唯識とは?意味をわかりやすく解説
「唯識とは」
「唯識を簡単に知りたい」
目の前の机も、窓の外の景色も、隣にいる人も、
確かに自分の外にあるように見えます。
私がいて、私の外に世界がある。
それが当たり前だと、誰もが思っています。
ところが仏教の基礎である「唯識」では、
私たちは心が生み出した世界に生きていて、
心の外には何もない、と教えられています。
そう聞くと、何だか難しい哲学のように
感じるかもしれません。
ですが唯識は、ただ心の仕組みを説明するために
説かれたのではありません。
私たちを本当の幸せへ導くために説かれた教えです。
では、唯識とはどんな教えなのでしょうか?
唯識とは?意味と読み方
唯識とは、ただ識のみということです。
私たちは心が生み出した世界に生きていて、
それ以外には何もないということです。

無著菩薩
唯識は「ゆいしき」と読みます。
「識」とは、心のことです。

世親菩薩
この教えを体系的にまとめたものを現代では唯識思想といわれ、
インドの無著菩薩や世親菩薩によって大成されました。
龍樹菩薩の中観と並ぶ、大乗の基礎理論です。
それをインドに留学して中国に伝えたのが、
西遊記で有名な玄奘三蔵で、
日本には、法相宗として伝えられています。

