玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)とは

玄奘三蔵像
「玄奘(げんじょう)」といえば、西遊記に出てくる三蔵法師です。
それで玄奘三蔵といわれます。
西遊記は、孫悟空と沙悟浄、猪八戒を引き連れて、天竺まで経典を取りに行き、中国へ戻ってきた冒険物語ですが、日本のマンガでも、ドラコンボールのモデルにもなっています。
玄奘は、日本のドラマや漫画ではよく女性として描かれますが、実際には屈強な男性です。
玄奘三蔵は、実在の人物ですが、どんな人だったのでしょうか?
玄奘三蔵の生い立ち
玄奘は、西暦600年に生まれました。
ちょうど日本では聖徳太子が活躍中で、遣隋使を派遣していた頃です。
5歳のときにお母さんを、
10歳のときにお父さんを亡くし、
11歳のときに、すでに出家していた兄をたよりに洛陽の浄土寺に身を寄せ、お経を学び始めました。
13歳のとき、国家の認める僧侶になる試験がありました。玄奘はまだ出家前で、
受験資格もありませんでしたが、試験会場を見に行きます。
すると、試験官に声をかけられます。
「そなたも僧侶になりたいのか?」
「はい、ですが私はまだ13歳で受験資格がありません」
「僧侶になったらどうする?」
「遠く如来の教えをつぎ、多くの人に伝えたいと思います」
この尊い志に感動した試験官は、玄奘を僧侶に推薦してくれたのです。
13歳で、正式に僧侶になった玄奘は、仏教の学問の研究に没頭します。
洛陽で5年間学びますが、洛陽で随に対する反乱が起き、戦火に包まれたので、これから唐の都となる長安や蜀の都、成都など、各地で仏教の学問に励みます。
やがて、中国中のあらゆる経典を学び尽くすと、漢訳された経典内の矛盾や、各地の高僧の解釈の違いに、中国での学問に限界を感じ、仏教の説かれたインドへ行って、もっと詳しく学びたいと思うようになります。
しかし、唐の建国のまっただ中のこの戦乱の時には、国を出るのに許可が必要でした。
何度も嘆願書を出して申請しますが、すべて却下されます。
ついに、28歳のとき、国の法律を破って旅立つことにします。
8月の旅立ちの前夜、幼いときに亡くなった母親が
「どこへ行くのかい?」
と夢に現れました。玄奘は、
「法を求めてインドへ行きます」
と答え、翌朝、出発します。
「仏法のためなら、たとえ道なかばで死んでも後悔はない」
という決意です。
玄奘のインドへの旅
まず中国北西部の涼州に行き、お経の講義をしていると、非常にすぐれた講義だったので、たくさんのお布施が集まりましたが、
「インドへ法を求めに行こうとしている僧侶」
の噂が涼州の責任者の耳に入り、帰るように命ぜられます。
ところが、玄奘に共感を覚えた地元の僧侶が、西の瓜州へ逃がしてくれます。
そこからは、深くて流れの速い河を渡り、5つののろし台のある峰を過ぎたあと、ゴビ砂漠を越えなければなりません。
語学を学びながら情報を集めていると、違法出国しようとする玄奘を連れ戻すよう通達が出されたので、馬1頭と、地元の人1人を雇い、出発します。
ところが、深くて流れの速い河を渡ったところで、これ以上とてもついていけないと、地元の人は引き返してしまいます。
そして、のろし台を通るときも、矢が飛んできて捕まりますが、たまたま仏教を信じていた責任者に見逃してもらい、ゴビ砂漠を一人で横切っていきます。
食糧も水も底をつき、魑魅魍魎に襲われますが、奇跡的にゴビ砂漠を抜け、28歳の暮れに高昌国(トルファン)へたどりつきます。
そこでは、王様から大変な歓待を受け、
「国民全員が帰依するから国師として一生留まって欲しい」
と懇願されます。
ついには一室に閉じ込められますが、何としても旅立つ決意は変わらず、断食すると、王は根負けして、帰りには3年間高昌国に立ち寄るという約束で、出発を許してくれました。
