「現代人の仏教教養講座」

仏教の教えと生きる意味を分かりやすく
体系的に学べる仏教の総合サイト

日本仏教学院ロゴ 日本仏教学院ロゴ

生きる意味を、知ろう。

人生に疲れた・生きるのに疲れたのはなぜ?休んでも取れない疲れの正体

「もう人生に疲れた。何もかも投げ出したい」
「生きるのに疲れたのは、自分が弱いからなの?」

朝、目が覚めた時から、もう疲れている。
仕事に行き、人に気を遣い、家のことを片付けて、
気がつけば、一日が終わっている。
休みの日にいくら寝ても、疲れが抜けない。
体の疲れというよりも、生きていることそのものに
疲れてしまった気がすることがあります。

世間では、人生に疲れるのは、
頑張りすぎたからとか、
ストレスが溜まっているからと考えられています。
そして、しっかり休むことや、
環境を変えることが勧められます。

ところが、ゆっくり休んでも、旅に出ても、
しばらくすると、また同じ重さが戻ってきます。
仏教では、その疲れのもとは、
もっと深いところにあると教えられています。

では、人生に疲れる本当の理由とは、何なのでしょうか。
そして、この疲れが本当に癒えるには、
どうすればいいのでしょうか?

人生に疲れたと感じる時

人生に疲れたと感じるきっかけは、人それぞれです。

仕事では、毎日同じことの繰り返しなのに、
責任ばかりが重くなっていく。
頑張っても認められず、休めば迷惑をかける気がして、
体調が悪くても休めない。

人間関係では、職場でも家庭でも、
いつも周りの顔色をうかがって、
言いたいことを飲み込んでしまう。
仏教では、会いたくない人とも顔を合わせなければならない苦しみを、
「怨憎会苦(おんぞうえく)」と教えられています。

家庭では、子育てや親の介護に追われて、
自分の時間がまったくない。
体のことでは、病気やケガが長引いて、
今までのように動けなくなる。

年代によっても、疲れの中身は変わります。
20代では、思い描いていた人生と今の自分との違いに、
これがあと何十年も続くのかと気が重くなります。
30代、40代は、仕事でも家庭でも責任を背負い、
自分のことは、いつも後回しです。
50代になると、ずっと頑張ってきたのに、
この先も同じ毎日が続くことが見えてきます。

どれか一つだけでも大変ですが、
大抵は、いくつもが同時に重なっています。
そしてある時、ふと「もう疲れた」と、
体中から力が抜けてしまいます。

人生に疲れた人の特徴とサイン

人生に疲れている時には、心や体に、
次のようなサインが出てきます。

人生に疲れている時のサイン
  1. 朝起きた時から、すでに疲れている
  2. 休みの日に寝ても、疲れが取れない
  3. 好きだったことに、興味が持てない
  4. 人と会うのが億劫になる
  5. 些細なことで涙が出る
  6. 何をしても楽しいと感じない
  7. 「どうでもいい」と投げやりになる
  8. うまくいかないと、自分を責めてしまう

いくつも当てはまる時は、
心にも体にも、かなり疲れが溜まっています。
眠れない、食べられない日が続いている時は、
一人で我慢せずに、早めに医師に診てもらってください。

また、人生に疲れやすいのは、怠けている人ではなく、
むしろ真面目で責任感が強く、
周りに気を配れる人です。
何でも完璧にやろうとする人、弱音を吐けない人、
頼まれると断れない人ほど、
疲れを一人で背負い込んでしまいます。

人生に疲れたのは、あなたが弱いからではありません。
それだけ一生懸命に生きてきた、ということです。

お金がない・働いても楽にならない疲れ

人生に疲れたと感じる理由で、特に多いのがお金です。
毎月の支払いに追われ、働いても働いても、
暮らしは一向に楽にならない。
借金があれば、休むことさえ許されない気がします。

明治時代の歌人、石川啄木(1886-1912)も、
このような歌を詠んでいます。

石川啄木石川啄木

はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る

(出典:石川啄木『一握の砂』)

朝から晩まで働いても、生活は苦しいまま。
ふと手を止めて、自分の手をじっと見つめる。
この歌が詠まれてから100年以上経った今も、
多くの人が、同じ思いを抱えています。

