生老病死とは?意味と読み方・受け入れるしかないのかを仏教で解説
「生老病死って、どういう意味?」
「生老病死は、受け入れるしかないの?」
親が年を取って、足腰が弱ってきた時。
自分が思いがけない病気になった時。
身近な人を見送った時。
生老病死という四文字が、
急に重みを持って迫ってくることがあります。
世間では、生老病死は、誰にでも訪れる自然な流れなので、
抗わずに受け入れて、
今を大切に生きるのがよいといわれます。
ところが、生老病死を説かれたお釈迦さまは、
「受け入れなさい」とは教えられていません。
お経には、生老病死について、
「求めなさい」と説かれています。
では、生老病死とは、どんな意味なのでしょうか?
生老病死とは?意味と読み方
「生老病死」とは、人が生まれ、年老いて、病にかかり、
やがて命を終えていくという、
一生のうちに必ず通る4つの出来事です。
人間として生まれた以上、誰一人避けられない4つの苦しみなので、
仏教では「四苦」ともいいます。
「せいろうびょうし」ではなく、
「しょうろうびょうし」と読みます。
仏教では「生」を「しょう」と読むことが多く、
生まれては死んでいくことを
「生死」というのも、これと同じ読み方です。
4つの苦しみには、それぞれ名前があります。
生きる苦しみを生苦、老いの苦しみを老苦、
病の苦しみを病苦、死の苦しみを死苦といいます。
- 生苦:生きる苦しみ
- 老苦:老いの苦しみ
- 病苦:病の苦しみ
- 死苦:死の苦しみ
「生老病死は人の世の常」や
「生老病死に向き合う」のように、
人の一生の避けられない移り変わりを
表す時にも使われます。
老いや病や死が苦しみであることは、
誰でもすぐに分かります。
では、最初の「生」は、
なぜ苦しみに数えられているのでしょうか。
「生老病死」の「生」とはどういう意味?
生老病死の「生」は、生きることです。
「生苦」を「生まれる苦しみ」といわれることもありますが、
仏教で私たちが生を受けるのは、出産の時ではなく、
母親のお腹に宿る時です。
その時の苦しみを感じるでしょうか?
生まれた時点に限定する必要はなく、
生まれたことによって始まる、
生きていくことそのものの苦しみです。
生きていくために1日の大半を仕事にあてて、住む所を整え、
同じことを繰り返す日々が続きます。
しかも、生まれたからこそ、
やがて老いて、病気になり、死んでいかなければなりません。
そのため、四苦の最初に「生」が置かれ、
老いも病も死も、生から始まると教えられます。
お釈迦さまが説かれた十二因縁でも、
老いと死(老死)の原因は、生まれること(生)だと説かれています。
生老病死の4つは別々の出来事ではなく
生まれたことから始まる一つの流れなのです。
老・病・死はどんな苦しみか
老いの苦しみは、体が衰えていくことだけではありません。
できていたことが一つずつできなくなり、
仕事や家庭での役目も、少しずつ若い人に譲っていきます。
鏡に映る自分の姿に、寂しさを覚える人もあります。
病の苦しみは、痛みや治療のつらさに加えて、
いつ治るのか、元の暮らしに戻れるのか分からない
心細さがあります。
家族に迷惑をかけていないかと、
心を痛める人も少なくありません。
そして死の苦しみは、大切な家族とも財産とも、
それまで手に入れてきたすべてのものとも別れて、
たった1人で旅立たなければならないことです。
しかも、死んだ後どこへ行くのか、
確かなことは誰にも分かりません。
生老病死は誰が説いたのか
生老病死を苦しみとして説かれたのは、
仏教を明らかにされたお釈迦さまです。
約2600年前、インドの釈迦族の王子として生まれ、
29歳で出家されました。
お釈迦さまが王子の位を捨てて出家されたきっかけも、
生老病死でした。
城の東西南北の門から出かけた時に、
老人、病人、死人と出会い、
どんな幸せも続かない、
誰も避けられない苦しみに驚かれたと説かれています。
これを「四門出遊」といいます。
どんなに若くて健康でも、どんなに財産や地位があっても、
老病死を免れられる人はありません。
その厳粛な事実は、2600年前も今も変わりません。
どれだけ医学や科学が進んでも、
人は年を取り、病気になって、死んでいきます。
お釈迦さまは、これらの生老病死の苦しみから、
すべての人を救うために、
お金や財産、地位、名誉、すべてを捨てて
29歳で城を出て、変わらない幸せを求められたのです。
お釈迦さまは、想像もできない激しい修行を6年間なされ、
ついに35歳で仏のさとりを開かれて仏となられます。
老いと病と死を超越した、変わらない幸せを発見されたのです。
それから80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
すべての人が本当の幸せになれる道1つを、
生涯かけて説き続けておられます。
生老病死と四苦八苦の違い
生老病死は、仏教で説かれる
「四苦八苦」のうちの、四苦にあたります。
この四苦に、さらに4つの苦しみを加えたものが、
八苦です。
- 生苦……生きる苦しみ
- 老苦……老いの苦しみ
- 病苦……病の苦しみ
- 死苦……死の苦しみ
- 愛別離苦……愛する人や物と別れる苦しみ