王は莫大な旅費を布施し、玄奘を抱きしめて泣きながら見送ってくれましたが、この約束はついに果たされることはありませんでした。
やがて玄奘がインドで学びを終え、帰ろうとする1年前に、高昌国は唐に滅ぼされ、王も死んでしまったのです。
諸行無常です。
やがて玄奘は、250年前に現れた偉大な三蔵法師、鳩摩羅什の故国、亀茲国に入ると、2ヶ月間滞在します。
そこは仏教はインドの原典で学び、色々な人が往来する、語学学習に適したところでした。
その次に現れた難所は、テンシャン山脈でした。
夏でも雪がとけない極寒の氷山です。
強風が吹けば、砂や石が飛んできます。
眠ろうにも渇いたところはありません。
遭難覚悟の7日間の旅で、死者は3分の1にのぼる、最大の難所でした。
命からがら通り抜けた玄奘は、イシク・クル湖(現在キルギス共和国)に出ます。
それからシルクロードを西へ進み、タシケント・サマルカンド(現在ウズベキスタン)を通り、
バーミヤン、ガンダーラ(現在アフガニスタン)を通って、インダス河を渡り、カシミールに入ります。
そこで2年間高僧に学び、祇園精舎やカピラ城、ルンビニー園などのブッダゆかりの地を見て回りながら、目的地のマガダ国のナーランダー寺にたどり着きます。
31歳でした。
それから、10年間学問を深め、インドの王たちにも玄奘の名が知れ渡るようになったといいます。
帰国
41歳になった玄奘は、学び終えた大乗の教えを中国に広めたいと、帰国を決意します。
集めた経典を運ぶのに、馬が22頭必要でした。
インダス川を渡る際には、一隻の川船が転覆し、50巻の経典が失われました。
そこで玄奘は、50日間滞在して失った経典を書写するトラブルもありました。
ついに645年、玄奘が45歳のとき、17年ぶりに中国の都・長安へ帰り着きます。
玄奘が唐の太宗皇帝に面会すると、
「還俗して片腕として働いてほしい」
といわれますが、命をかけて持ち帰った経典を翻訳し、生涯を仏教に捧げたいという決意を表明すると、皇帝は、長安に長安に翻訳所を設置しました。
皇帝に請われ、インド旅行記である『大唐西域記』12巻を翌年46歳のときに口述し、弟子が筆記しました。
これが後に『西遊記』のもとになります。
玄奘の翻訳の量と質
国家プロジェクトとして始まった翻訳事業は、沢山のアシスタントのもと、大変な勢いで進められました。
2年間で
『大菩薩蔵経』20巻
『仏地経』1巻
『六門陀羅尼経』1巻
『顕揚聖教論』20巻、
そして、
『瑜伽師地論』100巻が翻訳されます。
こうして平均5日に1巻の離れ業で翻訳が進められますが、玄奘の起床は早朝5時、消灯は深夜1時です。
寸暇を惜しんで翻訳し、やがて時間がなくなってくると、起床は早朝3時になります。
60歳を過ぎ、余命いくばくもないことを自覚すると、常に無常を見つめて、弟子達にこう言ったといいます。
「この玄奘は余命長くはない、必ずこの寺に命を終えるであろう。
いまだ翻訳すべき経典ははなはだ多く、訳し切れないことを恐れる。
いよいよ奮励努力して苦労を惜しんではならない」
このように翻訳作業はますます速度を上げ、2日に1巻の驚異の速度となります。
こうして『大般若経』600巻や、天親菩薩の『倶舎論』、『唯識二十論』、『唯識三十頌』 なども翻訳し、17年間で最終的に翻訳したお釈迦さまの経典や、菩薩の論の総数は、1335巻になりました。
その人間離れした迅速な翻訳にもかかわらず、クオリティも高く、それまでの翻訳に対して「新訳」といわれるようになりました。
そして、三蔵法師といえば玄奘、玄奘といえば三蔵法師を思い出す、三蔵法師の代表のようになっています。
そして弟子の窺基(きき)は、玄奘の翻訳したお経から、法相宗を開き、日本にも伝わっています。
昔は、仏教の基礎理論として、僧侶を志す人なら誰もが学んだ学問となりました。
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