幸せとは?幸せになる方法
みんな「幸せになりたい」と思っています。
それなのに、幸せだと心から喜んでいる人はそれほど多くはありません。
そこでこの記事では、
・幸せになりたいのに幸せになれない状態とは
・幸せとは何か…心理学で解明された3種類の幸せ
・1.欲望を満たす心地よさ
・2.好きなことに没頭する充実感
・3.意味を感じる幸福
・幸せになれない根本原因
・どうすれば幸せになれるのか?
について分かりやすく解説します。
それによって幸せについての理解が深まり、本当の幸せとは何か、
どうすれば本当の幸せになれるのかが分かります。
幸せとは
日本国憲法
まず、実は法律でも、幸せは重要な問題です。
日本国憲法13条には、幸せについてこうあります。
すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする
(引用:日本国憲法)
このように、日本国民は、憲法で幸福を追求する権利(幸福追求権)が憲法上保障されています。
ですが、「幸せとは何か」、この答えはどこにも書かれていません。
(幸福追求権に関する資料:「新しい人権等」に関する資料)
幸せとは憲法では規定できるものではなく、自分でみつけるものなのでしょう。
国語辞書
次に、幸せについて、国語辞書で簡単に確認してみましょう。
幸福
こうふく
人間は生きていくなかでさまざまな欲求をもち、それが満たされることを願うが、幸福とはそうした欲求が満たされている状態、もしくはその際に生ずる満足感である、とひとまずいえよう。
人間はだれしも幸福を求める。
しかし、人がどのような欲求の満足を求めているかに応じて、幸福の内容もまたさまざまである。
いわゆる幸福論や人生論は、人間にとって真の幸福とは何かを語るが、語り手によって幸福の内容がそれぞれ違うのも、ある意味では当然であろう。(引用:小学館『スーパー・ニッポニカ 国語大辞典』)
このように、辞書には、「欲を満たすのが幸せ」と書かれています。
そして、何に欲望を起こすかが人それぞれ異なるので、幸福論や人生論も、人それぞれ内容が異なると書かれています。
では、幸福論に書かかれている幸せについて、三大幸福論と言われるものを確認してみましょう。
三大幸福論
三大幸福論は、ヒルティ、アラン、ラッセルの書いた『幸福論』という著書です。
幸せについて、それぞれ以下の内容が書かれています。
アラン
まずはアランの『幸福論』には、幸福についてこのように書いてあります。
幸せとはいつもまぼろしのようなものと言われる。
人からもらうような幸せについては、たしかにそうだ。
そんな幸せはそもそも存在しないのだから。
しかし、自分でつくる幸せはまぼろしではない。
それは、学ぶ過程の中で得られるものであり、そして人は、一生学びつづけるものだ。(引用:アラン『幸福論』)
つまり、幸せとは自ら学ぶことだと言っています。
確かに自ら学ぶことで幸福感を感じることは可能でしょう。
ラッセル
次に、ラッセルは『幸福論』にこのように述べています。
幸福の秘訣は次のごときものである。
──すなわち、諸君の関心・興味をできるかぎり広くすること、そして、諸君の興昧をそそる人や物に対する諸君の反応をできうる限り、敵対的でなく友誼的たらしめること。(引用:ラッセル『幸福論』)
要するに、幸せとは関心の範囲を広げてそれに友好的であることと言っています。
これは、アランの自ら学ぶことに加えて、人間関係も加えています。
確かに一理あります。
ヒルティ
では、三大幸福論の最後にヒルティです。
今までとは少し毛色が違ってきます。
遊び半分の仕事でないかぎり、すべてほんとうの仕事には、まじめに打ちこめばいやでもすぐおもしろくなってくるという性質があるものだ。
人を幸福にするのは仕事の種類ではなくて、創造と成功の喜びである。
およそ存在する不幸中での最大の不幸は、仕事のない生活、生涯の終わりにおいて仕事の成果を持たない生活である。
(中略)
現代の一才女(*六四)の遺稿に見えることばをもって、結論と目するものである、いわく、「幸福は神とともにあること、それに至る力は、魂の響きなる勇気」と。
この地上にはこれ以外の幸福は存しない。
*六四(全体としては奇妙な、しかしこの種のひらめきに満ちた戯曲『古代スコットランド』の作者であるギゼラ・グリム(旧性フォン・アルニム)。(原著者注)(引用:ヒルティ『幸福論』)
このように、ヒルティは、2つのことを言っているように見えます。
生きていく上での幸福としては仕事が大事で、しかし死を乗り越えるためには神への信仰が必要と言っています。
確かに、幸福論によって、主張している内容が様々です。
結局、幸せというのは、最初の辞書にあったように、欲を満たすことなのでしょうか。
幸せについて、心理学などをもとにして、より簡単に説明していきます。
科学や経済で今の方向に進んで幸せになれる?
