テーラワーダ(上座部仏教)とは?

テーラワーダ仏教」とは、スリランカをはじめ、タイやミャンマー、ラオスやカンボジアに広まる仏教で、「上座部仏教」とも言われます。

テーラワーダ仏教の人は自分たちの教えは初期仏教であり、ブッダの本当の教えだと主張して最近日本でもよく布教しています。
本当にそうなのでしょうか?

テーラワーダ仏教は本当に初期仏教?

テーラワーダ仏教の人は、自分たちの仏教は、ブッダの説かれたことに一番近い、
初期仏教」であり、
原始仏教」であり、さらには
根本仏教」であると言います。

これが本当かどうかを知るには、
原始仏教」や「根本仏教」とはどんなものかを
知らなければなりません。

原始仏教とは、明治時代の文明開化で、
西洋の仏教研究が入ってくるまでなかった言葉です。

西洋人は、スリランカや東南アジアの仏教を研究し、
それが漢訳の阿含経によく似ていましたので、
部派仏教といわれるテーラワーダ仏教のパーリ仏典と、
大乗仏教の漢訳の阿含経の共通部分
が、
ブッダが説かれた内容に近いのではないかと推測し、
それを「原始仏教」とか「初期仏教」と名付けて、研究されました。

さらに、ブッダが生きておられた時代の仏教を、
根本仏教」と呼び、当時の学者たちは、そんな仏教を再構築できたら、
と思い描いていたのです。

ですから「原始仏教」「初期仏教」と呼ばれるのは、
テーラワーダ仏教のパーリ仏典と、
漢訳の阿含経の共通部分に過ぎません。
テーラワーダ仏教は部派仏教ですから、
それがそのままテーラワーダ仏教だと思うのは間違いです。

漢訳とパーリの共通部分をとったからといって、
それがブッダの説かれた内容に一番近いという保証はなく、
ましてや約2600年前のブッダの時代の「根本仏教」など、
今からでは、知るすべはありません。

もしテーラワーダ仏教を原始仏教と言っている人がいたら、
このようなことを知らない不勉強な人でしょう。

それどころか、スリランカの仏教は歴史上2回途絶えて、復活させたもので、
現在主流なのは、20世紀のミャンマーで生まれた簡易式の瞑想をする新しい教えです。
ブッダの時代から連綿と続いているわけではありませんので、
初期仏教でも原始仏教でもありません。

ヴイパッサナー瞑想はテーラワーダ仏教のみの実践?

ヴィパッサナー 」は、テーラワーダ仏教で行われる実践ですが、
漢訳では「毘婆奢那(びばしゃな)」とか「毘鉢舍那(びばしゃな)」と音訳され、
よく知られています。
瞑想のことを仏教で「止観(しかん)」といわれますが、
ヴィパッサナーは「止観」の「」のことで、観察(かんざつ)のことです。
ちなみに「止観」の「」はサマタ瞑想に相当し、
漢訳では「奢摩他(しゃまた)」と音訳され、心をしずめることです。

ヴィパッサナーは、大乗仏教に伝えられていない
という人もありますが、天台宗などは特に止観を重視し、
天台小止観』や『摩訶止観(まかしかん)』という
瞑想を体系化した非常に有名な解説書もあります。

大乗仏教の僧侶は、テーラワーダ仏教のお経も認めて尊く学びますが、
テーラワーダ仏教の人は自分たちが決めた文献だけをお経と定め、
大乗仏教のお経を認めませんので、
大乗仏教についてはあまり勉強していないのでしょう。

それどころか現代のテーラワーダ仏教では、
ヴイパッサナー瞑想の前提として必要なサマタ瞑想をあまり行いません。
そこがミャンマーで開発された簡単で分かりやすい瞑想法の特徴です。

このように、スリランカのテーラワーダ仏教の人たちの言うことを調べていくと、
どうも不正確なところが色々と出てくるのは否定できないのですが、
テーラワーダ仏教とは、本当は一体何なのでしょうか。

テーラワーダ仏教の経典と瞑想の実践とは

では、テーラワーダ仏教とはどんな仏教なのでしょうか?

