大蔵経とは?一切経との違いと大正新脩大蔵経の系統をわかりやすく
「大蔵経と一切経は、何が違うの?」
「大正新脩大蔵経は、どういう系統の大蔵経なの?」
仏教を学び始めると、
「大蔵経」や「一切経」という言葉に出会います。
歴史の教科書には「高麗版大蔵経」が出てきますし、
仏教の本や論文には、「大正新脩大蔵経」からの引用が、
「T」で始まる番号付きで並んでいます。
名前はよく目にしても、全体の姿はつかみにくいものです。
世間では、大蔵経は、膨大なお経を集めた仏典の全集で、
研究者や寺院が守り伝えてきた文化財だと思われています。
確かにその通りですが、実はその大蔵経の中で、
お釈迦さまご自身が、説かれた教えを
「手の中の木の葉」にたとえられています。
そこに、七千余巻のお経が説かれた
本当の目的が示されています。
では、その大蔵経に説かれたたとえ話とはどのようなもので、
お経が説かれた本当の目的とは、一体何なのでしょうか。
大蔵経(一切経)とは
「大蔵経」とは、
お釈迦さまの説かれた教えを記したお経をはじめ、
仏典をすべて集めたもののことです。
「一切経」ともいいます。
現代風にいえば、お経の全集です。
「大蔵」とは、大きな蔵のことです。
仏の説かれた大切な教えが、
一つ残らず収められた宝の蔵なので、
「大蔵経」と呼ばれます。
大蔵経の中心は、経・律・論の3つで、
これを「三蔵」といいます。
- 経蔵:お釈迦さまの教えを記したお経
- 律蔵:出家した弟子の守る規則
- 論蔵:弟子がお経の内容を整理し解説したもの
この中で、論蔵については、小乗と大乗で少し違いがあります。
小乗で論蔵とは、三蔵が確定した時に論蔵に入った書物で、
サンスクリット語では「アビダルマ」といいます。
大乗の論書の場合は、サンスクリット語は「シャーストラ」です。

天親菩薩
例えば天親菩薩(400-480)のような同じ人が書いても、
小乗の論書である『倶舎論』ならアビダルマ、
大乗の『唯識二十論』ならシャーストラです。
どちらも漢訳で論と訳され、
中国でも色々な大乗の論書が増えています。
この三蔵のすべてに通じた僧のことを、
三蔵法師といいます。
大蔵経には、この三蔵に加えて、
中国や日本の高僧が著した注釈書や、
仏教の歴史書なども収められています。
大蔵経は、伝わった言語によって、大きく3つに分かれます。
中国や日本で読まれてきた漢訳の大蔵経、
チベット語に訳されたチベット大蔵経、
スリランカなどに伝わるパーリ語の三蔵で、
パーリ三蔵の日本語訳が南伝大蔵経です。
ですが普通、大蔵経といえば、漢訳の大蔵経を指します。
一切経と大蔵経の違い
一切経と大蔵経は、呼び方が違うだけで、
指しているものは同じです。
「一切」はすべてという意味で、
すべてのお経を集めたものなので、一切経といわれます。
お経の総称です。
日本では、本の名前には大蔵経、
寺院に伝わる写経や行事には一切経という
呼び方が使われることが多いようです。
その分量は、一切経七千余巻といわれます。
一日に一巻ずつ読んでも、20年近くかかる計算です。
それほど膨大なお経は、
どのようにして一つにまとめられてきたのでしょうか?
