大迦葉(マハーカッサパ)とは
「大迦葉(だいかしょう)」は、「摩訶迦葉(まかかしょう)」とか単に「迦葉(かしょう)」といわれますが、三迦葉とはまったく別人です。
大迦葉は十大弟子の一人で頭陀(ずだ)第一といわれ、『法華経』や『大無量寿経』、『阿弥陀経』にも登場します。
お釈迦さまがお亡くなりになった後は、残されたお弟子を集めてお経をまとめる結集(けつじゅう)という会議を開きました。
また、禅宗では、第二祖とされます。
一体どんなお弟子だったのでしょうか?
大迦葉の生い立ち
大迦葉は、『仏本行集経(ぶつほんぎょうじっきょう)』によれば、マガダ国の近くの摩訶波羅陀村の裕福なバラモンの家に一人息子として生まれました。
お父さんの名前をニグローダ・ゴーパ(尼拘律陀羯波)と言い、マガダ国のビンバシャラ王よりもお金持ちでしたが、ビンバシャラ王にねたまれないように、王より少し少なめにしていたといわれます。
大迦葉は、その大邸宅の庭のピッパラ(畢鉢羅)樹の下で生まれたのでピッパラヤナ(畢鉢羅耶那)と名づけられました。
光り輝くようなかわいい子供でした。
両親は、ピッパラヤナのために、抱いてあやす係、乳を与える係、遊び相手係、看護係の4人をつけて大切に育てます。
8歳になると、バラモンとしての決まりを教え、バラモン教の学問や、算術や文章、占い、音楽など、様々な技術を習わせたところ、生まれつき頭のよかったピッパラヤナは、すべてを身につけてしまいました。
ところがピッパラヤナは、成長するにつれて、世間の欲望を満たしても虚しいだけだと思い、出家して修行したいと思うようになります。
やがて結婚適齢期になると、両親は、ピッパラヤナに結婚を勧めます。
ピッパラヤナは、
「私は結婚よりも、煩悩を離れて道を求めたいと思います」
と答えると、両親は、
「お前にはうちの財産を継いでもらわないといけない。
それに言い伝えでは、後継者がないと死んだ後は天上界に生まれられないと言われるじゃないか。
どうか、出家などしないで結婚してくれ」
と言って、譲りません。
大迦葉の嫁探し
困り果てたピッパラヤナは、思案の末、黄金で美しい娘の像を作らせました。
それを両親に見せると、
「もしこのような光り輝く美しい娘がいれば結婚しましょう」
と言います。
今度は両親が困り果てていると、一人のバラモンが一計を案じ、
「私が探し出して見せましょう」
と言います。
そのバラモンは、黄金の美しい娘の像を飾り、
「願いごとのある少女がこの美しい神に祈れば、どんな願いもかなう」
といって各地をふれまわりました。
ところがさすがに黄金の娘以上の美女は現れません。
やがてそれほど遠くない迦毘羅迦という村にたどりついた時のことです。
そこに迦毘羅というバラモンがいて、ちょうど妙齢の妙賢(みょうけん)という美しい娘がありました。
ある祭りの日に、友達に誘われて、妙賢が黄金の美しい娘の像を見に来ました。
その妙賢が、黄金の像の前に進み出ると、周りの人は息を飲みます。
妙賢の美しさの前には黄金の像も光を失ってしまったのでした。
それを見た嫁探しのバラモンは、迦毘羅のもとを訪ねて事情を説明し、妙賢をピッパラヤナの嫁にもらえないかと話します。
迦毘羅は、ピッパラヤナの家が本当に大富豪のバラモンなのか確かめてから返事をするといいます。
そして迦毘羅は、二人の息子に、ピッパラヤナの父親のニグローダ・ゴーパの家を調べに行かせました。
嫁探しのバラモンは、大急ぎでニグローダ・ゴーパにそれを伝えると、ニグローダ・ゴーパは数え切れないほどの牛の群れを途中の道に放しました。
そして、妙賢の兄弟がやってくると、手厚くもてなします。
兄弟が「この牛の群れはどなたのものですか?」
と尋ねると、
「これは、ニグローダ・ゴーパというバラモンの牛の群れです。
これから先、ニグローダ・ゴーパ様の家までこのような牛の群れが続きます」
と答えます。
兄弟は、その豊かさを思い知らされ、
