臨死体験とは?死後の世界を体験した人の実話と共通点・仏教の答え
「臨死体験って、本当にあるの?」
「死んだら、私もあの光の世界へ行くの?」
心臓が止まった人が息を吹き返し、
「きれいなお花畑を歩いていた」
「亡くなった祖母が迎えに来てくれた」
と語るのを、テレビや動画で
見聞きしたことがあるかもしれません。
人は死んだらどうなるのか。
これは、誰もがいつか必ず向き合う問題です。
もし、死後の世界を体験した人がいるなら、
その体験を知りたいと思うのは当然です。
世間では、臨死体験は
「死後の世界がある証拠だ」といわれる一方で、
「脳が見せる幻覚にすぎない」ともいわれます。
ところが仏教では、そのどちらとも違う見方をします。
しかも、2000年以上前から伝えられてきたお経に、
「死んで戻ってきた人がいないのだから、
死後の世界などない」と言い張る人と、
お釈迦さまのお弟子との問答が説かれています。
では、臨死体験とは、どのような体験で、
仏教ではどのように説かれているのでしょうか?
臨死体験とは?意味と由来・体験する人の割合
「臨死体験」とは、事故や病気で心臓が止まるなど、
死の間際まで行った人が、
意識を取り戻した後に語る体験のことです。
「臨死」とは、死に臨むことです。
英語では「Near-Death Experience」といい、
頭文字をとって「NDE」とも呼ばれます。
このような体験は昔から語られてきましたが、
世界中に広まるきっかけとなったのは、
アメリカの精神科医レイモンド・ムーディ(1944-)が
1975年に出版した『Life After Life』です。
ムーディは、死の淵から生還した人々の体験を聞き取り、
そこに共通する特徴を明らかにしました。
日本でも『かいまみた死後の世界』として
翻訳されています。
日本で「臨死体験」という呼び名が広まったのは、
ジャーナリストの立花隆氏(1940-2021)が
1991年にNHKスペシャルで取材の成果を発表し、
1994年に著書『臨死体験』を出してからだといわれます。
では、臨死体験をする人は、どれくらいあるのでしょうか。
心停止から蘇生した人のうち、
臨死体験を語る人は4〜18%ほどといわれます。
オランダの心臓専門医ピム・ファン・ロンメル(1943-)が
2001年に医学雑誌『ランセット』に発表した調査では、
心停止から蘇生した344人のうち、
62人(18%)が臨死体験を語っています。
決して、ごく一部の人だけの特別な体験ではありません。
なお、臨死体験をしてみたいと思う人もあるようですが、
臨死体験は、命が危うくなった時に起きるものです。
自分で起こそうとして、
体を危険にさらすことは決してしないでください。
では、臨死体験をした人は、
どんな景色を見ているのでしょうか?
臨死体験の共通点とは?よく語られる8つの特徴
臨死体験の内容は人によって様々ですが、
不思議なほど、共通する特徴があります。
- 体外離脱:自分の体を、天井のあたりから見下ろす
- トンネル:暗い筒のような所を通り抜ける
- 光:まばゆいのに温かい光に包まれる
- 再会:亡くなった家族や知人に会う
- 人生回顧:これまでの人生が一瞬でよみがえる
- 安らぎ:痛みが消え、深い安らぎに満たされる
- 境目:川や門など、越えてはならない所に行き当たる
- 帰還:「まだ来てはいけない」と告げられ、体に戻る
すべてを体験する人は少なく、
このうちのいくつかを体験する人がほとんどです。
中でも人生回顧は、昔から
「走馬灯のように」とたとえられてきた体験です。
そして、どんな景色が見えるかは、
生まれ育った国によって違いがあることも
分かってきています。
日本人の臨死体験は三途の川とお花畑
立花隆氏は、日本人の臨死体験を243例集めて調べています。
すると、体外離脱やトンネルのように
欧米と同じ特徴がある一方で、
三途の川やお花畑を見たという人が多く、
光に出会う人は比較的少なかったといいます。
また、昔の日本人の臨死体験には
閻魔大王がよく現れたのに、
今ではほとんど見られなくなったといわれます。
時代や文化によって、見える景色は変わっていきます。
しかも、臨死体験で見える景色は、
心安らぐものばかりではありません。
地獄のような怖い臨死体験もある
臨死体験というと、光やお花畑のような
安らかな体験ばかりが取り上げられがちです。
しかし実際には、真っ暗な闇の中に放り出された、
恐ろしいものに責め立てられたなど、
まるで地獄のようだったという
怖い臨死体験を語る人もいます。
このような体験は、思い出すのもつらいため、
人に語られることが少ないともいわれます。
テレビや本で取り上げられる体験は、
臨死体験の一部にすぎません。
では、実際に死の淵から戻ってきた人は、
自分の体験をどのように語っているのでしょうか?