テーラワーダ仏教の起源

ブッダがお亡くなりになった後、「結集(けつじゅう)」というお経をまとめる会議がなされ、仏教を伝えるグループは分かれていきます。
大きく分けると、「上座部」と「大衆部」の2つ、細かく分けると18から20の仏教の部派ができたと言われ、これを「部派仏教(ぶはぶっきょう)」といいます。
テーラワーダ」というのは「上座部」ということですが、この時テーラワーダで最も有力だったのは、「説一切有部(せついっさいうぶ)」という部派でした。
それに対して、現在、テーラワーダ(上座部)仏教を名乗っている宗派は、この18から20の中には名前のない、「分別説部(ふんべつせつぶ)」という部派です。
もっと後に、新しくできた部派なのです。

そのそれぞれの部派が、独自に「三蔵(さんぞう)」を伝えています。
三蔵」とは、経蔵、律蔵、論蔵のことです。
経蔵(きょうぞう)」とはブッダの説かれた教え、
律蔵(りつぞう)」とは、戒律
論蔵(ろんぞう)」とは、ブッダの教えを、他の人がまとめた解説書のことです。

ちなみに孫悟空の話に出てくる、「三蔵法師」というのは、インドから中国に仏教を伝えた翻訳家のことで、いわば職業の名前ですが、 三蔵法師は、色々な部派の三蔵を受け取って、中国に伝えたということです。

結集」は、第2回、第3回と行われましたが、
第3回で伝統的な上座部の教えを拒絶したのが「分別説部」といわれます。
説一切有部」から分かれた部派といわれています。

現在では、インドの仏教はなくなってしまったので、三蔵がすべてそろっている唯一の部派は、「分別説部(ふんべつせつぶ)」のみとなってしまいました。
パーリ語では、「ヴィバッジャワーダ」といわれます。
ただし、その三蔵は、5世紀頃に現れ、スリランカで活躍した
ブッダゴーサ(仏音)という僧侶が全部編集してしまっています。
一体どんな編集を行ったのでしょうか?

テーラワーダ仏教の教え

ブッダゴーサの編集で一番大きいのは、経蔵を追加して確定したことです。
その理由は、ブッダゴーサの修行体系で、ブッダが悟りを開かれるとき、
四聖諦を観察された部分を削除して、因果の道理に変更していることにあります。
この変更に必要な根拠は、他の部派(宗派)や漢訳の四阿含のように、
共通に伝えている4つの経蔵にはありません。
ブッダゴーサ自身が書いた長部の解説でも、一番最初の結集では4部だったとしています。
そこでブッダゴーサは、自分の思想的根拠となる、釈迦ではなく舎利弗の造ったとされ、お経ではなく論蔵の形式で記されている、修行の解説の『無礙解道(むげげどう)』と、語句の解説の『義釈(ぎしゃく)』を経蔵とするために、経蔵を5つに増やしています。
それが5番目の「小部経典」です。
無礙解道』と『義釈』は他部派では経典と認められなかった上に、この小部経典の中には『ミリンダ問経』という、紀元前2世紀頃のギリシア人のミリンダ王と、ナーガセーナという僧侶の問答を記されたお経も入っています。
この「小部経典」を合わせた5つのお経を「五部」といいます。
このような、分別説部に特有の文献がパーリ仏典です。

ちなみに、この5つを経蔵と定めたため、
ブッダゴーサ以降、テーラワーダ仏教では、五部以外の経典を認めなくなりました。
そのため、大乗経典を受容した他部派をスリランカから駆逐しています。

パーリの五部は、漢訳の四阿含と、ふんわりと以下のように対応しています。

No. 漢訳四阿含 テーラワーダ仏教 備考
長阿含経 長部(ディーガ・ニカーヤ) 長編の経典集
中阿含経 中部(マッジマ・ニカーヤ) 中編の経典集
雑阿含経 相応部(サンユッタ・ニカーヤ) 小編の経典集
増一阿含経 増支部(アングッタラ・ニカーヤ) 数に関係する経典集
小部(クッダカ・ニカーヤ) ブッダゴーサが最後に追加した経典集