「どれだけ大金持ちか分かったから、もう早く父に報告しよう」
とそこで帰ってしまいました。
結婚相手の美しさの確認
黄金の娘よりも美しい娘が見つかったとの知らせを聞いたピッパラヤナは驚きました。
まさかとは思いましたが、自分で言った手前、どうにもなりません。
「それでは私が自分の目で本当に黄金の娘以上に美しいか確かめて参ります」
と言って、托鉢しながら娘の村へ訪ねていきました。
ピッパラヤナが娘の家にたどり着き、布施を請うと、この村の習慣では、その家の女が食べ物を与えることになっていたので、妙賢がピッパラヤナの前に出てきました。
ピッパラヤナは一目見ると、この娘に違いないと思い、
「つかぬことを聞きますが、あなたはとてもいい娘さんですが、結婚はされないのですか?」
「はい、マガダ国のある村のバラモンから、息子のピッパラヤナの妻に欲しいと言われています」
「そうですか。しかし彼は、出家を望んでいるそうですが」
「本当ですか?それは嬉しいことです。
私も実は出家したいのですが、親に勝手に婚約させられてしまったんです」
「そうでしたか。実は私がピッパラヤナなんです」
こうして2人は、お互い共通の願いがあることが分かったので、親孝行のために形だけ結婚することにしました。
結婚生活
やがてニグローダ・ゴーパの家に花嫁がやってきたときには、天女のような美しさでしたが、新郎新婦は、指一本触れず、ましてや一緒に寝ることもありませんでした。
これを知った両親は、夫婦の寝室に一つしかベッドを置きません。
ところが、ピッパラヤナが寝ている時は、妙賢は室内を歩き回り、妙賢が寝ている時は、ピッパラヤナが室内を歩き回るというように、交互に床に就き、誓って枕を交わすことがありませんでした。
ある夜、妙賢が寝ている時に、室内を歩いていたピッパラヤナは、一匹の黒蛇がベッドの下にいるのを見つけました。
妙賢は、片手をベッドから垂らしています。
もし黒蛇に噛まれたら大変なことになるので、ピッパラヤナは、自分の手を衣服に包んで妻の手をベッドの上に乗せました。
驚いて目を覚ました妙賢は、ピッパラヤナがどうして急に手に触れてくるのかと心配しましたが、事情を聞いて安心しました。
このように2人は、指一本触れずに、12年の歳月が経ちました。
その間に、両親とも他界し、ピッパラヤナは、家を継いでいたのでした。
大迦葉の出家の動機
ある日、妙賢は、ピッパラヤナに言われて、牛に飲ませる胡麻の油をたくさんの使用人に絞らせました。
彼等は命令通りに、たくさんの胡麻をさらすと、たくさんの虫が動いています。
使用人たちは、気味悪がって、ささやきます。
「こんなにたくさんの生き物を殺したら、どんな重い罪になるだろう。
でもこれは奥様の命令だから、私たちの罪ではなくて、奥様の罪になるだろう」
それを聞いた妙賢は、確かにそうだと思い、使用人たちに胡麻をしぼるのをやめさせて、部屋に閉じこもって物思いに耽りました。
ピッパラヤナは、いつものように田畑を見回っていると、小作人が牛を使って田畑を耕していました。
たくさんの生き物が踏まれたり、くわに潰されたりして死んでいます。
それを見たピッパラヤナは、
「私は生活に必要な分はもうあるのに、どうしてこんなにたくさんの生き物を苦しめなければならないのだろう。
生活に必要のないぜいたくのために、これだけの生き物を殺しているというのはなんと罪深いのだろうか」
こう思いながら家に帰ると、妻も暗い顔をしています。
お互いに理由を語り合うと、ピッパラヤナは、
「私はどうしても出家したい」
と妙賢に言います。
それは妙賢も結婚前から望むところでした。
これまでは両親への配慮で家業を継いでいましたが、今はもう何も心配することはありません。
ピッパラヤナは、自分の財産を調べて全部人に分け与えると、妙賢に
「私は今からいい先生を探しに行くが、そなたはしばらく家に残るがよい。
もしいい先生が見つかったら連絡するから、その時にそなたも出家しよう」
と言って、先に出家したのでした。
