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死とは何か?哲学者も消せなかった死の恐怖と仏教の答え

「死って、一体何なの?」
「死んだら、全部終わりなの?」

大切な人を見送った時や自分の体に異変を感じた時、
死とは何なのだろうと考えずにいられなくなることがあります。

人は誰でも、いつか死ぬと知っています。
ですが、死とは何かと聞かれると、ハッキリ答えられる人は多くありません。

医学では命の働きが元に戻らない形で止まることを、死といいます。
哲学者たちは2000年以上も、死の恐怖を乗り越える方法を探し続けています。
ところがどの方法でも、死の恐怖は消えていません。

一方で仏教には、死とは何かがハッキリ説かれています。
それは世間でいう「命がなくなること」とは、全く違うものです。

では、仏教で説かれる死とは、どんなことなのでしょうか?

死とは?医学と法律の定義

死とは、辞書には「命がなくなること」と書かれています。
医学では心臓や呼吸、脳の働きが止まり、
二度と元に戻らなくなった状態を死といいます。

医師は次の3つを確かめて、死を判定します。

医学で死を判定する3つのしるし
  1. 心臓が止まる(心拍の停止)
  2. 呼吸が止まる(呼吸の停止)
  3. 瞳孔が開いて光を当てても縮まない(瞳孔散大・対光反射の消失)

この3つを「死の三徴候」といいます。

また心臓が動いていても、
脳全体の働きが二度と戻らなくなった状態を、脳死といいます。
心臓が動いているからといって、
脳死になった場合は回復することが不可能なので、
臓器を提供する場合には、脳死も人の死として扱われることが、
日本の臓器移植法で定められています。

これが医学や法律でいう死です。
ですが、私たちが「死とは何か」と考える時、
本当に知りたいのは、そのことだけでしょうか。

死んだら私はどうなるのか。
なぜこれほど、死が怖いのか。
医学の定義は、その問いには答えていません。

では、人間は昔から、死をどのように考えてきたのでしょうか。

人間は死をどう考えてきたのか

多くの人類学の研究から、大昔の人々は、
死を誰にでも必ずやってくる自然なこととは考えていなかった、といわれます。
人が死ぬのは、争いで傷つけられたり、呪いで病気にされたりした時だけで、
死んだ人は食べ物も着る物もいらない、
別の暮らしに移るだけだと思われていたからです。

死に対するこうした考え方を、死生観といいます。

やがて人間は2つのことに気づきます。
1つには、死は誰にも必ずやってくること、
2つには、一度死ねば、二度と元には戻らないことです。

最も古い物語の1つといわれる『ギルガメシュ叙事詩』も、
親友を亡くした王が自分の死を恐れて、不老不死を探し求める物語です。
死は必ず来て、来たら元に戻らない。
この2つを知った人間にとって、死は何よりも恐ろしいものです。

ヴィクトル・ユゴー
ヴィクトル・ユゴー
(1802-1885)

フランスの作家ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)は、
死刑囚の手記の形で書いた小説『死刑囚最後の日』に、
こう書いています。


人間はみな、いつまでと決まっていない猶予つきで、
死刑を言い渡されているのだ。

死刑囚は刑が執行される日を、ただ待つ身です。
それと同じように私たち人間は、
死ぬことはもう決まっていて、
その日がいつかを知らされていないだけだ、ということです。

それなのに私たちは普段、
死をテレビやニュースの向こうのことのように思っています。
心のどこかで、自分だけはまだ大丈夫だと信じています。

それでも身近な人が亡くなると、死は急に自分のこととして迫ってきます。
子どもの頃に死ぬのが怖いと眠れなくなった経験がある人も、
少なくないと思います。

では、死の恐怖を乗り越えるために、
哲学者たちはどんな方法を考えてきたのでしょうか。

死の恐怖を乗り越える4つの方法

哲学者たちが考えてきた方法は、大きく分けると4つあります。
『西洋思想大事典』の「死と不死」の項目では、このように分けられています。

死の恐怖を乗り越える4つの方法
  1. 人生を悲観する
  2. いつも死を思って慣れておく
  3. 死をできるだけ考えない
  4. 死を小さく見る

1つ目の「人生を悲観する」は、一番古くからある方法です。
古代ギリシアの詩や劇では、この世に生まれてこないのが一番よく、
生まれたからには早く去るのが次によいと、繰り返し歌われています。
今でいう反出生主義に近い考え方です。

この世がつまらない所なら、死んでも惜しくはないというわけです。
ですが、人生を暗く見たところで、死が怖くなくなる人はほとんどいません。

2つ目の「いつも死を思って慣れておく」は、
ローマの哲学者セネカ(前4?-65)たちが勧めている方法です。
これがいわゆる「死を想え(メメント・モリ)」です。

しかし死を見つめれば見つめるほど、
かえって恐ろしくなる人も少なくありません。
落ち着いて死を見つめていられるのは、
すでに死の恐怖を乗り越えた人だけだ、ともいわれます。

