「現代人の仏教教養講座」

仏教の教えと生きる意味を分かりやすく
体系的に学べる仏教の総合サイト

日本仏教学院ロゴ 日本仏教学院ロゴ

生きる意味を、知ろう。

メメント・モリとは?「死を想え」の本当の意味を哲学と仏教から解説

「メメント・モリ」というと、モンスターストライク(モンスト)にも出てきますし、
ガンダムの兵器にもあります。
スマホのRPG『メメントモリ』もあります。
ミスチルのヒット曲『花』のサブタイトルにもなっていますし、
Mrs. GREEN APPLEの大森元貴には、同じ題名のソロ曲もあります。
テレビや映画、カフェなどのお店の名前にもよく出てきます。

「メメント・モリ(メメントモリ)」とは、
ラテン語で「死を想え」「必ず死ぬことを忘れるな」という意味です。
最近では、
「死を意識することで、今を大切に生きる」
という意味で紹介されることもよくあります。

ところが、メメント・モリの本当の意味は、それだけではありません。
これが分からなければ、人生のクオリティが大きく下がってしまうのですが、
メメント・モリとは、本当はどんな意味なのでしょうか?
そして、どうすれば私たちの人生に活かすことができるのでしょうか?

メメント・モリ(memento mori)の意味

「メメント・モリ」(memento mori)は
中世のキリスト教でよく言われたことですが、
誰か1人の言葉ではなく、西洋に古くから伝わるラテン語の格言です。

ラテン語の「メメント」は、「覚えておけ」という命令の形で、
英語でいうと、メモリーとかメモライズということで、
心に留めるとか忘れない、ということです。
ラテン語の「モリ」は、「死ぬ」という動詞で、
英語の「モータル」(死すべき)と同じ語源の言葉です。

ちなみにラテン語に近いサンスクリット語でいうと、
死ぬという意味の「ムリ(√mṛ)」という動詞です。
その過去分詞に否定のアをつけると、
有名な不死の霊薬「アムリタ(amṛta)」になります。
他にもムリから「マーラ(māra)」という死の悪魔が生まれ、
「魔羅」と漢訳されて、日本語でも「魔」という言葉で使われています。

このようにヨーロッパからインド、さらには中国、日本と
広い範囲に広まっている言葉ですが、
「モリ」は死ぬという意味ですので、
「メメント・モリ」とは、死を想え、必ず死ぬことを忘れるなという意味です。

スティーブ・ジョブズの言葉

スティーブ・ジョブズ
スティーブ・ジョブズ
(1955−2011)
(写真:Matthew Yohe,
Wikimedia Commons, CC BY 3.0)

これは、Appleの創業者、スティーブ・ジョブズ(1955−2011)が、
スタンフォード大学の卒業式での講演で、
卒業生達に言っていることです。


人生を左右する分かれ道を選ぶ時、一番頼りになるのは、
いつかは死ぬ身だと知っていることだと思います。
ほとんどのことが──周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖など──そういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです。

この講演は、以下のビデオで見ることができます。

ビートたけしの言葉

ビートたけし
ビートたけし
(1947−)
(写真:Dick Thomas Johnson,
Wikimedia Commons, CC BY 2.0)

日本でも、ビートたけし(1947−)は、こう言います。


自分の死をしっかり腹におさめておけば、人生でそう大きく道を誤ることはないはずだ。
それだけは、引き籠もりのニートだってIT長者だって、この世に生きているあらゆる人間にとって意味がある。
誰もが結局は死ぬんだから。
メメント・モリは道徳の土台なのだ。

では、どうしてメメント・モリと言われるようになったのでしょうか?

メメント・モリの歴史

もともとメメント・モリは、古代ギリシアにさかのぼります。
プラトン(前427−前347)は『パイドン』に、
「本当の哲学者は、死と死にゆくことを追求する」
と言っています。

その後、古代ローマでも、セネカ(前4?−65)は、
繰り返し死を想えと言っています。
また、エピクテトス(55?−135?)の『語録』によれば、
勝利のさなかに、あなたは死すべき存在だと思い出させる人のように、
愛する人にキスした時、その喜びを抑制するため、
相手は死すべき存在だと思い出すべきであると、生徒に語っています。

また、初期のキリスト教徒で、
「不条理なるが故に我信ず」という言葉で有名なテルトゥリアヌス(160?−220?)は、
戦争の凱旋行進で、勝利をおさめた将軍は、誰かに背後から冠を持たせて、
「あなたは死すべき存在であることを忘れないでください」(Hominem te memento)
とささやかせた、と言っています。
ささやいたのは、将軍の頭上に冠をかざす奴隷だったとも伝えられています。

