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徳を積むとは?意味と方法・徳を積むとどうなるのか

「徳を積むって何?」
「徳を積むとどうなる」

「徳を積むといい」と聞いて、
何か善いことをしてみようと思ったことはないでしょうか。

ですが、徳は目に見えません。
本当に積めているのか、積むと何が変わるのか、
よく分からないという人も多いと思います。

世間では、徳を積むと、
目に見えない良いエネルギーがたまって、
巡り巡って自分に返ってくる、とか
運が良くなる、などといわれます。

ところが仏教では、昔から「功徳を積む」と教えられ、
徳を積むことの、もっと確かな意味が説かれています。
お釈迦さまご自身が、人々に徳を積むよう勧められた理由も、
お経に明らかにされています。

では、徳を積むとは本当はどういうことで、
お釈迦さまは、何のために徳を積むようにと説かれたのでしょうか?

徳を積むとは?意味と由来

徳を積むとは、善い行いを重ねていくことです。
では、その「徳」とは、どんなものなのでしょうか。

徳とは

徳とは、一般に、善い行いを重ねて身についた立派な人柄や、
周りの人を自然と引きつける力のことです。
「あの人には人徳がある」「徳の高い人」というのは、
この意味でいわれています。

徳のある人は、自分のことよりも相手のことを考え、
人の喜びを、自分のことのように喜びます。
そのような人柄は、1日でできるものではありません。
毎日の善い行いが積み重なって、身についていくものです。
「徳を積む」といわれるのは、そのためです。

功徳とは?徳との違い

この徳を、仏教では「功徳(くどく)」といいます。
辞書には、このように書かれています。

く‐どく【功徳】
仏語。
①現在、また未来に幸福をもたらすよい行ない。
神仏の果報をうけられるような善行。
すぐれた果を招く力を徳としてもっている善の行為。
②神仏のめぐみ、ごりやく。善行をつんだ報い。

功徳とは、今と未来に幸せをもたらす善い行いであり、
そのポテンシャルエネルギーであり、
さらにその善い行いによって受ける報いまで功徳といいます。
「功徳を積む」といえば、
幸せにする働きのある善い行いをすることをいいます。

徳と功徳の違いでいえば、
徳は、善い行いによって身についた人柄に、
功徳は、善い行いが生み出す幸せに重きがあります。
「徳を積む」という時は、この両方の意味で使われています。

陰徳と陽徳

徳には、陰徳(いんとく)と陽徳(ようとく)があるといわれます。
陰徳とは、人に知られないところで行う善のことです。
陽徳とは、人に知られて、感謝されたり、
褒められたりする善のことです。
世間では、人知れず積む陰徳のほうが尊いといわれます。

これを
「あれをみよ 深山(みやま)の桜 咲きにけり
    まごころつくせ 人知らずとも
」
といわれます。

深山(みやま)とは深い山ということですから誰も訪れません。
そこに咲く桜は、みんなに見られるために咲いているのではなく、
ただ咲いています。

桜はもっと美しく咲こうとは思わないでしょうが、
私たちは、体面と体裁がありますので、
陰ではやらなくても、人前では善人を気取って見せます。
ですが、周りからどんなふうに見えるかよりも、
誰も見ていない所で真心を尽くせ。
誰も見ていないなればこそ、
そういう所を大事にするのが美しい、
ということです。

では、世間では、どのようにして徳を積み、
徳を積むとどうなるといわれているのでしょうか。

世間でいわれる徳を積む方法と効果

昔、バイエルンの王様が、ある夜、
人知れず道の真ん中に大きな石を置きました。
夜が明けると、1人の農夫が思い荷車を引いてきましたが、
大きな石を見て見ぬ振りをして、よけて通りました。

2番目に、馬に乗った男がきました。
不意にあった大きな石にぶつかり、落馬しました。
「道路は誰が管理しているんだ」
と烈火の如く怒って、あとで役人に文句を言おうと去って行きました。

3番目には1人の兵士が意気揚々とやってきて、
石にぶつかり、怪我をします。
兵士はカンカンに怒って通り過ぎていきます。
その後も、たくさんの人が道の大石につまずいて
大なり小なり迷惑を被りましたが、
誰一人、退かそうとする人はいませんでした。