あなたは今幸せですか?
もちろん不幸ではないと思いますが、心の底から幸せとも言えないのではないでしょうか?
何となく、いつもと同じ毎日が続いて行きます。
なぜ科学が進歩して便利な世の中なのに、世界の経済大国日本で、心からの幸せが感じられないのでしょうか?
それは、進んでいる方向が間違っているからです。
今の方向に進んでも、どこまで行っても幸せにはなれません。
死んでも無理です。
あなたの幸せになれない感覚は、すでに科学的・学問的にも実証されており、問題となっていることです。
お金で幸せは買えない・幸福のパラドックス
お金があっても、幸せにはなれません。
幸せになれないどころか、お金を持ちすぎると、幸福感が下がってしまうのです。
1974年、経済学者として最初に幸福の研究を手がけた、アメリカのリチャード・イースタリンは「高収入は幸福感と関係ない」という、驚くべき事実を発表しました。
この、幸せを求めると不幸になってしまう感覚を「幸福のパラドックス」といわれます。
日本でも、1960年からの約50年間で、経済的な豊かさを表す一人当たりの実質GDPは6倍になりましたが、生活満足度はほとんど変わりませんでした。
内閣府が発表した1980年以降のグラフでは、生活満足度が下がっているようにさえ見えます。
個人でも、家族1人あたり年収700万円までは幸福度が上がっていくのですが、その後は下がるという研究結果が報告されています。
金持ち父さんも、こう言っています。
お金はきみを幸せにはしない。
金持ちになったら幸せになれるなどと決して考えるな。
(引用:『金持ち父さんの子供はみんな天才』)
お金以外でも同じです。
地位でも、名誉でも、恋愛でも、結婚でも、幸せにはなれません。
世界200万部突破、NHKクローズアップ現代でもとりあげられた人類全体の歴史書『サピエンス全史』という本にはこう記されています。
人類250万年の歴史で、苦しみの量は減っていない。
(引用:ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』)
人間がどんなに努力しても、心からの幸せにはつながらないのです。
そもそも幸せとはどんなものなのでしょうか?
倫理学では幸せが解明されている?
倫理学といえば、何が良いことかを研究する学問です。
「良い」というのは価値判断ですから、それに付随して、
幸せについても研究がなされているように思います。
また、例えば「功利主義」といえば「最大多数の最大幸福」ですから、
幸せとは何かが研究されなければならないはずです。
ところが、実は倫理学では、幸せについてはほとんど研究されていません。
日本の三大哲学者の一人、三木清もこう言っています。
試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。
只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を發見することは諸君にとつて甚だ容易であらう。(引用:三木清『人生論ノート』)
三木清は昔の人ですが、現在もその傾向は同じです。
それというのも、現代の倫理学では、
「良い」とは何かというような言語分析が流行していることと、
自由主義が優勢で、
「人は自由なので各自の幸せまではあれこれ言いません、好きにしてください」
という風潮になっているからだといわれています。
幸せにおける問題提起
それでも倫理学では、問題提起は色々しています。
例えば功利主義の「最大多数の最大幸福」の「幸福」は「快楽」のことです。
そして、功利主義を唱えたベンサムは、このように言いました。
快楽の量が同じなら、
詩や音楽と、子供の遊びは同じ価値がある。
(ジェレミ・ベンサム)
それに対して、功利主義は、低級なブタの快楽を勧めると批判されます。
それに対してミルが言ったのが、有名なこの言葉です。
満足した豚よりも、満足しない人間のほうがましである。
満足した愚か者であるよりも、満足しないソクラテスのほうが好ましい。
(J.S.ミル)
功利主義は少し洗練されて、快楽には低いものから高いものまで質に違いがあるというわけです。
この快楽とは、幸せと同じものだと思いますが、
功利主義はここまでで、快楽とは何かについては言及していません。
そして倫理学では、このような問題提起がなされています。
経験機械
まず、ロバート・ノージックの経験機械です。
経験機械とは、脳に電極を刺すことによって、どんな経験でもできる架空の機械です。
どんな幸せな経験でも作り出せます。
『マトリックス』という映画にあったような、
本人は一カ所にじっとしているのに、夢の中で幸せになれるようなものです。
さあ、あなたはそんな経験機械によって幸せになりたいですか?