では、お金があれば疲れないのかといえば、
そうではありません。
お金のある人は、それを守ることや増やすことに、
心をすり減らしています。

仏教では、求めても得られない苦しみを
「求不得苦(ぐふとっく)」と説かれていますが、
お金は、いくらあっても、
「これで十分」ということがありません。

「生き疲れた」とはどんな疲れか

「人生に疲れた」
「生きるのに疲れた」
「生き疲れた」
言い方は違っても、表している気持ちは同じです。
何か一つのことに疲れたというより、
生きていくこと全体に対する疲労感が、
心に重くのしかかっています。

体の疲れなら、原因がハッキリしています。
重い荷物を運んだ、長距離を歩いた。
それは動いた分だけ疲れた、筋肉の疲れです。
使った部分が疲れて、休めば元に戻ります。

ですが人生の疲れは、特に何もしていない日でも続き、
休んでも遊んでも、なかなか取れません。
どこが疲れているのか聞かれても、
自分でもうまく説明できない心の疲れです。

明治大学教授で心理カウンセラーの諸富祥彦氏(1963-)も、
著書に、学生たちの様子をこう書いています。

学生たちと接していて感じるのは、彼らがとにかく「疲れている」ということである。
何か意味のある仕事を終えた時のあの心地よい疲れでは、もちろんない。

力を持て余しながら、それをどこへ向けていいのか分からない。
そんな毎日を繰り返すうちに気力を奪われ、
慢性的な疲れやだるさが溜まっていく、と諸富さんは言います。

そしてその疲れのもとには、
「毎日がむなしい、つまらない」という気持ちがあるといいます。
人生の疲れは、何かをやり遂げた後の心地よい疲れとは、
まったく違う、心の疲れなのです。

「もういい」と思ってしまう時

そんな疲れが長く続くと、
「人生に疲れた。もういい」と、
すべてを投げ出したくなることがあります。

そう思ってしまうのは、気力が足りないからではありません。
つらさを大げさに感じているのでもありません。
重い荷物を背負ったまま、休む間もなく、
長い道を歩き続けてきたからです。

そんな時は、胸の内を一人でしまい込まずに、
信頼できる家族や友人、医師に打ち明けてください。
誰かに聞いてもらうだけで、
少し肩の荷が下りることもあります。

では、このような人生の疲れには、
どのように向き合えばいいのでしょうか?

人生に疲れた時の対処法として世間でいわれること

まず、人生に疲れている時にやってしまいがちな、
避けたほうがいいことがいくつかあります。

人生に疲れた時に避けたいこと

人生に疲れた時に避けたいこと
  1. 仕事を辞める、家を出るなど大きな決断をする
  2. 他人の充実した姿と自分を比べる
  3. 無理に前向きになろうとする
  4. 誰にも言わずに一人で抱え込む

疲れ切っている時は、物事を悪い方へ悪い方へと考えがちです。
その勢いで大きなことを決めてしまうと、
後から「あんなこと、しなければよかった」と
後悔することになりかねません。

SNSで他人の楽しそうな投稿を見れば、
自分だけが取り残されたように感じます。
他人は他人の強みを発揮しているだけなので、
自分の強みが発揮できることや
自分の好きなことをしたほうがいいです。

前向きにならなければと思うほど、
そうなれない自分を責めてしまいがちです。
ですが、その必要はまったくありません。

また、一人で抱え込むのもよくありません。
誰か近くの人と話してみるのも有効です。
どれも、弱っている心をこれ以上すり減らさないための心得です。

では反対に、疲れている時に実践するべき対策には
どんなものがあるでしょうか。

人生に疲れた時のその場の対処法・行く場所

疲れた時によく勧められる対処法は、
大きく3つに分かれます。

人生に疲れた時の対処法(世間でいわれること)
  1. しっかり休む(よく眠り、何もしない日を作る)
  2. 頑張りすぎをやめる(完璧を目指さず、人に頼る)
  3. 場所を変える(自然の中や旅行に出かける)