1ヶ月後、王様がお触れを出して、
道端の大石の周りにみんなを集めます。
不可解な布令に主な市民はみんな集まりました。
すると国王が「私は1ヶ月前にこの大石を置いたが、
それからというもの、何百人もの人がこの道を通ったにもかかわらず、
誰一人取り除こうとしなかった。
これは私の不徳のいたすところである。
誰も取り除かないからには自分で取り除くしかない
」
国王自ら石をどかすと下から「この石を片付けた者に与える」
と書いた袋が出てきて、中には美しい指輪と金貨20枚が入っていました。

それをみんなに見せながら、王は
「少しの労力を惜しんだために、この宝を得ることができなかったのだ」
と言いました。
人々はみんな頭をかいて敬服していましたが、
その後バイエルンの人々は公徳心が強くなったといわれています。
誰も見ていなかったとしても、
善い行いをすれば幸せに恵まれる、ということです。

徳を積む方法の具体例

徳を積む方法として、よく挙げられるのは、
毎日の中でできる、小さな善い行いです。

徳を積む行動の例
  1. 笑顔であいさつをする
  2. 「ありがとう」と感謝を伝える
  3. 困っている人に手を貸す
  4. 電車やバスで席を譲る
  5. 落ちているゴミを拾う
  6. 人の悪口を言わない
  7. 親を大切にする
  8. 寄付やボランティアをする

どれも特別なことではありません。
ですが、共通しているのは「利他的な行い」です。
困っている人を助けたり、他の人を幸せにすることにより、
徳が身についていくということです。
まずはこのような誰にでもできる善い行いから、
見返りを求めずに続けていくことが、
徳を積むことなのです。

徳を積むとどうなる?

徳を積むとどうなるのかについては、
主に3つのことがいわれています。

1つは、巡り巡って自分に返ってくる、ということです。
「情けは人のためならず」といわれるように、
人にかけた情けは、やがて自分のもとに返ってきます。

中国の『淮南子(えなんじ)』という書物には、
「陰徳あれば陽報あり」とあります。
人知れず善い行いをする人には、
必ず目に見える善い報いがある、という意味です。

そこから、徳を積むと運が良くなる、ともいわれます。
まだ結果になっていない時には、
貯金のように目に見えない徳が貯まっているのです。

2つ目は、人もお金も集まってきます。
「目にみえぬ 徳散ずれば 財が沸く」
という歌があります。
「徳を散ずる」というのは、他人に親切にしたり、
約束を守ったり、徳を積むことです。
そうすると、みんなから信用されるので、
人が集まってきますし、お金も集まってきます。

3つ目は、人徳が高まります。
徳を積んでいると最初はいい人だと思われて、人から好かれます。
もっと徳を積んでいると、
目には見えないけれどもその人の人徳となるので、
みんなから大事にされるようになります。

さらにもっともっと徳を積んでいると、
周りから尊敬されるようになります。
徳を積むことによって、人徳が高まっていくのです。
それは盗まれたり、落としたりすることのない宝です。

しかもこれらは、人知れず積んだ陰徳ほど、大きく報われます。

徳を積むというのは大変善いことで幸せに恵まれます。
善いことを重ねている人は、周りから信頼されます。
困った時には、助けてくれる人が現れます。
善い行いが、自分に良いことを運んでくるのは確かです。

ですが、同時にハッキリしないことも出てきます。

目に見えない潜在的なエネルギーがたまるといっても、
それが何なのかは、よく分かりません。
現実には、善いことをしている人が報われず、
ズルい人がうまくいっているように見えることもあります。

それに、見返りを求めないのが徳だといいながら、
運が良くなることを期待して積むのなら、
それは見返りを求めていることにならないでしょうか。

人知れず善いことをしても、
つい誰かに気づいてほしい、褒めてほしい、
と思ってしまうのが私たちです。
これでは徳を積む意味がない、
と思う人がいるのも無理はありません。

では、仏教では、徳を積むことを、
どのように教えられているのでしょうか。

仏教が教える徳を積むことの本当の意味

仏教では、徳を積むとは、
自分の未来に、幸せの種をまくことです。
お釈迦さまは、『法句経』に、このように説かれています。

吉人(きちにん)は徳を行じ、相随(あいしたが)いて積み増す。
甘心(かんしん)にこれを為せば、福の応ずること自然(じねん)なり。

(漢文:吉人行徳,相随積増。甘心為之,福応自然)