死後の世界を体験した人の実話と臨死体験をした有名人
臨死体験の体験談は、世界中で数多く報告されています。
中でも、日本で広く語られてきたのが、
次の3人の体験です。
彗星捜索家の木内鶴彦さん
木内鶴彦氏(1954-2024)は、
航空自衛隊に勤めていた22歳の時、
上腸間膜動脈性十二指腸閉塞という珍しい病気で倒れ、
一度は死亡が確認されたものの、
およそ30分後に息を吹き返したと語っています。
木内さんは、その時に見た世界を講演や
著書『「臨死体験」が教えてくれた宇宙の仕組み』で語り続け、
のちに、いくつもの彗星を見つける
コメットハンターとして活躍しました。
臨死体験をきっかけに、人生が大きく変わった一人です。
脳神経外科医のエベン・アレグザンダーさん
アメリカの脳神経外科医
エベン・アレグザンダー(1953-)は、
2008年に細菌性髄膜炎にかかり、
7日間、深い昏睡状態に陥りました。
意識を取り戻した後、昏睡の間に
光と美しい景色に満ちた世界を見たと語り、
その体験を綴った『プルーフ・オブ・ヘヴン』は、
世界的なベストセラーになっています。
脳の働きを知り尽くした医師の体験として注目された一方、
その解釈には異論もあります。
臨死体験を追い続けた立花隆さん
立花隆氏は、自らが臨死体験をしたのではなく、
体験者と研究者を取材し続けた人です。
1991年3月17日放送のNHKスペシャル
「立花隆リポート 臨死体験〜人は死ぬ時 何を見るのか〜」では、
世界各地の体験者と研究の動きを伝えました。
それから20年以上経った2014年にも、
NHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント
死ぬとき心はどうなるのか」で、
改めて世界の研究者を訪ねています。
長年にわたって臨死体験を取材してきた立花氏は、
晩年のインタビューで、
死が自然と怖くなくなったと語っています。
このように、臨死体験を知って、
死が怖くなくなったという人は少なくありません。
では、臨死体験は、死後の世界がある証拠なのでしょうか?
臨死体験は死後の世界の証拠か脳が見せる幻覚か
臨死体験については、大きく2つの見方があります。
1つは、スピリチュアルの世界などでいわれるように、
臨死体験は、死後の世界を垣間見た体験だという見方です。
体外離脱をしている間に見た手術の様子や、
医師たちの声を、正確に覚えていたという例もあり、
意識がないはずの時のことを、なぜ語れるのか。
それが、この見方の大きな根拠になっています。
2023年には、アメリカのニューヨーク大学などの研究チームが、
心停止で蘇生措置を受けた人の脳波を調べた研究を
発表しています。
蘇生措置を始めて1時間経っても脳波が観測された人があり、
研究チームは、臨死体験は幻覚とは違うと主張しています。
もう1つは、臨死体験は、
死に瀕した脳の働きによる幻覚だという見方です。
脳の酸素が足りなくなると、光やトンネルが見える。
強いストレスで脳内物質が出て、安らぎを感じる。
側頭葉と頭頂葉の境目辺りが刺激されると、
体から抜け出したような感覚が起きる。
科学の分野では、このような説明が試みられています。
どちらの見方にも、頷ける部分があります。
自分の目で見たはずのない場面を語るのは不可解ですし、
脳の仕組みで説明できる部分があるのも確かです。
ただ、どちらの立場も、
臨死体験が死後の世界を映しているかどうかを争っていて、
その陰で、見落とされていることがあります。
それは、臨死体験を語る人は、
全員がこちらの世界に戻ってきた人だということです。
では、戻ってきた人の体験から、
死後の世界は分かるのでしょうか?