大蔵経の歴史と系統
大蔵経の歴史は、お経を手で書き写した写本の時代と、
木の板に彫って刷った版本の時代に分かれます。
写本の時代と経典目録
仏教は、紀元前5〜6世紀にお釈迦さまが説かれたものです。
その教えをまとめて口伝で伝えたのがお経です。
やがて紀元前後に文字に書かれたといわれています。
それが1世紀頃に中国へ伝わるようになり、
それから1000年近くの間、
お経はサンスクリット語などのインドの言葉から漢語に翻訳されては、
人の手で書き写されてきました。
訳されたお経が増えてくると、
中国では伝統的に本の目録を作る文化があるため、
経典も目録が作られます。
- 4世紀末:道安『綜理衆経目録』
- 6世紀初め:僧祐『出三蔵記集』
- 730年:智昇『開元釈教録』

道安(312-385)
道安(312-385)の『綜理衆経目録』は、
訳した人や時代を調べて整理した、
目録の始まりといわれるものです。
これは失われましたが、その内容は、
僧祐(445-518)の『出三蔵記集』に受け継がれました。
現在は、これが最古の経録であり、訳経者の伝記も伝えています。
ここから『綜理衆経目録』が復元できます。
そして唐の智昇(生没年不詳)が730年に
『開元釈教録』という経録を編集します。
これは大変優れていたため、後の経録の基礎になり、
後に作られる大蔵経の基準にもなりました。
この『開元釈教録』に記録されたお経の数は7,046巻で、
そのうち現存するお経は5,048巻でした。
このことから、一切経七千余巻とか、
一切経五千余巻と言われるのかもしれません。
印刷の始まりは北宋の開宝蔵
宋の時代に、いよいよ木版印刷が始まります。
それまでお経は、手で書き写すか、石に刻むかでした。
手で紙に書き写されたものは、劣化したり虫に食われたりして
また書き写さなければならなくなったり、
戦火で焼けたり、皇帝の廃仏で燃やされたりします。
そこで二度と失われないように、随の時代から、
お経が石に刻まれ始めます。
これは確かに失われませんが、重すぎて動かせないという欠点があります。
この手書きと石経の良いところを兼ね備えたのが、
木版印刷です。
一度版木が完成すれば、神速で繰り返し大量印刷ができます。

太祖・趙匡胤
そこで宋の太祖(927-976)の命令で、
大蔵経を木の板に彫って印刷する、
国の大事業が始まりました。
なぜ国がそんなことをするのかというと、
当時はお経に不思議な力があり、
国を護ると信じられていました。
そこで、お経の全集を保持して、災害を鎮めたり、
外敵を破ったり、国を護ってもらおうと思ったのです。
開宝4年(971年)に、
蜀と呼ばれた今の四川省で彫られたので、
年号から開宝蔵とも、地名から蜀版とも呼ばれます。
これが、世界で最初に印刷された大蔵経です。
写本と石経の時代から、版本の時代が幕を開けました。
開宝蔵は『開元釈教録』に基づいて作られ、
刷られた大蔵経は、高麗や日本など、
周りの国々にも贈られました。
ここから、大蔵経は国の内外で
繰り返し次々に作られていきます。
漢訳大蔵経の2つの流れ
開宝蔵の後に作られた大蔵経は、
大きく分けると、2つの流れになります。
- 北の流れ:開宝蔵 → 高麗版
- 南の流れ:福州版・思渓蔵 → 元版 → 明版 → 黄檗版
1つは、北宋が作った開宝蔵を、
そのまま受け継いだ流れです。
開宝蔵をもとに、朝鮮半島の高麗で作られたのが、
高麗版大蔵経です。
もう1つは、中国の南の江南地方で、
お寺が人々から寄付を集めて作った私版の流れです。
宋の時代には、福州の東禅寺版と開元寺版、
湖州の思渓蔵(宋版)、蘇州の磧砂蔵が作られました。
元の時代になると、
宋の終わりに彫り始められた普寧蔵(元版)が、
宋版を手本にして、1290年に完成します。