(尚、パーリ五部が5世紀頃に編集されたのに、紀元前2世紀とされるバールフットの碑文に「五部の精通者」と刻まれているのはなぜだろうと疑問を起こす人があるかもしれません。この「五部の精通者」は「pañcanekāyika」という語句で、確かに「五部の〔伝持〕者」と解釈できます。しかし五部が何を指すのか碑文には記されていません。「五部派に通じる者」、(他部派の)「五部の律」など色々解釈できます。しかも紀元前2世紀は、まだ経典は書き残されず、口伝で伝えられている時代です。バールフットは北インドなので、当時、海を隔てたスリランカで口伝で伝えられている五部について、鹿児島から札幌よりも遠い、北インドの碑文に記されているというのも不自然な話です。昔、これを関係づけた人がありましたが、時代も場所も遠いので関係づけないほうが穏当でしょう)

スリランカの分別説部の伝える仏典は、このブッダゴーサの編集作業に合わせて、
経蔵や律蔵の内容も改変されている形跡があります。
それが原始仏教や初期仏教と言えるのでしょうか?
このように、ブッダゴーサが自分の考えをもとに色々と編集作業をしているので、
それまでのパーリ三蔵がどんなものだったかは分かりません。

テーラワーダ仏教の瞑想修行

修行についても、テーラワーダ仏教では、ブッダゴーサを最高権威とし、
釈迦の経典よりも、ブッダゴーサの『清浄道論(しょうじょうどうろん)』などの
論書の修行を行います。
これはお経に説かれる四聖諦の観察を削除して、
因果の道理の観察を行う内容になっています。

それもスリランカでは、やがて11世紀頃、ヒンドゥー教などの影響を受けて、
途絶えてしまいます。
そこで、ミャンマーから僧侶を招いて、復興しました。
それからしばらくは続くのですが、
16世紀頃からポルトガル、オランダ、イギリスの西洋人が
次々とキリスト教の布教にやってきて18世紀にまた滅びてしまいます。
そこで今度は、タイから僧侶を招いて復興しました。

さらに19世紀には、日本とタイ以外のほとんどの国がヨーロッパ列強の植民地とされました。

スリランカのほか、仏教国として名高いビルマもイギリスに支配され、
テーラワーダ仏教も、途絶えはしませんでしたが、かなりの苦境に立たされました。
その弱っていたビルマのテーラワーダ仏教で、
たくさんの瞑想センターを作って成功をおさめたのが、マハーシ(1904-1982)です。
マハーシの系統の瞑想センターは、現代で最も多く、
日本に来ているテーラワーダ仏教も、たいていはマハーシ系です。
その特徴は、お釈迦さまの説かれていない、
呼吸に伴うお腹のふくらみやへこみを使って瞑想することです。
そして、車の両輪といわれ、両方必要であるサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想では、
ヴィパッサナー瞑想に偏っていることです。

その影響を強く受けているのが、現在のテーラワーダ仏教を自称している「分別説部」です。

このように、「上座部」の系統ではありますが、
色々な人の考え方のまざった分別説部という一つの宗派が、
テーラワーダ(上座部)仏教を名乗り、日本へ来て、
「自分たちの教えは原始仏教だ」と言っているのです。
その正体は、理論的にはブッダゴーサの編集した分別説部を復興し、
実践的にはビルマのマハーシなどの影響を受けた瞑想を行う一部派です。
確かに仏教の一つの宗派といえるでしょうが、これではどう考えても初期仏教はおろか、
原始仏教とは言えません。

では、原始仏教ではないにしても、テーラワーダ仏教は、
大乗仏教よりもブッダの教えに近いのでしょうか?
7つの観点からみてみましょう。

1.パーリ仏典の歴史

パーリ仏典を原始仏教の経典と言っている人がありますが、
それが間違いであることは、前述の通りです。
ではパーリ仏典は漢訳仏典よりブッダの説かれたことに近いということは、
言えるのでしょうか?

パーリ語とは?