臨死体験で死後の世界は分かるのか?お経に説かれる問答
臨死体験で語られるのは、死の向こう側ではなく、
手前の景色です。
臨死体験をした人は、死の間際まで行きながら、
こちらの世界に引き返してきた人です。
本当に死んで、次の世界に生まれた人が、
戻ってきて語ったわけではありません。
木内さんのように、医師から死亡を告げられた後に
息を吹き返した人もあります。
しかし、脈や呼吸、瞳孔などから死を判断するのは、
外から見た人間の判断です。
死亡と判断された後に息を吹き返す人があるのは、
その判断が絶対ではないからです。
息を吹き返した人は、まだ本当の死を
迎えていなかったのです。
実は、「死んだ人が戻ってきて教えてくれないのなら、
死後の世界はない」という主張は、昔からあります。
『長阿含経』には、弊宿という婆羅門が、
お釈迦さまのお弟子の童女迦葉に
こう言い張る場面が説かれています。
(童女迦葉は、十大弟子の摩訶迦葉とは別の人です)
弊宿は、「他の世界もなく、生まれ変わりもなく、
善と悪との報いもない」と主張しています。
その理由として、弊宿は、自分の親族のことを持ち出します。
悪いことばかりしていた親族が重い病気になった時、
「沙門たちの説くとおりなら、お前は死んだら地獄に堕ちる。
本当に地獄があったら、戻ってきて私に知らせてくれ」と頼んだ。
ところが親族は、死んだきり今も戻ってこない。
そう語った後、弊宿はこう言い切ります。
初めより未だ曾て、死して已に来還し、堕つる所の処を説くを見ず。若し人有りて来たりて堕つる所の処を説かば、我必ず信受せん。
(漢文:初未曾,見死已来還,説所堕処。若有人来説所堕処,我必信受)(出典:『長阿含経』)
「死んでから戻ってきて、自分の堕ちた所を語った人を、
私はこれまで一人も見たことがない。
もしそんな人が来て語ってくれたら、必ず信じよう」
ということです。
死んでからの行き先を、
実際に見てきた人の口から聞きたい。
弊宿の心は、今の私たちとまったく同じです。
これに対して童女迦葉は、たとえで答えます。
王の法を犯して捕らえられた盗賊が、刑場へ引かれていく。
その途中で、見張りの者に
「家族に別れを告げたら必ず戻るから、少しの間放してくれ」
と頼んだとしても、見張りは決して放さない。
同じ人間同士でさえそうなのだから、
地獄に堕ちた者が、地獄の鬼にいくら頼んでも、
放してもらえるはずがありません。
童女迦葉は、こう続けます。
獄鬼は慈無く、又其の類に非ず。死と生とは世を異にす。
(漢文:獄鬼無慈,又非其類。死生異世)(出典:『長阿含経』)
「地獄の鬼には情けがなく、人間の仲間でもない。
死んだ者と生きている者とでは、住む世界が違う」
ということです。
それなら、善いことをして天上界に生まれた人は、
戻ってきてくれるはずだと、弊宿は食い下がります。
すると童女迦葉は、深い便所に落ちた人が、きれいに洗い清められ、
香を塗られ、立派な御殿で楽しんでいる時に、
もう一度、便所に入りたいと思うだろうかと尋ねます。
天上界から見ると、人間の世界は、
それほど汚れて見えると説かれています。
さらに童女迦葉は、人間の世界の100年は、
忉利天という天上界の一日一夜にあたると説きます。
天に生まれた人が、2、3日楽しんでから
知らせに行こうと思っている間に、
待っている人の寿命は、とうに尽きてしまいます。
それでも信じようとしない弊宿に、
童女迦葉は、生まれつき目の見えない人のたとえを説きます。
色を見たことのない人が、
「青や黄の色など、どこにもない。太陽も月も星もない」
と言ったら、それは正しいだろうか。
世の中には、色も太陽も月も確かにある。
自分に見えないからといって、ないとは言えません。
本当に死んで次の世界に生まれた人は、
戻ってきて知らせることはありません。
戻ってきて語ることができるのは、
死の手前で引き返してきた人だけです。
ですから臨死体験は、死後の世界がある証拠にも、
死後の世界がない証拠にもなりません。
臨死体験をいくつ集めても、そこから分かるのは、
死の入り口までの景色なのです。
では、死後の世界は、
死んでみなければ分からないのでしょうか?
