世間に住在せん。
衆生は煩悩尽き、精進の諸の菩薩は、六度を満ずることを得ん。
行者は速やかに能く無漏安隠の城に入らん。
像法は世に住すること、限り一千年に満たん。
(漢文:今我涅槃後,正法五百年,住在於世間。衆生煩悩尽,精進諸菩薩,得満於六度。行者速能入無漏安隠城。像法住於世,限満一千年)(出典:『大集経』)
「今」とは、過去の仏方に対して、
お釈迦さまご自身の場合は、ということで、
「我」とは、お釈迦さまご自身のこと、
「涅槃の後」とは、ここでは、亡くなられた後のことです。
お釈迦さまが亡くなられてから500年の間は、
「正法」といわれ、教えと教えの通り実践する人と、
それによってある程度さとりを開く人もあります。
「衆生」とは、私たち生きとし生けるもののことで、
「煩悩尽き」とは、煩悩がなくなることです。
出家して戒律を守り、お釈迦さまが説かれた通りに修行すれば、煩悩をなくせるということです。
「精進の諸の菩薩」とは、精進に励む菩薩たちのことで、
「六度」とは、六波羅蜜ともいわれる、
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の6つの修行です。
菩薩たちは六波羅蜜を「満ずることを得ん」とは、
その6つの修行をやり遂げることができるということです。
「行者」とは、修行する人のことです。
「無漏」の「漏」とは煩悩のことで、「無漏」とは、煩悩がないこと、
「安隠」とは、安らかで穏やかなことです。
煩悩のなくなった安らかな世界を、
「無漏安隠の城」と城にたとえられています。
正法の時代には、仏説の通りに修行する人が、
速やかにその世界に入ることができます。
その後の「像法」は、
「限り一千年に満たん」、1000年続くと説かれています。
像法の後の、末法の時代については、
『大集経』に、一言でいえば、こう説かれています。
我が末法の時の中の億億の衆生、行を起し道を修せんに、未だ一人も得る者有らず。
(漢文:我末法時中億億衆生,起行修道,未有一人得者)(出典:『大集経』)
「末法の時の中」とは、
末法の時代を迎えると、ということです。
「億億の衆生」とは、数えきれないほど多くの人々ということで、
「行を起し道を修せん」とは、修行を始めて、仏道を修めようとすることです。
それでも「未だ一人も得る者有らず」ということで、
さとりを得る者は一人もいない、と説かれています。
末法の時代には、どれほど多くの人が修行をしても、
さとりを得る人は、一人もいなくなってしまうのです。
この正法・像法・末法の移り変わりを、
道綽禅師(562-645)は『安楽集』に
このようにまとめて説かれています。
正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。
(漢文:正法五百年,像法一千年,末法一万年,衆生減尽,諸経悉滅)(出典:道綽『安楽集』)
お釈迦さまのお亡くなりになった後、
正法は500年、像法は1000年、末法は1万年続き、
人々は減っていき、お経はなくなってしまう、ということです。
このことを三蔵法師・玄奘(602−664)の弟子で、
法相宗を開いた窺基(632−682)は、
『金剛般若経賛述』に、このように解説しています。
釈迦の滅後、正法は五百年、像法は一千年、末法は一万年なり。
(中略)
然るに法に三種有り。
謂く、教・行・証の法なり。
中に於て、正法の住する時は三種有り。
像法の住する時は、証法無く、更に果を得ず。
故に但だ教・行のみ有り。
正法の時に像似するが故に、像と名づくるなり。
末法の時に於ては、唯だ教法のみにして、行・証無し。
設い持戒・修行の者有るも、多くは名聞利養の為の故なり。
(漢文:釈迦滅後,正法五百年,像法一千年,末法一万年。(中略)然法有三種。謂教、行、証法。於中正法住時三種有。像法住時而無証法,更不得果。故但有教、行。像似於正法時故,名像也。於末法時唯教法而無行、証。設有持戒、修行者,多為名聞利養故)(出典:窺基撰『金剛般若経賛述』)
「釈迦の滅後」とは、お釈迦さまが亡くなられた後のことです。
正法は500年、像法は1000年、
そして末法は1万年続く、と書かれています。
「法に三種有り」とは、仏法には3つのものがある、ということで、
それが先ほどの「教・行・証」です。
正法の時代には、この3つがそろっています。
像法の時代になると、「証法無く、更に果を得ず」、
さとりがなくなり、もう修行の果を得る人がいません。
「果」とは、修行の結果として得られるさとりのことです。
「故に但だ教・行のみ有り」ということで、
残るのは、教えと教えの通り実践する人だけです。