- 怨憎会苦……会いたくない人や物と会わねばならない苦しみ
- 求不得苦……求めるものが得られない苦しみ
- 五陰盛苦……肉体あるがゆえの苦しみ
後の4つは、愛する人や物と別れなければならない愛別離苦、
嫌な人とも顔を合わせなければならない怨憎会苦、
欲しいものが手に入らない求不得苦、
肉体があるために起きる五陰盛苦です。
生老病死の四苦は、誰の身の上にも、
生まれた時から決まっている苦しみです。
それに対して後の4つは、
生きていく中で、人や物との関わりから
次々と起きてくる苦しみです。
この八苦は、お釈迦さまが、仏のさとりを開かれて
初めて説かれた「四聖諦」の一つ目の「苦諦」にあたります。
苦諦とは、人生は苦しみである、という真理です。
生老病死は、仏教の教えの入り口といえます。
普通、「四苦八苦する」というと、
ひどく苦労するという意味で使われますが、
もともとは、この8つの苦しみのことです。
では、世間では、この生老病死を、
どのように受け止めているのでしょうか?
世間でいわれる生老病死の受け止め方
生老病死について、世間では、
主に次のような受け止め方がされています。
- 自然の摂理として受け入れる
- 医学や健康法でできるだけ遠ざける
- 保険や終活で備えておく
- なるべく考えずに今を楽しむ
医学の進歩によって、日本人の平均寿命は、
男性81.05歳、女性87.09歳まで延びました(2022年)。
ですが、健康上の問題で日常生活が制限されずに暮らせる健康寿命は、
男性72.57歳、女性75.45歳です。
その差の、男性で約8年半、女性で約11年半は、
老いや病と付き合いながら暮らす期間です。
寿命が延びても、生老病死がなくなるわけではありません。
そこで多いのが、生老病死は誰にも避けられないので、
自然なこととして受け入れよう、という考え方です。

兼好法師
日本人は昔から、生老病死を見つめてきました。
鎌倉時代の終わりに、兼好法師(1283頃—1352頃)は
『徒然草』にこう書いています。
生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。
四季は、なほ、定まれるついであり。
死期は、ついでを待たず。
死は、前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。(出典:兼好法師『徒然草』第155段)
「生まれ、老い、病み、死んでいく移り変わりは、
季節の移り変わりよりも、さらに速い。
四季には、それでも決まった順序がある。
しかし、死ぬ時は、順序を待ってはくれない。
死は前からやって来るとは限らず、
すでに後ろに迫っている」
ということです。
現代でも、精神科医のエリザベス・キューブラー=ロス(1926—2004)が、
死を告げられた人の心が、最後に死を受け入れる
「受容」に至るまでの心の歩みを研究したことは、
広く知られています。
生老病死をごまかさずに見つめ、
受け入れて、今日一日を大切に生きる。
確かに、それで心が落ち着く人もあるでしょう。
しかし、私たちは本当に、
生老病死を受け入れているのでしょうか?
受け入れたつもりでも見ているのは他人の老い
お釈迦さまは、出家する前の王子だった頃を振り返り、
次のように説かれています。
季節ごとの宮殿に住み、蓮の花が咲く池で遊び、
何不自由のない暮らしをしていた時のことです。
多聞ならざる愚痴の凡夫は、自ら老法有りて老を離れざるに、他人の老を見て、憎悪し薄賤して、愛せず喜ばず、自ら己を観ぜず。
(漢文:不多聞愚痴凡夫,自有老法不離於老,見他人老,憎悪薄賤,不愛不喜,不自観己)(出典:『中阿含経』)
「教えを聞いたことのない愚かな人は、
自分も老いる身で、老いから離れられないのに、
他人の老いを見ると、嫌がって見下し、
自分のこととして見ようとしない」
ということです。
同じお経には、病についても、同じように説かれています。
そしてお釈迦さまは、「私も病む身であり、老いる身だ」と
自分のこととして見つめた時、
驕りの心が消えたと言われています。
さらに、愚かな人は、次の3つに驕って気ままに暮らし、
仏道を求めようとしない、と説かれています。
- 健康の驕り……病気をしないことに驕る
- 若さの驕り……若くて元気なことに驕る
- 命の驕り……まだ生きていられることに驕る
健康診断で気になる数値が出ても、
自分はまだ大丈夫だと思う。
親の老いを目の当たりにしても、
自分がそうなるのは、ずっと先のことだと思う。
私たちにも、思い当たることがあるのではないでしょうか。
健康な時は、病気は他人のことだと思い、
若い時は、老いは遠い先のことだと思い、
生きている間は、死は自分にはまだ来ないと思っています。
お釈迦さまは、それを驕りだと説かれています。
私たちが「生老病死は自然なことだ」と言う時、
思い浮かべているのは大抵、
祖父母の老いや、知人の病や、遠い所の誰かの死です。
いざ自分の体に老いや病が現れると、
なかなか受け入れられるものではありません。
世間の「受け入れる」は
他人の生老病死を眺めているだけです。
では、自分の生老病死を見つめた時、
私たちはどうすればいいのでしょうか?
