メメント・モリ

メメント・モリ」というと、モンスターストライク(モンスト)にも出てきますし、ガンダムの兵器にもあります。ミスチルのヒット曲『』のサブタイトルにもなっています。テレビや映画、カフェなどのお店の名前にもよく出てきます。
これが分からなければ、人生のクオリティが大きく下がってしまうのですが、メメント・モリとはどんな意味なのでしょうか?。そして、どうすれば私たちの人生に活かすことができるのでしょうか?

メメント・モリとは

メメント・モリ」は中世のキリスト教でよく言われたことですが、西洋に古くから伝わるラテン語の格言です。
英語でいうと、「メメント」はメモリーとかメモライズということで、心にとどめるとか忘れない、ということです。
モリ」は、英語でいえば「モータル」ということで、必ず死ぬということです。
ですから「メメント・モリ」とは、必ず死ぬことを忘れるなという意味です。

これは、アップルの創業者、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式での講演で、卒業生達に言っていることです。
「人生を左右すわかれ道を選ぶ時、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと思います。
ほとんどのことが──周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖など──そういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです」

日本でも、ビートたけしは、こう言います。
「自分の死をしっかり腹におさめておけば、人生でそう大きく道を誤ることはないはずだ。
それだけは、引き籠もりのニートだってIT長者だって、この世に生きているあらゆる人間にとって意味がある。誰もが結局は死ぬんだから。
メメント・モリは道徳の土台なのだ(北野武『新しい道徳』)」

ではどうしてメメント・モリと言われるようになったのでしょうか?

メメント・モリの歴史

もともとメメント・モリは、古代ギリシアにさかのぼります。
プラトンは『パイドン』に、「本当の哲学者は、死と死にゆくことを追及する」と言っています。
その後、古代ローマでも、セネカは、繰り返し死を思えと言っています。
また、エピクテトスの『語録』によれば、勝利のさなかにあなたは死すべき存在だと思い出させる人のように、愛する人にキスしたとき、その喜びを抑制するため、自分は死すべき存在だと思い出すべきであると、生徒に語っています。

また、初期のキリスト教徒で、「不条理なるが故に我信ず」という言葉で有名なテルトゥリアヌスは、戦争の凱旋行進で、勝利をおさめた将軍は、誰か奴隷のような人に、背後から冠を持たせて「あなたは死すべき存在で有ることを忘れないでください」とささやかせた、と言っています。

これが中世になると、キリスト教で利用するために、強く強調されるようになりました。
それというのも、この世の楽しみや贅沢、成果よりも、死後の国に意識を向けさせるためです。
そのため、ほとんどのメメントモリの関係の芸術作品は、キリスト教関係です。

トランジといわれる墓標

トランジ
ルネ・ド・シャロンのトランジ

中でも一番明白なのは、14世紀後半からヨーロッパの貴族や枢機卿など富裕層に流行した墓標です。
朽ちた遺体の像などが使われ、「トランジ」と呼ばれました。
なぜそんなものが墓標にされたのかというと、見た人に、この世の富の虚しさを思い出させるためです。
その後、ピューリタンの墓石には、羽の生えた頭蓋骨の図柄が用いられました。

また、スペインをはじめ、ヨーロッパ各地の墓地の入り口には、「どくろマーク」(頭蓋骨と交差した大腿骨)が表示されるようになりました。

スカル・アンド・クロスボーンズ
どくろマーク

これはメメント・モリと目的は違いますが、やがて脅しのためのジョリーロジャーといわれる海賊旗にもなります。

現代では、毒物を始めとする危険物の警告のためのマークに使われています。
ヨーロッパの墓地が、いやにおどろおどろしい雰囲気を醸し出しているのは、実は「メメント・モリ」ということだったのです。

骨の礼拝堂

セドレツ納骨堂
セドレツ納骨堂

また、教会の中には、ポルトガルのエヴォラという所にある骨の礼拝堂や、ローマのカプシン会の教会の地下室、チェコのセドレツの全聖人教会の納骨堂のように、壁一面に人間の骨が埋め込まれていることがあります。内装が、本物の人骨で飾られているのです。
エヴォラの骨の礼拝堂などは、「むき出しで眠る我々・骨は、あなたを待っている」と記されています。