明の時代には、都の南京で南蔵が、
1420年からは北京で北蔵が、皇帝の命令で作られ、
杭州では武林蔵も作られています。
さらに、紫柏真可(1543-1603)らの呼びかけで、
持ち運びやすい冊子の形の嘉興蔵が作られました。
明版、万暦版とも呼ばれます。
この嘉興蔵が、日本の黄檗版のもとになりました。
清の時代にも、北京で勅版の龍蔵が作られましたが、
これも北蔵をもとにした、南の流れの大蔵経です。
このほかに、北方の契丹(遼)でも契丹蔵が作られましたが、
今ではほとんど残っていません。
お経の全集なのであれば、
1回版木を作ってしまえば、それで繰り返し印刷すればいいのに、
なぜ大変なお金と時間をかけて、こんなに繰り返し作るかというと、
一切経を作ること自体が功徳になり、
保持している人に、いいことがあると思われたからです。
高麗版大蔵経とは?なぜ作られたのか
高麗版大蔵経は、北の流れを代表する大蔵経で、
初雕本と再雕本の2つがあります。
初雕本は、1011年、契丹の侵攻を受けた高麗が、
仏の力で国を守ってもらおうと願って、
彫り始めたものです。
しかし、その版木は、モンゴル軍の侵攻によって焼かれてしまいました。
そこで、モンゴルを退けたいという願いを込めて、
1236年から再び彫り始め、
1251年に完成したのが再雕本です。
版木が8万1,258枚に及ぶことから、
八万大蔵経とも呼ばれます。
再雕本は、開宝蔵や契丹蔵、初雕本を突き合わせて、
誤りを正しながら彫られたので、
本文が正確なことで知られています。
高麗は金属活字でも知られる国ですが、
高麗版大蔵経は金属活字ではなく、
一枚一枚の板に文字を彫った木版です。
その版木は今も、韓国の海印寺に納められ、
版木を守る蔵経板殿は、
1995年に世界遺産に登録されました。
日本には、室町時代に、
将軍家や西国の大名が朝鮮の王朝に何度も求めて、
刷られた大蔵経がもたらされました。
日朝貿易の主な輸入品に、
大蔵経が数えられるのはそのためです。

徳川家康
徳川家康(1543-1616)が集めて
江戸の増上寺に納めた、宋版・元版・高麗版は、
今も「増上寺三大蔵」として伝わっています。
日本の大蔵経
日本では、印刷が始まる前から、
一切経を手で書き写す大事業が行われてきました。

光明皇后
奈良時代には、光明皇后(701-760)の願いで、
一切経が書き写されました(五月一日経)。

藤原清衡
平安時代の終わりには、藤原清衡(1056-1128)が、
紺色の紙に、金と銀の文字で一行ずつ交互に書いた一切経を、
中尊寺に納めています(紺紙金銀字交書一切経)。
江戸時代になると、
日本でも大蔵経が印刷されるようになります。

天海
天海(1536頃-1643)が始め、1648年に完成した
寛永寺版(天海版)は、
木で作った活字を組んで刷ったものです。
これは活版印刷です。
活字は便利なようでいて、
刷り終わるとバラバラにしてしまうので、
あまり沢山は印刷されませんでした。

鉄眼道光(1630-1682)
続いて、禅宗の一つ黄檗宗の僧侶、
鉄眼道光(1630-1682)が、
明の嘉興蔵を手本に、1668年から版木を彫り始め、
黄檗版(鉄眼版)を完成させました。
その版木は約6万枚、今も京都府宇治市の宝蔵院に伝わっています。
木版印刷でたくさん印刷され、
黄檗版は全国のお寺に広まり、
江戸時代の仏教の学問を支えたといわれます。
また、1行20字、1頁20行であるため、
400字詰め原稿用紙のルーツになったといわれています。
明治時代になると、活字で印刷した大蔵経が作られます。
- 1648年:寛永寺版(天海版)
- 1681年:黄檗版(鉄眼版)
- 1885年:縮刷大蔵経(大日本校訂大蔵経)