仏教に説かれる死後の世界とは
「死んだら分かる」という人もあります。
しかし、死んでから分かった時には、
もう引き返すことはできません。
生きている今、知らなければ、間に合わないのです。
仏教では、死んだ後の世界を「後生」といいます。
その後生を、お釈迦さまは、
臨死体験をした人の報告によってではなく、
仏のさとりの智慧によって明らかにされています。
その根幹にあるのが、因果の道理です。
因果の道理とは「すべての結果には必ず原因がある」ということです。
これに例外はありません。
善い種をまけば善い結果が、
悪い種をまけば悪い結果が現れ、
自分のまいた種は、自分が刈り取らなければなりません。
これを「因果応報」といいます。
私たちが、心と口と体で行うことを、
仏教では「業」といいます。
死によって体はなくなっても、
生きている間、死ぬまでに造った業は消えません。
その業が、死んだ後に生まれる世界を生み出していきます。
自分の造った業の報いを、自分が受けていく。
これを「自業自得」といいます。
業によって生まれる世界は、苦しみの激しい地獄から
天上界まで大きく6つに分けられ、「六道」と説かれます。
ですから死後の世界は、みんなが一緒に行く、
どこか一つの場所ではありません。
一人一人が、自分の業によって生み出す世界に、
たった一人で生まれていくのです。
『大無量寿経』には、善悪の業によって生まれる所が変わり、
遠く他の所へ行ってしまえば、もう誰も見ることはできないと説かれ、
続けてこう説かれています。
窈窈冥冥として別離久しく長し。
道路同じからずして会い見ること期無し。
(漢文:窈窈冥冥別離久長。道路不同会見無期)(出典:『大無量寿経』)
「死んで行く先は、果てしなく遠く道は暗い。
一度別れたら、その別れは長く続く。
それぞれ行く道が違うので、再び会える時はない」
ということです。
臨死体験では、亡くなった家族が
迎えに来たと語られることがあります。
亡くなった人にもう一度会いたいという願いは、
誰の心にもあるものです。
しかし、お経に説かれているのは、
それぞれが自分の業によって別々の道を行き、
再び会える縁はどこにもないという厳しい現実です。
このように、後生には、自分の業によって生み出される、
一人一人の大問題があります。
これを、仏教では「後生の一大事」といいます。
臨死体験に触れて、死の恐怖が薄らいだ人が
少なくないことは、先に述べたとおりです。
体験者の多くは、お金や財産、地位、名誉よりも
人とのつながりを大切にするようになるなど、
生き方まで大きく変わるといわれます。
死に直面すれば、お金や財産、地位、名誉が
何の役にも立たないことが知らされるのでしょう。
ですが仏教では、死の恐れが薄らぐことと、
後生の一大事が解決することとは、全く別のことです。
臨死体験の安らぎは、死の手前で感じたものであり、
その先の後生を保証するものではないからです。
お釈迦さまは、臨死体験をしなくても、
生きている時、三杯ご飯が美味しい今、後生の一大事を解決して、
本当の幸せになれる道を説かれています。
この幸せこそ、私たちが人間に生まれてきた目的であり、
すべての人の人生の目的です。
ではその、後生の一大事を解決して、
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どうすればその幸せになれるのか、
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作に引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。