死の舞踏

また、14世紀から15世紀に「死の舞踏」という絵画や彫刻が大流行しました。
当時、百年戦争と、ヨーロッパの人口が3割減ったペストの大流行で、次々と人が死んで行きました。
生きているときは、王様でも農民でも、金持ちでも、貧乏でも、最後は同じように死に帰します。
そんな死の恐怖に怯えて、人々が半狂乱で躍るというテーマで、たくさんの絵画や彫刻が作られたのです。
死の舞踏
死の舞踏』15世紀

時計

時計も、命の時間が1分ごとに短くなっていくメメント・モリを意識させるものでした。
公共の場所にある時計には、「もしかしたらこれが最後」とか「すべての人は傷つき、最後は死ぬ」と刻印されていました。これは今では「光陰矢のごとし」と刻印されることがよくあります。

プラハの天文時計
プラハの天文時計
一定の時間になると機械仕掛けの人形が出てきて時計を打つからくり時計でも、15世紀に制作が始まったチェコのプラハの世界最古の天文時計や、16世紀に制作されたフランスのストラスブール大聖堂の世界最大の天文時計などは、死神が出てきて時を打つという趣向になっています。

16世紀のスコットランド女王メアリーの時計には、銀の頭蓋骨が彫られ、ホラティウスの詩の一文「青白い死は、貧乏人のあばら屋も、王族の塔も、同じテンポで時を刻む」と刻まれていました。

ヴァニタスといわれる静物画

ピーテル・クラース・ヴァニタス
ピーテル・クラース『ヴァニタス』1630年

17世紀頃になると、静物画に「ヴァニタス」といわれる分野ができました。
ヴァニタス」とは、ラテン語で「虚しさ」という意味で、虚栄のはかなさ、人生のはかなさを意味しています。
ヴァニタスでは、それを象徴するものとして、頭蓋骨がよく描かれています。
他にも、花びらの散った花、腐っていく果物、砂時計、シャボン玉、煙とパイプなどが象徴的に描き込まれています。
当時、宗教画に比べて格下と思われていた静物画ですが、宗教的な要素を取り入れて、権威性を高める為だったともいわれます。

フィリップ・ド・シャンパーニュ・ヴァニタス
フィリップ・ド・シャンパーニュ『ヴァニタス』1671年

なぜメメント・モリなの?

メメント・モリというのは、ラテン語で、「死を忘れるな」ということです。
これを忘れていると、後で取り返しのつかないことになってしまい、後悔することになるのです。
しかも忘れてはいけないのは、他人の死でなく、自分の死です。

なぜ自分の死を忘れるな、といわれるのでしょうか。
まず前提として、忘れていない人に忘れるなとは言われません。
煙草を吸わない人に「煙草を吸うな」とは言われませんし、静かな人に「静かにしろ」とは言われません。
わざわざ「メメント・モリ」(死ぬことを忘れるな)と言われ、格言にまでなっているのは、私たちは自分が必ず死ぬことを忘れているからです。

人間はいかに、簡単に自分が死ぬということを忘れるかということは、哲学者も指摘するところです。
ショーペンハウアーは、現代人は自分自身の死を本当には信じていないと言っています。
ハイデガーは、「すべての人間は死すべきものである」という命題が常に、「しかし私はそうではない」という暗黙の留保を含んでいると観察しています。
また、心理学者のフロイトも、「無意識のうちに、誰しも自分自身の死があることを信じていない」と言っています。

ところがこのことは、仏教では、すでに2600年前、ブッダが説かれています。

死に対する鈍感さを教えられた四馬の譬喩

ブッダが祇園精舎におられたとき、私たちがいつ死ぬかも分からないのに、そのことに全く驚かない鈍感さを、4通りの馬にたとえて教えられています。
これが、『雑阿含経』に説かれる「四馬の譬喩(しばのひゆ)」です。