「吉人(きちにん)は徳を行じ」とは、善い人が善い行いをする、ということです。
「相随いて積み増す」とは、善い行いを次々と重ねて、
積み増していく、ということです。

「甘心(かんしん)にこれを為せば」とは、それを喜んで行えば、
「福の応ずること自然(じねん)なり」とは、
幸せが、それに応じて自然とやってくる、ということです。

徳を積めば、幸せは自然とやってきます。
それは、誰かが運んでくれるからでも、
不思議な力が働くからでもありません。
まいた種が芽を出すように、
自分の行いが、自分の幸せを生み出すからです。

仏教では、私たちのする行いを「業(ごう)」と教えられています。
どんな行いも、それきりで終わることはありません。
目には見えない業力(ごうりき)という不滅の力になって、
「阿頼耶識(あらやしき)」という心の蔵に、残らず収められていきます。
それは決して消えることはありません。
やがて縁が来た時に、目に見える結果となって現れます。

世間でいわれる「目に見えないエネルギー」の正体は、
スピリチュアルな力ではなく、この業力です。

善い行いは善い結果を、悪い行いは悪い結果を生み出し、
自分のまいた種は、自分が刈り取ることになります。
これを「善因善果、悪因悪果、自因自果」といい、
仏教では因果の道理と教えられています。

そう聞くと、世間でいわれていることとの違いが見えてきます。
世間では、巡り巡って返ってくるといいますが、
仏教では、まいた種が、まいた本人に実ります。

『易経(えききょう)』では、子孫にまで余慶が及ぶといいますが、
仏教では、自分が子孫に対して縁になることはあっても、
自分の行いの結果は、自分自身に生じます。
これを「自業自得」といいます。

陰徳についても同じです。
人が見ていなくても、自分の行いは、
すべて自分の阿頼耶識に収まり、決して消えることがありません。
そして善い種をまけば善い結果、
悪い種をまけば悪い結果が寸分の狂いもなく必ず現れます。
陰徳が必ず報われるのは、そのためです。

徳を積んでも報われないと感じる時

それでも、善いことをしているのに、
なかなか報われないと感じる時があります。
そのことについて、お釈迦さまは、
同じ『法句経』に、こう説かれています。

貞祥(じょうしょう)も禍(わざわい)を見るは、其の善、未だ熟せざればなり。
其の善の熟するに至りて、必ず其の福を受く。

(漢文:貞祥見禍,其善,未熟。至其善熟,必受其福)

「貞祥(じょうしょう)」とは善人のことですから、
「貞祥(じょうしょう)も禍(わざわい)を見るは」とは、
善い人でも、禍に遭うことがある、ということです。
「其の善、未だ熟せざればなり」とは、
それは、その人のまいた善の種が、
まだ熟していないからだ、ということです。

「其の善の熟するに至りて、必ず其の福を受く」とは、
その善が熟した時には、必ずその幸せを受ける、ということです。

種をまいてから熟するまでには、時間がかかります。
それは縁が必要だからです。
結果は業力だけでも現れませんし、縁だけでも現れません。
業力が縁に触れた時に、目に見える結果となって現れるのです。
善いことをしても、すぐに報われないのは、
種が消えたからではなく、まだ縁が来ていないからです。

結果がなかなか出ない時は、
ちょうど預金をしているようなものです。
預け入れの期間が長いほど、利子は大きくなります。
そして縁が来た時に、まとめて返ってきます。

問題なのは、報われないと思ってくさってしまい、
種をまくのをやめてしまうことです。
結果が出ない時でも、貯金していると思って
徳を積んでいくことが大切です。

では、お釈迦さまは、どのように徳を積むように
教えられているのでしょうか。

お釈迦さまが説かれた徳の積み方

ある時、ヴァイシャーリーという町に住む
アンバパーリー(菴婆婆梨(あんばばり))という女性が、
お釈迦さまとお弟子たちを食事に招いた後、
町で一番すばらしいという自分の庭園を寄進します。
お釈迦さまは、その庭園を受けられて、
このように説かれています。

塔を起(た)て精舎(しょうじゃ)を立て、園果(おんか)もて清涼(しょうりょう)を施し、
橋船(きょうせん)もて以て人を渡し、曠野(こうや)に水草を施し、
及以(およ)び堂閣(どうかく)を施さば、其の福、日夜に増す。
戒具(そな)わりて清浄なる者は、彼必ず善方(ぜんぽう)に到る。