それはちょうど、お釈迦さまが仏のさとりを開いた日であったといわれます。
この時からピッパラヤナは、迦葉族の出身だったので、「大迦葉」といわれるようになります。
お釈迦さまとの出会い
お釈迦さまは仏のさとりを開かれた後、まず鹿野苑で五比丘を救い、ブッダガヤに戻られて、三迦葉とその弟子1000人を弟子にします。
それから王舎城へ赴かれ、ビンバシャラ王の帰依を受けて竹林精舎が建立されます。
やがて舎利弗、目連とその弟子250人が弟子入りしていました。
その間、大迦葉は師を探し求めて2年ほど各地をまわっていたのですが、やがて王舎城の竹林精舎にお釈迦さまと1250人のお弟子が滞在していることを耳にします。
大迦葉が喜んで竹林精舎に向かいます。
お釈迦さまもそれを察知されると、
「彼の過去の善は熟している。今から行って道に入らしめよう」
と言われ、竹林精舎を出て行かれました。
大迦葉が王舎城の近くの村までやってくると、ほこらの近くの樹の下にお釈迦さまが座っておられました。
その尊い姿から、お釈迦さまだと分かった大迦葉は、ひれ伏して礼拝し、
「世尊、どうかお弟子にしてください」
とお願いします。
快諾されたお釈迦さまは、四聖諦、十二因縁などの基本的なところから順をおって説法をされ、それから8日目に大迦葉は悟りを開いたといわれます。
妻の妙賢(みょうけん)の出家
大迦葉は、いい先生が見つかったら連絡するという妻との約束を忘れてはいませんでしたが、最初は女性がお釈迦さまのもとへ出家することはできませんでした。
妻の妙賢は、1年待っても2年待っても夫からの連絡がありません。
ついに妙賢は、自分で先生を探そうと思い、家を出て行ってしまいました。
やがてガンジス河のほとりで、裸形外道(ジャイナ教)のもとで出家をしたのでした。
大迦葉が出家してから約1年後、お釈迦さまは故郷のカピラ城に赴かれたので大迦葉もついて行きました。
その間、お釈迦さまのお父さんの浄飯王(じょうぼんのう)が亡くなり、祇園精舎に戻られると、阿難や阿那律、ダイバダッタなど、たくさんのカピラ城の王族が出家しました。
その後にお釈迦さまの養母のマカハジャバダイ夫人も出家を希望し、初めて尼僧の教団ができました。
そこで大迦葉は、一刻も早く妙賢に伝えなければならないと思い、一人の尼僧に頼んで妙賢に連絡をとってもらいました。
すると、待ちに待った大迦葉の迎えに喜んだ妙賢は、仏教の教えを聞くと、身の毛もよだつほどのすばらしさに、すぐにジャイナ教を捨て、お釈迦さまのもとへやってきました。
お釈迦さまに出家を許されると、マカハジャバダイ夫人のもとで修行に励み、やがて悟りを開いたといわれます。
頭陀第一(ずだだいいち)
大迦葉は、小欲知足で真面目に修行したので、やがて釈迦十大弟子に数えられるようになり、頭陀(ずだ)第一と讃えられるようになりました。
よくだぶだぶの袋を頭陀袋といいますが、頭陀は頭陀行という修行のことです。
頭陀行というのは、煩悩の塵や垢をふるい落とし,衣食住についての欲望を払い捨てて清らかに仏道修行に励むことをいいます。
そのための12種の実践があり、『十二頭陀経』によれば以下の12項目です。
- 人家を離れた静かな所で修行する
- 常に托鉢で食べ物を得る
- 托鉢するのに家の貧富を差別選択せず順番に乞う
- 1日1食
- 食べ過ぎない
- 正午を過ぎてからは飲食しない
- 人が捨てたボロで作った衣を着る
- 三衣(さんね)といわれる袈裟、上着、下着以外は持たない
- 墓場に住む
- 樹の下に住む
- 空き地に座る
- 常に座して横にならない
この中でも特に托鉢を頭陀ということがあり、その時に首から下げて物を入れる袋を頭陀袋といいます。
この中の一つだけでもそう簡単にはできませんが、大迦葉はすべてを一生涯守り通したのです。
お釈迦さまはしばしば他の弟子に、大迦葉の頭陀行をほめたたえられました。
お釈迦さまの座を分けられる