これが中世になると、キリスト教で利用するために、強く強調されるようになりました。
それというのも、この世の楽しみや贅沢、成果よりも、
死後の神の国に意識を向けさせるためです。
そのため、ほとんどのメメント・モリの関係の芸術作品は、キリスト教関係です。

トランジといわれる墓標

トランジ
ルネ・ド・シャロンのトランジ

中でも一番明白なのは、14世紀後半からヨーロッパの貴族や枢機卿など富裕層に流行した墓標です。
朽ちた遺体の像などが使われ、「トランジ」と呼ばれました。
なぜそんなものが墓標にされたのかというと、見た人に、この世の富の虚しさを思い出させるためです。
その後、ピューリタンの墓石には、羽の生えた頭蓋骨の図柄が用いられました。

また、スペインをはじめ、ヨーロッパ各地の墓地の入り口には、
「どくろマーク」(頭蓋骨と交差した大腿骨)が表示されるようになりました。

スカル・アンド・クロスボーンズ
どくろマーク

これはメメント・モリと目的は違いますが、
やがて脅しのためのジョリーロジャーといわれる
海賊旗にもなります。

現代では、毒物を始めとする
危険物の警告のためのマークに使われています。
ヨーロッパの墓地が、
いやにおどろおどろしい雰囲気を醸し出しているのは、
実は「メメント・モリ」ということだったのです。

骨の礼拝堂

セドレツ納骨堂
セドレツ納骨堂

また、教会の中には、
ポルトガルのエヴォラという所にある骨の礼拝堂や、
ローマのカプシン会の教会の地下室、
チェコのセドレツの全聖人教会の納骨堂のように、
壁一面に人間の骨が埋め込まれていることがあります。
内装が、本物の人骨で飾られているのです。
エヴォラの骨の礼拝堂などは、
「むき出しで眠る我々・骨は、あなたを待っている」と記されています。

死の舞踏・死の勝利(凱旋)

また、14世紀から15世紀に、
「死の舞踏」(フランス語でダンス・マカブル)という絵画や彫刻が大流行しました。

当時、百年戦争と、
ヨーロッパの人口が3割減ったペストの大流行で、
次々と人が死んでいきました。
生きている時は、王様でも農民でも、金持ちでも、貧乏でも、
最後は同じように死に帰します。
そんな死の恐怖に怯えて、人々が半狂乱で踊るというテーマで、
たくさんの絵画や彫刻が作られたのです。

死の舞踏
『死の舞踏』15世紀

「死の舞踏」はさらに死の勝利というコンセプトになっていきます。

これは、単に骸骨と踊って死の世界へ向かって行くだけでなく、
骸骨が襲いかかってきて、死が勝利するというものです。

代表的なのは、16世紀の画家、ブリューゲル(1525?−1569)の『死の勝利』です。
火山や船の沈没、様々な処刑など、
様々な死に方で死が遠くから迫ってくる有様が描かれています。

このように、メメント・モリの死生観は、
『死の舞踏』『死の勝利』などの絵画として描かれるようになったのでした。

死生観に関する思想については、こちらの記事で詳しく書いているのでご覧ください。
➾死生観とは?意味と哲学や宗教(神道と仏教)での違い

時計

時計も、命の時間が1分ごとに短くなっていく
メメント・モリを意識させるものでした。
公共の場所にある時計には、
「もしかしたらこれが最後」とか
「すべての時が人を傷つけ、最後の時が命を奪う」
と刻印されていました。
これは今では「光陰矢のごとし」と刻印されることがよくあります。

プラハの天文時計
プラハの天文時計

一定の時間になると、機械仕掛けの人形が出てきて時計を打つからくり時計でも、
15世紀に制作が始まったチェコのプラハの世界最古の天文時計や、
16世紀に制作されたフランスのストラスブール大聖堂の世界最大の天文時計などは、
死神が出てきて時を打つという趣向になっています。

16世紀のスコットランド女王メアリー(1542−1587)の時計には、
銀の頭蓋骨が彫られ、古代ローマの詩人ホラティウス(前65−前8)の詩の一文
「青白い死は、貧乏人のあばら屋も、王族の塔も、同じテンポで時を刻む」
と刻まれていました。

ヴァニタスといわれる静物画

ピーテル・クラース・ヴァニタス
ピーテル・クラース『ヴァニタス』
(1630年)