(漢文:起塔立精舎,園果施清涼,橋船以渡人,曠野施水草,及以堂閣施,其福,日夜増。戒具清浄者,彼必到善方)

「塔を起て精舎を立て」とは、仏様をおまつりする塔や、
教えを聞く道場を建てることです。
「園果(おんか)もて清涼を施し」とは、木を植えて果樹の園をつくり、
人々に涼しい木陰を施すことです。
「橋船(きょうせん)もて以て人を渡し」とは、橋を架けたり船を出したりして、
人々を向こう岸へ渡すことです。
「曠野に水草を施し」とは、荒れ野を行く旅人に、
水や、牛馬のための草を施すことです。
「及以(およ)び堂閣(どうかく)を施さば」とは、
人々が休むための建物を施せば、ということです。

「其の福、日夜に増す」とは、そのような人の福は、
昼も夜も増えていく、ということです。

「戒具(そな)わりて清浄なる者は、彼必ず善方に到る」とは、
戒律を守って清らかに生きる人は、
必ず天上界などの善い世界に生まれる、ということです。

お釈迦さまが挙げられているのは、
どれも、人々の役に立つ善い行いです。
その木陰で人が休み、その橋を人が渡るたびに、
多くの人が助けられていきます。
世間でいわれる小さな善い行いも、
人のためになる行いであれば、どれも立派な徳になります。

仏教では、代表的な善として、
布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の
六波羅蜜(ろくはらみつ)が教えられています。

その最初にあるのが、人に施す布施です。
お金や物がなくても、笑顔や思いやりのある言葉かけなど、
無財の七施といわれる布施もあります。

ただし、施す時の心が大切です。
「してあげた」と恩に着せたり、
見返りを期待したりすると、
せっかくの善い行いも、濁ったものになってしまいます。
布施をする時には、施す人、受ける人、施す物を忘れるのがよいと言われ、
これを三輪空(さんりんくう)とか三輪空寂(さんりんくうじゃく)といい、
最も尊い布施だと教えられています。

人を幸せにすることが、そのまま自分の幸せになることを、
「自利利他」といいます。
徳を積むことは、人のためでありながら、
自分の幸せのもとを作ることでもあります。
自分の幸せと他人の幸せは同時であり、自利と利他は1つです。
施す人は損をしそうでいて、
実は一番の宝を得ているのが施す人です。

では、お釈迦さまは、なぜこのように、
人々に徳を積むように勧められたのでしょうか。

お釈迦さまが徳を積むよう説かれた理由

ある時、お釈迦さまが、大勢のお弟子を連れて、
飢饉(ききん)のさなかにある国に行かれます。
その国の有力な長者は、ジャイナ教の修行者を熱心に信じています。
その修行者は、お釈迦さまが答えに詰まるような問いを考え、
長者に持たせて、お釈迦さまのもとへ行かせます。

「あなたは、すべての人に利益を与え、
安らかにさせると聞いています。
それなのに、飢饉の国に大勢の弟子を連れてきて、
人々の食べ物を減らすのは、
費やすばかりで、何の益もないではありませんか
」

施しを勧めても、施した人の蓄えが減るだけで、
損ではないか、という問いです。
これは、徳を積んでも意味がないのではないか、
という疑問と同じです。

するとお釈迦さまは、こう答えられています。

吾、九十一劫(くじゅういっこう)より以来(このかた)、
未だ人に福を為すことを勧めて、損じて益無きを聞かず。
吾聞く、尊貴(そんき)富楽(ふらく)は、本、布施より起こると。
未だ唐捐(とうえん)に費やして報いざること有らざるなり。

(漢文:吾従九十一劫以来,未聞勧人為福,損而無益也。吾聞,尊貴富楽,本起布施。未有唐捐費而不報也)

「吾、九十一劫より以来」とは、
91劫という、気の遠くなるような昔から今まで、ということです。
劫とは、計り知れないほど長い時間のことです。
「未だ人に福を為すことを勧めて、損じて益無きを聞かず」とは、
人に善を勧めて、その人が損をしただけだった、
ということは聞いたことがない、ということです。