- 1905年:卍字蔵経(大日本校訂訓点大蔵経)
- 1912年:大日本続蔵経
- 1924年:大正新脩大蔵経(刊行開始)
縮刷大蔵経は、増上寺に伝わる高麗版を底本にして、
宋(思渓蔵)・元(普寧蔵)・明(黄檗版)の版と照らし合わせたもので、
近代的な校訂の始まりといわれます。
これは2025年にユネスコの「世界の記憶」に登録されています。
卍字蔵経は、漢文を日本語の順に読むための
返り点などの訓点をつけたもの、
大日本続蔵経は、それまでの大蔵経に漏れていた
中国の注釈書などを集めたものです。
そして、この流れの集大成として、
大正時代に作られたのが、「大正新脩大蔵経」です。
大正新脩大蔵経とは
大正新脩大蔵経は、
1924年(大正13年)から1934年(昭和9年)にかけて
刊行された、全100巻の大蔵経です。
略して大正蔵、大正大蔵経ともいい、
「大正新修大蔵経」と書かれることもあります。
高楠順次郎(1866-1945)と
渡辺海旭(1872-1933)を中心に、
小野玄妙(1883-1939)らが加わり、
当時の仏教学者が力を合わせて校訂しました。
近代の仏教学に基づいた、
新しい大蔵経を目指したものです。
「撰述」とは、中国や日本で書かれた仏教の書物のことです。
それまでの大蔵経が、主にインドから伝わったお経と
その翻訳を集めたものだったのに対し、
大正新脩大蔵経は、中国と日本の撰述や、
敦煌で見つかった古い写本まで収めています。
大正新脩大蔵経の系統
では、大正新脩大蔵経は、
2つの流れのどちらの系統なのでしょうか。
簡単にいうと、次のとおりです。
北の流れの高麗版を本文にして
南の流れの宋・元・明の版と
奈良時代の写経を照らし合わせた大蔵経です。
- 本文(底本):高麗版の再雕本(北の流れ)
- 校合した版本:宋版・元版・明版(南の流れ)
- 校合した写本:天平写経など
- 参照した原典:サンスクリット語・パーリ語
漢訳の経・律・論は、高麗版の再雕本を底本にしています。
底本とは、本文のもとにした本のことです。
高麗版に入っていない仏典は、他の版や写本を用いています。
そのうえで、南の流れの宋版・元版・明版や、
正倉院の聖語蔵などに伝わる奈良時代の天平写経と、
一字一字照らし合わせて、
文字の違いを、ページの下の注に記しました。
これを「校合」といいます。
さらに、サンスクリット語やパーリ語の原典も
参照しています。
本文が北の流れで、注に南の流れと古い写本があるので、
大正新脩大蔵経を一つ開けば、
2つの系統の違いを見比べられます。
阿含部から始まる新しい並べ方
大正新脩大蔵経は、お経の並べ方も、
それまでの大蔵経とは違います。

玄奘三蔵
『開元釈教録』にならった昔の大蔵経は、
玄奘(602-664)の訳した『大般若経』600巻から始まり、
大乗の経典を先に並べていました。
これに対して大正新脩大蔵経は、
小乗経典の阿含部から始め、
時代と地域の順に並べています。
第1巻の最初のお経は、『長阿含経』です。
通し番号でいうと、1692番まではインドで著されたもの、
2184番までは中国、
2731番までは日本で著されたもので、
その後に、失われていたお経の写本などが続きます。
全部で2,920の仏典が収められています。
SATで読める大正新脩大蔵経と番号の読み方
大正新脩大蔵経は、
1994年に東京大学教授の江島惠教教授のアイディアで、
データベース化が始まりました。
そして大蔵経テキストデータベース研究会(SAT)によって、
ついに2008年からインターネットで無料公開されます。
大蔵経もインターネットの時代に入ったのです。
論文などでは、大正新脩大蔵経の引用に、
「T0099_.02.0108b04」のような番号が使われます。