お釈迦さまは生老病死に「求めよ」と説かれた
お釈迦さまは、別のお経で、
世間の人が大切にして求める3つのものを挙げられています。
それは、若さと、健康と、長い寿命です。
ですが、これらは確実に失われます。
どんなに若くても、必ず老いるときが来ます。
どんなに健康でも、必ずいつか病気になります。
どんなに長生きしても、必ず死ぬことは変わりません。
そう説かれた後、お釈迦さまは、
次のように教えられています。
たとい少壮有りとも、当に不老を求めて、涅槃界に至るべし。
(漢文:設有少壮,当求不老,至涅槃界)(出典:『増一阿含経』)
「少壮」とは、若くて元気な盛りのことです。
「涅槃界」とは、苦しみの滅した境地のことです。
「若いうちに、老いのない境地を求め、涅槃の世界に至りなさい」
ということです。
続けて、健康なうちに、病のない境地を求めなさい、
命があるうちに、死のない境地を求めなさい、
と説かれています。
「不老」といっても、体が年を取らなくなる、
ということではありません。
お釈迦さまご自身も、80歳で
肉体の命を終えられています。
『長阿含経』によれば、
亡くなられる少し前、お釈迦さまはお弟子の阿難に、
「私はもう老いて、年は80になった。
古い車が、手入れを重ねてようやく動くように、
私の体もまた、そのようなものだ」
と説かれています。
仏のさとりを開かれても、体は老いていくのです。
体の老いや病や死は、消えてなくなりはしません。
不老不死の薬を求めた昔の皇帝も、
健康長寿を求める現代の私たちも、
体の老いと死を止めることはできません。
お釈迦さまが「求めよ」と説かれたのは、
体が老いても、病気になっても、死を迎えても、
決して崩れることのない幸せです。
しかも「若いうちに」
「健康なうちに」
「命があるうちに」
と説かれています。
生老病死は諦めて受け入れるものではなく
命があるうちに、それらを超える道を求めるものなのです。
「命があるうちに」と説かれた理由
なぜ「命があるうちに」なのでしょうか。
兼好法師が書いているように、
死は、順序を守ってやって来るものではありません。
年を取ってから、病気になってから考えよう、
と先延ばしにしているうちに、
その日は思いがけず、後ろからやって来ます。
老いが進めば、教えを聞きに行く体力も衰えます。
病が重くなれば、落ち着いて考える余裕もなくなります。
死んだらもう仏教を聞けません。手遅れです。
だからお釈迦さまは、若く健康で、
命のある今こそ求めよ、と説かれたのです。
では、なぜお釈迦さまは、
それほどまでに生老病死を重く見られたのでしょうか?
老病死がなければ仏は世に現れなかった
お釈迦さまは、老いと病と死の3つについて、
このように説かれています。
世間にもしこの三法の、愛すべからず、念ずべからず、意すべからざるものなくんば、如来・応・等正覚は世間に出でず。
(漢文:世間若無此三法,不可愛,不可念,不可意者,如来、応、等正覚不出於世間)(出典:『雑阿含経』)
「三法」とは、老いと病と死のことです。
「愛すべからず、念ずべからず、意すべからざる」とは、
誰も好まず、思いたくもなく、心にかなうこともない、
ということです。
「如来・応・等正覚」とは、仏のことです。
「もし世の中に、誰も望まない老いと病と死がなかったら、
仏がこの世に現れることはないだろう」
ということです。
老いと病と死があるからこそ、
仏はこの世に現れ、
世の人はその解決の道を知ることができるのです。
仏教は、生老病死を慰める教えではありません。
生老病死の苦しみを超えた本当の幸せにする教えです。
仏教を聞けば、どんな人でも、生きている今、
生老病死の大問題を解決して、
死によっても崩れない本当の幸せになることができます。
そのためには、その生死の苦しみの根本原因を知り、
それを断ち切らなければなりません。
では、その生死の苦しみの根本原因とは何なのか、
どうすれば断ち切ることができるのか、
については、仏教の真髄ですので、
メール講座と、電子書籍にまとめておきました。
どちらも無料ですので、今すぐ見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