『マトリックス』では、何とかその状態を脱しようと一生懸命でした。
人は、なぜかこのような幸せでは満足できないようです。
快楽とは欲望を満たすこと?
快楽とは欲望を満たすこと、という主義を「選好功利主義」といいます。
選好とは、好きなほうのことです。
選択肢があった時に、本人の好きなほうを選ぶのが幸せということです。
確かにそんな気もします。
では、異なる時点での欲望はどうなるのでしょうか。
例えば、「年を取って醜くなるくらいなら死にたい」という人がいたとします。
その人が年をとって、若い頃よりも醜くなり、
しかも認知症で当時の記憶を失ってしまいました。
ではその人は、死んだほうが幸せなのでしょうか。
「植物人間になるくらいなら死んだほうがまし」
と言っていた人が、植物人間になったとします。
その場合は、生命維持装置を外してあげたほうが、幸せなのでしょうか。
知らない利益
アジア初のノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・センが提起した問題があります。
それは、インドの貧しく教育を受けていない女性が、食べ物があれば幸せだと考えていたとします。
この人に「選挙権と食べ物のどちらがいいですか?」と聞いたら、
選挙権が何なのかは知らないので、真っ先に食べ物です。
このような人には、食べ物さえあれば、選挙権はいらないのでしょうか?
このような制限された環境で生きているために、その環境に適応した選好が形成されることがあります。
これを適応的選好といいます。
これを利用して、政府が学校教育で、意図的に選挙権について教えず、
希望者は自分で勉強してくださいという方針をとったらどうでしょう。
選挙権については、日本の学校では教えられていると思いますが、
それ以外にも何か教えられていない重要なことはたくさんあるかもしれません。
知らない場合はインターネットで検索もできず、何かのきっかけがたまたま知る以外に知る方法はありません。
知らない人にとっては、知っている範囲での欲望さえ満たせばいいのでしょうか。
愚かな欲望
また、人間はそれほど合理的ではないので、
知っていても愚かな選択をすることがあります。
例えば、痩せたくてダイエットをしているのに、
太ると分かっているスイーツを食べて太ります。
お金は欲しいのに、働くのは面倒なので、
無難に働くだけで、望みの大金は手に入りません。
他人から一目置かれたいと思っていても、勉強するのは大変なので、
ついつい遊んでしまいます。
タバコをやめたほうがいいのは分かっているけどやめられない、そして病気になる人、
麻薬はやめたほうがいいのは分かっちゃいるけどやめられない人もあります。
それらの人にとっては、何が幸せなのでしょうか?