テーラワーダ仏教で伝えているパーリ仏典は、
昔、ブッダの説かれた言葉がそのまま記されていると
西洋の学者が信じていた時代がありました。

ところが、歴史研究の結果、ブッダは、
当時のマガダ国を中心とするインドの東のほうの言葉を遣っておられ、
パーリ語は、インドの西のほうの言葉なので、ブッダが使われた言葉そのままではなく、
途中で翻訳されていることが明らかになっています。

ですから、テーラワーダのお経は、
ブッダの言葉をパーリ語訳した漢訳同様の外国の仏典です。

パーリ仏典と阿含経はどちらが古い?

テーラワーダ仏教では、パーリ仏典は、
もっともブッダが説かれた原典に近い純粋な経典だと言いますが、
5世紀頃、ブッダゴーサという人がパーリ仏典を編集
し、
削除したり追加したりしていますので、それ以前にどんなことが書かれていたか、
まったく分かりません。
ブッダから約千年後のことです。

それに対して、漢訳の阿含経のほうが、古くから存在していることが現在では分かっています。

それどころか、サンスクリットの経典は、複数回翻訳された漢訳経典の場合、
一番最後に翻訳のお経に近いことが多くなっています。
このことから、口伝で伝えられていたものが文字に書き残されたのは、
漢訳より後だといわれます。

チベット訳されたのもかなり後なので、古さで比較すれば、
一番古いお経は漢訳仏典となります。

2.テーラワーダ仏教のお経の量

テーラワーダ仏教のお経は、パーリ三蔵といわれますが、
分別説部という一つのグループが伝えたお経です。

実際には、他のグループが伝えたお経がたくさんありますので、
中国へは、1つのグループに限らず、色々なグループのお経が翻訳され、伝えられました。

その結果、漢訳のお経のすべてである漢訳一切経は、パーリ三蔵の10倍くらいあります。

テーラワーダのお経は、ブッダ以外の僧侶の手によって編集されている上に、
伝えられているお経ブッダの説かれたお経のごく一部を伝えているのみです。

3.テーラワーダ仏教の拠り所とするお経

日本の仏教では、テーラワーダ仏教の伝えるお経も、
それに相当する漢訳仏典の阿含経も含めてすべて仏説として尊く拝します。

そして学問と実践により、存在するお経すべての体系的な理解から、
釈迦の真意を明らかにしようとしています。

それに対してテーラワーダ仏教では、大乗仏典はもちろん、
他の部派のお経も含めて、自分たちの伝える以外のお経は認めません。

テーラワーダは漢訳仏典のわずか10分の1で、
ブッダ
が亡くなられて約1000年後に
自分たちのグループで編集した書物を拠り所としながら、
「私たちは ブッダの教えをできるだけ忠実に守ろうとする」
と主張する独善的なグループです。

4.テーラワーダ仏教の教えの深さ

日本で昔から「小乗仏教」と言われていたのは、
上座部仏教で最も有力だった「説一切有部(せついっさいうぶ)」という部派です。
(説一切有部では、論を重視しており、律と論は残っていますが、経は残されていません。
しかし『倶舎論(くしゃろん)』という昔の僧侶はみんな学んでいた有名な論があります)

説一切有部でも、仏教であることは変わりませんので、
バラモン教の「固定不変の我」に対し、「無我」を説きます。
ところが、この世の色々な存在要素は、直感の通り、外界に実在すると説きます。
これを「我空法有(がくうほうう)」といいます。
」とはここでは「諸法無我」の法と同じ、存在要素のことです。

このように、およそ部派仏教においては、無我を明らかにすることにとどまって、
この世の色々な存在要素については迷いの衆生の直感の通り、
心を離れて外界に実在すると言うのです。

ところが大乗仏教では、我空はもとより、
さらにこの世の存在要素である法も空であると教えられています。
これが、この世の一切は、阿頼耶識(あらやしき)を離れて存在しないという
我法二空(がほうにくう)」です。
これが、より高度な大乗仏教の教えです。
ブッダは、分かりやすいところから、
だんだん高度な教えへ導いて行かれたのです。

分別説部」(テーラワーダ仏教)は、
説一切有部からも異端として批判されているのですが、
どのように教えているでしょうか。

分別説部」の論書である『摂阿毘達磨義論』(アビダンマッタ・サンガハ)によれば
やはりこの世は自分と離れた外界に存在するとしていますので、
「我空法有」の小乗仏教の教えです。