モンテーニュ
モンテーニュ
(1533-1592)

3つ目の「死をできるだけ考えない」は、
フランスの思想家モンテーニュ(1533-1592)が行き着いた方法です。
モンテーニュはセネカにならって死を見つめようとした末に、
近所の農民たちの生き方に答えを見出しています。


近所の農民が、人生最後の時をどんな顔つきで、
どれほど落ち着いて迎えようかと考え込んでいるのを、私は一度も見たことがない。
自然は彼に、死ぬ時になって初めて死を考えるように教えている。

死のことは、死ぬ時になってから考えればいい。
それまでは考えないでおくのが一番だ、というわけです。
今でも「死を考えると暗くなるだけだから、
それより今を楽しく生きるのが幸せだ
」という人はたくさんいます。

ですが、死を考えないでいられるのは、死がまだ遠くにある間だけです。
いざ自分の死が近づくと、考えないでいることは
言うほど簡単ではありません。

4つ目の「死を小さく見る」は、死を大したことではないと考えることです。
古代ギリシアの哲学者エピクロス(前341-前270)は、
私たちが生きている間は死はなく、
死が来た時には私たちはもういないのだから、
死は私たちにとって何ものでもない、と言っています。

死んだら無になるのなら、怖がる自分もいなくなるというわけです。
反対に、死んでも魂は滅びないと信じて、
死を小さく見る人もいます。

どの方法でも消えなかった死の恐怖

どれも死の恐怖と何とか折り合いをつけようとした、真剣な工夫です。
ですが『西洋思想大事典』の著者は、
エピクロスの理屈も、死を考えないという方法も、
いざ現実の死を前にすると力を持たないと書いています。
しかもこの4つのどれも、
ふとした時に襲ってくる強い死の恐怖には、
役に立たないとまで書いています。

スコットランドの詩人ダンバー(1460頃-1530頃)は、
魔法も占星術も論理学も神学も、
死を前にしては何の助けにもならないと嘆き、
詩の一節ごとに「死の恐怖が私をかき乱す」と繰り返しています。

頭では「死は何でもない」と分かったつもりになっても、
心の底から湧いてくる恐れは、理屈では消えません。

現代では心理学や精神医学が、死の恐怖を和らげる方法を研究しています。
死の恐怖が強すぎて毎日の暮らしに差し障るものは、
タナトフォビアともいわれます。

ですが先ほどの事典でも、
恐怖が和らいだことと死の問題が解決したこととを、
混同してはならないと注意しています。

哲学者たちの答えは、死とは何かではなく、
死をどう受け止めるかの追及
です。
それも有効な答えは1つもなく、
死そのものが何なのか、死んだらどうなるのかは、
分からないままです。

では仏教では、死とはどんなことだと教えられているのでしょうか。

仏教で説かれる死とは

『雑阿含経』には、死とは、寿命と体温と心の3つが、
体から離れていくことだと説かれています。

お釈迦さまのお弟子に、伽摩(かま)という人があります。
ある時、長者が伽摩を訪ねて、こう尋ねます。
人が死ぬと、その体は地に横たわり、
やがて墓地に葬られて、木や石のように心がなくなる。
それはいくつのものが体を離れるからなのか、と。

すると伽摩は、このように答えています。

寿(じゅ)と暖(なん)と識(しき)と、身を捨つる時、倶(とも)に捨つ。
彼(か)の身は塚間(ちょうけん)に棄(す)てられ、心無きこと木石(ぼくせき)の如し。

(漢文:寿暖及与識,捨身時,倶捨。彼身棄塚間,無心如木石)

「寿(じゅ)」とは寿命のことで、命を保っている力です。
「暖(なん)」とは「煖」とも書きますが、体のぬくもり、体温のことです。
「識(しき)」とは心のことです。

「身を捨つる時、倶に捨つ」とは、
人が死ぬ時、この3つがそろって体を離れていく、ということです。

「彼の身は塚間(ちょうけん)に棄(す)てられ、心無きこと木石(ぼくせき)の如し」とは、
塚間(ちょうけん)とは墓場の中のことですから、
寿と暖と識の3つが離れた後の体は墓地に葬られ、
心がないことは木や石と同じだ、ということです。

続けて伽摩は、寿命と体温が去り、目や耳などの働きがすべて壊れて、
体と命が分かれることを死という、と答えています。

医学では心臓や呼吸が止まったことを確かめて、死を判定します。
ところが仏教では、寿命と体温と心が離れていったから、
体は木や石のようになる、と教えられています。

心がなくなるのではなく、心が体から離れていく。
これが仏教で説かれる死です。

では、体を離れた心は、どうなるのでしょうか。

仏教では心を8つに分けて教えられ、
その一番奥にある心を、「阿頼耶識(あらやしき)」といいます。

『成唯識論(じょうゆいしきろん)』には、
寿命と体温と心の3つは互いに支え合っていて、
寿命と体温を保ち続けているのは、
一瞬も途切れることのない阿頼耶識だと説かれています。
死ぬ時に体が冷たくなっていくのは、
その阿頼耶識が、体を手放していくからです。