このように、最初の辞書にあったような、幸せとは欲望を満たすこととすると、
色々な問題が起きてくることが、倫理学で分かります。
一方、心理学では、だんだん幸せについて研究されるようになってきました。
心理学で解明されている3つの幸せとは
幸せとはどんなものなのかというのは、心理学では1990年代に研究が始まりました。
それまでの心理学は、うつ病やトラウマのような、ネガティブな心理状態を治療してゼロまで戻す研究がなされていました。
ところが1990年代に、ゼロからもっと幸せの方向に向かって、プラスにする方法を研究しようという流れが起きてきたのです。
それらの一連の研究によって、心理学では大きく分けて3種類の幸せが見つかっています。
それが次の3つです。
- 欲望を満たす心地よさ
- 好きなことに没頭した充実感(フロー)
- 意味を感じること
それぞれどんな幸せで、どんな特徴があるのかを見てみましょう。
1.欲望を満たす心地よさ
この欲望を満たす心地よさは、心理学でも一番最初から研究されていた幸せです。
直感的に幸せというと、多くの人はこの幸福をイメージすると思います。
欲望を満たすといっても、美味しいものを食べるとか、お金を儲けるというだけではありません。
仏教では五欲といって代表的な欲を5つ教えられています。
それがこの5つです。
- 食欲……食べたい、飲みたい、もっと美味しいものが欲しいという欲
- 財欲……お金が欲しい、物が欲しいという欲
- 色欲……男女間の欲
- 名誉欲…ほめられたい、認められたい、悪口を言われたくないという欲
- 睡眠欲…眠たい、楽がしたいという欲
好きなことがしたい、
自由になりたい、
時間が欲しいというのも全部欲望です。
それらが満たされた心地よさが幸福感になります。
「どのくらい満足しているか」
とアンケートで聞くと、たいていこのような欲望がどれだけ満たせているか、ということについての回答が得られます。
幸せの相対性
ところが、この欲望を満たす幸福感には重要な性質があります。
それは、比べて感じるというものです。
この比べて感じるということを相対的といいます。
欲望を満たす幸せというのは、相対的なものです。
これは、何も幸せだけではありません。
17世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックは、
熱いお湯に手を入れた後にぬるま湯に手を入れると冷たく感じますし、
冷たい水の後に同じぬるま湯に手を入れると熱く感じると言っています。
「あの人は色白ですね」というのも、周りの人と比べて色白ということです。
日本で色白だと言われたことのない人でも、南の国へ行くと、色白になれます。
あの人きれいだな、と思うのは、そうでない人がいるからです。
私たちの感覚は、何かと比べて感じるということです。
幸せもそうです。
自分を誰と比べるかによって変わってきます。
中学校で、勉強がクラスで一番だった人がいます。
スポーツもそれなりにできるし、クラスの人気者だった人が、
高校に行ったら、ぱっとしなくなることがあります。
それはその人が高校でやる気をなくしたわけではなくて、比べる人が変わったからです。
その人は、中学の時とまったく同じようにやってるのですが、
高校では偏差値が同じような人が集まってくるので
中学の時ほど目立たなくなっただけです。
欲望を満たす幸せが相対的だということは、比べるものによって変わるということです。
大学受験で、合格通知が来てガッツポーズして喜ぶのは、落ちた人がいるからです。
定員割れしていて、出願した人が全員入れる大学なら
合格通知が来てもガッツポーズはしません。
幸せというのは、他の人と比べて喜べる相対的なものだからです。
自分の家を建てた時もそうです。
隣の家を見た時に、自分の家より小さいと、何となく、じんわりと幸せな感じになります。
逆に、しばらくして、自分の家より立派な家に建て替えられると
どうしても自分が幸せだとは思えません。
これについて2005年に、ハーバード大学のエルゾ・ラットマー教授が、
近所の人が自分の幸福度に与える影響を研究しました。
すると、近くの人の収入が増えることは、
自分の収入が減るのと同じくらい幸福感が下がることが分かっています。
(参考:Erzo F.P. Luttmer『Neighbors as Negatives: Relative Earnings and Well-Being』2005)
このように、私たちの幸福感というのは比べて感じるものなのです。
それで昔の人は、
「上見て暮らすな下見て暮らせ」
といったのですが、無意識のうちに誰かと比べてしまうので、実際には困難です。
上には上がいるので、どこまで行っても欲望を満たして幸せになることはできません。
いつも不満が起きてしまいます。
(そのため仏教で正しい態度は「下見て感謝、上見て努力」です)
2.好きなことに没頭する充実感(フロー)
心理学でも幸せについて研究する時、昔は「満足度」を聞いていたので、たいてい欲望を満たす幸福感が問題になっていました。
ところが、新しいタイプの幸せを発見したのが、チクセントミハイです。
当時、チクセントミハイは数千人に対して一日に数回ポケットベルをならし、
そのたびに研究参加者は小さなノートを取り出して、
その瞬間に何をしていて、それをどのぐらい楽しんでいるかを記入してもらいました。
その結果、チクセントミハイは、2つの異なったタイプの幸せを発見します。
1つ目は、肉体的な快楽で、最初に解説した欲望を満たす幸せです。
特に食事の時間は、平均的に最も高い水準の幸福度が報告されました。
もう1つは、スポーツや芸術、仕事や趣味など、自分の強みが生かされる好きなことに完全に没頭して、我を忘れさせてくれるような活動の時にも、高い幸福度が報告されました。
この、時間を忘れて熱中する充実した状態を「フロー」といいます。
(フローについては、TEDの動画で解説されています。)
フローの欠点
ところが、このフローにも欠点があります。
それは続かないということです。
その活動をしている時は、充実するのですが、そんなに長い時間続けられるわけではありません。
例えば、パブロ・ピカソは、自分の強みを生かしてすばらしい作品をたくさん残しています。
ですが、ピカソは絵を描いている時は楽しそうなのですが、絵筆を置くと不機嫌になったといいます。
そして、人生の最期には、このように後悔しています。
誰にも何の役にも立たないではないか。
絵、展覧会──それがいったい何になる?