17世紀頃になると、静物画に「ヴァニタス」といわれる分野ができました。
「ヴァニタス」とは、ラテン語で「虚しさ」という意味で、
虚栄のはかなさ、人生のはかなさを意味しています。
ヴァニタスでは、それを象徴するものとして、頭蓋骨がよく描かれています。
他にも、花びらの散った花、腐っていく果物、砂時計、シャボン玉、煙とパイプなどが、
象徴的に描き込まれています。

フィリップ・ド・シャンパーニュ・ヴァニタス
フィリップ・ド・シャンパーニュ
『ヴァニタス』(1671年)

当時、宗教画に比べて格下と思われていた静物画ですが、
宗教的な要素を取り入れて、権威性を高めるためだったともいわれます。


メメント・モリと「今日を摘め」(カルペ・ディエム)

このように、中世のヨーロッパで広まったメメント・モリは、
この世の楽しみや富の虚しさを思い出させるものでした。

それが今では、メメント・モリは、
「死を意識することで、今を大切に生きる」
ことだと説明されるようになりました。
「死を想え、今日を生きよ」
と、対にして言われることもあります。

この「今日を生きよ」にあたるのが、
ラテン語の「カルペ・ディエム」(carpe diem)で、
「今日を摘め」という意味です。
これは、メアリー女王の時計の一文と同じく、ホラティウスの詩の一節です。
自分や相手があと何年生きられるのか、
占星術で知ろうとする女性に、こう歌っています。

賢くありなさい。酒をこし、短い一生に合わせて、長い望みは切り詰めなさい。
こうして話している間にも、ねたみ深い時は逃げ去ってしまう。
今日という日を摘みなさい。
明日のことは、できるだけ当てにしないで。
(出典:ホラティウス『歌章』第1巻第11歌)

「今日を摘め」とは、今日という日を、花を摘むように楽しみなさい、ということです。
メアリー女王の時計に刻まれていたほうの詩も、
春が来たから、今こそ花で頭を飾ろうと歌い、
「青白い死は……同じテンポで時を刻む」のすぐ後に、
「人生の短さは、長い望みを抱くことを許さない」
と続いています。

「死を想ったら、今のうちに楽しもう」という考えは、
もっと古くからあります。
ギリシアの歴史家ヘロドトス(前484?−前425?)は『歴史』に、
エジプトのお金持ちの宴会のことを書いています。
食事が終わると、本物そっくりに木で作った死体の像を棺に入れて持って回り、
一人一人に見せて、こう言うそうです。
「これを見て、飲んで楽しみなさい。
死ねばあなたもこうなるのだから
」

ローマの作家ペトロニウス(27?−66)の小説『サテュリコン』にも、
大金持ちの宴会に銀の骸骨が運ばれてきて、主人がこう言う場面があります。
「冥界の神に連れ去られたら、みんなこうなる。
だから生きよう、楽しめるうちに
」

どれも、死を想って「だから今を楽しもう」というメメント・モリです。
トランジやヴァニタスが、この世の楽しみの虚しさを思い出させたのとは、
反対の方向性です。

現代でよく言われる「今を大切に生きる」は、もちろん、
「ただ飲んで楽しめ」ということではありません。
スティーブ・ジョブズが言っていたように、
いつかは死ぬ身だと知っていれば、周囲の期待やプライドに振り回されず、
本当に大事なことを選べます。
限りある時間を、どうでもいいことで無駄にしなくなります。
ビートたけしの言うように、大きく道を誤ることもないでしょう。
これは、その通りだと思います。

ただ、飲んで楽しむのも、本当に大事なことを選ぶのも、
死を想って目を向けているのは、死ぬまでの時間の使い方です。
そこで想われている死は、残された時間の終わりです。
どれだけ今を大切に生きても、
その時間が終われば、死は同じようにやってきます。
死ぬまでの時間の使い方をいくら工夫しても、
死の問題そのものについては、少しも解決になっていません。

仏教では、死を見つめなさいと教えられていますが、
それは、死を自覚したほうが、充実した生き方ができるという程度ではありません。
死の問題を解決して変わらない幸せになることを教えられているのが仏教です。
ですから仏教で死を想うのは、
死ぬまでの時間の生き方を変えるためではなく、
死の問題を解決して、死が来ても崩れない本当の幸せになるためです。

ところが私たちは、なかなか死そのものを見つめようとしません。
それは、なぜなのでしょうか?