玄奘三蔵
唯識では、私たちの心を8つに分けて、
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の
八識が説かれています。
その心が、どのように世界を生み出しているのかを、
非常に緻密に教えられているのが唯識です。
心の構造を明らかにした四分説
見分と相分(主体と客体)
普通西洋的な考え方では、
私たちが世界を見ると考えます。
私が主体で、世界が客体です。
仏教ではこの主体を「見分」
客体を「相分」といいます。
ちなみに西洋的な考え方では、
主体は自分の心の中にあって、
世界は自分の心の外にあると思っていますが
仏教では違います。
見分が心の中なのはもちろん、相分も心の中です。
表象みたいなものと思えば分かりやすいかもしれません。
心は見分と相分の2つに分かれているわけです。
普通考えるのは、ここまでです。
あるのは私と向かい合っている対象だけです。
二元の世界で生きています。
自証分(三分説)
ところが唯識では、この二元の背後に自証分があると説かれています。
それというのも、自分の心を知るには、
見ている主体である自分を客観視する必要があります。
自分を客観視するというのは、なかなかの高等技術なので、
気づいていない人もあるかもしれませんが、
やってみると、自分が2つに分かれて
「世界を見ている自分」と、
「その自分を見ている自分」
がいるような気がします。
「世界を見ている自分」は見分ですが、
「その自分を見ている自分」を仏教では
「自証分」といいます。
図にすると、こうなります。
見分も相分も心ですが、
仏教ではそのような主体と客体だけではなく、
実はその背後には、自証分という心がある
と教えられています。
心が3つに分かれたわけです。
これを三分説といいます。
この三分説で、唯識は大体分かります。
ですが、もう1つあります。
証自証分(四分説)
なぜかというと、
「自分を見ている自分」も自分の心なので、
自分の心を知ろうとすると、
「自分を見ている自分」を見ている心が出てきます。
つまり自証分を見る心が出てきます。
その自証分を見る心を
「証自証分」といいます。
図にすると、こうなります。
これで自分を見ている自分を見ることができます。
……ですが、この調子でいくと、
さらに自分の心を知ろうとして、
自分を見ている自分を見ている自分を
見る心が出てきます。
このように5番目の心、6番目の心、7番目の心……
と限りなく心を増やさないといけないかと思いますが
その必要はありません。
仏教では、4番目の証自証分を見る心は、
3番目の自証分だと教えられています。
自証分と証自証分は、お互いに見合っているので、
最終的に、心は全部で4つに分かれています。
これを四分説といいます。
私たちが認知作用で自覚するのは、
普通は主体と客体の2つだけで、
その背後に自証分とか証自証分があるとは
ほとんど気づきません。
ですが、もし自己を本当に客観視するとすれば、
ここまで必要です。
ほとんどの人は、
「自分を見ている自分」については
考えていないと思いますが、
仏教では、心の構造を非常に深く、
緻密に教えられているわけです。
世界はすべて心の中にある(識転変)
この見分と相分はどうして起きてくるかというと、
自証分から起きてきます。
自証分の中に業の種子があり、
それが見分と相分になります。
これを「識転変」といいます。
自証分のことを、自体分ともいいます。
自体分が変じたものが見分と相分です。
1つの心が主体と客体の2つに分かれてきます。
私と私以外のすべてのものに分かれて、
私が世界を見るという形になります。
種子は自体分の中にありますが、
それを対象化すると、見分と相分が同時に現れてきます。
普通はみんな、私は心の内側だけど、
世界は私の外側にあると思っています。
(内)|(外) 私 | 世界 |
ところが、そうではありません。
分別によって心の外側にあるように現れていますが、
実は心が主体と客体の2つに分かれて現れているので、
外側は存在しません。
どちらも心の中です。
(内) (内) | 私 世界 | |
外にあるかのように現れていますが、
本当は心の中です。
だから唯識といいます。
このことをお釈迦さまは、
『華厳経』にこう説かれています。
三界は虚妄なり。
但だ是れ心の作なるのみ。
(漢文:三界虚妄。但是心作)(出典:『華厳経』)
「三界」とは、私たちが生まれ変わり死に変わりを繰り返している、
迷いの世界全体のことです。
「虚妄」とは、本当はないのに、あるように見えている、
ということです。
「但だ是れ心の作なるのみ」とは、
ただ心が作り出したものにすぎない、ということです。
世界が心の外にあるように思っているのは間違いであり、
実は心の中にあるというのが唯識の真理です。
唯識は何のために説かれたのか
我執と法執(二執)
唯識が何のために説かれているのかというと、
我と法に対する迷いを打ち破り、
真の幸せである、涅槃と菩提へ導くためです。
我とは、見分を実体視したものを「我」といいます。
法とは、相分を実体視したものを「法」といいます。
これを実我とか実法ともいいます。
本当は心の中にあるのですが、
心の外にあるように思っています。
あたかも夢の中に現れたものを
本当にあると思っているようなものです。
夢は心の内側なのですが、
あたかも外側の対象のように思います。
それと同じように、
心の中にあるものを心の外にある実体だと思っています。
見ている私に実体があると思ったのが我執、
見られる対象に実体があると思ったのが法執です。
この我執と法執を二執といいます。
執というのは執着のことですが、
ここでは好きになることではなく、
実体があると思うことです。
何もないというわけではなく、
識が変じて現れたものです。
それを実体ある我、実体のある法だと思っています。
心が変現したものは存在しますが、
実体をもって存在しているのではありません。
因果の道理に基づいて、
心が変じて仮に存在しています。
本当は心の中にあるのに、外側にあるように現れています。
実体のある実我、実法は存在しないのに、
存在すると執着しています。
煩悩障と所知障(二障)
この実我、実法があると執着する
我執と法執の二執のために二障が生じます。
二障とは、煩悩障と所知障の2つです。
煩悩障とは、普通の煩悩のことです。
煩悩は輪廻を引き起こして解脱を妨げています。
その煩悩を修行によって断じたとしても、
まだ残っているのが所知障です。
煩悩の底に所知障があるようなものです。
所知障は菩提を妨げていますので、
完全なさとりを得るには所知障も断じなければなりません。
煩悩障を断ずることによって解脱が得られ、
所知障を断ずることによって菩提が得られます。
小乗の修行によって、もし煩悩を完全になくすことができれば、
阿羅漢になります。
ですが阿羅漢は所知障を断じていないので、
まだ仏のさとりではない、ということです。
所知障まで断じて初めて仏のさとりを得られます。
蛇縄麻のたとえ
この煩悩障と所知障の関係は、
蛇縄麻のたとえで説かれます。
薄暗がりで、道を歩いていると、
縄の切れ端が落ちていたとします。
薄暗いので、それは蛇だと思って驚きます。
ところが人から「それは蛇じゃないよ」と言われると
初めてそれが縄だと分かります。
この時、蛇だと思うことは我執にあたります。
その本体が、縄だと分かることは、法執の段階にあたります。
これも縄という1つの執着です。
縄の本体を考えていくと、麻をより合わせて作られています。
その本体が麻だと分かると、1つの真理に到達します。
蛇も縄も本当の意味では迷いです。
ですから唯識の修行は、我執を滅ぼしていきます。
その段階で縄だと気がつきます。
ですが縄も1つの間違いですので、
それもなくしていく修行をしていかなければなりません。
我執を全部なくし、
法執を全部なくすことによって成仏できます。
これには大変な修行が必要です。
唯識の修行の5つの段階(五位)
唯識の修行の段階は5つあります。
これを五位といいます。
- 資糧位
- 加行位
- 通達位
- 修習位
- 究竟位
の5つです。
まず発心してスタートです。
仏のさとりを開きたいと菩提心を起こします。
資糧位は、さとりを得る糧を積んでいく段階です。
さとりの52位でいえば、十信はカウントされず、
十住、十行、十回向の段階です。
非常に長い時間かかります。
加行位は非常に短い時間で、通達位が初地です。
ここからは聖者となります。これ以前が凡夫です。
修習位が八地です。
究竟位が仏のさとりです。
どのくらい時間がかかるかというと、
発心から通達位まで第一阿僧祇劫
初地から第七地まで第二阿僧祇劫
第八地から仏果まで第三阿僧祇劫
です。
劫というのは、4億3200万年といわれる気の遠くなるような長い時間です。
その3倍の三大阿僧祇劫の間、
生まれ変わり死に変わり修行を続け、
ようやく我執と法執を完全になくし、
仏のさとりを得ることができるということです。
始まりのない始まりから輪廻転生を繰り返してきた世界は
なかなか抜け出せません。
それを抜け出すには、
大変な修行をしなければならないということです。
すべての人が本当の幸せになれる道
このように
我執と法執を断ち切るのは非常に大変なのですが、
輪廻の根本原因を断ち切れば、
煩悩はそのままで、現在生きている時に
未来永遠の幸せになることができる道も
お釈迦さまは説かれています。
これは出家も修行も必要ありません。
すべての人が本当の幸せになれる唯一の道です。
三大阿僧祇劫もの長い修行ができなくても、
生まれも、才能も、年齢も関係なく、
どんな人でも、生きている今、
「人間に生まれてよかった」と心から喜べる身になれるのです。
果てしない昔から続けてきた迷いの打ち止めをして、
人間に生まれた今、ここで本当の幸せになることができます。
では、その輪廻の迷いの元凶が一体どんなもので、
どうすれば断ち切って本当の幸せになれるのかについては
仏教の真髄ですので、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。