(引用:アリアーナ・S.ハフィントン『ピカソ 偽りの伝説』)
また、有名なプロのテニスプレイヤーで、
コートの外では気難しく、付き合いにくいといわれた人もあります。
このように、うまくフローに入った時は幸せですが、それは一時的で、すぐに終わってしまいます。
特に仏教では、諸行無常といわれるように、この世のすべては続かないと教えられています。
もちろん1つ目の欲望を満たす心地よさも続きませんし、
このフローの状態の充実感も、
フローの対象の活動も、続かないのです。
そこで、3番目の意味を感じる幸せが登場します。
3.意味を感じること
心理学で分かった3つ目の幸せは、意味を感じることです。
これは、欲望が満たされないどころか、苦しくても幸せを感じることができます。
例えば、有名なドラッカーの『マネジメント』に出てくる3人の石工の話があります。
1人目は、生活のために働いていると言い、
2人目は、石切の仕事をしていると言い、
3人目は、教会を建てていると言います。
石を切る仕事は辛いものですが、このうち3人目は、苦しくても意味のある仕事をしているという自覚があるので、喜んで働くことができます。
このことをドイツの哲学者、ニーチェは、『道徳の系譜』にこう言っています。
人間──最も勇敢な動物で、最も苦しみに慣れている──は、
苦しみ自体を拒絶するのではない。
もしその苦しみの意味、目的があるのなら、
苦しみを欲し、探し求めさえする。
(引用:ニーチェ『道徳の系譜』)
このように、意味を感じることができれば、少しくらい苦しいことがあっても幸せを感じられます。
この意味を感じる幸せで、欲望を満たす心地よさや、好きなことに没頭する充実感の「続かない」という欠点を克服するには、人生全体にわたって続く意味を見いださなければなりません。
それが、人生全体の意味、本当の生きる意味です。
人生全体の意味は?
では人生全体の意味はあるのでしょうか?
ところがニーチェはそこまで行くと、こう言います。
「人間の目的は一体全体何なのだ?」
これは答えのない質問だ。
(引用:ニーチェ『道徳の系譜』)
また、『ツァラトゥストラはかく語りき』にはこうあります。
何のために生きるのか?一切は虚しい!