なぜメメント・モリなのか─哲学者の答え

それは、私たちが、自分が死ぬとは本当には思っていないからです。
メメント・モリというのは、ラテン語で、「死を忘れるな」ということです。
これを忘れていると、後で取り返しのつかないことになってしまい、
後悔することになるのです。
しかも忘れてはいけないのは、他人の死でなく、自分の死です。

死ぬことを忘れている人へ

まず前提として、忘れていない人に「忘れるな」とは言われません。
煙草を吸わない人に「煙草を吸うな」とは言われませんし、
静かな人に「静かにしろ」とは言われません。
わざわざ「メメント・モリ」(死ぬことを忘れるな)と言われ、
格言にまでなっているのは、
私たちは自分が必ず死ぬことを忘れているからです。

人間はいかに、簡単に自分が死ぬということを忘れるかということは、
哲学者も指摘するところです。
ショーペンハウアー(1788−1860)は、このように言っています。

ショーペンハウアーショーペン
ハウアー

現代人は自分自身の死を本当には信じていない。
(ショーペンハウアー)

ハイデッガー
ハイデッガー(1889−1976)
(写真:Willy Pragher,
Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
(加工あり))

ハイデッガー(1889−1976)は、
「すべての人間は死すべきものである」
という命題が常に、
「しかし私はそうではない」
という暗黙の留保を含んでいると観察しています。


また、心理学者のフロイト(1856−1939)も、こう言っています。

フロイトフロイト

無意識のうちに、誰しも自分自身の死があることを信じていない。
(フロイト)

ところがこのことは、仏教ではすでに2600年前、ブッダが説かれています。

死に対する鈍感さを教えられた四馬(しば)の譬喩(ひゆ)

ブッダが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時、
私たちがいつ死ぬかも分からないのに、そのことに全く驚かない鈍感さを、
4通りの馬にたとえて教えられています。
これが、『別訳雑阿含経(ぞうあごんきょう)』に説かれる「四馬(しば)の譬喩(ひゆ)」です。

四馬というのは、4通りの馬ですが、この4通りです。

四馬の譬喩
  1. 鞭影(べんえい)を見て驚く馬
  2. 鞭(むち)、毛に触れて驚く馬
  3. 鞭(むち)、肉に当たって驚く馬
  4. 鞭(むち)、骨にこたえて驚く馬

1.鞭影を見て驚く馬

まず1番目の「鞭影を見て驚く馬」とは、
馬に乗った人が振るうムチの影を見ただけで、
あれが当たったら痛いと思って、走り出す馬です。
大変な駿馬(しゅんめ)です。

人間でいえば、花が散るのを見て、
自分もやがてあのように死んでいくのだと自分の死を思う人です。
または、火葬場から立ち上る煙を見て、
自分もやがてあのように死んでいかなければならないと、
自分のこととして受け止める人です。

2.鞭、毛に触れて驚く馬

2番目の「鞭、毛に触れて驚く馬」とは、
乗り手のムチが毛にかすっただけで、
「これは叩かれたら大変だ」
と思って走り出す馬です。
これも駿馬です。

人間でいえば、他人の葬式を見た時に、
やがて自分も葬式をされる時がくると、自分の無常(むじょう)に驚く人です。
また、テレビや新聞で人が死んだという事件を見たり聞いたりした時、
やがて自分も死ぬ時が来ると、自分に引き当てて聞く人です。

3.鞭、肉に当たって驚く馬

3番目の「鞭、肉に当たって驚く馬」とは、
ムチをふるわれて、体にバシッとあたって走り出す馬です。
これは普通の馬です。

人間でいいますと、隣の家が葬式を出したり、よく知っている人が死んだ時、
「えっ?あの人、もう亡くなったの?」
とびっくりして、自分も死ぬ時が来ると、自分の死に驚く人です。
または、交通事故を目撃するなど、目の前で人が亡くなったのを見て、
「自分もああやって死んでいくんだ」
とわが身の無常に驚く人です。

4.鞭、骨にこたえて驚く馬

4番目の「鞭、骨にこたえて驚く馬」とは、
1回ムチで打たれたくらいでは感じず、何回も何回も打たれて、
ついに肉がさけ、骨にあたって初めて走り出す馬です。
これは駄馬(だば)です。

人間でいいますと、肉身が死んで初めて
自分も死んでいかなければならないと驚く人です。

四馬の譬喩

この中で、あなたは何番目に入りそうですか?