「像似する」とは、よく似ているという意味です。
教えがあり、修行する人もいて、
正法の時代によく似ていることから、
「像法」と名づけられています。
末法の時代になると、「唯だ教法のみ」ということで、
教えだけが残って、教えの通りに修行する人も、
さとりを開く人もいなくなります。
「設い持戒・修行の者有るも、多くは名聞利養の為の故なり」とは、
たとえ戒律を守って修行している人がいても、
その多くは名聞利養のためだ、ということです。
「名聞利養」とは、名誉欲と利益欲のことです。
ですから、修行しているように見えても、
実際は教えの通り実践しているわけではなく、
「行」があるとはいえません。
なぜ時代が下るにつれて、
さとる人も、教えの通りに修行する人も、いなくなっていくのかというと、
世の中が乱れ、人がだんだん楽な方へ流されていくからです。
昔は隣の町まで平気で歩いていたのに、
今では電車や車などで移動するようになり、
長距離を歩かなくなったのと同じです。
例えば、遠い町まで行く道順を教えてもらったとします。
道順を教えてもらうのが「教」、
その道順の通りに歩いていくのが「行」、
目的地に着くのが「証」です。
正法の時代は、教えられた通りに歩き通して、
目的地に着く人がいる時代です。
像法の時代になると、歩き出す人はいても、
途中で力尽きてしまい、目的地まで行き着く人がいなくなります。
さらに末法の時代になると、道順は残っていても、
その道順の通りに歩く人がいなくなります。
歩き出したように見えても、いつの間にか、別の方へ逸れていくのです。
そして法滅の時代には、その道順さえも、なくなってしまいます。
これは、教えられた道順が間違っているのではありません。
時代が下るにつれて、その通りに歩き通せる人が、
いなくなっていきます。
では、末法は、いつから始まり、いつまで続くのでしょうか?
末法はいつから始まりいつまで続くのか
日本では、平安時代の末から鎌倉時代にかけて、
像法から末法の時代に移ったといわれます。
いつから末法に入ったのかには、色々な数え方があり、
平安時代の後期には、永承7年(1052年)から末法に入ると考えられていました。
それより前、平安時代の初めに、
比叡山で日本の天台宗を開いたのが、
伝教大師・最澄(767−822)です。
その最澄の作と伝えられる『末法灯明記』では、
延暦20年(801年)の時点を「像法の最末」、
像法の一番終わりの時代とし、
その頃の人々の行いは、すでに末法と同じだとしています。
そして末法の時代については、このように書かれています。
たとえ末法の中に持戒の者有らんも、すでにこれ怪異なり。
市に虎あるが如し。
これ誰か信ずべきや。
(漢文:設末法中有持戒者,既是怪異。如市有虎。此誰可信)(出典:最澄『末法灯明記』)
「たとえ末法の中に持戒の者有らんも、すでにこれ怪異なり」とは、
たとえ末法の時代に、戒律を守る人がいたとしても、
それだけでもう、怪しく不思議なことである、ということです。
「市」とは、人が大勢集まって物を売り買いする市場のことで、
「市に虎あるが如し」とは、
人でにぎわう市場に、虎がいるようなものだ、ということです。
「これ誰か信ずべきや」とは、
そんなことを、誰が信じるだろうか、ということです。
末法の時代に戒律を守る人がいる、と聞かされても、
市場に虎がいると聞かされるのと同じで、
誰も本気にはしない、というのです。
戒律にはどんなものがあり、守れないとどうなるのかについては、
以下の記事で解説しています。
➾戒律の意味|五戒・十戒・具足戒の違いと、守れない人はどうなるか
最澄の時代から1200年以上経った今は、
戒律を守ることも、さとりを開くことも、なおさら難しくなっています。
お経は、書店でもインターネットでも、見たり読んだりすることができます。
ですが、その教えの通りに出家して戒律を守り、
修行に打ち込んで、さとりを開いたという人は、見当たりません。
お釈迦さまが説かれた通りの時代になっています。
さとりにはどんな段階があり、
今の時代にさとりを開いた人はいるのかについては、
以下の記事で解説しています。
➾悟りを開くとは?意味と52の段階|現代に悟りを開いた人はいるのか
そして末法の1万年は、この先まだ何千年も続きます。
永承7年(1052年)から数えても、
末法が終わるのは、今から9000年以上も先です。
その後には、教えそのものも滅んでしまう法滅の時代が来ます。
では、時代とともに、さとる人も、教えの通りに修行する人もいなくなり、
やがて教えそのものも滅んでいくということから、
一体何が分かるのでしょうか?