「尊貴(そんき)富楽(ふらく)は、本、布施より起こる」とは、
身分の高さも、豊かさも、楽しみも、
もとは布施から起きてくる、ということです。

「未だ唐捐(とうえん)に費やして報いざること有らざるなり」とは、
施したものが無駄になって、報われなかったことは、
一度もない、ということです。

さらにお釈迦さまは、財産について、
このように説かれています。

財に八危(はっき)有り、損じて益無し。何をか謂いて八と為す。
一には官の没(もっ)する所と為る。
二には盗賊の劫奪(ごうだつ)。
三には火起こりて覚えず。
四には水の没溺(もつでき)する所。
五には怨家(おんけ)債主(さいしゅ)に、横(よこしま)に奪取せらる。
六には田農修まらず。
七には賈作(こさ)して便利を知らず。
八には悪子の博掩(ばくえん)、用度(ようど)に道無し。
是の如きの八事は、至って危うくして保ち難し。
八禍の当(まさ)に至らんとする、力の制する所に非ず。
是の故に如来、此の因縁を以て、人に布施を勧め、福田(ふくでん)に安置せしむ。
深堅(じんけん)にして動き難く、水火盗賊も、復(ま)た害することを得ず。

(漢文:財有八危,損而無益。何謂為八。一者為官所没。二者盗賊劫奪。三者火起不覚。四者水所没溺。五者怨家債主,横見奪取。六者田農不修。七者賈作不知便利。八者悪子博掩,用度無道。如是八事,至危難保。八禍当至,非力所制。是故如来,以此因縁,勧人布施,安置福田。深堅難動,水火盗賊,不復得害)

「財に八危(はっき)有り、損じて益無し」とは、
財産には8つの危険があって、失われてしまえば何の益もない、
ということです。
その8つとは、
権力者に取り上げられること、
盗賊に奪われること、
気づかぬうちに火事で焼けること、
洪水で流されること、
恨みを持つ者や貸し主に、理不尽に奪われること、
田畑が実らないこと、
商売で利益の出し方が分からないこと、
どら息子が博打や浪費で使い果たすこと、です。

「是の如きの八事は、至って危うくして保ち難し」とは、
この8つは、どれもとても危うく、
財産を保ち続けるのは難しい、ということです。

「八禍の当に至らんとする、力の制する所に非ず」とは、
この8つの禍がやってくると、
自分の力ではどうすることもできない、ということです。

「是の故に如来、此の因縁を以て、人に布施を勧め、福田に安置せしむ」とは、
だから仏は、このわけで、人々に布施を勧め、
福田に預けさせるのだ、ということです。
福田とは、種をまけば作物が実る田んぼのように、
施せば福が生まれるところのことです。

「深堅(じんけん)にして動き難く、水火盗賊も、復た害することを得ず」とは、
そこに預けたものは、深く堅く揺るがず、
水も火も盗賊も、損なうことはできない、ということです。

お金や財産は、どれだけ蓄えても、
いつ手元を離れていくか分かりません。
ところが、施して積んだ徳は、誰にも奪われず、
自分から離れることもありません。

そして、もちろんお釈迦さまの教えは、そこで終わりません。
先ほどのアンバパーリーに、お釈迦さまは、
この後、順を追って教えを説かれています。

まず布施を説き、次に戒を説き、
そうした善によって天上界に生まれることを説かれます。
これを施論・戒論・生天論といいます。

そのうえで、欲には大きな禍があることと、
迷いを離れることが最も尊いことを説き、
最後に、苦しみとその原因、苦しみがなくなった境地と、そこへ至る道という、
4つの真理である「四聖諦(ししょうたい)」を説かれています。

アンバパーリーは、その場で真実を見る心の眼を開き、
仏教に帰依したと『長阿含経』に説かれています。

徳を積むことは、それで終わりではなく、
その先にある、本当の幸せへの入り口です。
お釈迦さまが徳を積むよう教えられたのは、
すべての人を、本当の幸せに導くためです。

お釈迦さまが導こうとされた本当の幸せ

お釈迦さまが導こうとされている本当の幸せは、
どんなことがあっても揺るがず、
いつまでも変わることのない幸せです。
それは徳を積むことによってなれるのではありませんが、
その幸せに生きている時になれる道を
お釈迦さまは明らかにされています。

では、お釈迦さまが導こうとされた本当の幸せとはどんなもので、
どうすればその幸せになれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。