阿頼耶識は、生まれる前から死んだ後まで、ずっと続いていく心です。
死によって体はなくなっても、阿頼耶識はなくなりません。

生きている間の私たちの行いを、仏教では「業(ごう)」といいます。
私たちの心と口と身体で造った行いは、
目に見えない業力となって阿頼耶識に収まり、
死んだ後にその業力によって、次の世界が生み出されると教えられています。

死んだ後の世界を、仏教では「後生」といいます。
仏教で死とは、すべてが終わることではありません。
この体での命が終わり、心が後生へと向かっていく一大事です。

考え方を変えても死の恐怖が消えない理由

死が恐ろしいのは、死ぬ時の痛みや、愛する人との別れのためだけではありません。
死ぬということは、行き先の分からない所へ、たった1人で旅立っていくことです。
死んだら自分がどうなるのか分からない。
そのことが、死を何よりも恐ろしいものにしています。

先ほどの4つの方法は、どれも死を前にした気持ちの持ち方を変える工夫です。
ですが、気持ちの持ち方をどれだけ変えても、
死んだらどうなるかは少しも分かるようになりません。
だから本物の死を前にすると、どの方法も力を失ってしまいます。

死の恐怖は、気持ちの問題ではなく、
死んだ後の行き先がハッキリしないことから起きています。

では、死の恐怖を本当に乗り越えるには、何が必要なのでしょうか。

死の恐怖が大安心に変わる仏の誓い

死の恐怖を本当に乗り越えるのに必要なのは、
死んだらどうなるかが、ハッキリすることです。

仏教には、死の恐怖を考え方で和らげるのではなく、
死んだらどうなるかがハッキリして、
死の恐怖が完全になくなる道が説かれています。
しかもそれは、死ぬ時になってからのことではありません。
仏教では死の問題を、生きている今の問題として教えられています。

『大無量寿経』には、仏様がまだ仏のさとりを開かれる前に、
このように誓われたことが説かれています。

吾(われ)誓いて仏を得んに、普(あまね)くこの願を行じて、一切の恐懼(くく)に、為(ため)に大安(だいあん)を作(な)さん。
(漢文:吾誓得仏,普行此願,一切恐懼,為作大安)

「吾誓いて仏を得んに」とは、
私は誓って仏のさとりを開いたならば、ということです。
固く固く誓われています。

「普(あまね)く此の願を行じて」とは、
この願いを完全に果たして、ということです。

「一切の恐懼(くく)に為(ため)に大安(だいあん)を作(な)さん」とは、
恐れおののいているすべての人のために、大きな安らぎを与えよう、ということです。

死を恐れるすべての人に、大安心を与えたい、
与えてみせるという熱い誓いです。

この大安心の身になっても、死ななくなるわけではありません。
体の痛みや愛する人との別れの悲しみが、なくなるのでもありません。
ですが、死んだらどうなるか分からなかった暗い心が、
一念の瞬間に明るい心になります。
死んだ後の行き先は、死んでからではなく、臨終でもなく、
生きている今、ハッキリします。

死とは、寿命と体温と心が体を離れて、次の世界へ向かっていくことです。
しかもそれは大変な一大事だと仏教では教えられています。
それは、私たちの阿頼耶識にどんな業力が収まっているか考えれば分かります。

欲や怒りやねたみそねみの心で、
人には言えないことを思ってはいないでしょうか。
毎日たくさんの生き物を殺して食べて生きてきたのではないでしょうか。
悪い業力ばかりなら、
「自業自得」の因果の道理に従って
苦しみの世界が生み出されることになります。
それで一大事といわれるのです。

その一大事を、生きている今のうちに解決して、
いつ死が来ても崩れない大安心の身になれる。
これ1つを教えられたのが仏教であり、
これが仏教に明らかにされた、死の大問題を解決して、
変わらない幸せになる道です。

生きている今なれる大安心の身

この大安心の身になるには、
厳しい修行は必要ありません。
年齢もこれまでの人生も関係ありません。
あっという間もない短い時間で、暗い心が明るい心に、
苦しい人生が楽しい人生になります。
一切がさわりとならない無碍(むげ)の一道へ出て、
心の底から「人間に生まれてよかった」と喜べる身になります。
人間に生まれてきたのは、この身になるためだったと知らされます。

では、大安心の身になれる仏の教えとは、どのような教えなのか。
どうすれば、生きている今、その身になれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめてあります。
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。