時代とともに変わる教えは方便
それは、どの教えが真実で、
どの教えが方便なのか、ということです。
仏教で「真実」とは、三世十方を貫くもののことです。
「三世」とは、過去・現在・未来のことで、いつでも、ということです。
「十方」とは、東西南北の四方と、その間の4つの方角、
そして上と下を合わせた10の方角のことで、どこでも、ということです。
いつでも、どこでも変わらないものでなければ、
真実とはいえません。
例えば、法律はどうでしょうか。
江戸時代の法律を、そのまま今の日本に当てはめることはできません。
また、日本の法律は、アメリカでは通用しません。
時代が変われば変わり、国が変われば変わるものは、
どれほど大切なものでも、真実とはいえません。
昔は正しかったけれども、今は通用しない。
今は正しくても、将来は役に立たなくなる。
そういうものは、真実ではありません。
真実は、どれだけ時代が変わっても、
どこへ持っていっても、変わらないものです。
この基準で、時代とともに移り変わっていく教えを見ると、どうでしょうか。
時代が下るにつれて、さとる人がいなくなり、
教えの通りに修行する人もいなくなって、
最後には、教えそのものもなくなってしまいます。
これでは、三世を貫いているとはいえません。
このように、時代とともに変わっていく教えを、
仏教では真理とはいいません。
では何かというと、方便です。
方便とは、私たちを真実に近づけ、
真実を体得させるために必要不可欠な手段のことで、
嘘という意味ではありません。
それでもお釈迦さまが、時代とともに滅んでいく教えを説かれたのは、
相手に応じた方便だったのです。
方便がなぜ必要なのか、真実とどんな関係にあるのかについては、
以下の記事で解説しています。
➾方便の意味と仏教での使い方|嘘も方便は身の破滅?
末法は、世の終わりではありません。
時代とともに消えていく方便の教えと、
どんな時代にも消えることのない真実の教えとが、
ハッキリ分かれてくる時代です。
では、法滅の時代が来ても滅びない真実の教えは、
どこに説かれているのでしょうか?
法滅しても滅びない真実の教え
その真実の教えが、『大無量寿経』です。
お釈迦さまは『大無量寿経』の終わりに、
この経に説かれたことを、ご自身が亡くなられた後に
疑ってはならないと戒められ、
続けて、こう説かれています。
当来の世に経道滅尽せんに、
我慈悲を以て哀愍し、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。
(漢文:当来之世経道滅尽,我以慈悲哀愍,特留此経止住百歳)(出典:『大無量寿経』)
「当来」とは、当に来るべき、という意味で、
「当来の世」とは、来るべき世、これから先の世のことです。
「経道」とは、お経に説かれた教えの道、この『大無量寿経』以外のお経に説かれた教えのことです。
「滅尽」とは、滅んで尽きてしまうことです。
お経の教えが、すべてこの世から滅んでしまう、
あの法滅の時代のことです。
「我慈悲を以て哀愍し」の「我」とは、お釈迦さまご自身のことです。
「慈悲」とは、苦しみを抜き、楽しみを与えようとされる御心で、
「哀愍」とは、すべての人を哀れみ慈しむことです。
「特に」とは、とりわけ、ということで、
「この経」とは、この『大無量寿経』のことです。
「留めて止住する」とは、この世に留めて残される、ということです。
「百歳」とは、
101年より1年少ない100年、ということではありません。
ここでいう百は満数といって、限りがないことを表します。
やがてお経の教えがすべて滅んでしまう法滅の時代が来ても、
お釈迦さまは、慈悲の心ですべての人を哀れみ、
この『大無量寿経』だけは永遠に残すであろうと説かれているのです。
この教えだけが残り、ますます人々を本当の幸せに導き続けるということです。
しかも続けて、この経に値う者は、
皆救われると説かれています。
末法、法滅の時代にこそ、
このお経に説かれた教えは、いよいよ衆生救済の光を放つのです。
『大無量寿経』は、正法の時代にも、像法の時代にも、末法の時代にも、
そして法滅の時代が来ても、変わらずに残り、
いつの時代の、どこの国の人も救われる教えです。
お釈迦さまご自身が、法滅の時代が来ても特に留めると説かれた教えですから、
三世十方を貫く真実の教えです。
時代とともに滅んでいく教えは、
私たちをこの真実に入れるための方便だったのです。
では、末法の世に生まれた私たちは、
この真実の教えによって、どのようになるのでしょうか?
末法の世でも本当の幸せになれる道
末法の世に生まれた私たちも、この真実の教えによって、
生きている今、本当の幸せになることができます。
末法思想は、ただ暗い時代の予言ではないのです。
『大無量寿経』に説かれているのは、
三世を貫く真実ですから、2600年前に説かれた教えでも、
今の時代には合わない、ということはありません。
時代が変わっても、どこにいても、
死が来ても崩れない、未来永遠変わらない幸せになれる道です。
「人間に生まれてよかった」という大きな喜びが起きて、
心の底から大安心・大満足の身になれます。
しかもそれは、末法の今、生きているうちに、
どんな人でもなれる幸せです。
出家する必要も、戒律を守る必要もありません。
その『大無量寿経』に説かれた、
本当の幸せになれるただ一本の道がどんな教えなのか
ということについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