これは、次のような意味です。
- T:大正新脩大蔵経
- 0099:通し番号(99番は『雑阿含経』)
- 02:第2巻
- 0108:108ページ
- b:中段(a=上段・b=中段・c=下段)
- 04:4行目
ここまで正式に全部書かなくても、
大体(T.2.108b)くらいで書いてあることが多いです。
この記事で引用するお経にも、
SAT大正新脩大藏經テキストデータベースの
該当する箇所へのリンクをつけています。
ただし、大正新脩大蔵経は、
約10年で100巻を刊行した速さのため、
校訂が不十分なところや誤植があると指摘されています。
2024年の刊行100年を記念する集まりでは、
SATの成果を生かして改訂する
「令和大蔵経」の構想も発表されました。
チベット大蔵経と南伝大蔵経
チベット仏教には、インドの仏典をチベット語に訳した
チベット大蔵経があります。
こちらは三蔵ではなく、
お釈迦さまの教えを訳したカンギュルと、
インドの学僧の論書を訳したテンギュルの2つに分かれます。
サンスクリット本が失われた仏典も多い中、
チベット語訳は、翻訳された年代が遅いのですが、
比較的原文に忠実に訳されているので、
インドの仏教を研究する時にはよく参照されます。
カンギュルが初めて木版で刷られたのは、
明の時代、1410年の永楽版です。
その後、次のような版が作られました。
- 北京版:1717年/1724年
- ナルタン版:1732年/1742年
- デルゲ版:1733年/1740年
- チョネ版:1721年/1773年
カンギュルには、テンパンマ系とツェルパ系という
2つの系統があります。
主な4つの版で、北京版とデルゲ版は確認するのですが、
北京版のカンギュルはツェルパ系、
デルゲ版のカンギュルは、両方を合わせながらも、
ツェルパ系をもとにしているといわれます。
テンギュルは、版による違いが少ないとされます。
一方、パーリ語の三蔵は、スリランカや東南アジアの
上座部仏教で読み継がれてきました。
日本語訳の南伝大蔵経は、全65巻(70冊)で、
このサイトで全巻を無料で公開しています。
詳細は以下のページをご覧ください。
➾南伝大蔵経(パーリ仏典の日本語訳)65巻をすべて公開
また、漢訳の大蔵経を日本語に読み下したものには、
『国訳大蔵経』
『国訳一切経』
『新国訳大蔵経』などがあります。
このように、大蔵経は国や時代を超えて、
多くの人の手で作られ、守られてきました。
では、なぜそこまでして、大蔵経は作り続けられたのでしょうか?
大蔵経はなぜ作られたのか
大蔵経が作られた理由として、
世間では、主に次のようなことが挙げられます。
- お経を正しく残し後の世に伝えるため
- 仏の加護で国を守るため
- 作ることで功徳を積むため
- 国やお寺の威信を示すため
高麗版が、外敵を退ける願いを込めて彫られたように、
国の事業として作られた大蔵経は少なくありません。
今では、研究に欠かせない資料であり、
歴史の授業にも出てくる文化財です。
確かに、どれも大蔵経が作られた理由です。
しかし、大蔵経を作った人の中には、
もっと深いところを見つめていた人もありました。
黄檗版を作った鉄眼です。
鉄眼は、大蔵経を彫るための寄付を集めていた時、
畿内が飢饉に見舞われると、
集めたお金を、飢えに苦しむ人々に
すべて施してしまいました。
それが二度あったといわれます。
そして三度目に集めたお金で、
ようやく大蔵経は完成します。
そのため、鉄眼は一生に三度、大蔵経を作った、
初めの二度は目に見えない大蔵経だった、
と語り伝えられています。
鉄眼は、お経が人を救うためにあることを、
身をもって示したのでしょう。
では、お釈迦さまご自身は、七千余巻という膨大なお経を、
何のために説かれたのでしょうか?