(引用:ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』)
このように、ニーチェのような有名な哲学者でも、人生に意味を見いだすことができません。
それでニヒリズムになってしまうのです。
心理学者の人たちも人生の意味は見いだせません。
例えば「アドラー心理学(個人心理学)」を創始し、『嫌われる勇気』で有名になった心理学者アルフレッド・アドラーは、『人生の意味の心理学』という本の冒頭にこう書いています。
絶対的な人生の意味を持っている者は誰もいない。
(引用:アルフレッド・アドラー『人生の意味の心理学』)
フロイトとアドラーの二人に学び、人生に意味を見いだす「ロゴセラピー」を創始した
『夜と霧』の著者ヴィクトール・フランクルは、
「人生には無条件で意味がある」
と唱えています。
そのフランクルといえども、こう言います。
ロゴセラピストといえども患者に、その意味がいったい何であるのかを告げることはできない。
(引用:ヴィクトール・E.フランクル『〈生きる意味〉を求めて』)
フローを発見したチクセントミハイもこう言います。
我々に「ここに君が人生を捧げるに値する目標がある」などと教える者はどこかにいるというわけではない。
(引用:チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』)
比較的最近の心理学者では、イギリスのニューカッスル大学のダニエル・ネトル教授もこう言います。
心理学は、フロー体験や目的意識というものがウェルビーイングの重要な要素であるということはできても、どんな目的を持てばいいのか、フローはどこから得られるのかといった質問には、残念ながら答えることはできません。
(引用:ダニエル・ネトル『幸福の意外な正体』)
このように、心理学では人生全体の意味を見いだすことはできません。
だから心からの幸せになれないのです。
どんなに幸せを求めても幸せになれない理由を分かりやすく例えると、こうなります。
どんなに努力しても幸せになれない理由
人生を飛行機で飛ぶことに例えると、あなたが生まれた時が飛行場を飛び立った時です。
小学、中学、高校と、飛行機は上昇し、やがて水平飛行に入ります。
「飛ぶように月日が過ぎる」といいますが、昨日から今日、今日から明日、先月から今月、今月から来月へと、飛行機は猛スピードで飛んでいます。
ところが、この飛行機は目的地が分かりません。
下は、太平洋のような広い海です。
海また海で、島影一つ見えません。
燃料は刻一刻と減っていきます。
そんな飛行機に乗っているとき、あなたは空の旅が楽しめるでしょうか?
どんなにおいしい機内食や、楽しい機内映画が見られたとしても、楽しめるはずがありません。
それは、目的地も分からずに飛び続けたら、やがて燃料が切れて、墜落あるのみだからです。
この、機内食や機内映画に例えられたのが、お金や財産、地位、名誉、仕事や趣味、恋愛や結婚など、みんながそれで幸せになろうとしているものです。
どれだけこのような幸せに恵まれていても、心からの安心も満足もないのは、人生に限りがあって、やがて命が尽きるからです。
それなのに、生きている意味、人生全体の意味が分かりません。
それにもかかわらず、1つ目の欲望を満たす心地よさや、2つ目の好きなことに没頭する充足感の、
お金があれば幸せになれる
地位が上がれば幸せになれる
名誉があれば幸せになれる
好きな仕事ができれば幸せになれる
恋愛や結婚で幸せになれる
と思って、見当違いの努力をしているので、どんなに頑張っても幸せになれないのです。
幸せになる方法
お金や財産、地位、名誉、恋愛、結婚で幸せにはなれませんから、幸せになれない根本原因を先に解決しなければなりません。
飛行機でいえば、燃料が切れたら、切れた所に大空港があり、そこへ安全に誘導されて着陸できることになれば、やがて海へ墜落する暗い心はなくなります。
この暗い心を解決して初めて、空の旅を心から楽しむことができるのです。
機内食や機内映画は、無くてもかまいませんが、有ればなお快適です。
有ってよし、無くてよし、大安心、大満足の空の旅を満喫できるようになります。
これが仏教に教えられる、絶対の幸福です。
それは、変わらない安心と満足がえられる幸せです。
この絶対の幸福の身になることが、本当の生きる目的であり、本当の幸福なのです。
最初に解説した一般的な幸せと、絶対の幸福の違いを表にまとめると以下のようになります。
心理学で研究される幸せの欠点 | 仏教の絶対の幸福 | |
---|---|---|
快楽 | 相対的 他人や過去の自分と比べて分かる |
絶対的 一人で喜べる |
フロー | 続かない | 変わらない |
意味 | その時の生きる意味しか分からない | 人生全体の意味が明らかになる |
この絶対の幸福がどんな幸せなのかは、仏教に明らかにされています。
絶対の幸福を知るには、幸せになれない原因の心と、本当の生きる目的をよく知らなければなりません。
それは仏教の真髄なのですが、分かりやすく電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度目を通しておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)