テーラワーダ仏教の教えは、本質的には小乗仏教と同じなのです。

5.テーラワーダ仏教の目指すところ

本来の仏教は、目指すところは仏のさとりです。
そして、まず自分のさとりだけを考えるのではなく、
すべての人の救済を目指します。

それに対してテーラワーダ仏教では、仏のさとりはとても開けないとして、
目指すのは仏のさとりではありません。仏のさとりより低い
阿羅漢(あらかん)というさとりです。
人は、死ねば輪廻転生して、永遠に苦しみ迷い続けなければなりません。
ところが、阿羅漢のさとりを開けば、輪廻転生しなくなり消滅するということです。
それがテーラワーダ仏教の涅槃です。

ところが、本来の涅槃はそういうものではありません。
仏のさとりを開いた人は、慈悲の心がありますので、
まだ救われていない人がたくさんいるのをじっと見ていることはできません。
涅槃に入ると、次の世界で、まだ苦しんでいる人を救うのです。

6.テーラワーダ仏教で救われる人

本来の仏教は、すべての人が救われます。
それは大きな乗り物のような教えですから、大乗仏教といいます。

テーラワーダ仏教では、阿羅漢になれば、他の人に教えを説きますが、
まずは自己のさとりの完成を目指し、他人の救いはその後です。
このような自利を重視した教えですので、小さな乗り物である小乗仏教といわれます。

テーラワーダ仏教で救われるのは、出家して修行ができた人だけです。
現代人のほとんどは出家も難しいので、まさしくごく一部の人のための小さな乗り物となります。

7.テーラワーダ仏教に生きる意味はない?

テーラワーダ仏教の僧侶がよく言うのは、生きる意味はない、ということです。
人生は苦しみ迷いでしかないので、早くさとりを開いて輪廻転生から離れ、消滅したいのです。

実際、テーラワーダ仏教の長老で、日本で布教しているスマナサーラ氏は、
生きるということは、くだらない、無意味なことです。
何をやって生きるかといえば、呼吸する、動く、そんな程度です。
本当につまらないファンクションです」(『仏教と科学が発見した「幸せの法則」』)
と言っています。

生きることに目的はありません」(『仏教は心の科学』)
とも書いています。
テーラワーダ仏教には、生きる目的も、生きる意味もないのです。

また、日本人でテーラワーダ仏教に改宗した僧侶
残念ながら生きる意味は存在しません。ただ生きて行くだけです」
と本に書いている人もあります。

こんなことを言っているから、宗教が誤解を受けるのです。

本来の仏教に説かれているのは、まさに生きる意味です。
生きている時に、どんな人でも
人間に生まれてよかった
という絶対の幸福になれる、本当の生きる意味一つが教えられています。

テーラワーダ仏教と本来の仏教の違いのまとめ

ここまで見てきたテーラワーダ仏教と本来の仏教の違いをわかりやすいように表にまとめてみましょう。

No. 項目 テーラワーダ仏教 本来の仏教(大乗仏教)
お経の歴史 すべて5世紀頃に編集 1世紀頃から漢訳されて現存
お経の量 漢訳の約10分の1 一切経七千余巻
拠り所のお経

大乗経典は認めない。
自分達で決めたパーリ仏典のみ

小乗経典も認める。
一切のお経を体系的に研究
教えの深さ 我の空は説くが物質は外界に実在 我も空であり物質も空
目指す所 まずは自分のさとり
すべての人の救済
救われる人 出家して修行ができた人
すべての人
生きる意味 ない ある

本来の仏教は、まず自分のさとりを目指す、自利優先の小乗仏教ではなく、
すべての人の救済を目指す、自利利他の大乗仏教です。

そして、本来の仏教では、すべての人が、本当の生きる意味を知り、
人間に生まれてよかったという喜びの身になることができます。
では、本来の仏教に教えられる本当の生きる意味は何かといいますと、
それは本来の仏教の真髄ですので、小冊子とメール講座にまとめました。
今すぐ見ておいてください。

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