お釈迦さまが一切経を説かれた目的
大蔵経というと、膨大な仏典の全集で、
とても読み切れない量だと思われています。
しかし、お釈迦さまは、ご自身の説かれた教えを、
手の中の木の葉にたとえておられます。
ある時、お釈迦さまは、林の中で木の葉を手に取り、
お弟子たちに尋ねられました。
「私の手の中の葉っぱと、この林の木の葉と、どちらが多いか」
お弟子たちが
「林の木の葉のほうが、比べものにならないほど多いです」
と答えると、
お釈迦さまはこう説かれました。
我、等正覚を成じて、自ら見る所の法、人の為に定めて説く者は、手中の樹葉の如し。
(漢文:我,成等正覚,自所見法,為人定説者,如手中樹葉)(出典:『雑阿含経』)
「私が仏のさとりを開いて自ら体得した法のうち、
人々のために説いたものは、
この手の中の木の葉のようなものだ」
ということです。
説かれなかったものは、
林の木の葉のように数えきれないほどあります。
それらを説かれなかったのは、
聞いても、苦しみを離れて涅槃に向かうのに
役立たないからだと教えられています。
七千余巻の大蔵経は、私たちから見れば
読み切れないほどの量ですが、
仏のさとりによって体得された真理からすれば、
手のひらに乗るほどのものです。
仏が知られた広大な真理の中から、
私たちが救われるために必要なことだけを選んで、
説かれたものなのです。
大蔵経は仏が私たちのために
選び抜かれた手の中の木の葉です。
では、それがなぜ、七千余巻にもなったのでしょうか。
それは、お釈迦さまが45年間、
その時、聞いていた相手に合わせて、
説き方を変えて教えを説かれたからです。
同じことを伝えるのでも、子供に教える時と、
大人に教える時とでは、伝え方が違います。
しかも、浅いところから、
少しずつ深いところへと導くように説かれたので、
お経の数は膨大になりました。
ですが、どのお経も貫いている一本の筋があります。
それが仏教の根幹である因果の道理です。
七千余巻の中に、因果の道理に反した教えは1つもありません。
すべて因果の道理に立脚して説かれています。
そして、七千余巻の教えのすべてが向かう先は、
『大無量寿経』の中で、次のように説かれています。
如来、無蓋の大悲を以て三界を矜哀す。
世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。
(漢文:如来,以無蓋大悲矜哀三界。所以出興於世光闡道教,欲拯済群萌恵以真実之利)(出典:『大無量寿経』)
「如来」とは仏のことで、ここではお釈迦さまのことです。
「三界を矜哀す」とは、
迷いの世界に生きるすべての人を、
深く憐れまれることです。
「世に出興する所以」とは、この世に現れられた理由、
「道教を光闡し」とは、
聖道方便の教えを明らかに説き開いて、ということです。
「群萌」とは、草の芽が一斉に萌え出るように、
数えきれないほどの人々のことです。
「真実の利」とは、真実の利益ということで、
本当の幸せのことです。
お釈迦さまがこの世に現れて、
七千余巻の教えを説かれたのは、
すべての人を、本当の幸せに導くためだったのです。
大蔵経はすべての人を
真実の救いに導くために説かれた宝の蔵です。
真実の救いとは、お金や地位のように、
やがて離れていくものを得られることではありません。
死によっても崩れない、本当の幸せのことです。
大蔵経に収められた真実の宝
鉄眼が飢えた人々を救ったのは、尊い行いです。
しかし、飢えから救われても、
人はやがて年老いて、病にかかり、
この世を去っていかなければなりません。
お釈迦さまが七千余巻のお経で説かれたのは、
老いと病と死を超えた、
どんなことがあっても変わらない幸せになる道なのです。
仏教を聞けば、どんな人でも、生きている現在、
「人間に生まれてよかった」という大満足の身になることができます。
それは、一切経を体で読み破った体験です。
そして、一切経は、私をこの幸せに導くために説かれたものだったのかと
心から喜ばずにはいられなくなります。
では、大蔵経に説かれた本当の幸せとはどんなものなのか。
どうすればその幸せになれるのか。
それについては仏教の真髄なので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。