1つ目の、しっかり休むことは、まず大切なことです。
疲れ切ったまま無理を続ければ、
心も体も、持たなくなってしまいます。
休むことは、決して怠けることではありません。

2つ目の、頑張りすぎをやめることも、もっともなことです。
全部を完璧にこなそうとすれば、誰でも疲れます。
できないことは人に頼み、6割できればよしとする。
肩の力を抜くのは、長く頑張り続けるための知恵です。

3つ目の、場所を変えることとして、
多くの人が出かけていくのが、
海や山、森などの自然の中や、
温泉、静かな宿での一人旅、そしてお寺です。

確かに、いつもの景色から離れると、
それだけで心がふっと軽くなります。
波の音を聞いたり、山道を歩いたりしていると、
日頃の悩みが、小さなことに思えてきます。

しかし、旅から帰って、また同じ職場、
同じ人間関係に戻ると、
数日もすれば、元の重さが戻ってきます。
それなら住む所を変えればいいのかというと、
そうとも限りません。

明治の文豪、夏目漱石(1867-1916)は、
小説『草枕』の冒頭にこう書いています。

夏目漱石夏目漱石

智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。

(出典:夏目漱石『草枕』)

理屈で割り切ろうとすれば、人とぶつかる。
情に合わせれば、自分を見失って流される。
自分を通そうとすれば、窮屈になる。
漱石はこの後、住みにくさがつのると引っ越したくなるけれども、
どこへ越しても住みにくいと悟った時、
詩が生まれ、絵ができる、と続けています。

仏教でも、私たちの住むこの世界を、
耐え忍ばなければならない世界という意味で、
「娑婆(しゃば)」といわれます。
人生の疲れは、場所を変えただけでは、
消すことはできないのです。

では、なぜ休んでも、場所を変えても、
人生の疲れは取れないのでしょうか?

休んでも人生の疲れが取れないのはなぜか

これまでの連休が明けた朝や、旅行から帰った次の日、
疲れはすっかり消えていたでしょうか?
体は少し軽くなっても、「また、あの毎日が始まる」と思った途端、
心は元の重さに戻ってしまったのではないでしょうか。

ある製薬会社の営業の人は、
日曜日には休んでいいと言われても、
契約が取れなければ他の人に負けると思うと、
体も心も、少しも休まらないと言います。
体を横にしていても、心は少しも休まっていません。

体の疲れは、使いすぎたことから起きます。
それに対して人生の疲れは、
いつまで続くのか分からないことから生じます。

例えば、病院の待合室で、
「あと10分でお呼びします」
と言われれば、
同じ椅子に座っていても、さほど苦になりません。
ところが、いつ呼ばれるのか分からないまま待たされると、
ただ座っているだけなのに、ぐったり疲れてしまいます。
疲れさせているのは、椅子の硬さではなく、
終わりの見えない待ち時間です。

人生も同じです。
どこまで行けば休めるのか、
何のためにこんなに頑張っているのかが分からないまま
歩き続けているから、じっとしていても疲れが取れないのです。

このことを、お釈迦さまは、
わずか四句で説かれています。

お釈迦さまが説かれた「疲れた人には道が長い」

それが『法句経』のこのお言葉です。

寐(い)ねざるものには夜長く、疲惓(ひけん)せる者には道長し。
愚かなるものには生死長し、正法を知ること莫(な)ければなり。

(漢文:不寐夜長,疲惓道長。愚生死長,莫知正法)

眠れない人には、夜がとても長く感じられます。
疲れ果てた人には、いつもの道でも遠く感じられます。
夜の長さは眠れた時と同じですし、
道のりも、元気な時と同じです。
それなのに長く感じるのは、夜や道のほうではなく、
その夜を過ごし、歩いている自分の側にあるということです。

この前の二句は、後の二句を教えるためのたとえです。
お釈迦さまが本当に教えられている主題は、
「愚かなる者には生死長し、正法を知ること莫(な)ければなり」です。

「愚かなる者」とは、頭の善し悪しのことではなく、
本当のことを知らない人のことです。
「生死」とは、生まれては死んでいく、
私たちの苦しみ迷いの道のりのことです。
そして「正法」とは、お釈迦さまの説かれた正しい法ということで、
仏教のことです。

眠れない人に夜が長く、疲れた人に道が遠いように、
仏教を知らない人には、生きていく道のりが
果てしなく長く、苦しみ迷い続けていくものになる、ということです。
人生が重く感じられるのは、道のりが長いからではなく、
その道を旅する私たちが、正法を知らないからなのです。

では、正法を知らないと、
なぜ人生はこれほど疲れるものになるのでしょうか?