『雑阿含経』によれば、お釈迦さまが祇園精舎におられるとき、大迦葉が頭陀行から帰ってくると、新しい弟子で、大迦葉を知らない人がありました。
大迦葉のぼろぼろの姿を見て、見下します。
「あのぼろぼろのさえない者は誰だ?」
とささやく声が聞こえると、お釈迦さまは座を半分に分けられて
「大迦葉よ、よく来た。ここに座るがよい」
と言われます。
周りの仏弟子たちからどよめきが起こる中、大迦葉は
「畏れ多いことでございます。私は末席において頂ければ十分有り難く思います」
と辞退します。
その時お釈迦さまは、大迦葉の徳の高さをほめられて、さとりとはどんなものかを教えられたといわれます。
拈華微笑(ねんげみしょう)
お釈迦さまが霊鷲山(りょうじゅせん)におられた時、金波羅華(こんぱらげ)という一本の花を持って説法に立たれました。
ところが一向に話をされず、つまんでおられる花をひとひねりされました。
集まった人々は、誰もその意味が分かりません。
その中で、大迦葉だけがその心を分かり、にっこり微笑みました。
これを拈華微笑(ねんげみしょう)といわれます。
このことから禅宗では、悟りは最後は言葉を使わずに、心と心で伝えるものとしています。
これを「以心伝心(いしんでんしん)」といわれます。
こうして禅宗では、お釈迦さまから悟りを受け継がれた大迦葉を禅宗の第二祖としています。
仏典結集(ぶってんけつじゅう)
お釈迦さまが亡くなられた時、大迦葉はたくさんの修行僧を率いてお釈迦さまのもとへ向かっている途中でした。
すれ違う旅人が、美しい花を持ってやってくるので、呼び止めて尋ねます。
「あなたは私たちの先生のお釈迦さまをご存じですか?」
「ああその方なら、7日前に涅槃に入られました。
この花はそこへ集まって来た人からもらったものです」
それを聞いた大迦葉は悲しみのあまり卒倒しましたが、やがて起き上がると、急いでお釈迦さまの元へ駆けつけます。
お釈迦さまの元では、阿難尊者をはじめとして、お弟子たちがなきがらを火葬しようとしていましたが、7日間燃え上がらず、大迦葉が到着して初めて燃え上がったのでした。
お釈迦さまが亡くなられて7日目のこと、
ある僧侶が、
「みなさんそんなに悲しまれるな。
今まではあれしちゃいけない、これしちゃいけないと色々言われて大変だったが、これからは好きなようにできるではありませんか」
と言っているのが聞こえてきました。
それを聞いた大迦葉は、大変な危機感を覚えます。
「お釈迦さまがお亡くなりになってすぐにこれでは、仏教の教えは消えてなくなってしまうかもしれない。
早くお釈迦さまの説かれた教えや定められた戒律を確かめ合っておいたほうがいい」
こうして長老達に呼びかけて、お釈迦さまの教えをまとめ、確かめる結集(けつじゅう)という会議が設けられることになりました。
お釈迦さまが亡くなられて約3カ月後、王舎城のアジャセ王に後援してもらい、500人の長老が集まって、結集の会議が開かれます。
そしてまず十大弟子の一人、ウパーリが戒律を暗唱し、それを他の長老達が間違いないと承認します。
それから同じく十大弟子の一人、阿難尊者がお経を暗唱し、それを長老達が満場一致で間違いないと承認したものだけがお経として残されました。
こうして、人類の光となる仏教の教えが、一切経七千余巻といわれるたくさんのお経となって残されたのでした。
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この記事を書いた人

長南瑞生
仏教が好きで、東大教養学部で量子統計力学を学んだものの卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とかみなさんに知って頂こうと失敗ばかり10年。やがてインターネットの技術を導入して日本仏教アソシエーション(株)を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)