四馬というのは、4通りの馬ですが、この4通りです。
1.鞭影を見て驚く馬
2.鞭、毛に触れて驚く馬
3.鞭、肉に当たって驚く馬
4.鞭、骨にこたえて驚く馬

まず1番目の「鞭影を見て驚く馬」とは、馬に乗った人が振るうムチのかげを見ただけで、あれが当たったら痛いと思って、走り出す馬です。大変な駿馬です。
人間でいえば、花が散るのを見て、自分もやがてあのように死んで行くのだと自分の死を思う人です。または、火葬場から立ち上る煙をみて、自分もやがてあのように死んで行かなければならないと、自分のこととして受け止める人です。

2番目の「鞭、毛に触れて驚く馬」とは、乗り手のムチが毛にかすっただけで、「これは叩かれたら大変だ」と思って走り出す馬です。これも駿馬です。
人間でいえば、他人の葬式を見たときに、やがて自分も葬式をされる時がくると、自分の無常に驚く人です。
また、テレビや新聞で人が死んだという事件を見たり聞いたりしたとき、やがて自分も死ぬときがくると、自分に引き当てて聞く人です。

3番目の「鞭、肉に当たって驚く馬」とは、ムチをふるわれて、体にバシッとあたって走り出す馬です。これは普通の馬です。
人間でいいますと、隣の家が葬式を出したり、よく知っている人が死んだ時、「えっ?あの人もう亡くなったの?」と びっくりして、自分も死ぬ時が来ると、自分の死に驚く人です。または、交通事故を目撃するなど、目の前で人が亡くなったのを見て、「自分もああやって死んで行くんだ」と我が身の無常に驚く人です。

4番目の「鞭、骨にこたえて驚く馬」とは、1回ムチで打たれたくらいでは感じず、何回も何回も打たれて、ついに肉がさけ、骨にあたって初めて走り出す馬です。これは駄馬です。
人間でいいますと、肉身が死んで初めて自分も死んで行かなければならないと驚く人です。

この中で、あなたは何番目に入りそうですか?

実はブッダは、すべての人は、この4番目にも入らないと教えられています。
確かによく知っている人や、肉身が亡くなると、悲しんだり、亡くなった人がかわいそうだと思うのですが、それによって自分が死ぬことに驚いたりはしないのです。
悲しいのも一時的なことで、しばらくすれば、また元通りの生活に戻ってしまいます。
自分が死ぬとは毛頭思えないのが私たちの姿なのです。

それで、西洋でも「メメント・モリ」と言われ、お釈迦さまも、無常を見つめなさい、死を自分のことと思いなさいと繰り返し、教えられているのです。

ではなぜせっかく死を忘れて楽しく生きているのに、死を忘れてはいけないのでしょうか?

なぜ死を忘れてはいけないの?

なぜ死を忘れてはいけないのか、メメント・モリと言われるのかというと、西洋では、楽しいときに喜びや自惚れを抑制する為でした。
ところが、私たちが死を考えなければならないのは、もっと大きな理由があります。
それは、死は人生最大の問題だからです。

もし、死なないのなら、死を忘れて楽しく生きていればいいのかもしれませんが、死は確実な現実なのです。
現実から目を背けていては、大変なことになります。

災害対策であれば、最悪の事態を想定して、それでも問題が起きないように対策を立てます。
津波なら、最悪の場合20mの高さがあると想定して、20mの防波堤を作ります。
最悪20mだけど、10mの防波堤を作ると、最悪の場合、防ぎようがありません。

自己啓発などでも、最悪の事態を想定して、そこから対策を考えると、結局いい結果になると教えられています。
では、人生で最悪の事態は何かというと、そんなに幾つもありません。
誰にとっても最悪な事態は、死ぬことではないでしょうか。

しかも、最悪の津波が来るのは100回に1回の1%くらいの確率かもしれませんが、死ぬのは100%確実です。
津波は来なくても死ぬのです。
しかも死ねば二度と生き返ることはできません。取り返しがつかないのです。
その確実にやってくる人生最悪の事態から目を背けていても、時間の問題で最悪の事態は訪れます。

そこで仏教では、死という現実をありのままに見つめ、それを解決することを教えられているのです。
それは、死を自覚したほうが、充実した生き方ができるという程度ではありません。
死の問題を解決して変わらない幸せになることを教えられているのが仏教なのです。

では、どうすれば死の大問題を解決して、変わらない幸福になれるのかということは、小冊子とメール講座にまとめておきましたので、今すぐ見ておいてください。

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