仏教で教えられる人生に疲れる本当の理由

お釈迦さまは『大無量寿経』に、
この世の人々のありさまを、こう説かれています。

尊と無く卑と無く、貧と無く富と無く、少長・男女共に銭財を憂う。
有無同じく然り。
憂き思いまさに等し。

(漢文:無尊無卑,無貧無富,少長、男女共憂銭財。有無同然。憂思適等)

社会的地位が高くても低くても、裕福でも貧しくても、
若くても年老いていても、
人は誰でも、お金や財産のことで悩んでいる、
と説かれています。

「有無同然」とは、あってもなくても同じ、ということです。
お金や財産を持っている人も、
持っていない人も、
満たされないことは変わらない。
苦しみ悩み、心配や不安は同じようにある、ということです。

お経には続けて、田畑のある人は田畑のことで、
家のある人は家のことで心を悩ませる。
1つ手に入れても、また別の1つが足りないと感じ、
欲の心に馳せ使われて、心の安らかな時は少しもない
と説かれています。

お金がなければ、お金さえあればと思って働きます。
ですが、手に入れても、立ち止まることはできません。
常に、もっと増やしたいと、増やすことに追われます。
ましてや減ったりしたら大事です。

財産を増やしても、高い地位や名誉を手にしても、
心の底からの安心も満足もありません。
何を手に入れたら「これでよし」と言えるのか。
その答えが、どこにも見つからないのです。
ですが、頑張った分だけ疲れは溜まり、人生の残り時間は減ります。

そうやってゴールなしに歩き続けているうち、
だんだん分からなくなってきます。
自分は何のために、これほど頑張っているのか。
何のために、疲れても働いて生きていかなければならないのか。
苦しくても我慢して生きる意味はあるのか。

人生に疲れる本当の理由は
何のために生きるのかという
人生の目的が分からないからです。

終着点の見えない道を、ただ歩き続けているから、
肉体をどれだけ休めても、心が休まることがありません。

疲れたら栄養ドリンクを飲んで、また頑張る。
それでどこかにたどり着けるのならいいのですが、
行き先も知らずに走るのは、倒れるまで
自分にムチを打ち続けているようなものです。
ゴールを知らずに走り続けても、走り倒れあるのみです。

では、人生の疲れが本当に休まるのは、
どんな時なのでしょうか?

人生の疲れが本当に休まる時

仏教には、人は何のために生まれてきたのか、
その答えがハッキリと説かれています。
これ1つ果たせば、「このために生まれてきたんだ」と
心から満足できる、人生の目的があります。

それは、お金や地位のように、
手に入れたら、また次が欲しくなるものではありません。
それさえ完成すれば、もう足す物も引く物もない、
人生のゴールです。

その本当の生きる目的を達成した時、
「人間に生まれてよかった。よくぞ人間に生まれたものぞ」
という生命の大歓喜が起き、
二度と迷わない身になります。
人生の疲れが本当の意味で休まる、
苦しみ迷いの打ち止めです。

それは、死んでからなれる幸せではありません。
疲れ果てたまま、我慢して生き続けるのでもありません。
生きている今、どんな人でもなれる本当の幸せです。

そして、その人生の目的がハッキリすれば、
仕事も勉強も人付き合いも、
自分が頑張っているのはこのためだと
歩く足取りがまったく変わります。

ゴールを知らずに走り続けるマラソンは、走り倒れあるのみですが、
ゴールがハッキリしていてこそ、
走る意味が出てくるようなものです。

では、疲れ切った心が本当に安らぐ変わらない幸せとは、
どんなものなのか。
どうすればその幸せになれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
どちらも無料ですので、今すぐ見ておいてください。

➾目次(記事一覧)へ

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。