実はブッダは、すべての人は、この4番目にも入らないと教えられています。

確かによく知っている人や、肉身が亡くなると、
悲しんだり、亡くなった人がかわいそうだと思うのですが、
それによって自分が死ぬことに驚いたりはしないのです。
悲しいのも一時的なことで、しばらくすれば、また元通りの生活に戻ってしまいます。
自分が死ぬとは毛頭思えないのが私たちの姿なのです。

それで西洋でも「メメント・モリ」と言われ、
ブッダも、無常を見つめなさい、死を自分のことと思いなさいと
繰り返し教えられているのです。

死に驚いた人はどこへ向かうのか

もし自分の死に驚いたら、その後はどうなるのでしょうか?
お経には、よその村で、男の人でも女の人でも、
病気で苦しんで、今にも死にそうになっていると聞いた人のことが、
こう説かれています。

是の語を聞き已(おわ)りて、世俗の法に於いて、深く厭悪(えんお)を知る。
厭悪(えんお)を以ての故に、至心(ししん)に善を修す。

(漢文:聞是語已,於世俗法,深知厭悪。以厭悪故,至心修善)

「是の語」とは、よその村の人が病気で死にそうになっている、という知らせのことです。
「聞き已(おわ)りて」とは、それを聞き終わって、ということです。
「世俗の法」とは、世の中のことです。
「深く厭悪(えんお)を知る」とは、深く厭(いと)う、ということです。

「厭悪(えんお)を以ての故に」とは、厭い嫌うために、ということです。
「至心(ししん)に善を修す」とは、まごころから善いことをする、ということです。

このように、他の人の死を「自分もやがて死ぬのだ」と受け止めた人は、
貴重な命の時間と引き換えに、
世の中のお金や財産、地位名誉を集めることを厭い、
心から善を修めるようになると説かれています。

死んでいく時には、お金も地位も名誉も、何1つ持っていくことはできません。
何も余命宣告を受けなくても、死は100%確実な未来です。
死が我が身のこととして知らされた人は、
世の中のことばかり求めてはいられなくなります。

エジプトの宴会では、死体の像を見せて、
「飲んで楽しみなさい」と言いました。
同じように死を想っても、世の中の楽しみに向かうのか、
世の中のことを厭うて善を修めるのか、向かう方向は正反対です。

では、なぜせっかく死を忘れて楽しく生きているのに、
死を忘れてはいけないのでしょうか?

なぜ死を忘れてはいけないの?

なぜ死を忘れてはいけないのか、「メメント・モリ」と言われるのかというと、
西洋では、楽しい時に喜びや自惚れを抑制するため、
あるいは、今日を楽しむためでした。

ところが、私たちが死を考えなければならないのには、
もっと大きな理由があります。
それは、死は人生最大の問題だからです。

もし、死なないのなら、死を忘れて楽しく生きていればいいのかもしれませんが、
死は確実な現実なのです。
現実から目を背けていては、大変なことになります。

災害対策であれば、最悪の事態を想定して、
それでも問題が起きないように対策を立てます。
津波なら、最悪の場合20mの高さがあると想定して、
20mの防波堤を作ります。
最悪20mだけど、10mの防波堤を作ると、
最悪の場合、防ぎようがありません。

自己啓発などでも、最悪の事態を想定して、そこから対策を考えると、
結局いい結果になると教えられています。

では、人生で最悪の事態は何かというと、そんなに幾つもありません。
誰にとっても最悪な事態は、死ぬことではないでしょうか。

しかも、最悪の津波が来るのは100回に1回の1%くらいの確率かもしれませんが、
死ぬのは100%確実です。
津波は来なくても死ぬのです。

しかも死ねば二度と生き返ることはできません。
取り返しがつかないのです。
その確実にやってくる人生最悪の事態から目を背けていても、
時間の問題で最悪の事態は訪れます。

そこで仏教では、死という現実をありのままに見つめ、
それを解決することを教えられています。

死の問題を解決して変わらない幸せに

死の問題を解決するといっても、死ななくなるのではありません。
これまでは、死を想えば今の楽しみが色あせるので、
死を忘れて生きるか、せめて残りの時間を惜しんで楽しむしかありませんでした。
どちらも、死が来れば終わってしまう幸せです。

仏教に説かれている死の問題の解決は、
死が来ても崩れない、変わらない幸せです。
その身になれば、死が来てもその幸せは色あせません。
「人間に生まれてよかった」と心から大満足できます。
しかもその幸せには、どんな人でも、
生きている今、なることができます。

では、どうすれば死の問題を解決して、変わらない幸せになれるのか、
ということについては、仏教の真髄なので、
メール講座と、電子書籍にまとめておきましたので、
今すぐ見ておいてください。

➾目次(記事一覧)へ

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。